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乳児院、養護施設、暴力、刃。「僕、運がいいんです」/三

 三話目のインタビュー記事です。
建城(タテキ)さんは、親のDVや虐待が原因で生後5ヶ月で乳児院に入り、16年間児童養護施設で過ごした。中学生の時はイジメによって不登校になった。しかし彼の周囲の人達の助けもあり克服され、定時制の高校で生徒会長をしたりと建城さんに良い兆しが見え始めていた。しかし、やはり毒親は子どもの足を引っ張る存在でしかないと言い切れる出来事が起きていく。

一話目↓

二話目↓




18歳。児童養護施設が退園となり、母親との生活が始まる。

 児童養護施設に入所可能な年齢が、原則18歳(最長22歳)までと決められている。
しかし、2024年4月に年齢上限が撤廃された。
退園するかどうかは、その子の自立レベルで判断されるらしい。
"自立"をどのように判断しているのだろうか。
今後、経験者に聞いてみたい。

 建城(タテキ)さんが18歳の時は、まだ年齢上限が設けられていた。
そのため、施設を退園することになった。
定時制の学校に通っている途中で彼は18歳になった。卒業まで2年ある。

 建城さんには3つの選択肢があった。
一人暮らしをするか、自立援助ホームに入所するか、母親と同居するか。

 一人暮らしは金銭的な不安が大きかった。
高校生のバイト代で横浜で一人暮らしは厳しいだろう。

 自立援助ホームとは、児童養護施設退所後のアフターケアの施設でもある。
自立を目指す家という位置づけで、利用料が必要だとしても一人暮らしに比べたら少額で済む。
自立援助ホームに入所すれば金銭的不安は軽減する。
だが自立援助ホームだと、門限があったり、外泊に申請が必要だったり、食事の時間が決まっていたりして、音楽活動をすでに始めていた建城さんには合わなかった。

建城さん:「自立援助ホームに入るのは、何か違うなって思ってた」
田淵:「どういうことですか?」
建城さん:「自立とは違う気がしてた。ここで選択することが、"自分が社会に初めて出て、自立するチャンス"と思ってた。自立とは、自由をどうコントロールするかだと思ってるから」


 社会に対して、憧れに似た感情だろうか。
児童養護施設や自立援助ホームから出て、一人で立って歩いていく練習ということだろうか。

 児童養護施設を延長するという選択肢もあった。
これは、施設と本人の相談の上で成り立つこともあるそうだ。
だが建城さんは、次に入る予定だった子が入れなくなるのを懸念して、その選択肢は除外していた。

 高校卒業後は一人暮らしをすると決めた。
2年間なら、母親との生活に耐えることはできる。
そう思い、母親との同居を選んだ。


 建城さんが幼少期の時、母親は「一緒に住めるように頑張る」と言っていたが、結局彼が18歳の退園になるまで、環境を整えることはできなかった。
 18歳は自立した年齢とされる。
建城さんが"社会で自立した年齢"と捉えられるようになったことで、母親の「息子と一緒に暮らしたい」という念願の思いが叶った。

 児童養護施設の退園する日は、彼はめちゃくちゃ泣いた。
当然だ。16年間過ごした場所だ。
人も環境も場所も好きだった。
お世話していた小さい子達が、泣きながら「いっちゃうの?」と建城さんに言う。
施設で過ごした日々を、走馬灯のように思い出した。
もう、これぞ家族だったのだろう。

 燃え尽き症候群みたいに、ぬけがらのようになった。
「これからどう生きていこう」
そんな感情を引きずりながら、母親との生活が始まった。



念願の息子との同居が叶った母親が、暴力を振るう

 この時の母親は、45歳前後。
母は旧友とマンションの一室を借りて、シェアハウスをしていた。
シェアハウスでは建城(タテキ)さんの母、母の旧友、旧友の元旦那、元旦那の弟で暮らしていた。
なんとも複雑な雰囲気のある環境の中に、建城さんは加わることとなった。
どういう関係性だろうかと探る。
施設での経験もあって、コミュニケーションは得意だった。
すぐ母の旧友とは仲良くなり、彼はよく可愛がられた。
誕生日を祝ってくれたり、「年の離れた友達」と言われる程に母親より母の旧友と仲良くなれた。

母親に対して、親という感覚はなかった。
田淵:「母親は、一緒に暮らせるようになって喜んでいました?」
建城さん:「最初は浮かれている様子だった。"一緒に暮らせることが嬉しい"って言われて、プレゼントをくれたりした」
田淵:「嬉しかった?」
建城さん:「いや、"ムダ遣いは辞めて欲しい"って母親に言った。お金にルーズなのが嫌だった」

 母親は介護士やコンビニバイトをしていたが、行ったり行かなかったりと不安定だった。

 彼は母親から「生活費を出してほしい」と言われていた。
大学受験のためにバイトで貯めていた貯金は、すぐになくなった。

田淵:「高校生に生活費をもらうって普通じゃない気がしますね」
建城さん:「母親に生活費を出してもらう義理はないって思ってた。他人みたいなものだし。出してもらうのも気持ち悪い。出してもらった結果、母親ズラされるのも嫌だっだ」

一人暮らしに比べたら、お金はかからない。
「自立する一歩だ。頑張るか」
そんな気持ちで新生活が始まっていった。


 一緒に暮らし始めて少し経った頃、母親は門限をつくろうとした。
それを彼は拒否した。
旧友も彼の味方になって、男子高校生に必要ないんじゃないかと言ってくれた。彼は大人を味方につける、ずる賢さも持ち合わせていた。

 母親はコンビニの弁当を買ってくることが多かったが、節約のため建城さんが自炊をしていた。
 学校では生徒会長、バイトもしていたため忙しく、母親に外食などを誘われても断ることが多かった。
 母親からしたら、これらがおもしろくなかったのだろう。

