見出し画像

病気 転じて 歌となる

こんばんは。

40歳過ぎてシンガーソングライターになったしずくです。
最近ライブをしていると、よく聞かれる質問があります。

「長年、活動されているんですか?」

A.     オリジナル曲は学生の頃から作っていましたが
楽器が弾けるわけでもなく、バンドも組めなかったので
ここ最近なんですよ

「じゃぁ、今まで何をしてたんですか?」

A.子育てと病気してました(笑)


病気はあたりまえのことへの感謝に気づかされる有難い経験でもありますが体だけでなく心を蝕むこともあるので、重い内容にもなりかねない。
でも、いいことばかりを語ると嘘になってしまう。
なので今回のブログも、どう書こうか、ここ数週間ずっと悩んでいましたがありのまま書こうと思います。

病気って、本当に辛いものです。
もっと言うと、私にとって最も辛かったのは
症状はもちろんですが、お医者さまでも原因や治療法、今後どうなっていくのか分からなかったことが多くて、
その【わからない】ということが本当に怖くて辛かったです。

私のプロフィールにも病気を経て…などと書いているのですが
生まれつき身体が弱いなどではなく
大人になるまで私は元気過ぎる健康優良児でした。

それは風邪に憧れて、お風呂場で冷水を浴びても風邪ひかないし
怪我に憧れて、家の廊下でわざとこけてみても擦り傷にもアザにもならないほど
眼鏡に憧れて、どれだけ暗いところで漫画を読んでも視力めちゃ良かったり(今は老眼)
(良い子も大人も真似しないでくださいね(笑)
とにかく健康でした。

なぜそんなに病気や怪我に憧れていたかというと
姉が身体が弱くて、いつも母から大丈夫?大丈夫?と
やさしくされていたから、
私も姉のように母からたったその一言「大丈夫?」とか
よしよしって頭を撫でてもらったり、ギューってされたくて
アホなことばかりしてましたね。(笑)

でもこれは今でも誰かにずっと求めてることでもあるし
娘や飼っていた猫や誰かにそうした時に自分も
何とも言えないあったかい気持ちになれるんですよね。

そんな健康優良児だった私が20歳を過ぎたある日
突然、左腕に猛烈な痛みがはしって、1週間ほどピクリとも動かせなくなったことがあってから
20代後半で肩関節周囲炎になって(いわゆる四十肩というやつです、早くない?しかも関節に石灰化沈着という白い骨みたいなものが出来てしまい激痛)
痛みを堪えつつも、歌が歌いたくて
ママ友から教えてもらったカラオケ大会に出てみたことをきっかけに
歌仲間が出来て、あちこちの大会に出ては歌唱力、表現方法、伝える力、見せ方など勉強していました。

30歳の頃に痛みが尋常じゃないほど悪化して、連日眠れないほどの激痛に襲われて
腕を肩からもぎとって欲しいと思うほど、本当に痛くて痛くて仕方なかったんですが
気づけば肩だけにおさまらず、全身のあちこちが激しく痛みだして
そこから怒涛の病院めぐりが始まりました。

どの病院でも、血液検査、レントゲン、MRI検査などしても、どこにも異常はないとの結果で、体に異常はないんだから、
痛みに弱いんじゃないか?、気にしすぎて大袈裟なだけじゃないか?

そんなに気になるなら、精神科へ相談してください、と言われたことも多々あり。

この痛みが気のせいなら、目に見えてるものすべて幻や~!!と嘆いてました。

ただでさえ、いろんな症状で苦しんでる中で
どうしたらいいか分からないから、
例えばどこの病院へ行くといいかもしれない・・・とか
症状からこんな病気じゃないか?など
家族や誰か!!一緒に調べて~!!という他力本願な私のワガママは叶わず。
家族からは「医者じゃないから、わかるわけがない」と言われたりもして
家族なのに血も涙もないの?!とチラリズムした怒りも哀しみと化していきました。

