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死は終わりなのか、始まりなのか、身体が先か、意識が先か

#父の死


こんにちは!

子育てママに光を当てる

葉山おしゃれセラピスト、井川ともみです🌈


昨日の夕方
葉山に戻りました。
1週間ぶりの我が家
奥さんの家、ホテル、貸切別荘
寝るところが転々としたのと
外食続きで
落ち着かなかった日々が
ようやく終わり

今日から、また
静かな日常が始まりました。

6月最終日
昨年も行った葉山の森戸神社へ⛩️
夏越の大祓

葉山の森戸神社⛩️
強風and
雨がパラパラし始めて
富士山は見えなかったけど
水は澄んでいた

大きな縄をくぐって参りました。

2023年は
しっかりじっくり
自分と家族と自分の原点と向き合う年
日々の小さなことを大切に
土台に大地との繋がりにエネルギーを注ごう、と
感じていた通りの

前半が過ぎました。

2024年はもっと
スピード感が増していく、となんとなく
感じるので
立ち止まっているようにみえる
この時は
必要だったのだな、と思います。

さて、長きに渡った父の緩和ケア病棟での
最後の日々も終わり

空へ
旅立ちました。

苦しむことなく
父が生き切る最後まで
一緒にいられたことに
ホッとしつつ
悲しいというよりは

ただ、寂しいです。

和歌山に通う新幹線と乗り換えの新大阪の駅も
1時間に一本しかない
特急くろしお号も
和歌山にいる間毎日
13時から17時までずっといた
13階の緩和ケア病棟の父の部屋も

父が奥さんと移住して住んでいたマンションへも

もう通わなるのかと思うと

寂しいのです。

私はめちゃくちゃママっ子だったので
別に父が好きだったわけではなく(ひどい)

まぁ
とにかく仕事が忙しくてほとんど家にいなくて
妹と母との3人女生活が楽すぎて

父がいなくてもなんとも思わなかったし
(本当ひどい😂)

父も家族を大切にするというタイプでもなかったのですが

それでも
私が小さい時の写真を見返してみたら
いろんなところに連れて行ってもらっていた
記憶が蘇ってきたのですよね。

人間嫌い

だった父は
基本誰も信用していなく
友達も2人くらいしかいなくて
(しかも十年に一回くらいしか会ってない)

