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2021年の映画を振り返る

はじめに

文章中にネタバレがいろいろと含まれておりますので、予めご了承ください。また、敬称が省略されている部分が多いことも予めご了承ください。なお、ほぼ全文を無料で読むことができますが、かなりの労力を要しましたため、少額ながら有料設定をしております。ご納得いただければ課金にご協力いただけますと幸いです。

大きな物語と敗北たち

昨年(2020年レビューを書いた2021年のこと)はたしか3月ごろにこのシリーズを書き終えたのですが、今年、ようやく一行を書き始めたいまはすでに6月末。書き終えるのに何ヶ月かかるか分かりませんが、前年を振り返るどころか、今年(こちらは2022年のこと)になって世の中が想像を超える事態を迎えてしまっています。21世紀にもなって大国が何の偽装工作もなく堂々と戦争を始めてしまうのか。遠隔操作のドローンでもなく、住宅や学校がミサイルで破壊され、あちらこちらに地雷が仕掛けられる。抵抗する市民たちが次々に銃を構える。まるで何十年も前の、わたしの祖父母の時代の話のようですが、2022年の話なんですよね。

いや、遠隔操作ならいいとか、敵基地攻撃の精度が高まればいいとか、アメリカがイラクに仕掛けた戦争の大義がよかったとか、そういうことは一切ないと思っています。イラクもアフガニスタンも気の毒でした。『バイス』(2018)を観ていて、あんなことで戦争を始められたら本当にたまらないし、戦争自体が国際法で合法とされているとしても、もはや大義も何もあったものではありません。

では大義があったらいいのかと言われると決してそんなこともないと思うのですが、ロシアはウクライナへの侵攻について大義を述べています。大義というよりは、物語という方が的確でしょうか。自国の尊厳を守るための歴史を伴った大きな物語があるとロシアは説明しているように見えます。繰り返しますが、いまは21世紀です。わたしが学生の頃に読んだ「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」(東浩紀,2001)には、近代にあった大きな物語はなくなり、ポストモダンには小さな物語の繰り返しになると書いてありました。なのにいま、大きな物語が勃発しているのです。

また学生の頃の話ですが、ゼミの課題でウォーラーステインの論文を輪読したことがありました。彼の世界システム論を読んでいて、おそらくゼミの先生は世界を見なさいと言いたかったのだと思うのですが、わたしにはちょっと不気味だったんです。世界システムのなかには、楽しい地域もあればそうでない地域も出てくるわけで、そうでない人にとってはたまったものではないだろうなと。なので、楽しくない地域は逆に閉じていくんだろうなと。ブロック経済がまた訪れるんじゃないかなと。

いまさらこんなことを書くとほら吹きみたいですけど、当時のレポートに本当にそんなことを書いていたんですよ。信じるかどうかはお任せしますが。その頃、オーストリア自由党という極右が政権に参画することになって大きなニュースになっていて、近代の成れの果てにはこういうことが起きるんだなあと漠然と思っていたのですが、気が付くと日本に極右政権が爆誕していて、アメリカでもトランプがブロック経済っぽいことをして、攻撃対象だった中国は自国の資本力による世界的な経済圏を構築していきました。世界システムとまでいかないにしても、自由貿易で国境が希薄になっていくんじゃなかったのか。20世紀に繰り返された戦争を教訓にして世界のルールを作ってきたんじゃないのか。本当はそうじゃなかったと言われても、わたしが受けてきた学校教育からすると、目指してきたところからの敗北じゃないのかと思うのですよね。

カルト化する世界

世界システムのなかで楽しくない地域で右翼が流行るのは分かる気がするのですが(同じぐらい共産主義者が元気にならないのが個人的には不満ですが)、もともと大きな物語を持っている、ある意味では正調の右翼と違って、新興勢力はおおよそオタクというかカルトなので、小さな物語の点と点をつないで物語を巨大化させていった結果、史実と全然違うアナザーワールドになっちゃう。その突飛さは『主戦場』(2019)で詳細に述べられている通りです。

それで、日本のよく分からない思想の人びとの、謎に懐古趣味な政治に困り果て、アメリカと中国の対立に注目してばかりいたら、すっかり忘れてしまっていたのです。ロシアにたいそうな極右の長期政権があることを。忘れられるのはやっぱりつらい。まるで『20世紀少年』シリーズ(2008-2009)の「ともだち」と同じなんですよ。「ともだち」にとっての大阪万博は、プーチンにとってのKGBと言えばよいのか。そして暴走は推して知るべし。と、いまになってはそう思うのですが、日本の政権を友民党と重ねてばかりいて、プーチンのことを忘れていたのは不覚でした。

彼のなかにも大きな物語があります。ものすごく印象に残るフレーズに「反ナチ」があります。いや待てよと。仮想敵国のことを誰でも彼でもナチ呼ばわりすれば国民が振り向いてくれるのか。ロシアにだけは言われたくないだろうなあ、などとも思ったのですが。

「ナチ」については『ドンバス』(2018、わたしは2022年鑑賞)でも登場する用語で、ウクライナ東部を占拠した「ノヴォロシア」の公権力が、敵=ウクライナ国民を揶揄してそう呼んでいます。自分たちを差し置いて何をかいわんやと思いつつ、彼らはあくまで本気です。すごく純粋に、ウクライナには「ナチ」がいると思っている。それがただの妄想なのか、ということについては私にはよくわかりません。『アイデン&ティティ』(2003)の名言に倣えば、「君の立場になれば君が正しい、僕の立場になれば僕が正しい」としても、少なくとも甚だしい用語の誤用です。

これ以上は深い知識もなしに放言もできないのでこのぐらいで文章を収束いたしますが、いずれにしても国境を越えて首都を目指して侵攻されるほどの謂れはないと思います。プーチン側が早期終結できなかった誤算を抱えたまま引っ込みがつかず泥沼化していくのではと、『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(2011)を思い出しながら心配しています。

※この項を書いた後に鑑賞した『バビ・ヤール』(2022)において1941年のウクライナがナチスの軍門に下った歴史について知ることができました。ウクライナ人にとっての消したい過去にロシアが付け入っているのが現在で、狡猾な印象を強くしています。

旧共産圏を見つめる(1)

本論の全体構成にやや失敗した気もしますが、例年以上にロシアなりソ連なり、かつての東欧共産圏についての作品を鑑賞する機会が多かった一年ではありました。

『クナシリ』は現在(とはいえ今般の戦争よりも前)の国後島を捉えたドキュメンタリーでした。軍部の人と、野っ原を掘って日本の遺物を漁るおじさんと、自力で畑を耕して苦労して生きているおばさんと、ちょっとだけ知事が取材されるのですが、対象者が少ないのが気になります。なのでどこまで全体像を捉えられているのか分からないものの、島民の彼らが、追放されるまでの日本人の暮らしをあまり悪く思っておらず、むしろ水道などインフラや什器のよさ、墓地の位置などいちいち誉めてくれます。日本があの海域で漁業権がほしいのはその通りだし、一緒に生きればいいと思ってくれているのは嬉しい反面、その気持ちには彼らの生活の厳しさとの関係もありそうです。ソ連時代は日本の遺構を利用したりそのまま残したり、またコルホーズでの生産品から自主的に稼ぎを作れたり、ほしいものを購入できたようなのですが、ソ連崩壊後はかなり貧しくなっている様子。経済発展のために開発すると政府は言うものの実際はちっともで、やって来る労働者はウズベキスタンなど、いまで言う外国の人ばかり。家にトイレを作ることさえままならない。数年前に新聞で読んだところでは、根室では人口減少で産院が少なく出産に苦労する一方で、色丹島では近代的な出産施設が建設されて人口が増加していると報じられていたのですが、作品の風景と随分なギャップがあります。海辺の朝もや、独特な空の暗さがいかにも地の果てといった風情のなか、おっさんふたりが川縁の温泉に浸かるシーンがやたら長くておかしい作品でした。

ソ連にまつわる作品としては、先の『ドンバス』と同じロズニツァ監督の過去作の特集上映がありました。いまを生きる監督が過去の映像によって作品化したドキュメンタリー2作を鑑賞しましたが、スターリンの葬儀を捉えた『国葬』は、さすがソ連、これだけたくさんの映像記録があって、それらがしっかり保存されていること自体が素晴らしいの一語です。キャメラマンが装填したフィルムが、カラーとモノクロを物理的に接続したために撮影しながらカラーからモノクロに変わるあたりも面白い。全国放送から葬儀への参列、集会など、この短時間にどれだけの用意をしたのかと思います。スケジュールにしても花や飾りの用意にしてもモスクワ以外の各地域に行き渡っており、すごすぎます。そして、スターリンの死が延々と放送されるが、それしか伝えるものがないのに、言葉をとっかえひっかえしてあらゆる語彙でそれを伝えていて、こういうときは語彙力が試されるのだなと知らされます。原稿を書いた人もすごいです。大した新情報もないのに何時間も同じネタで引っ張るワイドショーの原点はここなのでしょうか。冗談です。

また『粛清裁判』はこの年に観たすごいドキュメンタリーのひとつに挙げてよい内容でした。クーデター未遂の産業党事件についての裁判自体は最初から最後までわりと粛々と進みます。ちょっと違和感があるのは、検事役の男がほぼアジ演説でしかないことや、裁判の進行とともに国民が粛清に賛同するデモを展開しボリシェヴィキを讃えていること、被告人たちが最終的には弁明ではなく、やけに罪を認めて国家を誉め、死ぬかもしれないのに判決後を想像しているあたりでしょうか。そう考えると不思議すぎる裁判だったのでしょうけど、ラストでネタ晴らしがなければ本当の事件だと信じてしまいそうです。それにしても被告役の彼らはなぜこんな役を受ける羽目になったのか。演技にもかかわらず、数年後に銃殺された人がいるのが謎すぎるが、これがスターリンなのか。『誰がハマーショルドを殺したか
』(2019)と並ぶ、なにを見せられてるのかと突っ込むドキュメンタリーでした。不謹慎であろうと、もう笑うしかありません。

DAUプロジェクトについては、わたしは日本で劇場公開された2作しか観ていません。面白いとは思うものの、大量の素人をソ連を完全再現した施設に隔離して、実際に生活させたうえで撮影を実施するという、狂気の沙汰をどう飲み込んだらいいのか。『DAU. ナターシャ』は、食堂で働くナターシャと若い娘の『ゼイリブ』(1988)ばりの床掃除するのしないのの格闘、研究所の職員たちの鯨飲祭り、ナターシャの濃厚な熟女ポルノ、ナターシャ酒師匠の若い娘へのウオツカ強要、そして嘔吐。さすがソ連はユートピアだなと思った途端、KGBに拷問とでっち上げの自白を強要されるナターシャ。そしてふたたび床掃除するしないの口論。でもナターシャは手を出さずに強い口調で掃除を命じて終幕。どえらいものを見せられたとは思いますが、これは何だったのか。

理解を超えてしまい消化不良になってしまったにもかかわらず、もう1本観たら分かるようになるかもしれないと思って不用意に観てしまうのが映画沼のよくないところです。『DAU. 退行』は、よりによって謎映画が6時間にパワーアップしていました。スターリン後のおおらかな研究所が相変わらず酔っぱらってとっ散らかっているのは素敵ですが、セクハラ容疑で所長が追われて、代わりにやってきたKGB出身の男が部下を使って研究員たちを矯正していきます。それでも西洋文化を謳歌していた若き研究員たちも、あるときやってきたマッチョ集団に追い込まれていく。もう彼らがやっていることが低レベルのヤンキーの遊びばかりで、でもそこに彼らの強い正義があるし、強烈な優性思想の持ち主なので、研究員たちでなくても胸糞悪いことこの上ない。彼らの蛮行が頂点に達したところで裁きが出るのかと淡く期待したものですが、あろうことか、上の決定だと言って研究所を、住んでいる人間もろとも消して終了する。途中で偉い先生が生き残りをかけて所長に未来予測をプレゼンしているくだりは、その後の未来をかなり言い表していて面白い。けれども、6時間頑張って観ていて、消されるんだ…というやるせなさがすごくて、できればもう思い出したくもありません。

旧共産圏を見つめる(2)

ふたたび現代に話題を戻して、東欧に目を向けてみます。わたしが子どものころ、チャウシェスク政権の崩壊と処刑を臨時ニュースで見たルーマニアは、いまでは自由主義国家ですが、どうやらものすごく腐敗した政治体制のようです。『コレクティブ 国家の嘘』はいったい何なんだろうと思って観続けて、まさかの院内感染のドキュメンタリーなんだと知るに至ります。いままでよく知らなかったのですが、火傷の治療というのはすごく特殊で、専門の病院があるほどで、毎日洗浄するなどものすごく衛生管理が必要なのですね。火傷患者が瞬時に大量に出現して手に負えなかったばかりではなく、消毒液を薄める不正が発覚するわ、患部に虫が沸くわで、医療施設として為すべきものが為せていない。そこには利権があって、有力な政治家が病院経営者になってピンハネしたり横領したりして多額の報酬を得ています。政局の混乱で無党派のまま所管大臣になった男は奮闘するものの、抵抗勢力の巧みな妨害だけでなく、むしろ驚くべきは国民の政治への無関心でした。若者の投票率が一桁で、日本の比ではありませんでした。そうして圧勝する与党。震えるものがあります。追及するメディアへの取材だけでなく大臣の執務室までカメラを入れて、本当に克明に記録している取材チームが素晴らしい作品でした。そして、守旧たらんとする人たちの不都合な行為の数々が我が国とシンクロするようで、それもまたしんどいです。

東欧のなかではチェコは経済的に発達している印象で、ルーマニアよりは暮らしやすいでしょうけれど、経済的に優位だからといって道徳や倫理が健全というわけではないことを学ぶことになりました。『SNS-少女たちの10日間-』はものすごく気持ちの悪い作品でした。もちろんそれは作品の意図なので、作品としてすごくうまくいっているということだと思います。その感じ方には個人差もあるのかも知れないと思うのですが、ある側からすれば、一歩間違えれば陥るかもしれないという意味での、自身の闇への気持ち悪さなんだと思いました。SNSを通じて出会った少女たちへのえもいわれぬいかがわしい行為の数々。あんなにひどいものを見てしまうと、たどり着いてはいけない場所としてものすごい抑止になっている気もするほどです。それぐらい狂っているけれど、それがふつうに世界中に存在しているということが、この作品によってあらわになっています。もちろんどの国にもある事柄の切り取りだとは思いつつ、ルーマニアにしてもチェコにしても、経験値と心構えがないままに突然近代化してしまった末路を見てしまったような気がしてなりません。

本作の監督がなぜこの作品を作るに至ったかについてはとくに語られません。なので、成年が未成年を騙って犯罪に巻き込まれたふりをすることについて、ある意味では安全な場所から、加害者を不用意にいじっているだけのように見えなくもありません。裸の写真のコラージュまで丁寧に作るぐらいならさっさと通報してしまえばいいのにという感じもします。見応えはありますが、リアリティショーだと言われればそうとしか言いようがない側面もありました。

逆襲する女性たち(1)

ルーマニアの腐敗した政財界にしても、チェコの児童ポルノ連中にしても、今日における男性社会の気持ち悪さって何なのでしょうか。ちなみにわたしは男性なのですが、古い男性的観念を改めるより以前に、男性的として示されるものやこと自体が劣化していると思います。「むかしといま」の対比としてのジェンダー問題に輪をかけて、劣化した男性社会がもたらす醜さやタチの悪さが、ますます問題を暗くしているように感じます。

テレビドラマ「生きるとか死ぬとか父親とか」の演出を担当した山戸結希監督がインタビューに応じた記事がありますが(上下編があるのですがここでは下編を取り上げます)、そのなかで今日における課題を次のように述べています。

ものすごく古い言葉の組み合わせではありますが、「弱い男性が増えてゆくこと」と「強い女性が増えてゆくこと」は、過渡期の人々が直面する課題です。つまり男性には積極的に弱くなる勇気が必要で、女性には積極的に強くなる勇気が必要です。

https://woman.nikkei.com/atcl/column/21/20210411/100500012/

記事を読んでいてふたつの意味でハッとしました。ひとつは男性の立場から女性に向かって強くなることを要求することは違うのではないか、という気持ちがいまだにあるのですが、それはその要求が自体が男性社会に順応する努力を指しているからだと思うのですね。しかし、強い女性のリーダーの下で働きやすさが生まれる成功例ができれば世の中は変わっていくという趣旨で述べられており、女性からこういう意見が出てくれることでメッセージの読まれ方が変わるなと実感しています。