お医者さんでも分からないとお手上げだったので
医者でもない人からしたら、そりゃそうだよなと今なら思える。。。

でも、病気が治った数年後に、同じように原因不明の病気の方のドキュメンタリーなどがテレビで放送されていてそれを見ていた家族が、この人の家族は、なんで早くいろんな病院に連れて行ってやらないんだ~!!
と言っていたのを見て、
他人のことだと、そう思えるんだよね、、、と
いろんな意味で涙がチラリ(笑)

結局自分で調べたあちこちの病院を一人寂しく半年くらいかけて回りに回ること50件以上。(寂しがり屋な私の、孤独アピール笑)
増えてく診察券はトランプのようで、
なんなら次に行く病院を占ったりもできるんじゃないかと思うほど。

そして、たどり着いたとある整形外科で、診断されたのが
【線維筋痛症】(せんいきんつうしょう)
聞き慣れないでしょうか?

最近でこそ、歌手のレディガガさんや、元アナウンサーの八木亜希子さんも患い、ニュースにもなったりもしましたが

当時は医師も知らない方がほとんどという認知度の低い病気で
原因も治療法も不明。
(現在では、症状によって難病にも指定されているそうです)

当時はとにかく痛みを紛らわせるためにも
感覚を鈍らせたり、睡眠をとるためにと
抗うつ剤などの投与や、末期がんの方と同じような薬を処方して頂いたり
ありとあらゆる薬を試すも、なかなか効かず
毎日増えていく膨大な薬が食事のようでした。

薬が効かないのはそれもそのはず、
断定はされていないようですが
線維筋痛症は痛みがある体の部位に直接疾患や問題があるというよりは
脳で痛みを感じる伝達回路のようなものに問題があるのではないか?とされているらしく
それゆえ、いろんな検査をしても、体に異常は見受けられず
ただただとにかく猛烈に痛みを感じてしまうんです。

気休め程度でしたが、当時は週に何度か痛み専門外来のペインクリニックなどで痛み止めの点滴をしたり、麻酔注射を全身に打ってもらっていました。

全身に打つ麻酔注射で一番痛かったのが
足の裏!!!!
みなさん、足の裏に注射したことありますか??
あれは本当にめちゃくちゃ痛いんですよ!!
よかったら今度ぜひ、なんてオススメ絶対しません(笑)

そして点滴をするために腕を縛るときの痛みも耐え難く
腕から点滴が難しくなり、鎖骨下あたりに
ポートと言われるものを埋め込む手術をして
そこから針を刺して点滴してもらったりもしていました。

薬の副作用などでどんどん痩せて体力が落ちて
体重も小学校以来40キロを切ってしまって
杖を付いて歩いたり、痛みが酷いときには車いすを使うこともありました。

みんなに周知されていない病気は会う人、会う人に
「どうしたの?」と聞かれては、「線維筋痛症と言う病気で。」と言っては、「なにそれ?」と聞かれて
どんな病気なのか、診断、治療に至るまで長々と説明しなくては答えにならず
「大変そうね」と言ってもらい、もちろん本当に心配してくれる友人もいましたが
当時もそんな私の支えは歌だったので、がんばって調子のいいときに歌っていたのですが
痛みは、どうしても目に見えないので、
あの子、痛い痛いって言いながらも楽しそうに歌ってるし、
仮病なんじゃない?とか大袈裟で面倒くさい子などと言ってたよと
人伝いに聞かされて
人からの信頼を失い、人と関わることへの怖さが生まれました。

こんなの嫌だ!
痛みのない世界へ行きたーい!!