頭が良すぎたために
自分以外の人はみんな馬鹿に見えていたんだと思います😂

母と泥沼熟年離婚で
離婚した50代はじめ
すぐに
今の奥さんと巡り会えたのは

今思えば本当に良かったことでした。

今回も奥さんがいてくれたおかげで
私と妹は
和歌山へ滞在する週末以外は
父の世話を全部お任せすることができて

本当に助かりました。

父の死に立ち会って
思ったこと

死は終わりなのか、始まりなのか

父の「人生」は終わりました。

今世でやるべきことは
きっと
全て終わったのでしょう

亡くなる前日に初めて会った
小さい可愛らしい女性の主治医は
4月から前任の先生から引き継ぎました
との
挨拶の後

抗がん剤の治療に関しても
放射線の治療に関しても
泣き言一つ言わず
病氣に対しての怒りをあらわにすることもな

本当にいつも穏やかに平常でいらして
お人柄なのですね

と言っていました。

お人柄なのかどうかはかなり怪しいけれど
😂😂

癌に対して悲観もなければ
怒りもなかったのは事実

前にも書きましたが
ただ淡々と
今できることをするだけ

以上

という
父の生き方、在り方が

医者の予想を大きく上回り
1年以上寿命を伸ばしたのかもしれません。

長く生きたら偉いわけでもないし
緩和ケア病棟での最長記録?
を更新したからすごいわけでもない

ただ
頭での理解
今までの常識を覆す
命の力
を見せてもらったのだけは事実

です。

20年前の母の時は
駆けつけた時にはもう意識がなく

それでも
死ぬとも思っていない私と妹は
点滴をして寝ている母の隣で

明日の朝には目が覚めて帰れるのだろうと
思いながら
病室でサンドイッチを食べていて

急に母が変な呼吸をし始めて
だんだんため息のような息になって
あれ?
おかしい

ナースコールをして
もうほんの数分(に感じただけかもしれません)
の後には

息を引き取ってしまいました。

最後に感謝を伝えることも
大好きだということを伝えることも
迷惑ばかりかけてごめんね

謝ることもできなかったから

父の時は
とにかく

私が、自分が
最後まで心残りがないようにしよう



ただ自己満足のために
父に会いに行っていたのでした。

自己満足でもエゴでもなんでもいい
最後の最後まで
一緒にいて寄り添えたのは本当に良かったです。

暑かったし
奥さんの家に泊まらせてもらうのも
病院もうんざりして
家に帰りたくて、葉山に戻りたくて

土曜日に妹を1人置いて帰ろうかなと
考えていた私。

その時担当で
父の身体の向きを変えにきてくれた
緩和ケア病棟の
ベテラン関西弁の看護師さんが

私を引き留めたわけではない

でも

ただ事実を淡々と私に伝え

その日の父は
呼吸がいつ止まってもおかしくない状態であるということを
教えてくれました。

急変したら5分の距離の人でも
間に合わんことあるから
神奈川から5時間かかるんやったらねぇ

言ってくれたので
もう一泊急遽ホテルを取り
和歌山に残ることを決めたのです。

その日は
前々から奥さんが楽しみにしていた
神戸へのお出かけの日で

もし父がまだ生きていたら行きたいから、と
妹とふたり留守番を頼まれていた日で

目は開いても
もう私も妹も見えていなく
手を握っても握り返してこなくて
血中酸素の値が低くて酸素マスクをつけられた中

こんなに一生懸命呼吸したら疲れるだろうな

と思えるほど

父は力を振り絞って懸命に呼吸をしているように見え

次の日

奥さんが面会に来るのを待っていたかのように
父の呼吸が少しずつ弱くなり
酸素が足りなくなって
顔も首も手先も紫にばーっと変わった後

ゆっくりとゆっくりと

最後の最後の一滴まで

身体に残った息を全て吐ききって

父は、人生を終わらせました。


人が亡くなる時
誰かをまるで待っていたかのように
というのは
よく聞く話で

父方の祖母の時もそうだったのですが

今回
本当にそういう父の意志を感じました。

意識はない
喋れない
目が見えない
自分の意思を伝えることはできない

でも
やっぱり

最後は自分の意思で自分の人生を終わらせることができるんだ

ということを

目の当たりにしました。

敬愛する養老孟司先生が

「身体が先、意識は後」

「私」とは意識のこと

私がどんなにコントロールしようと思っても
コントロールできない
身体

自然そのものである

だから身体に任せればいいのだ

と腑に落ちていました。

でも今回
父の死に立ち会ってわからなくなりました。

確かに存在しているように感じた
父の意思の力

意識はないけれど
かろうじて身体が動いている
まさに生きる屍のような状態になっていても
まだそこには意思の力があって

私と妹と
奥さんがそばにいることを
ちゃんと確認してから
生きるのをやめたようにしか思えないのです。


身体が先か、意識が先か

セラピストとして
身体からのアプローチを、
身体から変えていくことを
おすすめし続けてきた私。

意思の力ではどうすることがきない
私たちの身体が神秘の塊であることは確か

でも
身体がなくなっても

意識、魂は
きっとどこかに存在しているのあろう

とも感じる。

またその魂が他の肉体に入り
生まれ変わるとするならば

やはりそれでも身体が先なのか?


生まれ変わっても生まれ変わらなくても
どっちでもいいし
身体が先でも
意識が先でも
どっちでもいいのだけど

3次元で今世を終わらせる時

私も父のように

最後まで自分で在りたい



切に思います。

そうして
父が亡くなったあと

最後は私と妹の子どもたち
孫6人に囲まれて
父を
みんなで送り出すことができたことで、

今までよりももっともっと

この瞬間を
今ここにいることに

呼吸ができることに感謝して

一日一日
一瞬一瞬を大切に

何者にもなる必要がない
何かを成し遂げる義務もない

ただ生きるということ


毎日しよう


心から、思いました。

ただ生きているだけで、丸儲けです✨


何氣に和歌山グルメも
堪能してました♡
病院が午後からの面会だったのと
妹と2人でホテルで泊まって
夜飲んだりして
楽しかった笑

一階がお花屋さんのcafe
「メレンゲやから
カロリーないと
思ってます〜」

店員さんが言ってた🤣
美しい薔薇の🌹
カップケーキ
ボリュームすご過ぎた
JR和歌山駅近くの
インドカレー屋さん🇮🇳
カレー二種のあいがけ

これで1000円
葉山から1800円だな、と
思った!
父を送り出した後
妹家族と
父が大好きだった
すき焼きで
献杯🍺
みんなで
わちゃわちゃ泊まったのも
良き思い出に
和歌山いいところでした✨
語尾があがる⤴️
柔らかい関西弁
みんな優しくて
現代医学には
思うところはありますが
緩和ケア病棟のみなさんは
素晴らしいかったです✨


























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