今、日本では男女間に大きな所得格差がありますが、同時にその額の大小に応じて、当然責任やプレッシャーの重さも分配されていると言えます。

https://woman.nikkei.com/atcl/column/21/20210411/100500012/

とも述べられており、女性が大きな立場や責任を引き受ける覚悟に言及しているのも印象的です。

もうひとつは、やはり男性にとっての弱くなる勇気ですね。この点においては、その課題への向き合い足りなさというか、ロールモデルの築けていなさがあるようです。

まだ映画を撮りはじめたばかりのとき、男性のクリエイターから、「山戸さんは女性の問題を撮れるからいいよね」と言われたことがあります。それは悪意のある感じではなく、本当に困っているという文脈だったので、「私がもし男性の監督であれば、きっと男性の問題を撮るけれど、どうして男性の問題について描かないの?」と聞いたら、「うーん」と言葉をつなげない様子でした。もしかして、問題を前景化(ある部分に焦点を当てること)すること自体がタブー化されているのかもしれない……と当時思いました。

https://woman.nikkei.com/atcl/column/21/20210411/100500012/

ここは私にも「うーん」だと思います。女性が女性の問題を撮るのは、いわば餅は餅屋なのでしょうけれど、その論理で言えば、男性の進むべき道もおのずと見つかる、ような気がするものの、実際にはそうでもありません。

天野千尋監督は2022年の記事で、映画業界が男性で占められ、男性が上位ポジションを得ているのは過酷な労働環境に原因があると述べています。

個人的な話をすると、私は2014年に妊娠した。その時お世話になっていた女性プロデューサーにその旨を告げると、(中略)「天野さん、もう映画は撮れないと思うよ」と、はっきりと言われた。その時は、意味が全く分からなかった。育児の大変さや映画業界の構造を理解していなかったのだ。
だが出産後、彼女が言った通り、全く仕事がなくなった。(中略)私はようやく、彼女の言葉の意味を理解した。若い女性に作品を監督をさせたがる人は多くいるが、子供ができれば話は違う。映画業界で下積みからサバイブしてプロデューサーになった彼女は、業界の常識を教えてくれていたのだ。

https://webronza.asahi.com/culture/articles/2022082900005.html

まさに、そのプロデューサーにサバイブを求めたのは男性にほかならないのだと思います。その働き方を天野監督は「昭和のお父さん的な働き方」と表現していますが、男性の側に弱くなることの努力が足りないことを示唆しています。

ここで本シリーズの2021年の原稿を再掲したいと思います。コロナ禍が少し落ち着いたかなと思われた2020年9月に、女性監督の作品を集めたとある映画祭にリアル参加した際の感想です。

地元商工会のお偉いさんなのか、女性監督の映画祭なのに、プレゼンターも講評を述べる人物もみんな男性。そのおっさんの講評が言いたい放題で、アニメーション作品はひとりで作っているものばかりで複数名で作れるようになってほしいとか、実写の女性監督は3本作ったら消えてしまうなどなど。どうしてそうなってしまうのかを想像したことがあるのだろうか。働きながら、あるいは母として地道に作り上げている、逆に言えば地道に作れるからこそ維持できている制作活動を否定するような振る舞いだと感じてしまいました。

https://note.com/ngskt/n/nac0d1b1f1735

自分の文章ながら、まさにこれだ、と思ってしまいました。

男性の問題を撮れない問題についてここで解を見出すのはちょっと難しいかもしれませんが、後ほどもういちど考えてみたいと思います。というのも、この問題と90年代を見つめることに類似性を少し感じ始めているからです。

餅屋の領域を超えて、女性が男性の弱さを描くことに到達した作品として『明け方の若者たち』があったのではないかと考えています。就職活動で内定を取った人が集まる勝ち組の飲み会に参加した主人公は、ひとりつまらなそうにたたずむ女性を見つける。彼女に誘われるままに店を出て、公園で飲み直して、後日また会って、急速に関係を深めていくふたり。しかし彼女は既婚者で、夫が出張から帰るまでのアバンチュールだった。ふたりで旅をした後で、彼女からの連絡が途絶えてしまう。『サイドカーに犬』(2007)では子役を務めた松本花奈監督は十代から映画制作をし、劇場公開も経験したものの、近年はお仕事作品が多いのではと思っていました。しかし本作は、自身の持ち味でちゃんと撮ったのだなあと思いました。そして黒島結菜がとうとう大人の演技をするようになって、それまでの期待値とまったく違うことになっていてひたすらどぎまぎした。本作はひょっとしたら『東京マリーゴールド』(2001)を15年ほど時間を進めて、男女を入れ替えた物語なのではないか。一見不器用そうに振舞っておいて、主人公をアバンチュールに引きずり込む彼女の手口は本当に見事です。主人公が私だったら絶対に拒否できません。やがて彼女との物語が終わっても、主人公の物語は続きます。もちろん男性主人公の物語で、彼の人生のある時間を切り取っているのでそうなのですけど、『ボクたちはみんな大人になれなかった』の主人公(演ずるのは森山未來)みたいな渋みはなくて、26歳から見て23歳を振り返って人生を語っているようなシーンが続くので、総括しているようで総括できていません。『東京マリーゴールド』では、女性主人公が泣く泣く別れた相手がダメ人間だった、というオチがあるのですが、本作の主人公は長いこと引きずる運命なんだろうな。

逆襲する女性たち(2)

私自身が弱くなる活動に邁進しているわけではないと思いますが、しかし男性たちをぶった切るヒロインの出現をとても楽しんでいます。2021年はまさに象徴的な作品が生み出された記念すべき年だったように思います。その筆頭は何といっても『プロミシング・ヤング・ウーマン』です。

酔い潰れたふりをしているだけで男たちを粛清していくキャリー・マリガン。コーヒーショップでの勤務態度はよくないし、昼間の姿が清廉潔白とは全然言えません。正義の味方とかヒーローとかが漂わせるいかにも感がないわけです。前述のように、彼女がそうであることには目的があるのですが、それが最初は分からずにただのクレイジーな人で、医学生だったという意外な過去が出てきても、それほど気にかけずに作品を観ていました。しかし少しずつ過去の辛い事実が分かってくる。

医学生という、日本でもそうだろうけれども、経済的に恵まれていて、男性ファーストで、将来も嘱望されていて、医者になってしまえば聖人君子として見てもらえて、ますます裕福になるし、モテることが約束されている人びと。男性天国な社会で同じ医学生のひとりの女子を蔑ろにする非人間的行為をしたうえに、そのことを誰からも罰せられずにいまや人生の成功者になっているのに、被害に遭った女性はそれまでの生活を送れなくなり、おそらく壮絶に死んだのだと思います。

どうして女性だというだけでそんなことにならなければならないのかという義憤が、主人公にはあります。傷つけた彼らを華麗に罰していくのだけれど、すごいのは、身体的障害を負わせるとか、社会的に通報されるような事態にはせずに、あくまで本人が深く傷つき反省できるようにだけして去っていくこと。その設定のすごさに感心します。ラストはまさに刺し違えている。そして死後に予約配信で送られてくるメッセージが最後の一刺しで、復讐は完成します。実に気持ちがいいし、それと同じぐらいの強度で、本当にすみませんでしたという気持ちになる。自分は大丈夫だというスタンスには絶対になれないしなるべきでない。そのことを思うために折に触れて観るのがよいのかもと思いました。

凄まじい作品が心にずしんと来たところで日本に目をやると、もうひとつのすごい作品に釘付けになりました。『Cosmetic DNA』でした。

終始絶え間なくゴリゴリに、何層にもエフェクトされて原形をとどめない映像とキレキレの音楽でトランス気味になるのは、二宮健や塩出太志の世界観に近いのかなと感じますが、それにしてもここまで過剰に盛り込むのにはどれだけの歳月を要したのか。それがギャルによる皆殺しムービーであることの、主題の身体と見事に溶け合っているし、あまりにも強い。陰に陽に見え隠れする男尊女卑をいなすことなくそこに徹底的に抗戦し、男みんながダメすぎることを完膚なきまでに証明してみせます。主人公はもともと油彩科の学生で愛想がなく人づきあいが悪く、何者でもないけど自意識過剰に動画配信に繰り出すのだが、ナンパしてきた自称映画監督にレイプされてから復讐劇が始まります。

主人公と意気投合するほかのふたりも彼氏だったり担当教官だったりのハラスメントを受けているわけですが、彼女たちは皆、社会で「ふつう」には生きられていません。それって男を皆殺しするだけでなくて、男尊女卑社会のなかで上手に泳いで生きている「ふつう」の女性たちにも何か言わなくていいのか、と思ってしまうのですが、それもこれも男がいることが悪いと言われれば、そうだなと腹落ちしてしまいます。しかも彼女たち、皆殺しの地でコスメを作ってハイになるわ、周囲は勝手にコカイン中毒になるわ。加えて死んだはずの男がゾンビ化して襲ってくるわ。それで逮捕されて終わるのだと教訓話みたいだなと思ったが、女性同士で子供を作れる薬を開発して無償で配布するという世界平和にぶっ飛ぶのは圧巻。とにかく格好いいし、支持しないわけにいかないすごい作品でした。

『成れの果て』の物語の構成は思いのほか複雑なものでした。萩原みのり演じる妹の出現で凍り付く姉。てっきりサイコパスホラーだと思って観ているとそうではなく、妹がかつて受けた性的暴行と、その犯人があろうことか姉の婚約者であることだと分かり、被害者の浮かばれなさだけではなく、田舎ホラー的なダークさや永遠に続くいじめもあり、果てしない辛さに突入します。それでもやがて和解する彼ら……だと思いきや、いやいや姉はいつも妹に男を取られ続けていて今回もそうなんだとか、妹のせいで自分が幸福になれないんだとか、姉の妹への憎悪が露わになって振り出しに戻ってしまいます。こんな脚本よく思いつくなと呆気にとられました。実はすごかった柊瑠美の怖い演技に背筋が凍ります。

時空を超えたホラー仕立ての作品『ラストナイト・イン・ソーホー』は、田舎から出てきて周囲に馴染めずに下宿屋に引っ越してきたトーマシン・マッケンジー演じる主人公が、眠ると夢のなかで別人・サンディに変身してソーホーでスターの卵になります。しかし楽しいのも束の間、スターダムにはそううまい話はなく、有名になるためと称して枕営業をさせられてしまいます。一見ショーのある飲み屋かダンスホールに見えるその店には、お持ち帰りできるキャバクラといった感じの裏の顔があります。60年代のロンドンには本当にそんな世界があったということなのでしょう。お金があれば若い女性の夢を食べられる、食べられた女性は妙齢の男性たちのおもちゃになってしまう。そんな、女性たちの悲痛をホラーというかミステリー仕立てで描いています。夢と現が混濁してしまった世界で主人公は、下宿屋で当時の紳士たちの亡霊に襲われます。亡霊たちはまるで反省せずに下宿の家主(かつてのサンディ)を殺してくれと言ってきます。古い時代の悪夢を追体験した主人公は、最終的にサンディを解放することができなかったけれど、かつて男性に夢を食べられた女性たちへのレクイエムになっていると感じました。作品のファーストショットのトーマシンが抜群にかわいいのも出色でした。

時代劇は現代の鑑だなと思うのですが、正確には時代劇でなくても、明治大正年間の物語にも同じ要素を感じることができます。だからこそ物語を紡ぐ意味があります。『大コメ騒動』は1918年の米騒動がテーマですが、かくも女性たちの闘いの史実だったのだと初めて知りました。男たちは出稼ぎに行ったが、送金や振り込みの仕組みがない時代なので、残された家族はほぼ母子家庭状態。きつい仕事なのに働けども働けども賃金は上がらず、物価は上がるばかり。商業界と警察は癒着しているし、見せしめ逮捕も起きるなど、まるで令和じゃないですか。井上真央が演じる主人公は口下手で不器用だが文字が読めて、やがて切れ者としての才能を開花させていき、男たちの助けを借りずに米問屋などへの抗議行動を巻き起こします。街頭演説をする口だけの男が女たちからなじられるのも痛快です。自分のことを棚に上げてしまってますが。

ところで作品を観ていると、米の積み出しというとんでもない重労働をしている女性たちが、稼ぎのほとんどを家族で食べる米に費やしているように見えます。毎日毎日そんなに米を食うのかと驚くほどですが、そこで思い出すのが宮澤賢治の「雨ニモマケズ」にある「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」という一説です。おかずに乏しい時代、かつ身体を使うので消費カロリーも高く、あれだけ食べないと体力が持たなかったのですよね。女も男も大人も子どもも関係なく、こんもり盛られた飯を元気よく食べられたら幸せだなと思います。

女性の解放(1)

ぎゃふんと言わせる作品でなくとも、たった一度の人生を、大衆の常識に生き埋めにされて「しょうがないよね」としたくない、そうさせない物語も数多く作られました。自らの尊厳をめぐる闘争とも言えますが、いろいろな角度から描かれたこれらの作品にも注目してみたいと思います。

『Swallow/スワロウ』はとんでもない作品でした。明らかに豪奢な邸宅。冒頭から何となく違和感のある「嫁」である主人公。根っからのセレブではなさそうな居心地の悪さが見て取れます。そしてふと異物を飲み込み、それが常態化します。あんなに飲み込みづらそうなものをどうして、と思ってしまい、もう観ているこちら側が痛くなってきます。それが家族にバレるのは妊娠した彼女が受けた胎内診断。そして手術、夫の混乱。この流れはまるでコメディなのに、話はそこでは終わりません。ただでさえ暮らすことに違和感が強かったのに、閉じ込められて完全管理下に置かれ、ついに逃亡する。このとき家専属の看護師(ボディーガードか監視係にしか見えない)の男が彼女の逃亡を助ける流れに救われる思いです。そして生き別れていた実父と対決し、本来の自分の人生を始めるのですが、それは再生というより誕生の物語でしょう。お腹の子は救えなかったけれど、いやこの子を体内から出したことによって得られる誕生。ラストシーン、女子トイレから彼女は出ていったが、カメラはそのままトイレを映している。もう彼女を追いかける必要はなくなったのです。彼女が雑踏の一部になれたことの喜びがそこに溢れています。

妊娠した女性の物語というと『17歳の瞳に映る世界』もそうでした。最近はアメリカでの裁判で中絶禁止を否定する判決が出たり、それでも州によって法律が違うので、強姦された女性の中絶ができずに州を脱出させて手術したことがニュースになったりしています。本作は望まぬ妊娠をした女子高生が地元では堕ろせずに、従兄妹とわざわざニューヨークまで行く物語で、隅から隅までとてもいい描写に溢れている作品でした。冒頭の地元の学校での出来事はそんなに田舎っぽいシーンに見えないのですが、ニューヨークのシーンになってから思うと、いかにも片田舎の、狭くて画一的な社会だったんだなと思わせられます。地元の産婦人科にしても、すごく親切な先生だなと思ったし、中絶が恐ろしいというビデオを見せる件もピュアな感じがします。そうなのだけれど、いざニューヨークの医師に出会うと、望まぬ妊娠というものに対しての寄り添い方がまるで違います。正しい/正しくないというのは誰の立場につくかによって本当に違うんだなとハッとします。従兄妹との旅路は、バイト先で横領してきた少ないお金も(何の贅沢もしていないのに)あっという間に尽きて、二徹して手術に臨むし、たまたま出会った青年に帰り賃の無心をする過酷さ。それでも朝方に入った中華系のカフェの物珍しさに少し楽しそうな様子など、よく演出したなあと。最終的に誰が父親だったのかは一切語られないし、本人もそれをどうこうしようという仕草もない。あくまでひとりの女性が置かれた状況と成長譚に終始している描写がとてもよかったと思います。

さらに妊娠の話を続けると、日本の作品『Eggs 選ばれたい私たち』は卵子提供という、いままで見たことがない題材でした。海外でないと実施できないとか、30歳までしかできないとか、登録者の写真とプロフィールで選ばれるとか(なんだか風俗みたいだ)、日本では優等生よりは将来バレないように血液型や顔が似ていることなどが重視されるなど、知らないことばかりでした。レズビアンだったり結婚しないと決めていたり、なかなか親に言えない事情を抱えながら孤独にドナーになっている人も多いようでした。劇映画としては説明や監督が思っていることを代わりに吐露させるシーンが多く、主張映像っぽいのが気になるのと、ドナーに選ばれなかった主人公が突然両親と腹を割って話したくなったのが、人生を見つめ直すという意味で分からないでもないが、急によい方向に仕向けた感じがやや強引に見えました。とはいえ、こういったテーマの映画が作られ、その視点から女性たちの人生が語られることの意義は大きかったと思います。

女性の解放(2)

さて、広く日本映画に目を向けるとき、やはり最初に語られる作品は『あのこは貴族』でしょう。私には2021年に観たすべての作品のなかで一番がこれでした。

とにかく、うわあぁぁぁ、と思いました。『パラサイト 半地下の家族』(2019)もスーパーセレブと貧困層の物語だったけれど、今作は物語としてはさらにアップデートしていると感じました。『パラサイト-』は「リスペクト」されるような一代でのし上がってきたビジネスパーソンでしたし、富裕層と貧困層が労働契約によって関係性を得ていて、直接的に利害関係が一致している部分があります。でも本作は台詞にあるように、東京では別の層が出会わないようにできている。あのセリフにはハッとさせられました。まるで高次元世界のように、ひとつの空間に別の世界線が走っている感じ。それが現実社会ですよという提示が、まさにアップデートだと思いました。地方出身者の「におい」みたいなものも含めて。