なんて思っていたらある日、気がづくと痛みが無くなっていたんです。
でもそれは、治った?!!と喜べるものではなくて

気づいたら、痛みもない、、、けど
味覚もない
嗅覚もない
触覚?自分の体のどこを触っても何の感覚もない

洗濯ものが濡れてるのか乾いてるのかも見た目で色が違うとか無ければわからない
鞄の中から鍵や携帯を探そうとしても、手探りでは何にも触れてる感覚が全くなく取り出すこともできない
体で暑いか寒いか風も感じられない
お風呂に入ってもあったかいも濡れていることもわからない
口の中の感覚も無くて歯ブラシがどこにどのくらいの強さで当たっているかわからない
視界も左右が欠けて視野が狭くなって、全体的に明るさが何だか暗い。
聴覚もテレビの音を上げても、隣の部屋で小さくラジオでもなってるかというような聞こえ方で

これは昔、映画で見た
【ネバーエンディングストーリー】でもっとも恐れられていた
【虚無】という世界や~
そして映画【パイレーツオブカリビアン】に出てくるバルボッサにかけられた呪いが私にも~などと思いました。

痛みのない世界に行きたい~なんて
安易に願っちゃいけないですね、、、
必要最低限の痛みも大事なんだと痛感しました。

当時、線維筋痛症の新薬を処方してもらった時だったので
薬の副作用も疑い、薬剤師さんに相談して
薬を一切止めてみることにしました。

副作用なら2週間ほどでおさまりますからねと言われて
でも1か月、2か月経っても全然感覚が戻る気配もなかったんです。

例えば味覚がない、味覚障害ひとつにしても大変なことですが、
鏡で見ながら食べ物を口の中に入れても
確かに口に入れて食べてるんですが、口に何か入ってる感覚もなく
空気を食べて口をだけのエアみたいなー状態で
味も形も重みも食感も何もないからか満腹中枢も機能せず
どれだけ食べても、満たされることはない
水を1滴飲めたともわからない

さらに喋る言葉も時々頭でイメージしてるのとは違う発音になってしまったりして

当時、生まれて初めて、大好きなアーティストさんのコピーバンドを結成したばかりで、
やっと念願のバンドで歌える!!と大喜びしていたのですが
リーダーからも、なんか発音おかしいよね?と言われたり
長年慣れ親しんだ曲の歌詞を一行も覚えられなくなってしまったり
みんなとの練習の予定を組もうと連絡をしようとしても
なにをどうして良いやら、頭でうまく考えられなくなってしまい
今の状態ではみんなに迷惑をかけてしまうと判断して
リーダーにも治療に専念しますと言って、解散となりました。

何も感じられない、何も満たされない、
まるで「生きながらの死」
もしかして、自分は本当に死んでしまっていて、なにも感じられない
こんな日々が永遠に続くことが「地獄」なのかと何度も思ったほど、
「生きてる」という実感が無く
ただただ途方に暮れる長い長い日々でした。

全身の感覚が無くなって
もちろんすぐに病院に行きました

ここでもやはり異常は見つからなく
セカンドオピニオンで病院を変えたり
期間も少し開けて2回ほど脳のMRIも撮ってもらっても
どこにも異常は無くて

医師からも、気にしすぎてるだけじゃないかと、また精神的なものじゃないですか?と言われ
家族からも、医師がそう言ってるんだから、気のせいだと言われたり

どうしたら、この感覚のないことを分かってもらえるかな?
証明できるかな?
と思い空しく、ただ絶望なまま時間が過ぎていきました。

ありがたいことに優しい友達が
手作りのお弁当などを持ち寄ってみんなでカラオケなどと誘ってくれたんですが
歌は歌えても、楽しいという感覚も分からなくなってしまっていて

友だちが話す何気ない会話
「今日は寒いねー」
「いい匂い」
「美味しー」
「お腹いっぱい」
「楽しいねー」

ごくごく当たり前なはずの会話が当時の私には
どれも感じたくても感じられないことで
些細な会話にも交われないことが、またとても辛くて

この症状がなんなのか?
時間が経てば治るのか?
自分の身体がこれからどうなってしまうのか
分からないことだらけで本当に恐怖でつらかったです。

そしてそんな私の心境とはうらはらに
以前は薬のせいで痩せこけていた私が
端から見るとたくさん食べられるようになって、
みるみる体重も増えて痛みもなくなって杖なしでも歩けるようになったから

