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老人よ!面倒なことをあえてやるべし

面倒なことをあえてするべし


物事は辞書化している。


つまり定義化だ。
その中に、「面倒」という言葉がある。
「面倒」というより「面倒くさい」と投げやりに言うことのほうが多い。
日常的に、「面倒」と思うことは山ほどある。
で、面倒・面倒と思いながら、半分くらいは面倒だと思うことをやっている。
考えてみると、生きると言うことはかなり面倒くさい。
生まれたばかりの赤ん坊は、「めんどうくせー」と、泣いているのではないか。
めでたいなら、泣くことはないはず。
言ってみれば、生きることは面倒なことで成り立っている。
自分の生活を振り返ってみれば、この世が面倒なことでなりたっているとつくづく分かるはずだ。
それでも、生きているのは、面倒なことが生きていく上で必要だからだ。
呼吸が面倒だからといって、呼吸をやめる人はいない。
心臓もそうだ。
これは、自発的にやっている。
もし、人間の身体の臓器がそれぞれに意志を持っていたらどうだろう。
きっと面倒だと思い始めて、動くこと働くことをやめてしまうに決まっている。
ところが、頭は、面倒だと思うことでいつもいっぱいだ。
頭というのは、体の敵みたいなところがある。
自殺というのは、頭で行う。
もし、本能に従ったら、自殺はできない。

面倒と思う気持ちと付き合う

健康な人間は、よく動く。
健康な人は、静止している時間が少ない人と言っていいかもしれない。
それくらい、健康な人は生活自体が行動的だ。
自活をして、自分のことは自分で何でもやれば、自然に運動になる。
特別な運動はいらない。
とにかくせわしなく動く。
動く人は、同じ姿勢でいることが少ない。
そういう意味からして、ソファーに深く沈んでいるのは、体に悪そうだ。
よく動く人は、ソファーなど必要がないだろう。
きっと、動く人は、面倒をいう気持ちがあまりないのかもしれない。
どうしたら、そういう気持ちになれるのか。

日常生活は無自覚で面倒なことをしている

起床時間の早い人は、習慣化しているので、起きるのが面倒だとは思わない。
面倒と思うのは心だが、体が自然に動いてしまうわけだ。
生活のリズムが身についていると、一日のやることが決まっているので、
面倒と思うことがあまりないような気がしないではない。
三度三度の食事の支度も、いつもやっていればそれが当たり前になる。
この、「当たり前」の感覚に、こつはいらない。
健康法については、山ほど色々とあるけれど、言っていることは全部、動きなさいということ。
生活をするということは、生きるということであって、生きるということは、動くということでもある。
動いているから、生物であって、無生物は動かない。
だから、生き物は無自覚に動く。
この活動を、面倒だと思うようになったら、それは生きることの限界に近くなったと自覚しても良いのかもしれない。

面倒なことは体の貯金だ

まずは、なるべく自分の力で毎日を生きることだ。
そのためには、人に頼らない環境が大切。
朝ゴハンの用意も、待っているだけではなく、自分のできることをする。
洗濯や布団干しも自分でやれるところは自分でやる。
買い物も、車を使わないで、歩くか自転車で行く。
掃除は毎日。
便所掃除もやってみると新鮮だ。
面倒だと思っても、習慣化すれば自然にできるようになる。
面倒なことをやっているると、知らない間に健康な体になっているはず。
もちろん、好きなことは面倒なことをやった後にやるようにすると良い。
大切なのは精神のバランスだから。
面倒な日常生活の行為は、健康という貯金である。
自分の健康が、面倒な日常生活で養われていると分かったら、
自分から進んで、更に掃除や洗濯や買い物や料理に勤しむようになるはずだ。
人が面倒だと思ったりすることには、体力つくりという素晴らしい活動があるのだ。
だから、あえて、面倒と思うことをすべき。

旗じいの話を最後まで聞いてくれてありがとう。
生きることは面倒だけれど、面倒なことが人を鍛えているのは事実だ。

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