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王さまの本棚 5冊目

『指輪物語』

J.R.Rトールキン作/瀬田貞二訳/寺島竜一絵/評論社

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本棚の中ではここに。リアルタイムで『二つの塔』下巻を読んでいるので(中座して長いけれど)、一番手に取りやすいところにあります。

この版、おとなになって存在を知って以来、ずっっっっっっとほしかったのですよね。ハードカバーで、旧訳。
旧訳というのは、いま出ている新訳に対する言葉で、瀬田貞二のみが翻訳した版のことです。新訳は、田中明子との共訳です。ちょっと経緯はよく知らないのですが、瀬田貞二の旧訳には誤りや、原文を酌みすぎて独特になってしまった言葉があったため、田中明子氏が瀬田氏と相談しながら手を加えたのではないかと思っています。

たとえば、

旧訳:粥村
新訳:ブリー村
旧訳:イセンガルド
新訳:アイゼンガルド(こちらの発音が正しい)

というように。
粥村というのはブリー村Bree(丘の意)を、瀬田貞二が言葉と言葉の間に遊びを持たせてそうしたとかなんとか、とにかく、直訳ではないそうです。トールキン自身はこうした「各国の言葉にできるだけ即した訳」を望んでいたそうで、瀬田貞二も腕の揮い甲斐があったと思われますが、いかんせんインターネットなどもってのほか、情報量の少ない時代のことですので、「イセンガルド-アイゼンガルド」や、「メロン-メルロン」(綴りはmellon)などの誤りは訂正されています。
発音問題は現在進行形で修正され続けているようで、シルマリルの物語では、指輪物語で「ルシアン・ティヌヴィエル」と訳されているエルフの姫の名が、シルマリルの物語(翻訳時、瀬田貞二は引退後か亡くなっていたため、田中明子の単訳)では「ルーシエン・ティヌーヴィエル」となっています。さらに、ちょっともうわたしのオタクレベルを超えた話で、ソースがよくわかっていないのですが、「ティヌウヴィエル」が正しいという様子もありそうな。


さて、この本を入手した経緯をお話ししましょう。

上記の通り、わたしはこの版の存在を知って以来、ずっとずっとほしかったんですね。神保町を隅から隅まで(というのは誇張で、「足を棒にして」くらいが妥当な表現なのですが)探しても見つけられず、当時はAmazonマケプレで探すという悪知恵もなかったので、ながいこと泣き寝入りしておりました。

ところで、京王井の頭線三鷹台駅に、大学時代の友だちが住んでいて、泊りに行ったとき、近所に「B/rabbits」という絵本専門古本屋があることを教えてくれました。
『わたしは外から見たことがあるだけだけど、ニツカはきっと好きだと思うよ。』
それは10年位前になりましょうか、当時20代半ば、まだまだ東京に出てきたばかりの、世間知らずのコムスメです。「おひとり様」なんて言葉が出てきた辺りだったかな、まだ一人で個人経営のお店に入るのもあまり得意ではなくて、かなり敷居が高かったのですが、勉強を頑張っている彼女と一晩話して気が大きくなっていたわたしは、頑張ってその引き戸を開いてみたのです。西日のさすその扉には、絵本の柄のポストカードがびっしりと一面に貼られ、中の様子はうかがえませんでした。
中には先客と、小さなカウンターの中に女性の店主がいて、お喋りをしていました。もう店主がどんな方だったかは随分おぼろげなのですが、そのカウンター以外はわずかな通路を残して「本棚」、「本棚」、そして大量の「本」「本」「本」。
そんなお店でした。

ふつう書店に「知っている本」が1あったとしたら、「それに関連する本」が10、「まったく知らない本」が100や1000くらいの割合であるでしょう。

ところがその本屋(書店、ではなく、本屋という言葉がぴったりのお店でした。)には、「知っている本」と「それに関連する本」が山ほどあったのです。もちろん「まったく知らない本」もあるにはありますが、それにしても、まるでアリスがウサギ穴に落っこちた先のような、バランスの異様な世界が、その狭い店内に広がっていました。

わたしは鼻息も荒く店内に踏み込んで、荷物を片隅に置かせてもらい、まさにその本の世界にダイブしました。とはいえ、そのすべてがおおむね手に入りづらい貴重な本であることはコムスメだったわたしにも見て取れ、また、一冊一冊が丁寧にビニールにくるまれていたこともあって、そっと引き出しては覗き、感動と興奮のため息をついて、またそうっと元に戻すということをしていると、いつの間にか先客がいなくなっていて、店主に話しかけられました。

『お嬢ちゃん、よっぽど本が好きなのね。』

お嬢ちゃんなんて歳ではありませんが、人生の先輩たちから見ればまだまだコムスメという自覚はあったので、ぜんぜんいやではありませんでした。それどころか、一瞬で好きになったそのウサギ穴の主に本好きと認めてもらえたことが嬉しくて誇らしくて、わたしはもう、一気に言語中枢がマヒしてしまいました。

『本の扱い方を見てたらわかるよ。』

まるで魔法使いの呪文です。

わたしはなにを買ったのかも覚えていませんが、数冊の本を購入し帰途に就いたのでした。

その後、その友だちは三鷹台を離れましたが、別の友人が実は三鷹台のとても近所に住んでいたことが判明して、しばらくその家に通ったり、その友人と結婚して品川区の下町方面に移ったりしていたのですが、その間B/rabbitsへはほとんど行きませんでした。
なぜって、あまりに、もったいなかったからです。その体験を身近なこととしてしまうこと、一般化してしまうことがわたしにはどうしてもできなくて、特別なこととして、胸の奥にしまっておくのがふさわしく思えていました。

ところが神保町で足を棒にして成果なく帰宅して、数日が過ぎたときのこと。ふと、B/rabbitsのことが胸に浮かんできたのです。

ああ、あの魔法のお店なら、きっと。
その確信を胸に、わたしは久しぶりにB/rabbitsを訪いました。

そうしたら、以前は気づいていなかったのですが、本棚に隠れるようにして、小さな店の奥の奥に、本棚に囲まれた小さな部屋があり、わたしはとうとう宝物ともいうべきこの本を見つけたのでした。

その本屋は、今はもう畳まれてしまって、魔法使いの店主とも連絡が途絶えてしまったのですが、あの宝石みたいな時間はわたしの胸の中で星としてきらめき、時には指針となって輝き続けています。


そういう、指針となる星を見つけて、増やしていくのが人生だと思っています。



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