「治ったんだ!」「元気になったんだ!!」
「良かったね!」とみんなに喜ばれて、複雑な思いでいっぱいで

「ありがとう」と言いながら内心では
「全然良くないんだよ! この体と変わってみる??みんなは耐えられる?」と苛立ったり人との会話が辛くて辛くてすべてに絶望してました。


絶望の中でも私は食べるんですよね(笑)

半年以上経った頃に一度
デタラメな味を薄く感じたことがあり

それは冬場にふと自販機でおしるこの缶ジュースを買って飲んでみたら
ただただ苦い味がうっすらしたという感じ。

苦い、まずい、でもそれを感じられただけでどんなにしあわせか!!

そこから、時々気まぐれに
よーく注意したらうっすらデタラメな味がしてる気がするー
触覚も鈍~くお風呂のお湯があったかい気がする、、、
やっぱりしなーいなどを地道に繰り返して
そんなこんなこんなで1年半~2年くらいかけて
少~しずついろんな感覚、感情が戻ってきました。


少し良くなってきて、
それでもまだ、歌の歌詞を覚えて歌うことは出来なかったので
リハビリがてら字幕を見て参加できるカラオケ大会などに出てみて
大会の主催者でもある演歌の作曲家の先生に、ステージに立つ人としての
心の持ち方や、おごり高ぶらず謙虚でいる大切さなどいろいろ学ばせて頂いたりもしました。


さぁ!さぁ!これから楽しもう!と思った私に次にやってきた病気さんは

盲腸。。。。

最初は夜中にみぞおちの辺りが痛くて発熱もあり
やばい、胃腸風邪だと思い、薬を飲んでみるも痛みで眠れず
それでも普段から生理痛が酷かったり線維筋痛症の激痛を味わってしまったので
まだ大丈夫、まだ耐えられる。。。と我慢。


土曜日だったので、休日診療は高いと思ったり
嘔吐して脱水して今すぐ処置が必要というわけでもないだろうしと素人判断。
月曜日になってもまだ治らなかったら、病院へ行こうと思い
日曜もうずくまりながら耐えて
月曜の朝に痛みが右の下腹部に移動。
相変わらずめちゃくちゃ痛いけどタクシー代もケチって、バスで病院へ。


すぐに盲腸と診断。
「なんでもっと早く来なかったんですか?」
「救急車を呼んでもいいのに」
「もう少し遅かったら死んでたかもしれないんですよ」
とお𠮟りを受け反省。。。


そのまま午後に手術をすることに。
局所麻酔です。
手術室ではオフコースの歌が流れてました。
鎖骨下にポートを埋め込んだ時はKinKi Kidsが流れてたなと思い出し。


手術が終わって数日間39℃を越す熱が続いて再度CTなどの検査を。
どうやら痛みを我慢しすぎて破裂して散らかった膿から
腹膜炎を起こしてしまい再度、緊急手術。


数日前に切ったばかりのお腹の傷跡に止められていた何個もの
ステープラー(ホッチキスのようなもの)の芯を引っこ抜かれて、、、熱にうなされあまり記憶がないですが確かクラッシックが流れていました。
先生たちは集中力などにも関わるからか?結構、手術中にかける音楽を気にしていることが多かったんです。


再手術が無事に終わり、数日で熱も下がり
バルーンも外れてトイレへ行くと
お腹の傷口からまだ少し残っている膿を外へ出すために
ドレーンという太い管が2本お腹から生えているのを見て別の痛さが(笑)

結局、2週間ほど入院して、早く退院したいです!!と
先生にお願いして退院させてもらい、
しばらくは毎朝お腹の管から出る膿のガーゼ交換などに通いながら
仕事に行ってました。

昭和生まれなんで、我慢しなさい!と教えられて育ったのですが
痛みは我慢しすぎちゃダメということを学んでも
気づくと、またどうしても我慢しすぎちゃうんですよね・・・


そうです、お次の病気というメンバー紹介をここで。

珍しく旅行に行って、違うベッドで寝たせいか
背中を寝違えたような痛みがしばらく続いて
なかなか治らないから接骨院へ行ったら
少し大きい病院を紹介してもらい検査をすると
痛いのは背中なのに、なぜか首のMRI検査を受けて見つかったのが
頸椎椎間板ヘルニアさん。
首のヘルニアです。
ヘルニアって首もなるんですね?!


