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乳児院、養護施設、暴力、刃。「僕、運がいいんです」


 今、私の目の前に、生後2ヶ月の息子が眠っている。

 3ヶ月後に、この子と離れて暮らす。
そう想像してみるが、この気持ちは悲しいなんて感情では整理できない。
刺されたことなんてないけど、胸に刃をあてられたような気分になる。
きっと、同じような感覚になる親は沢山いる。

 だが、生後5ヶ月で親から離れることになった子の気持ちなど、もう大人になってしまった我々には理解できない領域の感情だ。
母親を求めるようにプログラムされて生まれてきたその生命体は、どうやって生きていたのだろうか。
 母親と一緒じゃないと眠れない子も、母親が仕事でいないのならば、数時間もすれば父親と寝る。
それは赤ちゃんなりに、諦めるからだ。
 生後5ヶ月だった時の彼は、何を感じとり、どれだけのものを諦めたり割り切ったのだろうか。



生後5ヶ月の時、乳児院に入った青年

 インタビュー時、彼は21歳。横浜で一人暮らし。
セレクトショップとガールズバーのボーイの仕事をしながら、音楽活動をしている。
“建城a.k.a.TRICKTRIGGER”という名でラッパーをしていて、今まで数々のライブでパフォーマンスをされ、2025年10月4日には初のワンマンライブを行う予定だ。


 建城(タテキ)さんの元バイト先のカフェで待ち合わせをした。
明るく、丁寧な言葉を使い、人懐っこい雰囲気を感じる。
背丈は178センチ程だろうか。
少しダボッとした服装を着こなせる、お洒落な青年だった。


 話を聞いている途中、私の目には、彼がレンガ造りの綺麗な塔のように見えた。
こんな言い方をすると偏見になってしまうから嫌なのだが、やはり児童養護施設に入所経験のある人は、何かしらの歪があると思う。
でもそれは致し方ない歪だと思う。
同じ毒親育ちの私自身、大きな歪を感じているわけだから。
 だから不思議だった。
彼がインタビュー中に度々言う言葉に。
「僕、運がいいんですよ」って。
なぜ彼は今、ここまで綺麗な塔になって立っているのか。
21歳という若い青年が。
彼を形作っているレンガの、一つ一つを知りたくなった。
手にとって、近くで見てみたい。
真っ白で、キズも尖もないようなレンガではない。決して違う。
キズも汚れもきっとあるのだが、真っ直ぐに背筋を伸ばし立っている。
そんな感じだった。
そんなことを、インタビュー中にぼんやり考えていた。


父親のDV・虐待で社会的養護を受けることになった

 乳児院とは、設立当初は戦災孤児等の理由で子どもを保護する目的で作られた施設だった。現在は家庭の様々な事情により保護される施設へと変わった。少子高齢化で一時的に数が減少したが、社会情勢を反映して再び20箇所以上増設されている。

 建城さんが入所した乳児院は、2歳頃までの子を保護する施設だった。

 生後5ヶ月の建城さんと、父、母、7つ上と3つ上の姉と暮らしていた。
母親は27歳前後、父は母より2歳程年下だった。
父は蕎麦職人、母は介護士やコンビニのバイトをしたりしなかったり。
 人伝えの情報のため詳細は分からなくなってしまったが、父から母への暴力・暴言があった。いわゆるDVだ。
姉2人にもなにかしらの暴力があったそうだ。
 加えて母親はリウマチがあり、症状が強い時は仕事ができない日もあった。
これらのことから、育児が困難と判断され、生後5ヶ月の時に乳児院に入った。
 姉2人の親権は父親に、彼の親権は母親になった。
建城さんが乳児院に入って1年後に、妹が生まれた。
 妹出産後に、父と母は離婚した。
妹の親権は母親になり、妹も彼と同じ乳児院に入った。
 父親とは縁が切れたため、現在に至るまで会うこともなかった。
そもそも、生まれてから5ヶ月しか共に生活していない父に対して、関心をもつことはなかった。

田淵:「母親は、父親の話はしないのですか?」
建城さん:「なかった。でも母親がLINEのタイムラインに、父親や姉2人について投稿しているのがあった。"あの時、夫からの暴力が辛かった"とか、"お姉ちゃん2人は元気してるかな"みたいな内容だった」
田淵:「それを見て、どう思いました?」
建城さん:「なんか言ってるなーみたいな。あれ、一体なんだったんでしょうね」

 母親は、どんな気持ちからこのような投稿をしようと思ったのだろうか。私にもサッパリ分からない。



児童養護施設で16年間暮らした

 建城さんが2歳を過ぎた頃、乳児院を出ることになった。

 乳児院から退所する子ども達の行き先は、約半数が家庭、2割近くが里親、残り3割程は児童養護施設に行く。

 建城さんの場合は、児童養護施設に入所することになった。
50人程の子ども達との共同生活が始まった。
入所した児童養護施設は、温かい場所だった。
一般家庭と同じように、普通に生活し、イベントがある時はみんなで盛り上がった。建城さんにとって幸せな環境だった。