本作の富裕層はリアルセレブの華子。まさに貴族。そして、富山から上京してきて学費が払えなくてキャバ嬢になったが結局中退してしまった美紀。別に富裕層に恨みがあるわけではないし、いま生きていて辛いわけでもなく、何となく人生を諦めてもいる。地元では分かち合う相手はいないので東京で根無し草をするしかない。他方、華子はなんとなく既定路線にいなくてはいけないので焦って、でも幸せをつかんだ感じもしている。けれど、残る違和感。姉たちはこの階層にいることにある意味では欲望があって、したたかさもしぶとさもあります。華子にはそれがないのです。末っ子だからというのもある(『阿修羅のごとく』(2003)でも『海街diary』(2015)でも「若草物語」でも三女は苦悩している)けれど、昔から人生を選ぶということ自体を封印された(けれどそれが最善と刷り込まれていた)ことで、どこか人間として空疎な感じがあります。やがて邂逅する華子と美紀。美紀は男友達の青木を手に入れようとしたわけではないので(この点も諦めている)華子の登場であっさりと身を引いて、同じように地元から上京してきた仲間と起業します。華子は美紀と出会ったことで、自分が自分のためにたどる人生の何たるかを知ります。そこから始まる人生。華子の人生はそのとき始まったのでしょう。ふたりをつないだ逸子は両者間を揺蕩う旅人のようです。水原希子の土着感も新鮮味がありますが、門脇麦のほわっとした感じがすごすぎました。

本作の登場人物の、誰が「ふつう」だったか。富山の弟は普通かもしれない。でも東京の人物たちって、誰が「ふつう」っぽいだろう。キャバ嬢になって人脈を築いてやっとサラリーマンになることや、上京するたびに起業すべく人脈形成していることの、何が「ふつう」なんだ。でも、ふつうなんてもうないんだよってことだと思うし、結婚=幸せとか、どっちがどっちに頼って生きるとか、そういうことからあっさり跳躍してしまう原作がきっと素晴らしいのだと思います。

『騙し絵の牙』はどエンタメの実に面白い作品でした。過去の権威で大物気取りで出版社も何も言えないが損益ではお荷物の大作家、売れなくても看板誌の伝統を守ることが文化だと思っている役員、審査員が審査しやすいように新人賞の候補作を選んでいく文芸誌編集長。前半はそんな人たちが旧勢力として映る一方で、新社長の指示を受けて危ない橋をはったりで乗り切って売り上げを伸ばしていくのは中途入社のカルチャー誌編集長。でも新社長もコンサルをバックに従えて経営を間違えそうになっている。というか、出版業界の何を守って守らないのかということが、美談ではなくかなりドライに現実的に描かれているのだろうと思います。価値変容の話でした。大泉洋が中途社員らしい身軽さと(この辺は文芸誌側の木村佳乃との対比が見事)割り切りと、でも楽しいことをしたい純粋な気持ちを素晴らしく体現していました。

しかしここで注目したいのは松岡茉優です。最高のキャラクター、最高の演技でした。大物作家に泥酔させられてお持ち帰りされそうになる件はなんともタイムリーでしたし、老舗大手出版社と実家の小さな書店、流通の川上と川下、文芸という広い世界を一番よく見ていたのは彼女で、一番誠実だったのも彼女でした。小さくてもやりたいことを始めるという展開が胸に突き刺さります。あの年齢だからできることもあるよなあ。希望のあるラストだったと思います。

主人公についての解説をバッサリ切ってしまいますが、『ファーストラヴ』も本当はすごい作品だったはずです。血のつながらない父、彼が連れてきた男子学生たち、彼らに視姦される年頃の女の子。実際にいたずらもされていた。その、男性からするとちょっとした楽しみぐらいのつもりでしかなかったことの恐怖が、就職活動の面接官と完全一致してしまう更なる恐怖。昨今の医大の受験問題などとも通底するジェンダー問題をこれだけの大作であからさまにしたことが重要だと思います。そして芳根京子の素晴らしい演技です。恐怖社会をこういうものだと、むしろ自分に非があるのだろうと心を押さえつけることで殺人の罪を認めてきた彼女が一転、過失を主張することで一歩踏み出すが、判決は殺人を認定。しかし控訴しない彼女、その先にあるのは女子刑務所。彼女は男性社会で闘争するよりも、男性のいない社会で過ごすことを望んだのでしょう。少なくともその重さにだけは、本作を観る理由があると思います。

ヘビーな作品をいくつも取り上げましたが、もっとライトないい描写の作品もありますし、どちらがよいという話でもありません。『さつきのマドリ』は起承転結がよくまとまっていて面白い作品でした。男性の顔が間取りに見えるという発想がいいですね。つまり主人公はスペックを見ることができる特殊能力を手に入れたわけで、スペックと付き合いたい向きにはたいへん便利です。やがて人物の内面ときちんと向き合うことの大切さに気付くのは既定路線、なのですが、本作の主人公が本質的にその気持ちを胸に生きていくのかは、わたしにはやや疑問のある終わり方だと感じてしまいました。また『信虎』の全体については金子監督の演出の楽しさはありつつもどっぷり疲れるので言及しませんが、谷村美月演じる信虎の娘が生き生きとしているのが印象的です。あの時代、女性が戦や政治闘争の犠牲となって結婚させられたり人質になったり殺されたりしてしまうのが当たり前なわけですが、そのなかで彼女は、死にたくないだの都に帰りたいだのとめちゃくちゃ正直に言い放ちます。それで本当に奇跡的に生き延びて、武家社会を捨てて商才に目覚めていきます。なんとも珍しい種類の軽やかさがありました。

ちょっと風変わりな作品ですが、『ずっと独身でいるつもり?』にも言及しておこうと思います。才能はあっても男より上に立たずに結婚して家に入って夫に尽くす、のような社会観に抗って若い頃から吠えているようなライターの女性。でも30代になって思いに揺らぎが生じて、淋しさが相まって恋人からの求婚をあっさり承諾するものの、婚約者が旧来的な思考なうえに、相手を自分のために笑ってくれるだけのアイコンだと考えていることに気付き、彼の親もまた……という物語には同情も多いし、叫びたくなるのも分かる気がします。

時代とその価値観は変わっても、それぞれの時代なりの似たテーマの作品は常に作られ続けます。それ自体は悪いわけではないのですが、本作は道端で叫んじゃうし、空を眺めちゃうし、感情に任せてスマホを投げ捨ててしまうステレオタイプの迷子っぷりを安易に演出してしまうのがしんどい作品でした。はっきり言って痛い。この作品をあれこれ言うとミソジニーっぽく映るかもしれませんが、演出の質の問題はあるのだろうと思います。

ちなみに本作を鑑賞した新宿ピカデリーは、本編が始まって20分経っても次から次から若い女性たちが劇場に入ってくる奇妙な光景でした。近年あんなに上映開始時刻が無視された作品もないと思います。さらに、本編終了後に特典映像が流れるのですが、演者たちによる何の足しにもならないトークを薄明かりで見せられる拷問ったらなかったです。

ひとりの女性、ふたりの女性、三人の女性(1)

女性のテーマを続けます。女性にフォーカスした作品にも構成によっていくつかの類型を見出すことができるようです。前述した『阿修羅のごとく』(2003)や『海街diary』(2015)や「若草物語」(近年では『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(2019))に見られる四姉妹はなかでももっとも特徴的です。いかにも世間向きな長女、自分を前面に出して生きる次女、内気で優しい三女、問題児の四女、と書くと少し乱暴かもしれませんが、兄弟姉妹という他人になれない関係性のなかに出現する群像を堪能できる構成であると言えます。

5人というパターンはあまりないと思いますので、1人から3人の構成について見ていきたいと思います。

ひとりの女性にフォーカスするということは、たとえば一代記のようなことですので、社会の荒波に揉まれながらも、すっくと立って自らの生きる道を見出していく物語になります。そこで描かれる女性は、闘っているし、強さが印象に残ります。もっと言えば、必ずしも初めから強かったわけではなく、この社会で生きていくために強くならざるを得なかった人が主人公になるケースが多くなります。

2021年の代表例として『野球少女』をまず取り上げようと思います。まさに困難な状況からのサクセスストーリーとして、とてもウェルメイドな作品だったと思います。韓国プロ野球を目指す女子選手が主人公ですが、彼女の場合は高校3年間で成果が出ずに、一度は球団の指名から漏れているんですよね。そこで奮起するところから、彼女の物語は大きく動き出します。人生の既定路線を無視して、女子だから駄目だろう、という固定観念を突破して、球速なり体格なりの何が駄目なのかをロジカルに突き詰める旅のようです。いかんせん主役の線が細くプロになりそうな感じがしないのですが、ラストに貫禄が出ているのは映画の妙。トライアウトのシーンの盛り上がりが素晴らしく、野球ファンとしてはナックルボールで感動できる作品が生まれたことが純粋に嬉しくもありました。

あるいは『約束の宇宙』はフィクションだそうですが、女性宇宙飛行士が主人公の作品は『ゼロ・グラビティ』(2013)以来でしょうか。シングルマザーで、一人娘は若干の発達障害を抱えており、記憶力に優れている一方で勉強や人づきあいがうまくいきません。いざというときに手伝ってくれる元夫はいるけれど、やはり不安は大きいし、飛行士としての訓練プログラム中も我が子が気になるので気もそぞろ(それでも凡人の集中力とは桁が違うのだけれど)。訓練中に気を失ったり、子のためとはいえそれは規則違反というかアウトなのでは……と思うシーンもあります。そのたびにバックアップ要員に交替させられて終わる物語なんじゃないかとハラハラするのですが、なんとか彼女は搭乗を果たします。マット・ディロン演じる船長のちょっと不愛想だけれど相手思いの優しさがあってこそ、彼女は夢を叶えられたわけで、『野球少女』でずっと付き合ってくれるコーチもそうですが、いくら強い女性だと言っても誰かの助けがあってこそです。そこに感動があるのもまたこの手の作品の醍醐味です。

ドキュメンタリー作品では『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』が印象に残っています。わたしはデニスのこともよく知らなかったし、師匠筋のアニタ・ムンのことも知りませんでした。香港が中国に返還されることになったところから生活の危機を感じてカナダに移住していたデニスは、されど祖国への思いというか、香港ポップスへのシンパシーなのか憧れなのか、単身香港に乗り込むことになり、長い下積みのなかでアニタの弟子になります。思えばこの時代にはまだ歌手に師弟関係があったのですよね。アニタの死後もアニタの影を追っていた彼女でしたが、そうじゃないんだ、というところから同性愛者をカミングアウトすることにつながっていきます。そういうリベラルにポジティブな生き方が、雨傘革命の最前線へとつながっていきます。不自由を知っているからこそ自由を守ろうとするという面はあるだろうし、心の傷を知っているからこそ誰かに優しくなれるというのもあると思います。ある女性が運動の先頭に立つまでの軌跡としてたいへん面白い内容でしたし、香港の歴史を知る一助になったと思います。

日本の作品でずばりのものをなかなか思い出せず、上述した好例と比較した日本の課題として取り上げることになりそうです。『瞽女 GOZE』(2020)(わたしが鑑賞したのは2021年)については、そもそも三味線を抱えて村々を訪ねて歌で生計を立てる瞽女という職業のことがよく分かりましたし、最後の瞽女と称される小林ハルがモデルなのだそうです。きわめて「おしん」(1983)的な物語として構成されており、壮絶な躾や虐めも本当にあったのでしょうが、今日から見ると虐待にしか見えないことがやや気にかかります。令和の時代に「障害=辛い=強くなる」という形で表現することの意義とは何なのか。おしん的という意味では、ナレーションで奈良岡朋子を起用したのはいかにもだと思いますが、あまりに饒舌でどういう感情で受け止めてほしいかを述べてしまっているだけでなく、老いて発音が重たく聴きにくいことも気になりました(これを書いている2023年に訃報が入ってきました。ご冥福をお祈りします)。子役の芝居は素晴らしかったと思います。

ものすごく初発の話として、このテーマが立ち上がること自体に歴史があります。ことさら女性について紙幅を割いていることすら歴史の途上なのだと思いますが、そもそも女性について語られない時代があり、そこから何らかの勃興があったから、いまがあります。その勃興のひとつを『最後の決闘裁判』で観ることができます。

14世紀フランスの田舎町で、従騎士(のちに騎士になる)に嫁いだ女性が他者から強姦された事件から決闘に至る経緯について、その従騎士、やがて決闘する相手となる強姦した旧友、そして被害者の女性のそれぞれの観点からの展開を、ほぼ同じものを同じふうに見せているだけなのですが、その3部構成によって、それぞれの目なり立場なりではこう見えているということが分かってきます。第1部と第2部については端折りますが、最後に女性パートになると、暴行事件の話にとどまらず、そもそも男性は人間だが女性は物でしかなく、法律も適用されないのだと分かってきます。しかも絶頂に達しないと妊娠しないと科学的に証明されていると言う者が現れ、裁判では女性に絶頂に達したのかと問いただす。それだけではありません。夫の母親もかつて同じ目に遭っていましたが、夫の名誉と生活のために言わないことが「よいこと」「あるべきこと」として、かつよくあることだと受け止められていました。戦地の女性ならまだしもどうしてうちの嫁が、のような発言もありましたが、それもひどい言い草です。決闘を終えてその傷がもとで夫が数年後に亡くなり、字幕ではその後の女性は裕福に幸せに暮らしたとあります。あれだけのことがあって幸せなんだろうかと思うのだけれど、再婚しなかったのは男に頼らないで生きるほうが幸せだと判断したのかもしれないし(この辺りは『ファーストラヴ』にも通底します)、それでも自分のために命を落とした夫への畏敬の念だったのかもしれません。決闘を眺める群衆のなかの女たちから、あるいはその後の女性の人生を知る女たちから、時代を半歩でも進めるものが現れて今日につながっているのだろうと感じます。

その流れの過程に『ミス・マルクス』もいました。かのマルクスの実娘はかなりの活動家で、アメリカの労働搾取の実態調査もしています。児童労働や女性解放など、まさにいまに通じる問題に果敢にとりかかった人物で、なんだか現代を見ているようでした。生活力ゼロの男につい惹かれてしまうあたりの奔放さも印象的です。あるいは『TOVE/トーベ』はムーミンの作者であるトーベ・ヤンソンの半生記ですが、もっとムーミンについての話なのかと思ったら、なかなかファンキーな人物の物語でした。威厳ある芸術家の父親のもとで押さえていた女性への好意が目覚めていくのですが、慣れていないところに一気に爆発するので、本気と遊びの区別がうまくつけられずに崩れていきます。ある男性と結婚するもうまくいかずに終わります。ムーミンは人気があり舞台化と新聞連載が決まり、いまの不動の人気につながっていくのですが、それまではあくまで油彩画家にこだわっていたのが意外でした。当地では画家としての評価も高いようですね。

ひとりの女性、ふたりの女性、三人の女性(2)

ふたりの女性というとシスターフッドという言葉が思い浮かびます。私自身がシスターフッドというものの本質をきちんと理解しているのか、あまり自信がありません。ただ、女性が社会のなかでおかれた立場を前提として、だからこそ強固に結着された女性同士の関係性が描かれた作品を多く観ることができるのが、ふたりの女性の映画の特徴だろうと思います。先に挙げた『あのこは貴族』の華子と美紀がまさにそうですし、海外の作品で圧倒されたのは『ソウルメイト/七月と安生』でした。

ネット小説の「七月と安生」の作者は七月だが、映画化したい会社が作者を探すも正体不明。それで安生のもとを訪ねてくるが、七月について知らぬ存ぜぬを突き通す安生。そこから、ふたりに何があったのか、それを彼女たちの少女時代から辿っていきます。ネタバレにはなりますが、この小説は七月を名乗っている安生が書いたものです。日本でいう中学生の時分から意気投合して昼夜を共にしていたふたりは、大人になるにつれ生き方の違いが顕著になり、同じ男性のことを好きになってしまったことから離れ離れになります。その後も再会と喧嘩別れを繰り返すふたりですが、(物語の要素が多すぎるので想いきり端折りますが)しばらくののち果たして打ち解けた七月と安生。しかし安生に待っていたのは七月の死でした。七月の子を引き取った安生は、安生のように自由に生きたいと言っていた七月と人生を交換して、小説のなかで七月を世界に放ちます。

人生の交換をして旅立つ七月と、実は妊娠していた出産直後に死んでしまっていた七月。旅する七月が、南米のあまり都会でないところで暮らしている様子など、本当にさまざまな情景を撮影していて、そのきれいさと、解き放たれた七月にぐっと来てしまいました。若い頃から優等生として生き方を宿命づけられていた七月に対して、自由奔放で根無し草だった安生。しかし七月は自らの結婚式をぶち壊す企てにより、故郷を追われてとうとう根無し草に。一方で生活が安定し結婚を予定している安生。互いが互いの人生を送り直すかのように生き、そのことによって唯一無二の親友の気持ちをようやく深く理解するに至る道のりに胸を打たれます。見事な脚本と編集で魅せてくれた作品でした。