続いて、両手の親指以外の8本の指の第一関節がものすごい激痛。
こちらは、更年期などによく発症する
へバーデン結節さん。

このままにしておくと指の関節がボコっと変形して
曲げにくくなるから

テーピングが効果的なので必ずしてください!!と言われて
バレーボール選手かのように指8本にテーピングを毎日していました。


この痛みも個人差がありますが
私の場合顔を洗う時に少し指を曲げたり、指が顔に触れただけでも激痛
仕事で書類を2つにも折れないほど
ペンを握って文字も書けない
パソコンで文字も打てないほどの痛み
使えるのは親指と手のひらと親指と人差し指の間の水かき
それで工夫しながら生活していました。



変形が終わると痛みも治まると聞かされましたが
どのくらいの期間で治るというのも個人差あり。


そしてそして、なんだかうまく頭で理解したり判断しにくいような
なんとも言えないような変な感じがして気になったので脳神経外科へ行って仲間入りしたのが

脳挫傷さんと脳動脈瘤さん。


これらが一度に見つかってしまいまして
一人ひとりがバンドメンバーだったらいいのになと思いながら
また病院通いな日々の始まりでした。

脳動脈瘤さんは
まだまだ小さいので何度もMRI検査をしてもらい
今は年に一度の検診で大丈夫に♪
ただ、叔父二人が若くして、くも膜下出血で亡くなっているので
遺伝的なことも考えて少し慎重に診てもらっています。


脳挫傷さんは
今出来た傷というより、小さな傷と少し出血した跡があるとのことで
どこかで頭を強くぶつけたことないですか?と聞かれて
あれこれ思いめぐらせて、あ!と

「以前パイプ式のロフトベッドで寝ていてそこから板張りの床に落ちたことがあって・・・」と話すと
「柵もあっただろうに乗り越えたんですか?」と聞かれて

また、あ!と思ったのが
当時、線維筋痛症で毎日何十錠ものキツイ薬を飲んでいて
うつろな感じだったんだと思います。という話から

当時の【虚無】体験
全身の感覚がない症状を細かく伝えながら
(そうか、あの頃は薬の副作用か、いつも朦朧としていて全身の感覚が無くなっても、ベッドから落ちたことさえ忘れてたのか)と思い返す。

今起きてる症状ではないので、100%の断言はできないですが
症状もぴったり当てはまるので、おそらくその時に脳挫傷を起こしたのではないかと言えると思いますよと言われて、

あの地獄のような日々が
何年も経ってから、ようや少し報われた気持ちになりました。

先生のお話では、脳挫傷はすぐにMRIなどに映らないこともあるんですよとのことでした。

あの時はなんの異常も見つからず、
みんなから私の気のせいにされて悔しかった思いも
やっぱり、身体に異常があったんだって。

まるで症状と病名との答え合わせのような診察で
動脈瘤と合わせて経過観察で良いとのことでした。


首のヘルニアさんは、私の首が超ストレートネックで負担がかかりやすいことが原因らしく(ゆえに首肩コリ酷いんですよね)

ブロック注射と呼ばれる治療も受けてみましたが
あまり改善できず、特に左腕から指先までの痛みと痺れが強く
仕事や車の運転にも支障が出て、
手術をすることに。


首には白いコルセット。
両手はテーピングだらけで
事故にでも遭って奇跡的に助かりましたというような出で立ちとなってしまいましたが

盲腸や腹膜炎も含めて、この時に見つかった病気すべても、すぐに診断がついたことや、

定期健診、テーピング、手術とそれぞれ今後どういうことが考えられてどうすれば良いかも明確で

友人や知らない方に「どうしたの?」と聞かれても
病名ひとつで済むことも多く(これが本当にありがたい!!)
線維筋痛症や、地獄の日々を思うと気持ちはとても楽でした。