 だが一般家庭と同じようにと言っても、全く同じは難しいだろう。
どうやったって"家族"の替わりは、良くも悪くも存在しない。

 私が児童養護施設に入所していた時は、「自分可哀想」の気持ちになった。
いわゆる、悲劇のヒロイン思考だ。
他の子にも、同じような思考の子がいた。
入所後その子達にひっぱられる形で、私は悲劇のヒロイン思考になった。
 私は1年も施設にいなかった。
16年間も施設で過ごした彼はどうなのだろうか。

田淵:「自分可哀想の考えにはならなかったのですか?」
建城さん:「ならなかった。負けず嫌いだったから、自分が可哀想と思われることが悔しかった。自分ぐらいは自分のこと幸せ者だって思っていないとなって思ってた」
田淵:「凄いですね。全くならなかった?」
建城さん「もちろん負い目や、ないものねだりの感情はあった。ただ、可哀想な自分で終わらすのが嫌だった」

田淵:「まわりの子も建城さんと同じ感じでした?」
建城さん:「悲劇のヒロイン思考の子はいた。でも割合は少なかった。施設全体がプラス思考な雰囲気だった。うちの施設は、先生にも恵まれた。よく言うと熱血、悪く言うと熱苦しい先生が多かった」
田淵:「どんなことを言ってくれる先生だったのですか?」
建城さん:「"生きてるんだから、大丈夫大丈夫"とか、"君たちは普通なんだよ"と言ってくれました」
田淵:「同情の視線や態度はなかったのですね」
建城さん:「同情されてしまったら、そこに生き方を委ねてしまいそうで怖かった」

その通りだ。
悲劇のヒロイン思考とは、同情心に人生を乗せてしまった時に起こってしまうことだ。

建城さん:「施設で暮らす僕たちの一番近くにいた大人達が、"可哀想だから一緒にいてあげる"ではなく、"横に一緒に立っていてくれる"そんな存在でいてくれました」

 このような大人達のおかげで、悲劇のヒロイン思考ではなく、プラス思考の子達が多く育まれていったのだろう。

 幼少期の環境は、その後の人生に大きく影響する。
育児がろくにできない親と生活するぐらいなら、このような先生達やプラス思考な同年代に囲まれる環境の方がよっぽどいいのかもしれない。
 私は養護施設に入所した翌日、朝4時に起きなくていいし、何もしなくてもご飯3食食べられるものだから、「最高だ!」と思った。
 だが、彼は運が良かったと思う。
私が入所した施設では、そういう先生もいたが、常にイライラして無言な先生だっていた。

 彼のいた施設の先生の対応は成功例だと、彼が物語っている。

1年に4回、知らないおばちゃん(母親)の面会があった

 児童養護施設に入所したら、家族に全く会えないというわけではない。
退所する前に面会・外出・外泊をして、自宅に帰るための練習をする。
私が入所していた時は、月に1回会いに来る親を見たことがある。

 建城さんの場合は、1年に4回程、母親が面会に来た。
とはいえ、母親と彼の間には再会を喜びあうような関係性は存在しなかった。

建城さん:「知らないおばちゃんに会わされてるって思ってた」

優しいおばちゃんではあった。面会に来る母親は穏やかだった。
だが、「調子が良くないから」とドタキャンされることも度々あり、母親の不安定さが垣間見えていた。

 母親は面会で、
「家に帰れるように、私、頑張るから。一緒に暮らしたい」
と彼に言っていたそうだ。

田淵:「それを聞いて、どう思いました?嬉しかった?」
建城さん:「"帰れるんだ"という、普通を実感できる期待感をもった。でも親やお金や世間体とかの沢山の問題を考えれば考えるほど、漠然とした不安で喜べなかった」
彼は、糠喜びできるような子ではなかった。

建城さん:「自分の子どもだけど、施設の先生が面倒見てくれているわけで。ほっとける存在だから、簡単に家帰っておいでなんて言えたんだろうなって思ってた」
子どもながら、母親から責任感を感じなかったのだろう。
言葉への信頼も微塵もなかったのだろう。
田淵:「それでも母親が君と一緒に暮らしたいってことは、愛情のような感情があったってことですかね?」
建城さん:「母親は、自分を幸せにしてくれ。自分が産んだんだぞっていうプライド。痛めて産んだ存在なんだから私に尽くせよ。ってみえてた。今考えるとそうだったんじゃないかな」

 この先の彼の出来事を聞いた後は、彼がそのように感じたことに深く納得できた。




次回タイトル
「親がいないから普通じゃないんでしょ」という小学生

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