この作品の舞台となっている時代がよく分からなかったのですが、ふたりは1980年代後半生まれぐらいの世代でしょうか。とすると、少女時代からの多感な時期は90年代から00年代初頭ということになります。同じく90年代を背景にした『こんにちは、私のお母さん』(2022)もそうでしたが、90年代の中国が、日本の1960年代ぐらいを空目しそうになるぐらい古臭いのですよね。そこから発達して、いまや都市部は日本をアップデートしてしまっている中国。その時代の激流が、七月と安生のビフォーアフターを形成している。その意味では『糸』(2020)のような大河調でありつつ、終盤の、安生が七月の子を育てているくだりは『漁港の肉子ちゃん』のようでもあります。日本でリメイクしないだろうか。しびれました。

そう、『漁港の肉子ちゃん』もまたふたりの女性の物語だったと言えます。主人公の少女は肉子ちゃんと暮らしている。肉子ちゃんは男で失敗するたびに各地を転々として、いまは漁港にいる。うすうす気付いていた母親ではない肉子ちゃんは破天荒な生き方で、貧乏で船の中で生活している。そこに現れるちょっと変わった少年二宮。とくに、肉子ちゃんと二宮には発達障害の傾向が強いように思われ、主人公は肉子ちゃんには難しい相談はできないと思っている一方、二宮とは心を通わせていく。自分は普通だと思っているのだが、周囲からは変わっていると言われることが不思議だった。それが二宮と会話するうちに、擬人化して喋っているように見えたものが主人公の独り言だったことが分かり、二宮の問題は自分のそれでもあるのだということを少しずつ自覚しているように見えた。そうやって少しずつ他者を知り、他者と自分が違うんだということを知り、自分を知っていく。つまり大人になっていく。肉子ちゃんを支えながら大人になっていく主人公と、母親のふりをしていることで生きる価値を与えられている肉子ちゃん。肉子ちゃんとかつて同僚だった親友との「ふたりの女性」から、親友の子と肉子ちゃんとの「ふたりの女性」へ。最後に主人公の初潮があり、そこで肉子ちゃんが母親の顔になるというラストがすごい表現でした。

本作は『海獣の子供』(2019)の渡辺監督の最新作でしたが、質感のかなり違う作風に監督のバリエーションの豊かさを感じつつも、2作品に通底するものにたいへん感激しました。つまりは自分の物語を持てということなんだと思いますが、前作はある少年に出会い引きずられる形で、そのなかで自分に物語をもって生きることを内省的に形成していったのだけれど、今作は他者との関係性のなかにそれを見出しています。

ほかの商業作品ですと、『君は永遠にそいつらより若い』の堀貝と猪乃木も「ふたりの女性」の物語でした。あるいは『浜の朝日の嘘つきどもと』の主人公と高校教師の関係性もそうかもしれません。ただ、これらの作品についてはそれぞれ別のテーマで取り上げようと思います。

映画祭出品作品では、TAMA NEW WAVEで上映された『Funny』は、真面目になると変顔をしてしまうのでどこで働いてもクビになってしまう女性と、彼女が家庭教師を務める先の、消しゴムを食べてしまう癖のある少女の物語。ものすごい取り合わせで斬新すぎるのですが、構成やテンポがとてもよかったと思います。本人たちはどうにも苦しく生きづらいのでしょうが、どうしても笑ってしまいます。少女が親に黙って家庭教師に三者面談に来てもらったシーンで、やはりアクシデントを起こしてしまうわけですが、ふたりにしか分かち合えないものを分かち合っている様子がとてもよかったですし、自分たちそっちのけで担任が変な人だと言って笑っているのも面白かったです。

あるいは田辺弁慶映画祭で上映された『浮かぶ』(2023年に劇場公開されました)は主人公の年子の妹がかつて神隠しにあって、神に選ばれし子だと周囲から特別視されているのが、主人公からすると劣等感につながっていて、どうして自分が選ばれなかったんだというもやもやがある。それで自分も神隠しに会いたいと思っているのだが、それは実は記憶が書き換わっていて、当時起きていたことは幼児性愛者によるいたずら被害でした。やがて主人公は、誰かに選ばれる特別な人生から、選ばれた人を支える人生を選択していきます。ものすごく静かな作品で、どう進んでいっているのか終盤まで分かりにくくもあるのですが、ちゃんと太い芯が通っている感じがとても好印象でした。ちょっと鶴岡慧子作品に似ているかもしれません。

ひとりの女性、ふたりの女性、三人の女性(3)

さて、三人の女性の物語となると、チームなんですよね。平面上に2点であればそれらを結んでできるのは直線ですが、同一直線上にない3点があれば三角形ですし、平面に立脚することができます。椅子の脚などは、4点で支えようとすると微妙に長さがズレていたりしてグラグラすることがあります。これが3点だとバシッと決まる。チーム感の決まり方が三人だし、個々人の際立ち方も三人が優れているように思います。それを敢えて崩したところに生まれる不協和音や、3点のバリエーションが物語を形成していくのが四姉妹ものなのでしょう。

2021年の三人ベストは『サムジンカンパニー1995』でしょうか。大企業の女子社員3人組は能力は高いのに指示されるのは雑用ばかり。あるとき自社の工場から汚染された排水が垂れ流されているのを発見し、問題の調査に乗り込みます。どこかで韓国版ショムニという評を見つけましたが、なるほどと思います。原題は『サムジンカンパニーイングリッシュクラス』。社内英会話クラスに集った面々の逆襲ものになっています。いわゆる世直しムービーですが、役の設定もよくできているし、ガールズムービーものとして手堅く面白い。「キャッツアイ」とか「チャーリーズ・エンジェル」とかのテイストでしょうか。3人組のうちテトリスをやっていたパク・ヘスは『スウィング・キッズ』(2018)の女の子だったのですね。ラストのドット絵風の演出も楽しいです。

ところで1990年代の韓国と日本はどことなく似ているように思います。『はちどり』(2018)のときにもそんなことを感じました。両作の背景年代はほぼ同じではないかと思いますが、高卒女子が制服を着てお茶汲みばかりさせられていた(けど男性陣より仕事ができる)のは『子猫をお願い』(2001)でもそんな感じでした。『子猫をお願い』はさらに時代を下って2000年ごろの話だと思うので、ポケベルではなくてケータイでメールのやり取りをするのですが、韓国経済が破綻してIMFの援助を受けたのが1997年ごろのことです。両作の間にこの出来事があります。『サムジンカンパニー1995』で外国資本が韓国企業を安く買いたたくために公害を黙認(むしろ推進)している設定など、いまの風刺でもあるのかなと思うのですが、それでも外国人の経営者を追い出せたあの頃はよかったのかもしれません。それはちょっとした哀愁でしょうか。ただ、『82年生まれ、キム・ジヨン』(2020)のころにもあまり社会は変わっていないようにも思えます。

『サマーフィルムにのって』の3人も2021年を代表しています。映画部のハダシは時代劇の沼にいるが、部員たちは「ド腐れキラキラ青春映画」(ハダシ談)を撮ろうとしていて、ハダシの書いた時代劇は不採用となる。そこに自身の作品にぴったりの青年が(未来から)現れたことで、仲間のビート板とブルーハワイを巻き込んでバイトで稼いだお金で、部に逆らって勝手に映画を作り始めます。キラキラ映画を忌み嫌っているのは分かりつつも、あんなに勝新太郎にほれ込んでいる女子高生っているだろうかと思いますが、白目で立ち振る舞う本気度(座頭市ですね)につい笑ってしまいます。時代劇ロケの隣ではたびたびキラキラ映画が撮影されていて嫌そうにしているハダシですが、そちらを手伝わずに勝手に撮影している彼女たちを、実はキラキラ映画の側は非難したりしていません。一方で、時代劇を手伝っていてもブルーハワイはキラキラ映画が好きだし、編集の段階になり部室に籠っていると、キラキラ映画の側だって本気で撮って真面目に考えているのだということが分かってきます。恋もします。そうやってリスペクトが芽生えていくのがいいのですよね。そして迎える上映会、ラストに納得がいかず映写を中断して即興でラストを作り直していく彼女たち。タイムパラドックスのせいですべてが終わったら消さなければいけない映像。その刹那のなかで好きな相手に殺陣で恋を打ち明けていくラストの勢いは素晴らしかったです。好きを好きで貫くロロ三浦直之のいつものスタイルが清々しくいい脚本になっています。『青葉家のテーブル』同様に、素直に青春を楽しめばいいじゃない、という松本監督のメッセージを感じます。

日本の作品をもうひとつ。『シノノメ色の週末』の中心人物は、廃校になった高校の取り壊しが決まったのを聞きつけて集まった、元放送部の3人。それぞれの道に進み悩みながら大人になっている3人が、10年後に開けることになっているタイムカプセルを探索する。そのうち現役高校生も校舎に出現し3人組+1になりますので、ここがテーマとしてはちょっと変則ではあります。もうすぐ30歳という年齢で社会人としてそれなりにやっているが、若さでは後輩に勝てなくなり、かといってキャリアや親会社で周囲に勝てるものもない。そんな彼女たちがぶつかりながらも、かつての自分たちからのエールに助けられていく様子が、とくに斬新さはなくても爽やかに描かれます。大人だけのチームではまさしく大人の事情に揺さぶられそうなところを、現役高校生を配置することで、大人である自分を客観視し失ったものを思い出すことができます。キャストのバランスがいいし、恋愛とか結婚とかをおくびにも出さないプロットもまた好感が持てます。途中に登場する男性がおっぱじめる広告代理店の模擬授業の様子だけが妙に浮いていて、彼女たちはそんなことをされないといけないぐらい無能なのかと疑問が残る。あれは馬鹿にするなと蜂起していい場面でした。

さらに変則かもしれませんが、特集上映されたケリー・ライヒャルト作品から『ミークス・カットオフ』も取り上げようと思います。西部に向かう人びとと、案内人。その案内人がミークなのですが、本当に分かってるのか分かったふりをしているのか、俺は何でも知ってるという顔をして大きな振る舞いをして煙たがられているが、女子供に手を出すようなことはないようです。ただ、あらゆる判断において根拠のない勝手な決めつけがあるため、イキっている感じが痛い。そしてあらゆる場面で女性たちの不遇さというか、結局はミークの言うことを聞こうが聞くまいが、すべてが男の勝手だし、そのくせしていちばん働いているのは女たちです。一行は3家族で構成されており、3人の夫人がいます。使えない男たちの一方で、結束しているとは言い難いですが、しかし本作がこの女性たちの生存をめぐる物語なのだと気付きます。途中で捕獲した先住民のことを、噂を信じて怖がっている女もいれば、悪い人ではないだろうと信じる女もいる。そして信じた者が救われる。その先にいまの社会のありたい未来がある。ということを監督は描きたかったのではないか、というのは考えすぎでしょうか。見たことのないタイプの時代劇でした。

最後に、ガール・ミーツ・ガールとしての三人の女性の物語、『花椒の味』を。香港。父親の死で葬儀を取り仕切る実の娘。しかし葬儀屋から姉妹の分の衣装が足りないと言われます。かくしてやって来た、台湾に住む妹と、重慶に住む妹。主人公は前妻の娘ですが、妹たちの母親は父親の初恋の相手。突然の死で父親が経営する火鍋店を再開させようとしても、肝心の味が分かりません。姉妹がそれぞれの生きづらさを超えて交流し、やがて父親の味を再現させますが、店の賃貸借期限が切れて店をたたむことに。なんだか向田邦子が中国で脚本を書いたかのようで、香港、台湾、大陸の三都物語のようでもあり、実にウェルメイドな作品だと思いました。姉妹三人と店の従業員たちが語ることで見えてくる父親の実像。そして香港郊外の下町風情がいい。火鍋が秘伝のレシピをめぐる話が出来るような料理だとは知りませんでした。中国全土の大衆料理だということが、三人をつなぎやすい題材としてよかったのかもしれません。タイトルにはなんだか小津っぽさもありますね。

LGBTQをめぐる作品の現在(1)

女性についての作品群にかなり紙幅を割きましたが、LGBTQについても取り上げようと思います。あらためて2020年のレビューを読み返したのですが、もちろんわたしが鑑賞した作品の選び方の問題はあったと思いつつ、このテーマについては3作品の言及に留まっていました。それがどうしてなのか思い出すのは難しいのですが、おそらく避けて通ったわけではないように思います。正直に言えば、先ほどからテーマへの理解の不足を気にしながら書いていますが、だからと言って小さく捉えることは本望ではありません。

2021年はいろいろと紹介できそうですが、まずは海外の作品から取り上げていきたいと思います。海外の作品はほぼアジア圏からになります。アジア圏なのは偶然だと思いますが、大づかみにしたときに海外の作品と日本の作品がもつテーマへの切実さに差を感じており、混ぜてしまわないようにしようとしています。

2020年のレビューでも先んじて取り上げたのですが、韓国の作品で同性愛を見つけることにはなかなか苦労します。もしかしたらわたしの知らないところで、たとえばアイドルを愛でる向きのBL妄想のようなものならあるのかもしれません。しかし『僕の名前で君を呼んで』(2017)や『his』(2020)に相当する作品があったかというと、『詩人の恋』はかなり珍しい部類だったのではないかと思います。あらすじをまったく調べずに鑑賞しましたが、ヤン・イクチュンのそれまでのイメージとずいぶんかけ離れた役どころだったために、途中まではテーマに気付かずに、物語の着地も分からずに観てしまっていました。ただでさえ収入の乏しい冴えないおっさんが、生殖能力が乏しかったことと、自らの性的指向を発見したことで、本人のいられなさもそうですが、妻のいられなさも強まります。主人公が邂逅した青年は、バレると村八分になることをよく分かっているので、一緒に出て行こうという誘いを振り切っていまの社会で潜んで暮らすことを選ぶ。知ってか知らずか、青年の母親のやさしさが沁みました。

韓国の作品での描写も珍しいと思っていましたが、中国に至ってはわたしは見たことがないかもしれません(宦官は別として)。作品内容のフィルタリングに関して、中国は世界でも強烈に高度なのだろうと思いますが、独裁国家や共産圏とLGBTQの相性の悪さを感じてしまいます。そんな中国の現実を捉えたドキュメンタリー『出櫃(カミングアウト)―中国 LGBTの叫び』では、日本どころではない当地の状況がよく伝わってきました。政府が当事者たちを弾圧しているわけではないように見えますが、それよりも親に承認されないことの辛さが彼らに重くのしかかっています。親とのつながり、血のつながりの強さがもともと国民性としてあるように思いますが、やはり自分の存在をもっとも認めてくれる存在が親なんですよね。しかし親世代が我が子を理解していくことはきわめて困難な様子です。親たちも差別したいわけではないのですが、画一的な幸せの形に全力を注いできた彼らの人生において、そこから反れることと、子らの画一的な幸せにとらわれない様子への違和感があるように思えました。作中に、性的思考を親に理解してもらう活動をしている団体が出てくるのですが、そこに親を連れてくるのも苦労するし、どんなに説明を受けても無理な人は本気の拒絶反応をあらわにしてしまいます。その苦悩もまた、本作が映し出す社会問題になっています。

一方、台湾は世界的にもLGBTQ受け入れの先進国だと思うのでつい忘れがちですが、昔からずっとそうだったわけではないということですね。いまの社会に到達するまでの歴史があります。なにせ台湾は1991年までの40余年にわたって戒厳令が敷かれていた土地ですので、この30年間でいかに先進文化を構築していったかが想像できます。日本が止まっていた時間に躍動していた……というのは、先に述べた大陸側の中国もそうでした。かなり性質は違うと思いますが。

そんなかつての台湾で多感な時期を過ごした女性を追ったドキュメンタリーに『日常対話』がありました。主人公の女性が母となり、そこから自分の母を知り関係性を築こうとする話です。序盤から主人公の母親の雰囲気が独特です。異様というわけではなく、なんならそこら辺にいそうなタイプではあるのですが、同居しているのに同居感が乏しい。絶縁しているのかというレベルで交わりがありません。家族分の食事は作ってあるものの、昼間は家におらず、どこかしらの集まりにいるらしい。人づきあいが嫌いなわけではないようです。風貌だったり人づきあいだったりで徐々に彼女はレズビアンなのかなと分かってきます。作品の途中で彼女が帰郷しますが、故郷で家族は彼女がレズビアンであることに気付かないふりを徹底しています。家族のなかでもちょっと特殊な人という位置づけで、どうも周囲の目も気にしている様子。彼女が生きてきた時代もそうですが、そこが地方だということも相まっているよう。かつての彼女は無理やり結婚して、ひどい男にあたって苦労する。でもその後の人生を知る人からすると、女性にすごくモテていて楽しそうに見える。その複雑さを長らく黙ったまま過ごしてきた。それが先ほどの交わりのなさにつながっていました。

