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不登校を追い出す学校

私が初めて不登校の子を支援したのは20年ほど前。教育委員会の計画の流れであるお宅に派遣された時でした。

そこはテレビで見るようなゴミ屋敷のご家庭でお母さんが敷きっぱなしの布団で寝ている横で男の子と対面しました。


「初めまして。セミ採り名人って言います。これからよろしくね。名前聞いてもええかな?」


私は躊躇することなく自分の家のようにそこに座りその男の子に勉強を教えました。めっちゃ横でお母さんが寝ていましたが、そんなの気にならないぐらいにご家庭に溶け込みました。その時はそれが正解だと咄嗟に思いました。

2回目にはちょっと横になろうかなレベルに馴染んでいて、レンタルDVDを一緒に返却しに行ったりもしていました。レンタルDVDを返しに行く道中その子がこう言います。

「お母さん今パチンコ行ってるねん。」


私はそれを聞きこう答えます。


「お母さんいっぱい当たるとええな。」


その後2人で公園で遊んだ。


彼は学校に行くのを嫌がっていました。私は時間をかけて説得しました。

「まずは一緒に校門まで行って校門タッチして帰って来よう。そのあとまたDVD返しに行こうか。」


本人は納得してくれてそこから私と彼は何十回と学校の門をタッチした。雨の日も暑い日も寒い日も。

ある日彼は私にこう言いました。

「学校入ってみようかな。」


私はこう答えました。

「それはえらい勇気出したな。すごいな。ほな一緒に学校入ってみようか。」


内心は舞い上がっていましたが、それを表に出さないように繕いました。そしてその日は校門をタッチする予定が学校の中まで入ることとなった。一緒に玄関まで行った時、身体が大きな教員が走って来て彼と私の前で両手を広げてこう言った。

「何しに来たんや。来い。」


その先生は彼の服を引っ張ろうとし、彼は泣きながら学校の玄関から走って逃げた。私はその先生を睨みつけすぐに彼を追いかけました。

彼に追い付くと一緒に歩いて家に帰りました。私は彼に

「ごめんな。そりゃ学校行きたくないな。おれが行こうって行ったからな。勇気出してくれたのにほんまにごめんな。」


私はその時唇から血が出るほど怒りを抑えたのを今でも覚えている。その後はすぐに教育委員会に連絡し話し合いを経て他の学校で受け入れてくれる部屋を用意することになりました。

ふとこの古い記憶を思い出したのには理由があります。私はこの事例を大きな発表の場でせめてもの報いと思い事実を広く発表しました。

新しく勤務することになった学校に心理学の本が沢山置かれていて、その本をパラパラとめくっているとその発表の時に一緒に発表した人が執筆していた本があったんです。それを見つけ今回のことを思い出しました。

あの時は自分の力の無さが悔しくて悔しくて。

今も昔よりは力を付けたとはいえまだまだ変えられないことばかりです。もっともっと力を付けたい変えたいと言う思いは今も何も変わっていません。

あの頃は教育や心理学の広がりがまだまだで悔しい思いをすることが沢山ありました。今と比べると不登校支援は進化したように思います。それがせめてもの救いかと思います。でも、まだまだもっと進化するはずです。私はそう思って日々動いております。

あー今思い出しても腹立って来た!


皆さま良い週末を☆





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