そして手術の担当医の先生も本当に良い方で、と思っていたら
脳挫傷などを見つけて下さった先生の教え子だったということが発覚!!
信頼できる良い病院、先生との出会いも本当に大切ですね。


さてさて首のヘルニア手術は、
治療したい箇所が椎間板に2か所ほどあり
首の前側から切って椎間板を削ってそこへ、チタン製の小さなプレートを入れる
前方固定術というものと
もう一ヵ所には顕微鏡を使ってキーホールと呼ばれる小さな穴を開けるという手術を同時に。

手術前に説明を受けて誓約書みたいなのを渡され、すべて了承した上でサインをするのですが
手術ですからね、万が一のことがたくさん書いてあるんですよ。

その中でも、ちょっと躊躇ったのが
【術後に一時的に声が枯れて出しにくくなるということがあり
通常数日で治りますが稀に慢性的に枯れてしまうこともあります。】と。
まず無いだろうけど、万が一そうなってしまったらもう歌えないかもしれないのか、、、と
ちょっと考えてしまいましたね。


はじめての全身麻酔で、手術室で点滴から眠たくなる薬をいれられて
看護婦さんたちと数をカウントダウンしてるうちに
あ、寝ちゃったと思って目を覚ましたら
もう手術は終わってHICUと呼ばれる術後の患者さんが入る集中治療室のベッドの上でした。


先生が来て
「無事におわりましたよ、手術の時の体勢の反動などで、麻酔が切れると首肩コリの酷いような痛みが出ますが、あまり痛かったら痛み止め注入しますからね。」と予告。


そうしてルパン三世ばりの予告通りに麻酔が切れて来たと思ってから
線維筋痛症にも負けず劣らずに近いほどの猛烈な痛みが首肩に。

看護婦さんに「痛いです」と言おうとしたら声が全然出ない。
息しか出てないような状態でなんとか伝えて痛み止めを入れてもらうけど、痛みは治まらない。


看護婦さんが定期的に何度も寝返りをさせてくれるために来てくれる。
首元からは、またもや太いドレーンの管が。
悪い血を排出するためらしいけど、位置が位置なだけにそれを下にして寝るのが怖かった。。

両足にはうっ血しないよう電動式のポンプが取り付けられていて
それは気持ちいのだけど、そのポンプを首と肩に欲しい。

数時間後お水を飲んでいい許可が出て
ナースコールを押して「水をください」という声が
またカスカスで声にならない(笑)(涙)

そして吸いのみから少量のお水を口に含んで
よし、ゴックンとした瞬間、太いドレーンの存在と
喉が焼けているような猛烈な痛みで
お水を飲みたいけど、飲むにはその激痛という関所を越えなければいけないという拷問付き。


そんなこんなで一睡も出来ず、朝になると
看護婦さんたちが、朝礼で誓いの文章みたいなのをみんなで言っていたりして命と向き合ってがんばってる姿に胸を打たれたりした。

死にかけてたわけではないけれど
生きてる。
助けてもらったという気持ちがこみ上げてくる。


最近の術後はスパルタです
どんどん食べてどんどん動く。

手術の翌日から、灼熱の喉でいきなり固形物を飲み込むことも
昨日手術したばかりなのにいきなり歩かされる、
生まれたての小鹿のように足をピクピクさせながら歩く歩く


結果、腕の痛みはかなり軽減されたけど痺れはすこし残ってる。


そうして順調に回復して3日目くらいに、やっと声が少し出て少しずつ喋ってみる5日ほどで早くも退院。


入院中も書ききれないほどミラクルがいっぱいだったんですけど
こういう手術をすると、
普段あたりまえにできてることの、あたりまえじゃないことに気づかされたり
看護婦さんや先生、色んな人への感謝で胸がいっぱいになる


