【第5話】魅惑の香水シャネルN°5が誕生した舞台裏
1919年の年末、ボーイ・カペル(第3話参照)が交通事故で亡くなり、放心状態のシャネルを、友人たちが数ヶ月の間イタリア旅行に連れ出した。
シャネルの交友関係を見ると、外国人の友人や恋人が非常に多い。いずれも強烈な個性の持ち主だ。
一緒にイタリア旅行に行ったピアニストのミシアに、その夫で画家のセール、バレエリュス(ロシアバレエ)を創設したディアギレフ。シャネルとのロマンスの逸話が残る、画家のピカソや作曲家のストラヴィンスキイ…。
ロシアとの出会い
ここで1920年代のシャネルに影響を与えた、ロシアとの関係について触れておきたい。1917年にロシア革命が起こって以降、ロシアの人々がパリにやってきた。シャネルはロシア人を「東洋人」と呼び、「(自分)のなかの東洋人を目覚めさせる」と魅力を語っている。
その頃、シャネルはロシアのドミートリイ・パーヴロヴィチ大公と再会した。ドミートリイは最後のロシア皇帝、ニコライ2世のいとこである。ドミートリイは皇帝一家が処刑される1年前にペルシャに送られたため、革命の渦に巻き込まれずにすんだ。
シャネルは亡命者のドミートリイとすぐに意気投合する。そしてドミートリイから紹介されたのが、香水界の伝説の調香師、エルネスト・ボーであった。
1920年、N°5の誕生
フランスにルーツを持つモスクワ生まれのエルネスト・ボーは、帝国ロシア最大の香水メーカー、ラレ社の主任調香師だった。大戦と革命で大きな変化を強いられた1919年、ラレ社は南仏のカンヌに小さな研究所を作った。自身も移住を余儀なくされたボーは、そこで所長を務めた。
この出会いは、シャネルにとって大きな転機となる。
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