台湾からは劇映画の『親愛なる君へ』もありました。ある老婆と孫が暮らす家に間借りしている青年。ある日、その老婆が亡くなったのだが、老婆の息子から財産目当てなのではと疑われていたこともあり、青年は警察に連行されてしまう。そこで正直に容疑を否認すればよいものの、刑に服することを選択してしまいます。彼がなぜその家で暮らし、その結末を迎えたのかを後追いしていく物語になっています。思いかけずミステリー仕立てだったことで全体像の飲み込みに苦慮してしまったのですが、風景や子役の演技の見事さがあり、丁寧につくられた作品だなという印象があります。先ほどの謎については、青年と先の孫の父親が恋仲だったことが種明かしなのですが、過去の主人公がアウティングしていたり、単独行動が危険な山中で喧嘩別れしたり、案の定滑落してしまったりと、物語の転換点がわりと常識はずれな作品でもありました。

LGBTQをめぐる作品の現在(2)

ここで2021年のこのテーマの最高作として『デュー あの時の君とボク』を取り上げたいと思います。韓国映画『バンジージャンプする』(2001)のリメイクとのことで、あとで確認のためにオリジナルも鑑賞したのですが、大胆な設定変更の脚色がされており、物語に深さが増していて素晴らしかったです。1996年のタイ。それもバンコクではない地方都市。エイズが蔓延しているとして「性的に逸脱している者」への再教育が、軍の指導の下、学校に入ってきている。そんな状態での高校生ポップとデューのボーイズラブが切なく描かれ、狭い社会での無理解と冷たい視線で、ふたりは結局引き裂かれてしまう。という前半を経て、後半のポップが教師になって母校に戻ってくるくだりが、まるでまったく別の話が展開されているように見えます。しかし、不良とつるんでいたために目にかけていた女子生徒が、デューの生まれ変わりだと判明。同性愛で始まって、やがて結婚してスクリーンに現れるポップはきっと、世間体に負けて結婚したのだろうと勘繰る。なので男子生徒であれば何かが起きても……とは思うものの、相手は女子生徒です。そうなのですが、それがデューなのだと知って愛に気付いてしまうというのは、これは魂の問題なのですよね。オリジナルは男女の物語がやがて男子と男子の関係に展開しますが、性的少数者の物語がやがて男女でも愛を紡ぐという本作の倒錯がとてもいい。性的少数者は病気ではないし、誰が好きなのかは魂の問題なのだということに説得力を持たせているようで感激しました。

少しだけアジアから離れますが、『世界で一番美しい少年』もずっしりと重いドキュメンタリー作品でした。『ミッドサマー』(2019)のおじいさんが『ベニスに死す』(1971)の少年と同一人物だったとは知りませんでした。子どもの頃に両親を失い、どうやら母親は放浪していたためか失踪しており、数年後に遺体で発見されます。彼を育てていた祖母が彼で一儲けしようとしていたというのが本人談で、それで子役をやっていたらしい。それでその魅力が発見された、というのは美談ではあるけれども、実際はゲイコミュニティに見出されてお金で囲われて、いまの言い方では性的虐待に値するような体験をして、そこから逃れるように(祖母に強く言われていたようなので金のためだったようだが)たどり着いた日本で、よく分からないうちにあらゆる仕事を否応なく受け入れることになります。過酷な仕事をこなせるよう薬も飲まされたというのが酷すぎます。やがて大人になった彼には生活力がまったくなく、火事を起こしかけてゴミ屋敷を追い出されそうになり、恋人を慈しむこともよく分からないので愛想をつかされてしまいます。最近になって過去を振り返れるようになったのか、日本に再びやってきて当時を知る人々と旧交を温めたり、自身が収録した日本語曲をうろ覚えでカラオケで歌うシーンが印象的です。芸術とか権威の裏には、誰かの人生をぶち壊してしまうこんな話がきっとほかにもあるのだろうと思わされました。

LGBTQをめぐる作品の現在(3)

さて、日本の作品に話題を移していこうと思います。これまで取り上げた海外の作品がもつテーマへの深い理解や問題意識に比べると、日本ではいまだ消費の対象になっている作品が見受けられます。日本の商業映画業界に特有のフィルタリング、つまり売上を優先するとビビッドに描写できない、あるいは特異に脚色しないと集客しない、と思われていることからくる消費財化に原因があるのだろうと、わたしは考えています。1960年代日活作品などを観るともっと風刺が効いているように見えるのですが、どこかで風潮が変わったのでしょうか。今回はこの辺りの考察にはたどり着けそうにありません。あるいは、私は趣味でないのでふだん滅多に観ないテイストの作品なのですが、『ボディ・リメンバー』のような、小説家が自身の作品と現実が錯乱して妄想する、男だの女だのの大文字カルチャー感がビシビシと出ている作品を、映画界のある一定の層が作りたがっているし、映画通と称するある一定の層が見たがっているのだろうなと感じています。「男、夜、酒、煙草、バー、女、謎、セックス」みたいな世界観には個人的に辟易しているのですが、現実の鑑として映画を作るにあたって何らかの助けになるものなのでしょうか。

まず2021年における残念な例を挙げると、『おとなの事情 スマホをのぞいたら』はイタリア映画『おとなの事情』(2016)のリメイクだそうで、わたしはオリジナル未見なのですが、ある出来事で出会った男女7人が年に1回、同窓会のように集まっています。その場でひょんなことから全員のスマホを晒すことに。それは誰かの浮気を確かめるために全員を巻き込んだゲームだし、そこで何が発覚しても仲違いするような関係の7人ではないのでしょうけど、それでもプライバシーはプライバシーです。なかに東山紀之演じる唯一の独身者がいるのですが、彼は自身がゲイであることを隠しています。なので、スマホを晒すことでバレやしないかとひやひやしている。この作品は密室コメディなので、そのひやひややハラハラを笑うものなのですが、2021年にそれをやるのか……というのがどうしても気になります。岡田惠和がどんな脚本を書くのかと思いましたが、ドタバタ愛憎劇に終始していて、もう少し今日的な作品の存在意義を見出してほしかったところです。

あるいは『劇場版ポルノグラファー~プレイバック~』はいわゆるBLなのだと思いますが、ただただメロドラマだったなというのが印象です。テレビドラマの続編だったとしても(わたしがそのテレビ版を未見だったからとはいえ)物語が希釈されすぎていて、脚本に奥行きがなく、テンポも感じられません。これではテーマ云々ではなく映画の質の話になってしまっていますが、もっと社会的に光が当たってよいはずのテーマにおいて、商業映画シーンを振り返って取り上げる数本のひとつがこれ、という現実には直視したいと思っています。

LGBTQをめぐる作品の現在(4)

批判ばかりしたいわけではありません。『劇場版 きのう何食べた?』を映画館に観に行ったときには、わたしはとても感激しました。この作品が公開されたのが11月3日でしたが、同じ安達奈緒子脚本の朝ドラ「おかえりモネ」が終わったばかり。しかもちょうどこの頃にシネコンでコロナ禍の席数制限が撤廃されたこともあり、本当に久しぶりに観客でみっちり埋まった劇場だったのですね。

原作もテレビドラマも未見でしたが、西島秀俊と内野聖陽のふたりに、おそらくドラマで既知であろう脇役たちが次々とやってくる展開はまるで寅さんファミリーみたいでした。あるいは新しいやじきた道中であり、新しい大船調なのかもしれません。内野聖陽が西田敏行ばりにアドリブを繰り出して西島秀俊が受ける様子が面白く、どうやって演出したのか分かりませんが、とにかく劇場がドカンドカンと受けていることに感動してしまいました。あんなに劇場がどっと沸く作品はいまどきまず見られないと思います。こんなに老若男女たくさんの人が待ち望んでいたのかと、後追いでテレビドラマ版を配信で観たのですが、劇場版とはかなり演出が違うのですよね。つまりは劇場版ならではの演出があったということです。これはもう『釣りバカ日誌』シリーズ(1988-2009)のように年次レポートとして毎年正月に劇場版を公開するのが一番いいと思っています。結婚できないゲイのふたりに降りかかる親との関係、将来設計、立場とカミングアウトなどは、中年ならではの課題なのだよなとしみじみしてしまいました。ちなみに、久しぶりに我妻三輪子を観られたのもたいへん満足です。

もうひとつ。『彼女が好きなものは』は、自身がゲイであることを周囲に隠して生きている高校生が、BL好きを隠して生きているクラスメイトの女子の実情を知ってしまい、それをふたりの秘密にしたことから関係が深まっていき、彼女は彼に告白をして、果たしてふたりは付き合い始めます。しかし彼には年上の彼氏がいて、その関係は続いていました。彼女が彼の秘密に気付いてからのアウティングと校舎からの飛び降りがあり、さらに全校集会での2度目のアウティングは現実世界ではかなりの御法度だと思うのですが、だからこそ映画の力で社会を変えたい意志のある演出だったのではないでしょうか。作品評のなかには、エンタメに寄せたとの批判的意見もあるようですが、エンタメに社会性を持たせることにこそ意義があるというのが私の考えです。私がかつて感激した『3D彼女 リアルガール』(2018)でも最終的に踏み込みきれなかったテーマに、こんなにストレートに挑んだ作品は初めてではないかと思います。教室でのディスカッションシーンは濱口竜介作品(たとえば『PASSION』(2008)のような)にも近いものがあった気がします。反復の効いた見事な脚本ですし、『ボクが修学旅行に行けなかった理由』(2013)から注目していた草野翔吾監督の現時点での到達点であり、山田杏奈のベストアクトではないかと思っています。

まだまだテーマへの姿勢に揺れのある商業映画界ではありますが、インディペンデントシーンでは真摯な作品がたびたび観られるようになってきています。

『片袖の魚』は『老ナルキソス』(2017)の東海林監督の最新作。前提情報なしで見始めたので、主人公が何にもやっとしているのかよく分からなかったのですが、やがて「あっ」と気付かされます。主人公はトランスジェンダーだったのです。主演のイシヅカユウは、トランスジェンダーで女性として生きている人を集めたオーディションに参加し、本作に起用されていました。彼女が仕事の出先でトイレを借りるときの、向こうは配慮しているつもりだろうけどデリカシーのない一言。あるいは、男ですかと質問してくる人。自分は差別しないと公言してデリカシーのない感じなど、見ていて「ほんとすみません」という気持ちになります。プロットとしてはものすごくシンプルだし30分の尺が短すぎるほどなのですが、新たな切り口と主演のよさでおもしろく観られました。

過去作『少女邂逅』(2017)との併映で劇場上映された枝優花監督『息をするように』では、伊藤万理華が男性役として出演しています。その存在や演技が素晴らしいのですが、設定について作品では説明はなかったと思います。ですので、心が女性の人物なのかもしれないし、男性が好きな男性なのかもしれません。そこをはっきりさせたくなる向きもあるとは思いますし、私がまったくそうじゃないとも言い切れませんが、同定を前提として溜飲を下げに行くのは本質的でないと感じます。悩んでいる人物が、誰かの優しさに触れて心を開くことをただ寿ぐ。そういう作品であっていいのだと思います。枝監督は作品を経るごとに技術が向上して見応えがあり、今後が本当に楽しみな監督です。

ここで議論になるのは、トランスジェンダーの役柄をシスジェンダーが演じることの是非でしょう。私が正解を導くのは無理ですが、必ずしも立場の一致が絶対条件にはなり得ないのではないかとは思っています。演技という身体表現は性差や、そもそも人間であるかどうかをも超越し得るものだからです。歌舞伎や歌劇を否定することも問題の本質ではないように思います。ただ、当事者からすると、無理解からくる違和感のある芝居や、性的少数者は悲しい存在だという観念から作られる世界観への反発があるのだと想像しますし、そのことをスルーして社会をアップデートできるものでもありません。多くの人が納得するような演技と物語をもって問題を超克するしかないのかもしれません。

映画祭出品作品からも取り上げたいのですが、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭より『冷めるのを、待っている』は、高校生が親しい人たちにカミングアウトする物語なのですが、(おそらく、あえて)奇を衒うことなく、ストレートに堅実に作り込まれています。演者の素晴らしさも含めて、制作者たちの映画づくりへの自信を感じさせます。こんなはずではなかったと思うほど、観るたびに泣いてしまう作品です。

TAMA NEW WAVEより『ミューズは溺れない』は、主人公が相対する、いけ好かない感じだった美術部の同級生がとても印象的なボーイッシュで、やがてそんな彼女はレズビアンなのだと分かります。人のことを真っ直ぐに思えるその同級生を見ることで、主人公は自分が恋愛をしたことがないことに気付きます。それが無性愛者ということなのかははっきりしませんが、もしかすると物語への含意はあるのかもしれません。絵画制作をする主人公は部活の顧問から、見たものを素直に描けていないと言われますが、その一方で、引っ越しの荷造りそっちのけで作ってしまった大きな立体作品が自分の道を切り開くかのように感じられます。出てくる美術作品がどれもよくできており、実景もいい作品でした。

最後の最後に韓国からもう1本。全体の文脈を壊してしまうので話題にできなかったのですが、『めまい 窓越しの想い』はものすごく変な映画だったことと、同性愛については物語の真ん中ではないのですが、やはり珍しく作中で出くわすことになったのでここで取り上げます。主人公はある企業にデザイナー職として派遣されて勤めているようですが、派遣社員という働き方が日本以上にシビアなものなのかもしれず、契約更新がなかったら無職になってしまうので、同僚たちの生存競争が活発です。だからというわけではないのでしょうが、主人公は上司といい関係になって秘密の交際を続けています。いや、いい関係か。休日にデートとかではなく、あくまで職場とか懇親会とかランチタイムとかで仲良くする関係で、なのに肉体関係がやたらと濃い。あるとき、ふたりの関係がバレたと思い、派遣切りにあうと思っている主人公でしたが、なぜかそうならない。実は男性はほかの男性とも関係があって、それが見つかって会社を追われたのでした。社内で肉体関係をもつからややこしいのですが、同性愛がバレたら即村八分というのは『詩人の恋』と同じで、そうなることを利用したトリッキーな脚本構成になっています。ちなみにその続きは、ライバルの情事を内通した別の上司のパワハラとセクハラがすごくて、韓国のヒエラルキー社会を風刺した田舎ホラー的展開に突入。そこで変調をきたしめまいが悪化していく主人公。ついにビルから投身したか……と思いきや、たびたび登場していたストーカーっぽい窓拭き青年の命綱で助かるラストに呆然としました。

コロナ禍を生きるということ~興行について~

ここで2021年の興行収入を振り返ってみたいと思います。私がいつも指標にしている「コナンドラえもんライン」(名探偵コナンシリーズとドラえもんシリーズのランキングが高いと他のヒット作が少ない、低いとヒット作が豊富)については、ドラえもんが公開を延期してしまったものの、『名探偵コナン 緋色の弾丸』が3位でした。本作がシリーズでもヒット作だったことを考慮しても、業界としてあまりヒット作に恵まれなかった1年と言えそうです。とくに4位までがアニメーション作品で、5位が嵐のライブ映像、実写劇映画は6位の『東京リベンジャーズ』で45億円ですので、映画館としてはかなり苦戦したのではないでしょうか。

もちろんコンテンツの課題もあったのだろうと思いますが、それ以上にコロナ禍で映画館に足が遠のいたり、座席の制限があったりしたことで売上が減少したことのほうが原因としては大きいと考えます。なので前述のように『劇場版 きのう何食べた?』で劇場が混雑していたことに感動を覚えたのです。あるいは『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』は1972年に映画として撮影されたもののお蔵入りになった教会でのライブ映像で、コロナ禍とはまったく関係ありません。しかし、いつも何かに緊張していたり不安だったりしていた当時の私は、あのアレサの歌声に圧倒されたのでした。アジテーションと魂の叫びで高揚し、そこから宗教が勃興する感覚を追体験し、ものすごくエネルギーを与えられました。その後『リスペクト』ももちろん鑑賞しました。長く暗い時代を過ごしたアメリカの黒人たちが手を取り合い立ち上がり歴史を変えていったことから、コロナ禍の私たちが学ぶべきものが何かあるような気がしています。

コロナ禍は興行だけでなく、作品そのものにもさまざまな影響を与えてきています。その影響は、大きく分けて「コロナ禍で制作を決意した映画」「コロナ禍に対応して制作された映画」「コロナ禍の社会を描いた映画」「コロナ禍を想起させたり風刺したりしたフィクションの映画」になると思います。

コロナ禍を生きるということ~コロナ禍で制作を決意した映画~

東日本大震災では、どうにもならない状況を目の当たりにして、それに対して何かしなければいけない気持ちに駆られて作品を制作するケースが多数ありました。その多くは福島を撮影したドキュメンタリー作品で、私はそのムーブメントを震災センチメンタルと呼んでいたのですが、コロナ禍でも近い現象が起きています。

