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親から虐待を受けた子どもは人生終わるのか③


反面教師

 子どもの保護が遅れ手遅れな結果となる原因の一つとして、虐待を受けている子ども自身が虐待と認識できないことがあげられる。
 私自身、児童養護施設に入所するまでは大人から虐待を受けていると認識できていなかった。
自分が愛する親から虐待を受けていると認めたくないし、親から大事にされていないことは恥ずかしい事だと当時思っていたため、周りに相談するという選択肢は浮かびもしなかった。

 しかし彼は自分で警察を呼び、社会的養護を受ける意思表示をした。
「いつごろ、何がきっかけで虐待と認識したのですか?」
「周りの子と違うことで自分の家ヤバイな。とは薄々思ってました。でも決定的なのは…。僕、いじめをしてたことがあったんです。あ、僕はいじめをしてるんだって気がついた時、母親・兄からされている行為はいじめであって虐待だと気がついたんです」
 当時の彼は周りの子たちより体が大きく強かった。友人と公園に行き同年代の子にからまれ、殴り合いになることもあった。いじめと彼は断言したから私は多対1を想像していたが、1対1の喧嘩だったそうだ。
 しかし彼がそれをいじめと感じたのならば、その殴り合いは対等ではなく彼が叩きのめす形にきっとなっていたのだろう。
 自分より体の小さい相手を殴った時に、自分が母親・兄からやられていることを客観視した。

 彼は家族から暴力を受けている時、1歩2歩後ろから自分を見る感覚だった。
弟は虐待を受けていなかった。弟を見て、“なんで自分だけが”という感情もわかなかったそうだ。
「母・兄からの暴力を受けたのは、何かきっかけがあったのですか?」
「分からないですね。なんだったんでしょうね。なんて言ってるかわかんなかったです」
この時も彼は軽く笑っていた。

 彼の発言や表情を見ていてジブリの“風立ちぬ”の作品を思い出した。
アニメの中で、複数人の上官が主人公を囲い大きな声で何かを言っているシーンがある。だが何語でどんな言葉を発しているのか聞き取れず分からない。実際ジブリの表現として、声優は意味のあるセリフを言っていないそうだ。
主人公は上官を人間だと思っていないのだ。自分より頭の悪い上官達が何を言っているのか本当に聞こえていないのだ。
 彼がこのアニメの主人公のような考えなのかは知らないが、私は近いのではないかと感じた。
同じ土俵に立たない。例え家族という枠組みの人だとしても。

 彼は小学生の時から、母親や兄を反面教師と考えていた。
「兄と母を反面教師にしてた。(オンライン)ゲームの大人達に対しても、こうなっちゃいけないって思ってた。こうなっちゃいけないと思いつつも、この人たちをすくい上げられる社会になったらいいな、自分みたいな境遇の人を減らせないかなとも思ってた。でも環境を変えないと人間は変わらないから、自分の周りの環境を変えたいってずっと考えてた」

“その時を待っていた。これは確実に虐待だと社会が認めざるおえない出来事(母親から熱湯をかけられるとか)が起きるのを”。私には彼の言葉からそうも思えた。
 ロールモデルを探せとよく耳にする。自己啓発本には必ずといっていいほど書かれているのではないだろうか。憧れという感情は輝かしく美しい。それと比較すると「こんな風になりたくない」はネガティブに聞こえるかもしれない。
だがネガティブは強い感情だ。脳のシステムとして、人は良い思い出より悪い思い出の方が強く印象に残る生き物だ。
ネガティブな感情に対して悲観したり反発することは、直接的な解決方法にはなり得ない。自分の問題を解決する方法は、人によって違う。何万通りもの回答だ。
 彼の場合は本を利用した。
「心理学やコミュニケーション・自己啓発本を読んで学びました。子どもの頃の自分は、人に自分のことを話さないし、相手の話を聞くこともできませんでした。」
彼はどこかに存在している優秀な大人たちから学んでいった。自分の周りに渦巻いていたどうしようもない大人達はさっさと見限り、自分の感情の捉え方や人生の舵のとり方を考え続けたのだろう。

 家族は大切にするべきという主張は、当たり前に大切にされてきた人の言葉だ。大切にする人間を選ぶのも人の権利だ。この権利は子どもでも大人でも変わらずあると私は思う。
私は1児の母でもあるが、愛娘が必ずしも母親の私を大切に思ってくれるはずだとは思わない。彼女にも私をジャッジする権利があるのだ。


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