毎日もっとありがたく生きなきゃなって
思うけど、人はどうにも忘却の生き物だから、すぐに忘れてしまう。
でも、わかっていても忘れていきられることこそが
しあわせなんだろうなと思った。


入院中に、私も誰かの役に立てるようなことがしたいって思った。
なんの資格も持ってないけど、いろいろ経験してきた私だからできること

でも私に何ができるだろとう、考える。
今から勉強して心理カウンセラーとかになって
悩んでいる人の話を聞くとか???いろいろ考える。


いろんなことがあって、たくさん病気もして
そんなときでもずっと出来た、たったひとつのこと
それが歌うことだった。

有難いことに、退院してすぐにまた歌えた。
唯一の個性のホイッスルボイスも今までのように出せた。

どうしようもなく私は、歌うことしかできない。
でも歌うことが出来る。
思いを曲に出来る。


演歌の作曲家の先生の受け売りだけど
音楽というものには、医学や化学では説明ができないすごい力がある。
例え音楽が直接病気を治せなくても
人の心を癒したり元気にさせる
サプリメントのようなものだと先生は教えてくれた。

これまで私自身が音楽で救われてきたように
自分の経験や、出会えたみんなから教えてもらったことを
歌にして届けて、それがいつか誰かの心のサプリメントみたいになれたら
そんなうれしいことは他にない

術後の首肩の痛みや
へバーデン結節で、相変わらず指がの痛い中で
よし、やろうと決意。


一緒にバンドでライブしてくれる人になかなか巡り会えない、
演奏してくれる人がいないなら一人ででも、と。。。

ただ、いかんせん、指が痛くて使えない
指1本でもコードを抑えられることからウクレレを買って
指サックをつけたり、テーピングをぐるぐるに巻いて
痛い~!!痛~い!!と悲鳴を上げながら練習をしてみる。

友人の繋がりで、いろいろミラクルが起きて 
ライブに出させてもらえることに!!ということが先に決まってから
ライブまで1か月。

そこからウクレレで5曲のオリジナル曲を作って弾き語りでライブをした。


指の痛みは今でもしばしば。
練習をしなければ上手になれない、
でも練習すればするほど指が痛い、ヘルニアのこともあり腕の痛みもまた顔を出す。

ライブや人前では聴いてくださる方がいるということで
ものすごい力をもらって、
ステージで歌っている、あの時間だけは痛みを忘れて
伝えたい思いで胸がいっぱいになる。


そんな頃に自分の病気や
いろいろ大変な病いや問題を抱えてながらも
がんばっている方たちと出会い、学ばせてもらったことや

ドイツの改革者マルティン・ルターさんの言葉
“たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える“
この言葉が好きで
そこからもいろいろ思いを巡らせて作った曲があります。

私の歌がみなさんのサプリメントになりますように♪

長々と読んで頂いてありがとうございました。

YouTubeチャンネル登録、
Instagramフォローなど応援よろしくお願いします♪

Instagram→nicopao439

https://youtu.be/PSUGflO3fSM
【種を撒こう】作詞/作曲:しずく

世界で誰がいちばん シアワセかって聞かれても
答えられないし 比べようがないしもしも明日で世界が終わると 
知っていたら何が出来る? 残された時間で

一生分の贅沢するとか?
やっぱ終わらなかったなんて時のために いつもと変わらず今日を過ごす?

楽しく笑える時も 時間は過ぎていく
そのうちにの前に 今しか出来ない種を撒こう


世界で誰がいちばん 不幸かなんて聞かれてもそれは自分がどう思うか次第例えば目に見える傷 見えない色んな困難で
不自由だからって 不幸とは限らない

出来ないことを数えるよりも今出来ること必死に探して
君にいつもと変わらぬ笑顔見せたいのに

笑えない時でも 時間は過ぎていく
また今度の前に 今でも出来る 種探そう

また明日があたりまえにあること
それこそが あたりまえじゃないことを忘れたくないのに

忘れながら生きていく それがしあわせだと忘れないように

明日へ 種を撒こう


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?