もっとも自然災害と違って状況を理解しやすかったですし、感染防止は必要ですが不謹慎と非難されるような意識の向き方でもなかったことから、比較的冷静に座組をして制作できた面もあったのではないかと思います。そうして作られた作品が劇映画だったことがそれを物語っているのですが、半面、資金的な問題をクリアするのはたいへんだったのではと想像します。

このジャンルの代表的作品は入江悠監督『シュシュシュの娘』でしょう。近年はバジェットのある大きな作品が続いていた監督がミニシアターを救済するために制作。監督の地元でもあり、『SR サイタマノラッパー』シリーズ(2009-2012)の撮影地でもある埼玉県深谷市をもじった都市での陰謀とそこに立ち向かう忍者の末裔を描いたオフビートな作品でした。市役所で密かに行われた議事録の改竄。それが移民排除条例の成立へとつながる。本来の伝統的な暮らしを取り戻そうと主張する市長。しかし記者だった主人公の祖父と交友のあった、しかも主人公が尊敬する先輩職員が投身自殺してしまいます。まるで『新聞記者』(2019)のような風刺の効いた世界観ですが、地味でどんくさい主人公と、デジタルネイティブな寝たきりの祖父が面白く、テレビ時代劇みたいな感覚で観られました。

自主映画的な上記作品よりメジャーな取り組みだった『DIVOC-12』はソニー・ピクチャーズが作り手の支援として企画した12人の監督の10分間の短編をつなげたオムニバスでした。経験的にオムニバスに面白いものはほとんどないと思うのですが、本作はいま勢いのある演者を多く起用して、監督も商業の第一線で活躍している人を何人も集めており、スタッフもかなり厚い布陣だったようです。10分という尺が新人の商業デビューという高いハードルを下げることにもつながったよい企画だったように思います。ただし起承転結がしっかりした作品はあまり多くなく、映像としては面白いものの、やはりそこは経験と技術の差が出るのだろうかと思いました。今回の中心人物だった上田慎一郎監督の『ユメミの半生』は主人公を映画の擬人化にして映画の歴史と未来を大いに語る夢のある内容で、コロナ禍で窮地に立たされた映画そのものを扱い、本作のテーマに沿ったとてもいい内容でした。また次の『流民』で石橋静河演じる主人公が自分の部屋はどこかと探す様子が、これから進む方向探し、自分探しでありつつ、その内容は紛争など社会のさまざまな風景を切り取っていてよくできていました。出色は中元雄監督のアクション『死霊軍団 怒りのDIY』でしょう。私たちの一番見たい清野アクションをたっぷり見られたし、怪鳥音も何度も登場して愉快。また、三池監督『初恋』(2019)のユニディのシーンで見たかったDIYアクションが本作ではちゃんと実現していて満足です。

他方、都内の劇場で1日だけの緊急上映となった『灯せ』(その後2022年に正式な上映もされました)は、監督が、おそらくコロナ禍で矢も楯もたまらず撮影したのだと思われる短編作品でした。緊急事態になって渋谷や新宿の灯りが消えてしまったなかで、しょうがないとか、もう終わったとかいう大人たちに、主人公は本当にそれでいいのかと抗います。言いたいことはすごく分かるのだけれど、震災直後にもよくあった、感情だけで動いてしまったよく分からない作品にも似て、憤りの記録としてはよいのかもしれませんが、世に出すにはちょっとしんどい内容でした。灯りが消えた繁華街を捉えた作品としては、東日本大震災後に撮影された『トーキョードリフター』(2011)が魅力的だったことを思い出します。

さて、本当はコロナ禍とは関係がないのですが、その渦中に佐々部清監督が亡くなったことは忘れられません。もともと津波の被災地で映画を撮る企画が流れて、佐々部組のスタッフだった方がドキュメンタリー作品の制作を予定していたそうですが、その矢先に佐々部監督が突然亡くなってしまい、『歩きはじめる言葉たち ~漂流ポスト 3.11をたずねて~』が作られました。彼を愛していた人たちを回って思いを聞き、手紙を書いてもらって、それらを陸前高田にあるポストに持って行く。とくに思い入れが強そうな升毅が旅人役を担います。それ以上でも以下でもないし、山口出身の監督の話と津波の話がうまくくっ付いているのかやや心許ないのですが、興味深いのは、そのポストは地元の人たちが震災後に気持ちを吐き出す場所がないことから設置されたのだが、地元でなかったり、震災でさえない何らかの事情で辛い思いをしている人からの手紙も届くようになったということ。コロナ禍で見る漂流ポストは、何とも言えない心の拠り所に感じられましたので、ここで取り上げました。

コロナ禍を生きるということ~コロナ禍に対応して制作された映画~

映画制作において、現場が感染防止対策を徹底していることはもちろんなのだと思いますが、たとえば登場人物がマスクをしている演技が、感染防止対策として取り入れられた演出なのか、コロナ禍という今日的様相を敢えて作品に挿入したのかは、作り手に確認しないことには分からないケースがあると思います。ただ、作品の本質として必要のない唐突さを感じる場合、「対応」をしたのではないかと推察します。予算やスケジュールなどでどうしてもいま撮影しないといけない、ということはままあると思いますし、長い目で見てそういった対応の結果が歴史になるので、善し悪しの問題ではないと捉えたいと思います。

『バイプレイヤーズ~もしも100人の名脇役が映画を作ったら~』をテレビ版未見のまま観てしまったのですが、主要な4人の「バイプレ」のうちエンケンがずっとフィリピンにいる設定なのは大人のスケジュール事情なのか感染防止対策なのか。そのために4人勢ぞろいで活躍する場面が少なく、それ以外のゲストたちの話が中心になってしまいます。それは古い娯楽映画によくあることではあるのですが、いまどきそこまでして制作するものなのかもやもやします。さて本題ですが、終盤、天海祐希がキッチンカーのなかでマウスシールドを装着しています。もっともマウスシールド自体はコロナ禍以前にもあったものですが、あまりにも不自然に小道具として出現しているので、あれは「対策」だったのだろうと推察しています。そう考えると、作中の不自然さのいくつかはコロナ禍ゆえのイレギュラーだった可能性があります。カメラが絶えず手持ち撮影で忙しいのも、撮影時間が長期化するのを避けた結果なのかもしれません。本題ではないのですが、作中の芳根ちゃんが痩せこけていて終始心配になって観てしまいました。

『女たち』で登場人物がマスクをつけているのも、急遽対応したのではないかと思います。主人公はちょっとしたすれ違いののち、友人と死別します。すれ違っている間に、婚約者だと思っていた彼氏が既婚者だと知り、その男が主人公を知らない人だと言うばかりに警察に一晩拘束されてしまいます。主人公の母親はおそらく脳を患って四肢に障害があり、言語も不明瞭で、娘に辛く当たる。新しくやってきた介護人、友人の妹、勤め先の学童での出来事など、とにかく起きることがことごとくうまく回らず、窮地に立たされる主人公。あのような、何をやってもうまくいかないし、ふてくされてやることがさらにうまくいかないことの憤りは、ものすごく身に覚えがあります。もうキレてしまって泥を窓に投げつける様子など、篠原ゆき子の怪演がまたしても凄味があります。主人公はおそらく私と同年代。ということは、いい大学に入れてやったのに云々と母親に批判される件は、就職氷河期の終わりのほうのことと思われ、90年代から続くこの世代の悲哀をも映し出していると言えます。結果的なのかもしれませんが、そんな主人公がマスクをつけていることで、やるせなさがいや増していたように感じました。友人の遺品から出てくるCDが荒木一郎というのが渋すぎます。

ほか、『妖怪大戦争 ガーディアンズ』で序盤に主人公が看護師の母親の仕事のたいへんさをブラックだねと評するあたりは、時代に対応した脚本なのかと期待したのですが、それ以降に風刺の効いた場面が見当たらず、その部分だけアレンジが加わったのかもしれませんのでここで取り上げます。作品では東京が大きな被害を受けることを防ぐ展開が訪れますが、フォッサマグナに閉じ込められた怨念であれば、地形的に本当に東京を直撃するような事態が発生するのでしょうか。パニックになる理由を東京壊滅に作ろうとしたのかもしれませんが、東京は他地域を犠牲にしてまで守らないといけない街なのか。唯一、教師役の神木隆之介が実に気持ち悪くていい芝居をしていたのがよかったです。

本項の最後に、シャマランの『オールド』の映像の不自然さはコロナ禍に対応して撮影に制約が加わったから、と聞いたことがありますので取り上げます。とはいえシャマランの実に気持ちの悪い物語でしたし、不自然なのかただ不気味なだけなのか、もうよく分かりませんでした。最高に面白かったです。シャマランは制約があると燃えるタイプかもしれません。トーマシン・マッケンジーを堪能できるという意味でもとてもいい作品です。

コロナ禍を生きるということ~コロナ禍の社会を描いた映画~

現実のコロナ禍において著しく影響を受けたのは貧困層と接客業でした。それらの掛け算のような家族を石井裕也監督の、まさに石井節で描いた作品が『茜色に焼かれる』でした。まるで池袋での暴走事件を彷彿とさせる冒頭。オダギリジョー演じる夫が車に撥ねられて亡くなります。そこから、尾野真千子の後家の歯ぎしりの物語に。コロナ禍で、マスクもするし消毒もする。カフェが立ち行かなくなり、ホームセンターと風俗の掛け持ちで生計を立てつつ貯金もして、彼女はカフェの再開を目指します。しかし事件の補償金は受け取っていません。ロックスターだった夫なら、そんな施しは受けないだろうと思ったから。

前作『生きちゃった』(2020)に続いて、監督の怒りがかなり鮮やかに作品に映し出されていると思いました。カフェを閉じざるを得なくなった設定にもそうですし、補償金を受け取らない件にも主人公自身の本心も滲ませていると感じます。義に合わないことには声を上げる。ひとり息子もまた然り。不器用にまっすぐに生きる石井節の親子でした。永瀬正敏演じる風俗の経営者が便利に設定されているという評価も見たことがありますが、『町田くんの世界』(2019)の仲野太賀のように、主人公たちに共感して突き動かされてしまう人が、石井作品には出てきます。『あぜ道のダンディ』(2011)の田口トモロヲや『生きちゃった』(2020)の若葉竜也もそうでしょう。ラストが夕日に照らされて終わるきれいさには、そうでもしないと物語を終われなかったのではないかという気さえしてきます。もしかすると脚本ができた時点ではコロナ禍が舞台ではなかったのかもしれませんが、結果的に、ど真ん中を描いた最初期の作品でした。

最近は映画館の閉館のニュースをよく見かけるようになりましたが、その理由には様々なものがあり、チェーンストアのシネコンであっても閉鎖するケースはあります。渋谷にあったアップリンクの閉館を社会背景から解説することに反発する声もありますし、私もそう思います。公式には賃貸借契約の満了ということですし、敢えて社会背景を出すのであれば、それは経営者のハラスメント問題です。総論としては東京より地方の映画館のほうが経営が厳しいと言えますが、銀座シネパトスやギンレイホールのように、老朽化や耐震性能へのコスト投資を断念するケースは少なくありません。

震災のことは後述しようと思うのですが、2021年は東日本大震災と原発事故から10年でもありました。タナダユキ監督なりのこの10年の回顧とコロナ禍が合わさった作品が『浜の朝日の嘘つきどもと』だったと思います。

福島県の朝日座が廃業寸前のなかでやってくる、高畑充希演じる主人公。彼女は震災に遭い、父親は助けにと思って現地でタクシーで起業するのですが、儲かって周囲から陰口をたたかれてしまい、父親以外は街を追われてしまいます。母親は震災の混乱で精神を病んでしまっている。父親は母親から逃れるために被災地に行ったのか。家族を捨てたのか。主人公は高校の屋上から飛び降りようとしていたが女性教師に声を掛けられ救われます。

震災があって、人の心が変わって、荒んだり壊れたり、でも誇りをもって生きてもいて、そんななかでコロナがあって、もう映画館は行き詰っている。映画館が斜陽になっているのは分かっている。建物も老朽化している。みんな配信番組を見ている。むしろリハビリなど老人向けの施設のほうが喜ばれるし、そのような土地の活用のほうが「正しい」というのも分からないでもない。そんななかでやっぱり映画館はいいというのは、エゴかもしれないし、ただのノスタルジーかもしれないし、街のデベロッパーが言うようにセンチメンタルかもしれない。それは否定しづらいけれど、映画館と映画がやっぱりいいという気持ちも消えることはないのです。正しさの先にあるものがあるんだよ、という、タナダ監督の苦悩をまとめた「わたしと映画」という論文発表のような作品だなあとしみじみしながら作品を観ました。優しさと、考え続けることの大切さを示す作品でした。とくに、これが震災で生き残った人たちの話なんだというのがぐっときます。

支配人を演じる柳家喬太郎は『スプリング、ハズ、カム』(2017)以来の映画出演でしたが、福島県なのに江戸弁のべらんめえ。対する主人公も郡山出身のようだがなかなかのがらっぱち(浜通り言葉だとなかなかああならないのです)。このテンポのいい会話の応酬が面白かったです。むかし山田洋次の映画で見たような、最近、こんな小気味いい会話劇はなかなかありません。あるいは大久保佳代子演じるその教師が生徒思いでルーズで男にだらしなくて憎めません。窮屈に生きている少女にとってサンクチュアリのような人で、本当に好演していました。

『葵ちゃんはやらせてくれない』はいまおか監督の過去作品のセルフリメイクですが時間設定を今日にずらしてて、夢をもって自主映画を撮っていた「川下さん」が2019年に死に、2020年には彼が通っていた居酒屋がまだあったけれど、2021年にはそこの店長がクビになってマスク姿で登場。2022年には食えなくてとうとうホームレスになってしまいます。なんだかぞっとするような風刺劇でした。

田辺弁慶映画祭より『情動』は、コロナ禍で引きこもった画家が徐々に狂っていって言動がおかしくなる物語でした。ほぼ部屋の中のシーンだけなのですが、吉村界人の演技でぐいぐい物語を引っ張っていきます。その悲痛さだけで作品にするのはいささか強引なのではと思うのですが、電話の向こうの狂ってないと思われた彼女が電車に飛び込んでしまうシーンで、がらっと展開を変えてみせるのはうまかったです。上映後の挨拶で監督が、ポン・ジュノの『ShakingTokyo』(2008)が好きだと話していて、なるほどそれをやりたかったんだと納得しました。

ドキュメンタリー作品ではSKIPシティ国際Dシネマ映画祭より『リトルサーカス』はカンボジアサーカスが題材でした。そういうサーカスがあって、無償で入れる学校が子どもらの教育や就労を助けていることを初めて知りました。しかしコロナでサーカスが長期閉鎖されてしまい、貧しい家の子はよそで働かないといけなくなります。それでいざ働き始めると、真面目な子なので重宝されて、どんどんいろんな仕事を任される。どんどんサーカスから離れていく。でも、仲間たちはそんな彼をやさしく応援し、いつでも戻って来いよという。ラストの夕日に映えた彼らの応援パフォーマンスがとてもよかったです。

このように若手作家を中心に、コロナ禍を作品にすべく果敢に取り組んでいたと思うのですが、他方、『キネマの神様』で山田洋次監督がブームでも取り入れるかのように実に粗雑にコロナ禍の始まりを演出したのにはとても違和感がありました。回想シーンの若い役者たちは風情があってとてもよかったのですが、劇中劇の演出や現在のシーンには疑問の多い作品でもありました。映画館での老人たちのマナーの悪さも本当に酷い。

さて、この時期に物語としてコロナ禍を練り込んだことはとても先進的なことですが、そもそも映画制作が座礁したり、大きく方向転換したりせざるを得なくなることも、当然ながら発生しています。

『人と仕事』は森ガキ監督が自身の新作をコロナで中止せざるを得なくなって、決まっていた主要キャストと一緒に本来の題材だった保育現場を取材したことを手始めに、いろんな職種の人に話を聞きに行き、最後は主演のはずだった二人の対談も入れたドキュメンタリー作品でした。全体的に、それぞれの職業の人たちの姿や声がよく伝わっていい内容だと思いました。いわゆるホワイトカラーみたいなコロナに順応しているような人たちではなく、そうでない職種や養護施設から卒業する人に目を向けているのも好感が持てます。ちょっと気になるのは、その敢えてやっていることが理解できる今はいいものの、取材先の選び方についてのエクスキューズはとくにないので、後世になってどうしてこうなったのかと分からなくなる恐れがあることです。

そのこととも関係しているかもしれませんが、総括の場面もあるように思えず、まとめの時間かなと思うあたりで役者たちの自分語りが入ってきてしまうのは、そのほうが観客の関心が高いだろうことはわかりつつも、作品の構成としては物足りなさがありました。もともとが保育についての劇映画の企画だったそうで、保育の作品だから保育を見ればいいと思ったけど、もっと俯瞰して見ることをしておけばよかったという趣旨の役者たちの意見には、このイレギュラーな状況にあって当人たちのなかでも気付きがあったことを伺わせます。