 母親は建城さんに、
「こまめに連絡してほしい」
「私が買ってきたプレゼントは、拒否せず受け取ってほしい」
少しずつ要望が増えていった。
 彼は母親にメンヘラ的な要素を感じはじめていた。



 母親は、徐々にヒステリーな様子を見せるようになった。

建城さん:「"言う事きけよ"と言いながらビンタしてきたり、暴力を振るってくるようになった。学校では生徒会長をしてみんなに信頼される自分がいる。でも家に帰ったら殴られる自分がいて。そのギャップが苦しかった」
田淵:「友人や学校の先生に相談したことはありました?」
建城さん:「本当に仲がいい友人には、軽く暴言があるぐらいは言ってたかも。でもそもそも、自分が痛みを感じたことに対して、自分と同じように誰かを傷つけてしまう可能性があるって思ってるから、暴力受けてるとか言わなかった」
田淵:「どういう意味ですか?」
建城さん:「僕、共感性が高くて、人の痛みに敏感。人が笑っていると笑える。泣いていると泣けてくる。怒っていると怒っちゃう。それは色々なことに作用されてしまう。周りに自分の痛みを話して、友人も痛みを感じる可能性があるなら言いたくなかった。境界線は引いたほうがいいと思ってた。自分の境界線が曖昧なところが怖くて」
共感性の高さが短所とでた場面だったのだろう。

 建城さんは背が高く、小柄というわけではない。この時もやり返そうと思わなかったのだろうか。
中学生の時にいじめてきたヤンキー達に感じたように「可哀想に」と思いながら耐えたのだろうか。

 彼はヒステリーの母を見て、
建城さん:「可哀想だな。より、こうはなりたくない。血がつながってるからこそ、こうなりたくないな。絶対こうならないぞって思って、やり返さなかった」

遺伝だ。
毒親育ちが、きっと誰もが考える、苦悩させられる、縛られる言葉だ。

 母親は、自分が思い描いていた生活と違ったのだろう。
思い描いていた彼じゃなかったのだろう。
母親は、自我が少なく幼い時の彼を想像していたのだ。
執ように彼を支配しようと試みるが上手くいかず、それを暴力という形で発散された。
自分の思い通りにならず、自分に尽くさない彼を否定した。
母親は、自分の親から尽くすようにと言われながら大人になり、母親になったのかもしれない。



 1年間、母親との生活に耐えた。
1年間共に生活をしても、彼は母親から愛情を感じたことはなかった。
建城さん:「大切だよと言われたことも感じたこともなかった。それがひっかかってた。愛情じゃないんだろうな。愛情がなかったから、そういう言葉が出なかったんだろうなって思ってる」
 その言葉がなかった時点で愛情どころか、信頼関係すら培われなかった。


 不思議だ。
長年、願った息子との生活。
彼と過ごせなかった18年間を、この母親は埋めたかったはずではなかったのか?


「結婚したから」と年下の男を連れてきた

 建城さんが卒業する年の1月に、母親から結婚報告を受けた。
母親と同じ職場の介護士の、3つ年下の男。
建城さんに相談もなく、いきなり結果だけ伝えられた。
それでも彼は母親への興味は乏しかったから、「ご勝手にどうぞ」ぐらいの心境だった。
年下の男性が既婚歴がある人なのか、どんな人なのか全く興味がなく聞かなかった。

 卒業したら3人で住むことを提案された。
年下の男は、
「本当のお父さんと思ってくれていいから」
と言ってきた。
挨拶程度の会話を2回交わした程度で、そう言ってきた。
建城さんは内心、
「母親ですら母親と思えないのに、知らない人にいきなりそう言われても…。気持ち悪い」
そんな気持ちだった。
直感から、この人と合わないと感じた。

建城さん:「"家族"というものへの、感覚のゆるさ・甘さが合わないと感じた」
"家族"に対する価値観が合わなかった。
建城さん:「きっと、この人は痛い経験をしてこなかったのだろう。人の痛みが分からないから、安易にこんな言葉を言えたのだろうなって思ってた」

 父親と思うなんて、絶対的に無理があった。

 18年間、家族と過ごさなかった彼だ。
同じ場所で暮らす他の施設の子を、心の中では"家族"と思っていても、安易にそれを言葉にすることはできない。
それは彼らにとって、"家族"という言葉は、当たり前な立ち位置の言葉ではないからだ。
 そんな彼に対して、その言葉を発することができた年下男にも、その発言を許せる母親に対しても、気持ちの悪さを感じるのは当然だ。


 度々、年下男がシェアハウスに来るようになった。
母親は、言う事をきかない息子のことを、この年下男に愚痴っていた。
それを聞いた年下男は、その愚痴を拡大解釈する。

 母親がいない時、年下男が彼の部屋に入ってくるようになった。
「そういうことするやつには罰を与えなければ」
いきなり、そう言いながら、彼に殴る・蹴るといった暴力を振るうようになった。
建城さん:「なんで殴るか聞いたことがあって。"母親のことを守りたいからお前を殴る"って言われて。もう、意味が分からないし、会話が通じないでショックだった」

 母親は多分、この暴力を知らないらしい。
建城さんは自衛のため、殴られながら、顔と頭は守った。
つまり、この時も彼はやり返さなかった。
建城さん:「戦わなくていい、立ち向かわなくていい問題だと思ってた。あと2ヶ月経てば僕は家を出る予定だったから。耐えていれば、逃げれば済む問題だと思ってた」

元々、2年間耐えればいいと思って始まった母親との暮らしだった。

 耐えればいい。で済まない出来事がおきた。




次回タイトル

卑小愚鈍な大人によって、彼の人生が終わっていたかもしれなかった



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