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伝えたい気持ちが短く言語化できない

長々と書いた文を修正しては書き直して、話があちらこちらに飛んでしまっては「これは読む側の人が疲れてしまうな」と思ってはまた消して、そして書いての繰り返し。

でも伝えたい事柄の本質や気持ちは案外短くて。

向上心や前向きな思考がチャレンジしようとしている人の首を絞める結果となって苦しんでもがいている人に「大丈夫、あなたはあなたのままで充分美しいし、ステキだし、良いほうにも悪いほうに進んだとしても一歩を踏み出したその行動ですでにもう満点」と伝えたい。

自分自身に対して「長所や得意なことなんてない」って思っている人(特に自分の身近な人と比べてその事柄がちょっと得意だったりするけど、賞を得れるわけでもなかったり、かといって下手ではないなと自分で思う人とか)に「小学校、中学校、そして高校に進学したり、なんと大学まで進学して卒業した人はそれでもう充分すごいことだと思う」と伝えたい。

自分自身が勝手に作った“当たり前”が今になって「実は・・・」と本心を打ち明けに頭の中にやってきた。

“少し拗らせ”という具合の私が「当たり前にみんながこなしてきていることができなくなってきたぞ」という気持ちになって

「ああ、自分は今この“当たり前”っていうのに苦しんでいるんだな」とふと思ったり。

「今となって、大人になって、いや実は「当たり前で作られた社会に適合することがかなりむずかしい」ってわかっていたけれど目を逸らしてきたのかもしれない」と気づいたり。

やらなきゃいけないこと、取り組まなければいけないこと。

進歩の差はあれど「取り組んだ」という結果を見れば「同じ」であってすごいうこと。

自信というものは「大舞台での試合」よりも「日々の地味な、一日だけ切り取ってしまうとほんの些細なやりとりや物事の積み重ね」で身に付くものなのかもしれないと思った。

地味だからこそ面白くなかったりするし、「目的や指標」を見失いやすかったりする。

だからこそ、「継続は力なり」っていう言葉がある人には響いたり、「努力は必ず報われる」といった言葉がある人には響いたりするのだろう。

くじけても、ちょっと休むことは大事だと思ったし、やめたとしてまた再開したいなと思ったら、いつからはじめても「遅い」なんてことはないと思う。

自分のペースで自分なりに。ゆるくでも地道に着々とが何気に一番強い気がいした。

あれこれ書いた雑記みたいな記事。いつもと少しだけnoteの書き方を変えてみた。

「~と思った話」の文をかならず一文は入れていた前回までの約束はちょっと一旦止めて、でも嘘か本当かわからないような話を書いたりするのは多分続けて、1ツイートじゃ収まらないような雑記記事をマイペースに更新してみようかと思った今。

だからこそ、記事の終わりも多分唐突。

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