下北沢映画祭より『スイソウ』はコロナ禍をきっかけに制約のなかから作品を作ったということで、本当に今しか作れない作品に出来上がっていました。感心しました。部屋のなかから映像の視点は動かず、茫漠とした、ちょっと亡霊みたいな陰影の主人公が起き上がったり座ったりしている。窓の外を眺めて移ろいを確かめるだけなのですが、主人公のゆるいラップで部屋のなかにシーラカンスが現れたりする。これはまさに、コロナ禍で家から出られなくなった人の様子を、水槽に見立てているのですね。独特な世界を文章で説明するのがとても難しいのですが、その発想にやられました。

コロナ禍を生きるということ~コロナ禍を想起させたり風刺したりしたフィクションの映画~(1)

2020年に発生したこのパラダイムシフトは、否が応でも創作に影響を与えてきています。それ自体は起きてしまったことの結果でしかないのでネガティブに捉えても仕方のない話で、2021年より2022年、そしてもっと先の未来で顕著に出現するのだと思います。この年にすでに出現しているとすれば、それはとても早いことと言えるでしょう。

他方、観る側にも多大な影響があり、作る時間を考えればむしろこちらのほうが早く変化が発生します。しかし、その作品が作る側と観る側のどちらの作用によってコロナ禍を想起させるのかについては、厳密に区別するのが難しいことでもあると思います。ここでは、作る側と観る側の影響を、あくまで「そうなのだろう」という感覚で分けてみようとしています。

作る側としては、制作期間やフットワークの軽さからすると、自主映画において先に影響が出現することは大いに想像できます。もっとも、映画祭のような機会に出品し選ばれなければ観ることさえ叶わないことではありますが。下北沢映画祭から『MAHOROBA』はシンプソンズみたいな毒のあるシュールなアニメーション作品で、ゲームをして仕事をサボっていたところを上司に見つかり、ボコボコにされてからの流転の人生は観ていて面白いのですが、明らかにコロナを風刺していました。『バトル・ロワイアル』(2000)のキタノ先生みたいな人物から発生した自殺ウイルスの大規模感染がコロナそのもの。流転の男が唯一感染しないのですが、治安が悪化した社会が大日本帝国風になっていたり、ミクロの決死圏みたいな存在がウイルスを撃退したらオリンピックが大成功したりとか、ちょっと趣味の悪い夢のようでした。おそらく面白いからそういう展開にしただけで、思想的な特徴はないのかなとは感じています。

横浜インディペンデント映画祭から『BEAUTIFUL WORLD- LOVE IN THE TIME OF PETALO -』もコロナをイメージさせる死のウイルスの流行による物語でした。感染だけでなく、自警団による殺害という怖さもある世界が描写されていました。すかして生きている連中が最終的に生きることの根源を感じられたのか、その辺りの描き方には物足りなさも感じますが、おそらく二宮健監督にかなり影響を受けたであろう編集や加工が印象的な作品でした。話が逸れますが、若手作家には二宮監督っぽい作品という派生が発生しているのかもしれません。

ベテラン監督に目を向けますと、豊田利晃監督の『全員切腹』は、芋生遥演じる女郎が切り落として井戸に落とした小指から疫病が蔓延したという設定だと思うのですが、これもまた、コロナ禍のメタファーなのかもしれません。時代劇短編はこれで3作目。豊田作品の眼光の鋭さは時代劇が合うし、社会に対する憤りにもまた時代劇が最適ということだと思います。疫病ののち、疑わしきは捉えて切腹を申し付けていく役人たち。むしろそれが目的だったのではと思う展開で、主人公の侍は、役人たちにこそ疫病の原因があると言い放ち自害します。作品という刃が向かった先を思わずにはいられません。

あるいは濱口竜介監督『偶然と想像』の一編も、ひょっとするとコロナ禍からの着想なのかもしれません。3つの短編で構成される本作の3作目がそうで、コンピューターウイルスで電子的なものがなくなりアナログ化した社会の物語でした。『サバイバルファミリー』(2017)より緩やかで、見た目は21世紀の社会だけれど、仕組みは昭和か平成初期に戻ったかのよう。そんな社会でこその勘違いと、そこから巻き起こる奇跡。本人ではない、完全な他人でもない、大切な人の「ふり」をしてくれる他人にだからこそ言える気持ち。コロナとは、言葉のうえでは同じ「ウイルス」でも、物理的な触れ合いがなくてもデジタルによって克服していくコロナ禍とは逆に、本作の人びとはデジタルが失われたからこそ自分の足でふれあいを引き寄せていきます。震災とは関係のない物語ではあるものの、仙台と再会がテーマの作品というのはなにか感慨もある、いい脚本でした。

本作についてもう少し書かせていただきますが、なんといっても全体的にがっつりロメールでした。それにちょっぴりホン・サンス。演出は完全に濱口演出ではあるものの、かなり実験的でもありました。長尺が多い濱口フィルモグラフィに対して、約40分の短編が3本というのはすごく見やすくてありがたかったです。そしていつになくコメディになっていて、劇場中がどっと笑う。その辺の、ちゃんと笑える脚本を書けるというのが濱口竜介だと思いました。まさか監督がそうするとは思わない展開で、でも全体の作りはコメディ。映画や脚本の歴史をすごく研究されているのかな、という漠とした感想もありました。

1本目は若手役者たちのアンサンブルが気持ちいい作品でした。濱口作品にしては台詞読みに躍動感がある。古川琴音の、弄んでいるように見えて友人に男を取られたような悔しさや嫉妬で溢れている感じは、彼女のいまにしか出せない独特なよさがあるのかもしれません。この作品が一番ホン・サンスっぽい気がします。

2本目はとにかくエロティック。そして、一見トラブルを回避しようと冷静に対処しているように見える教官役の渋川清彦が、実は本物の変態だったという可笑しさがたまりません。そしてちょっとしたミスからすべてが壊れてしまった5年後、学生だったクズ男は社会人のクズ男になっていた。この男を監督はかなり悪意を持って描いている気がします。まだ思いを引きずっているような、陥れたいだけのような女性の行動がミステリアス。ちなみにちょっと脚本が男性的な気がしなくもないのですよね。

コロナ禍を生きるということ~コロナ禍を想起させたり風刺したりしたフィクションの映画~(2)

さて、ここからは観る側の見方の問題としてのコロナ禍についてです。社会における分断とは多くの場合、経済格差や人種や民族や宗教、思想の違いに起因があると思うのですが、2011年には原発事故によって「福島と福島以外」という新しい解釈の分断が発生し、2020年にもコロナ禍で新たな分断が発生しています。この分断はより複雑で、ファクターがあまりにも多い。ワクチンをめぐる是非にしてもマスクの扱い方にしても、本家のウイルス以上の広がりをもって流派が生まれている、というかもはや個人ルールを尺度としてその人なりの分断が発生しています。2020年以来、本当に驚くべきことの繰り返しです。

マスクを、他者を感染させないためのものと捉えるか、自分が感染しないためのものと捉えるかによっても装着行為の意志がかなり違ってきますし、どんなにルールを設けてもどうしてもルールを守れない人が顕在化もしています。屋外でマスクをつけなくてよいと政府は言いますが、電車のなかやコンビニが屋内なのか屋外なのかは、なぜか意見が分かれます。片耳に引っ掛かっていれば、顎を隠していれば、肘を覆っていればマスクを装着したことになる個人ルールはどのように作られたのか。マスクを着けていない人が一定確率で指を鼻の穴に突っ込んでいるのはなぜなのか。あるいは半跏思惟的穏やかフェイスなのはなぜなのか。

それらひとつひとつをどう思うかで、プライベート分断が築かれていきます。なので、どの作品を鑑賞したときにコロナ禍を想起するのかにも個人差が大きいのかもしれません。

私にとってこんなにも、コロナ禍を想定していないはずなのにコロナ禍を想起させる作品もないだろうと思ったのが、台湾映画の『恋の病 ~潔癖なふたりのビフォーアフター~』でした。強迫性障害で、すべてがピカピカできちんと整理整頓していないといけない性質で、家の外は汚いので合羽にゴーグル姿でないと出かけられない男が、まったく同じ性質の女性とばったり出くわします。強迫性障害を抱えた人の話はときどきあると思うのですが、こんなふうに恋愛物語だったり空想タイムリープだったりが盛り込まれたエンタテインメントになるのは初めてかもしれません。本当によくできた脚本で、何か新しいことをしているわけではないように思うけれど、この設定で物語を作るとこんなに面白いということを見事に証明していました。すべてがうまくいっているように思えたふたりでしたが、彼の障害が突然消えて事態は一変し、ついには関係が終わってしまう。と思ったらそれは夢で、いやいや待てよ夢落ちかよと思い、これで女性に変化が訪れたところで終わったらつまらないなと思ったら、ちゃんとそこから繰り返してくれる丁寧さが、くどいけどいい。ふたりが同じ感覚を共有して暮らしているうちはそれが普通なのに、片方から障害が消えると普通はどっちだろうという具合になる。世の中が、いかに何ら障害のない人にとっての、ある意味ではニッチなバランスでデザインされているのかを痛感します。ポップなテイストの台湾映画らしさもまたいい作品でした。

日本の作品でも、こんなにも『恋の病~』と類似の設定の作品が出てくるのは偶然なのだろうかと考えてしまうのですが、『恋する寄生虫』は思わぬ拾い物作品でした。症状の描写や生活実態や彼らの苦悩は明らかに『恋の病~』のほうがつかみやすいですし、さすがに日本で完全防備したスターの映画は無理と見えて、どんどん防備をなくしていく登場人物が心配でならないのですが、それでも潔癖症と視線恐怖症の男女の話がこんなふうに取り上げられることが新鮮でした。しかも映像がスタイリッシュで格好よく、林遣都もそうですがなによりも小松菜奈がこんなにきれいに撮られていることがとにかく素晴らしい。中盤あたりから話題が寄生虫になっていき、こんなに特異に生きづらい人たちの原因は虫だと断言して進むことで、世間が病気をわかった気になってしまうのではないかと気が気でないので、物語そのものがこれでよかったのかはよく分かりません。ただ、治療して普通になることが正しいし望まれていると周囲の人たちは思っているのだが、それが正しさのすべてではないというメッセージがあったような気はしています。願わくば、虫がどうということではなく、辛い思いをしている人に目が向けられるきっかけになればよいと思います。そんな心配とは裏腹に、作品はどんどん純粋なラブストーリーへと昇華していきます。最終的には近年稀に見る真っ直ぐなハッピーエンド(周囲は悲惨なことになっているのだが)になっていることに感心してしまいました。そうか、こういう捻り方をすれば逆にストレートに描けるのか。劇伴に使用された楽曲の数々も素晴らしかったです。

『Arc アーク』も遠いところでコロナ禍を想起させました。プラスティネーションという生命が途絶えてからの肉体を永遠に残していく=時間を超克するというところから始まり、やがて不老不死の技術が開拓されて主人公自ら第1号になる。時間と言えば『インターステラー』(2014)では、重力差によって時間の進行速度が違う空間に滞在したせいで主人公は娘と肉体の老化が逆転してしまうのですが、本作では主人公は他者と同じ時間速度のまま老化が止まります(実際はラストで老化が再開した様子が描かれるのですが)。さらに、その不老不死の施術を受けられる上限数があるので持つ者と持たざる者の分断があり、また遺伝子情報によっては施術が効果を生まないケースもあると分かり、反対運動が巻き起こる。まるで現在のワクチン接種を想起させる内容です。それでいて後半は、出生率が大幅に減退して不老不死の人間が世界を維持している社会で、施術を受けられなかった者のための老人ホームを舞台にしたドラマへと転換します。この世界観はスケールの大きさとミニマムさが独特のバランスを保っています。自主制作を最大限壮大にしたような、ノーランを可能な限りミニマイズしたような。可能であれば3時間ぐらいの長尺でいいから、省略した部分をもっと描いてほしかったですね。100年の物語という、若さと老いを両方体現できる役者として、芳根京子は見事でした。

日本という落ち行く国

コロナ対策で言いますと、台湾を代表選手として、各国がデジタルの力でウイルスの封じ込めを試みてきました。日本でも庶民のレベルでは、行動制限の代わりにデジタルによって人とつながったりカルチャーに触れたりする工夫で文化的生活を維持しようとしてきました。ただ、国が感染者数を集計するのに各地からFAXでデータを取り寄せて、それを見ながらPCに打ち込んでいる様子を見聞きしたときは茫然としました。政府が特定企業に多大なマージンを提供することで作られたスマホアプリはほとんど役に立たないまま終了しました。ちなみに保健所を非難するのはお門違いだとも思っています。本来は町全体の健康状態を能動的に調べに行く人だった保健師さんを、予算削減で建物のなかで受動的な立場に変えてしまったのは国にほかならないと思うのです。

昨年のレビューでも書いたのですが、デジタルデバイスは本来、生活弱者を助けるために存在してほしいものなのに、先進的な技術は先進的なエリートの持ち物だと誤認して、自分はエリートでないというスタンスを取り続けた結果、社会に平等をもたらすことに失敗してしまったのが今日の状態だと思うのですよね。万人にサービスを提供する行政も我が国的非エリートのスタンスゆえ社会の発達を妨げていると言わざるを得ません。しかし、住民票などをきっちり届け出ていたり国勢調査をまめにやり遂げる国民性ゆえ、アナログな正確さは見事で、ワクチンの接種券はとても正確に郵送されました。この能力は特異だと思いますが、これを自慢するほど落ちぶれたくもないなと思います。

映画作品においても、この国のありさまをかなり批判的に風刺した作品が散見されるようになっています。これまでもあるにはあったのですが、メジャーシーンの娯楽作品というよりは、それを見て溜飲を下げたい人向けの独立独歩な座組のものが多かったように思いませんか。『記憶にございません!』(2019)をフジテレビが製作して東宝が配給したときは随分思い切ったなと感じたものです。

メジャーですと、東映配給の『総理の夫』はとても皮肉な作品だと言えるでしょう。大味な演出が多く、結局は絶叫しないとクライマックスにならないのはいただけないのですが、それでも政治家はかくあってほしいと思える人物の大活劇は、この時期にさすがに沁みますね。理想的過ぎるのかもしれないが、理想の真逆を行きかねないリアル政治に対して、立派に風刺の役目を果たしていたと思います。女性総理大臣がどうして生まれるか、妊娠をどう乗り越えるか。仲良くしているようで敵対する老獪な人物、そして財界まで、よく描写しているなと感じます。中谷美紀はものすごく当たり役でした。

メジャー以外に話を移しますが、政治について取り上げたドキュメンタリー作品と言えば『香川1区』でした。監督の前作『なぜ君は総理大臣になれないのか』(2020)は、あまりよく知らない(私見です)野党の政治家に密着し、若いころの立身と熱血、そして迷いを捉えつつ、迷いの結果としての周囲の冷たい視線と、それを振り切るかのような仲間や家族の奮闘を描き、しかし最終的には敗北で終焉していました。今回は前作の反響を受けて、すっかり知名度が上がってしまった人物のその後を追跡しています。名が知れている分、途中のエピソードには既視感もあるし、選挙結果も分かっている。しかし、それを裏側からトレースしただけの映像がかくもエモい。熱血漢で人懐こく体力もあるが、脆さもある人物の酸いも甘いも捉えていると言えます。前作とは違って彼にこそ勢いがある選挙戦だったので、対立候補側の焦りが強く、取材班がたびたび妨害行為を受け、そのやり口に男性的で権威的な古い体質が見え隠れします。付き合いとか党員とか動員とか、社会を現状維持しようとするものすごい慣性も浮き彫りになる。その一方で、「いい政治家」が「いい政治をする」というものすごく雰囲気一本槍での主張の応酬で闘っている様子に、変わりようのなさも映し出していました。

政治をめぐるドキュメンタリー作品は映画祭出品作にも見られ、PFFの『県民投票』は出色でした。茨城県民の有志が東海村の原発再稼働についての態度を明らかにしない知事や県議会議員に対して、住民投票条例を制定してほしいと署名活動を開始します。もちろん敬遠されることが多いものの、再稼働に賛成の人も、じっくり話をすると意図を理解してくれる様子はとても温かい。しかし、署名集めの結果、条例案が提出された議会では意味が分からない議会の論理によって議論らしい議論がなされません。継続審議にもならずに廃案になるのですが、与党の態度に署名に真摯に向き合う様子はなく、質疑の様子を傍らで見ている女性議員がまるで応援隊かのようにキラキラした目で、廃案に追い込もうとする男性議員を見守っている。女性議員が女性の役割をそういうところに規定してしまっているように見えるのは穿っているでしょうか。政治が、ことさら地方政治がものすごく古びていて形骸化してしまっており、しかも民意の結果そうなってしまっていることがしんどく感じられます。

東京学生映画祭から『大鹿村から吹くパラム』は、山村に住み着いた風変わりな外国人のことを撮ったのかと思いきや、話は徐々にリニアモーターカーになっていき、どうやらテーマはそちらだったんだと理解します。とすると、この構成になったのは不思議ではありますが、ともかくテーマに沿った部分では、『県民投票』にも通じるような、権力が無意識下で多くの人びとの生活を踏みにじっていることを映し出しており、今日に象徴的であるように思います。リニア建設のためとはいえ樹齢何百年の桜を誰の連絡もなしにさくっと切ってしまうのは常軌を逸しています。交通網発展の美談である『ネクタイを締めた百姓一揆』(2020)とは対照的な作品で、望んだものを引き寄せる話と、望んでいないものに占拠される話とではこうも違うのだなと。ただ本作は、ある側の主張に話が寄りすぎていてドキュメンタリーとしてあるべき構成だったのかは若干の疑問が残ります。

平田オリザの著者「下り坂をそろそろと下る」(講談社, 2016)のように、日本という落ち行く国にはあらゆる部分を「閉じる」作業が必要なように思います。その「閉じる」話は次年以降に譲ろうと思いますが(書くかどうかはともかくとして)、2021年においてこのテーマを象徴する作品に『椿の庭』がありました。古い立派な家に住まうひとりの老女。同居する孫は韓国からやってきている。老女の夫が死去して四十九日を過ぎ、相続税の話になり、家を手放さないといけないことになります。ナレーションはないし説明調の台詞も少ない。冒頭は庭の池にたたずむ二人が死んでしまった金魚を椿の花で包んで葬る様子を台詞もなしに映す、カメラマンでもある上田監督による美しいショットが続きます。夕方や雨戸を閉めたときの暗い映像は暗いまま、それでも美しさが伝わってきます。そこにかかるブラザーズ・フォアのレコード。終盤、家を出た孫と叔母を叙情的に撮って終わるのかと思いきや、家の解体シーンに移行します。家を大切にしてくれるからと売った相手があっさり取り壊してしまうのです。とても質感のいい作品なのでうっかり忘れそうになりますが、かなり暴力的に歴史を断ち切ってしまう話でもありますし、仕組みのうえでは財務省がそれを推し進めていることを忘れてはいけません。

日本という落ち行く国のオリンピック

そんなこの国でオリンピックとはどんな冗談なのかと思います。誰が本当に東京などで開催したかったのかと振り返れば、広告代理店だったのだとよく分かる現実があります。本当に皮肉な描写だったのだなと思いますが、『花束みたいな恋をした』の彼女の父親がまさに広告代理店の上役という設定で、オリンピック特需で浮足立っていました。『あのこは貴族』とはまるで違う種類の、経済階級というか権力階級というか、なんならこの国が落ちぶれても架空の価格の請求書を作れる人びとが、この国のリーダーなのだと思うのですよね。

ちなみに本作の感想をここに挟んでよいのだろうかと思わなくもないのですが、ものすごい作品だったと思います。予告編からして名作だったのに、本編はそれをはるかに凌駕していました。10年に一度の傑作だといってもよいかもしれません。2015年から2020年にかけてのサブカルチャーを背景に、出会って、別れる。本当にただそれだけなのに。西暦の入れ方に濱口竜介を見た気もしましたし、ナレーション的なセリフには瀬田なつきを見た気もしました。なんだか、ここ数年間、日本映画が格闘してきた先の、ついにたどり着いた新しい恋愛映画の教科書を見たような思いです。ここまでの努力がここにあるよ、これはみんなで作ったんだよと言われているようでした。出演者たちも、この数年の映画シーンを渡り歩いた人々ばかりです。

なんだろう、フィクションなんだけど、その時代の風物を下敷きにしていて、その辺が『はちどり』(2018)などとも呼応する感じもあります。ガスタンク、天竺鼠、菊地成孔、今村夏子、Switch、ゼルダの伝説、awesome city club。オリンピックと広告代理店とパズドラを忌むべきものとしているあたりも共感度が高いです。飛田給、調布、明大前、多摩川沿い。それは下北沢でも高円寺でもない空間です。

現状維持で付き合っていくことを目標にしたはずなのに、現状維持のためには変わらないといけないところもあって、でも変わってしまうと戻れなくて。本当は「ザ・幸せ」みたいなものとは違う価値観で生きられるはずだったのに、既存の価値観の上で付き合っていくという意味での現状維持に成り下がるのか。すごいのが、あれだけ喧嘩しても家を出たりせずに、すっと鎮静化して優しい会話が始まったりするところで、うわあこれが新しい世代なんだと思いました。脚本を担当した坂元裕二の、このバランス感覚と網羅性はどうやって作られたのだろうか。青春映画を作っているのが大人だから若者の持ち物になっていないという通説がありますが、本作はまさに時代の持ち物ではないでしょうか。

後半、ふたりがまともに就職活動を始めるシーンで、それはちょっとした『何者』(2016)なのですが、難航するふたりがボソッと「ふつうになるのって難しい」と言います。かつて松浦亜弥は「大人になるって難しいんだなあ」と歌いました(「草原の人」,2002。作詞は美空ひばりこと加藤和枝)。でもいまや、大人よりもっと手前のところでつまずくし、大人に向かうというのは社会的に先達らしくするというベクトルを感じるけれど、ふつうになるというのは進歩的で建設的なベクトルなのだろうか、ということになる。本人たちもうっすらそれを感じているのです。で、実際に社会人になるのは彼女のほうが早くて、うまくやっているし楽しく働いています。その辺の順応性の高さというか要領のよさみたいなものは親譲りな感じがあります。それでいて、両親みたいな生き方を否定していて、彼氏がその道に墜落したような感じさえしてしまう。どっちもどっちなのに。

ちなみにこの作品のふたりに共感できないという声もあると聞きます。私も過去に似た経験がないので恋愛自体には共感ということはありませんが、しかし男女の関係性において、大人になる=役割を担うということがオールドスクールな感じに陥りそうなところを、ものすごく対等な感じでいることにこそ居心地のよさが現れるところに、新しい人間関係の完成形を感じました。女の子礼賛とは違う、とても理想的なものを感じました。

『THE ORINGPIC』は配信限定でしたが、オリンピックそのものを冷やかした作品で、けらけら笑いながら鑑賞しました。パーチャリーなる謎競技の元選手がオリンピックを破壊するテロリストになるのですが、やたらチープなセットのなかで迫真の演技を見せる黒田大輔が素晴らしいです。不老不死の人びとが他人を足蹴にして大会を開催しようとするというものすごく悪意に満ちた話で、主人公は目玉がたくさんあるドロドロの怪物と対決するのですが、あれは陰謀系を皮肉ったのでしょうか。断定はしないでおきましょう。

現実の話、そのオリンピックのために犠牲になった人もいるのです。古びた団地のドキュメンタリーというと『Danchi Woman』(2018)がありますが、『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』で住人たちはオリンピックのために行政から立ち退きを要求されています。登場人物のなかには、1964年の東京五輪の際にも立ち退きを要求されて、しかも転入する予定の団地から住人が引っ越さなくて裁判沙汰にまでなったという人も出てきます。前回は都知事の挨拶文も送られてきて対応が丁寧だったが今回は違うと、その人は言います。昔の保健師みたいなジェネラルな公務員がいなくなって、どういうケアを、どの制度を使ってやらないといけないのかということが分からないのではないかと想像します。作品は、住人それぞれの引っ越し、団地内マーケットの閉店の様子と、抗議のために都庁に出向く人びとを映し出します。すごく淡々とした映像なので主題が何だっけという感じにもなりがちですが、まだ東京の新宿や代々木界隈にこういう営みがあったんですよということと、それを古く汚いと思う為政者の無責任を静かに問うていると感じました。ちなみにこの作品の舞台挨拶を見たのですが、登壇した元住人がオリンピックが開催されたことを「成功しました」と述べるのを監督がいちいち制止しようとするのが面白かったです。

そんな暗い一面の一方、それでもオリンピックに望みを託したい人もいたのだなと、『未来へのかたち』というすごいタイトルの作品を観て思いました。愛媛県砥部焼がオリンピックの聖火台になるのでは、という話を受けて、それを非難して協力しない職人と、挑戦しようとする主人公たちに別れる。かくして主人公のデザインがコンペで選ばれますが、実は彼が書いたものではなくバイトがこっそり応募したもので、絶縁状態だった親子の再生を願うデザインの、主人公の娘のデッサンだった。という、オリンピックがどうなるか分からない状況でうすら寒いテーマではあるのですが、娘の意図したところが山田洋次っぽくもあり、橋爪功、吉岡秀隆、桜田ひよりと、山田作品の出演者たちがさらにそれっぽくしていました。後半、「幻の土」を手に入れる過程がものすごくわざとらしくて劇場内に失笑が。でもなぜか憎めない感じが役得の作品でもありました。

日本という落ち行く国の、落ち行く前

これまでは、いったいいつからこんな国になってしまったのかと考えることもありました。そういうのを憂国というのでしょうか。昔はよかったという前提がないと憂いは成り立たないと思うので、前提を強く確信している人が妄信的な右翼になっていくのかもしれませんね。

しかしそんな前提は本当に存在していたのか。

『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』は大人の御伽噺ですが、『となり町戦争』(2007)以上にこの国のいまの雰囲気と、先の戦争をより皮肉っています。どんな脅威か、どんな兵器か忘れてしまったのに、やっていれば怒られないし変わらない日々が送れるので、みなが戦争の任務についています。一切の融通が効かない受付みたいな人、見たことあるなあ。で、どんな脅威と兵器か忘れていたものが、ついにどーんとやってきます。国民が寝てる間にやっておけという政府のやり方の皮肉そのものだなと感じます。それで取り返しのつかないところにいってしまうのですよね。冒頭からの独特な雰囲気から『化け物と女』(2018)の監督だとピンときました。前作は癖が強すぎてついていけませんでしたが、今回はカウリスマキかロイ・アンダーソンかという世界観が確立していてとてもよかったです。日本でこれをやる人がなかなかいなかったので嬉しい。ただし1点だけ、食堂のシーンのご飯の盛り付け、食べ物が落ちるのが勿体なくてそこばかり見てしまいました。

そして実際の先の戦争についてですが、『スズさん~昭和の家事と家族の物語~』はたいへんな掘り出し物作品でした。東京・鵜の木の博物館の話というだけではなくて、そもそもその家の母親だった人物がどういう一生であったか。特別に裕福とも貧乏とも言わないひとりの明治末期に生まれた女性が、平成初期に死ぬまでの一代記がたいへん克明に表現されている作品です。横浜・矢向出身の彼女は東京に暮らすことに憧れて当時の都職員と結婚し小石川に住み、建物疎開で丸子にある親戚の家の敷地に移り、そこでひどい目に遭ってさらに空襲にも遭い、子安の親戚のところに転がり込む。その間、彼女の子らは地方に疎開するのですが、現在の博物館長である長女からその様子が子細に語られます。疎開は行政が主導し場所を指定したのではなく、それぞれの学校が探し当てて自主的に避難したものでした。『あの日のオルガン』(2019)とまったく同じでした。食糧難なので行き先に相当苦労したと長女は述べています。

結局のところ、政府や行政がリーダーシップを発揮するなどということは、近代以降あまりなかったのではないかと思います。民衆の、已むに已まれず取った行動が社会を形成して、さもそれが統治の結果であるかのように振る舞い続けて百余年、コロナ禍でその慣習がリフレインになっただけだという仮説が、やけに腹落ちしてしまいます。そうであれば、政府や行政に多くを期待すること自体が間違った選択ということになります。「亭主元気で留守がいい」とはよく言ったもので、政府がリーダーシップをとってる体だけ作って空回りしておいてもらうのが、この国にとって健康なのかもしれませんし、この国のコロナ対策は、ある意味では成功しています。

上の作品について補足しますが、戦争史で終始するのかと思いきや、終盤に母親の昭和年間の暮らし、洗濯板の使い方や漉し餡の作り方などが本人の再現でアーカイブされるところに、まるで歴史の教科書を見た気がしました。とても貴重な作品だったと言えます。

皮肉ばかり書いてしまっていますが、本音では高い公共性をもった行政への憧れもあるのです。ワイズマンの新作『ボストン市庁舎』を観て、ボストンに行って救われたい気持ちでいっぱいになりました。市長が行政についてとてもよく把握していることと、行政官が為すべきことをよく理解していること、国政とのパイプを構築して声を上げていくことにもとても意識的なことなど、全体が機能的であることがものすごく伝わってきます。奇抜なことをしているわけではないのですが、ありとあらゆる相談を受け付けるコールセンターや、大麻取り扱いでの住民やステークホルダーとのやりとりなど、やっていることがとても丁寧なことに加えて、市警での申し立てのシーンでもつくづく思いましたが、役所の人だけでなく住民のコミュニケーション力も高いのが印象的です。多様性があるから乗り越えていけるという思想性、退役軍人に対する畏敬の念など、国によって考え方は違うのだけれど、土台となる考え方がかっちりしているのでうまくいっている面があるように思いました。日本に住んでいてどうしてもやもやするかと言えば、ナショナルヘリテージというか、辛い状況から勝ち得た自由と、そこから得た学びがないために、何を基準にものを考えたらいいのか分からなくなることなのだと考えました。

この国と民族と同胞と

あらためてもう一度、こんな国でオリンピックをやるなんてどんな冗談かと思っていますが、難民についての作品が脚光を浴びたことにも触れたいと思います。

『東京クルド』の主人公は、子どもの頃に迫害を逃れて日本にやって来たふたりのクルド人。難民申請をしているが認定されることなく、行動を制限され、働くこともできずにいます。ある日、入管に収容されている叔父が体調不良を訴え救急車が出動したものの、入管施設に入ることがなかなかできません。入管職員からはこの国から出て行くように言われてしまう。ただでさえ難民認定されない国において、クルド人のように祖国でも迫害されているような人たちは、本当にどうやって生きればいいのか。本当はドイツに行くはずができなくて日本にやってきたという一家。しょっちゅう入管に出かけなくてはいけないのですが、働くことも許されず、いつ逮捕されてもおかしくないですと言い放たれ、しまいにはほかの国に行ってくれと突き放される。労働力の自由化を謳う国がその陰でこんなことをしている。いつまでこんな、何十年も時代遅れの行政を是とするつもりなのか。

かつてこの国を単一民族国家だと言った総理大臣がいましたが、彼は不勉強でも何でもなく、本気でそう思っていたに違いありません。この国には先住民族がいましたが、彼からするとノイズだったのだろうと推察しています。そして彼の考え方は例外などではまったくなく、この単一民族だけが住まう国家であることが法治国家の成立要件で、そうなるように務めることを法務省がミッションとしているのではないかとさえ考えてしまいます。私たちは中央省庁の各機関の本来的なミッションが何であるかについて考えることを忘れてきてしまった気がします。それもまたナショナルヘリテージの欠如と関係があるのかもしれません。なので行政が悪くて庶民は悪くない、ということも全然なく、『鬼が笑う』で見られるような外国人労働者に対する胸糞悪さといつでも共存しているのがこの社会です。

そしてこの胸糞悪さもまた連綿とした歴史であると強烈に感じさせた作品が『オキナワ サントス』でした。日本からブラジルへの移民が多かったことはよく知られていますが、沖縄からの移民が多かったことは知りませんでした。そして移民は初めのうち、数年したら帰国しようと思っていたという話にも驚かされます。そうか、この国で暮らせなくなって、あるいは新天地を求めて旅立って、ユートピアを築こうとしたわけではなかったのか。片道切符の北海道開拓の人たちと同じように思っていましたが、むしろ出稼ぎっぽい雰囲気があったのは意外でした。そんな移民にあって、沖縄出身者は「沖縄さん」「沖縄人」として内地の日本人とは分けて考えられていました。分けて、というか端的に内地の人間から差別されていて、別々のコロニーを築いていました。そのためか、沖縄人たちの取材を続けていると、内地出身者から理由を詳しく言わない取材拒否を受けたりしてしまいます。戦時中、日本からの移民たちが現地警察の手でサントスを追い出されてしまう事件があったのですが、そのことは地元でもほとんど記録がありません。しかし掘り下げていくと、ブラジル国家からの迫害と、内地出身の日本人からの迫害をダブルで受けていた沖縄出身者の実態が明らかになっていきます。

さらに、社会のノイズの除去は他民族に対してに限りません。ふつうの人がノイズになってしまったことを悟って素性を隠して生きることがある。『カウラは忘れない』はある人物の取材からその事実を振り返っていきます。日本軍がオーストラリアを空襲していたということすら知らなかったのですが、ニューギニアなどの戦地から運ばれてきた捕虜がシドニー近くのカウラの収容所に、日本軍だけでも千人を超す人数が収容されていたようです。捕虜になったこと自体が恥ずかしい、日本に帰りたいけれど、捕虜だったことがバレたら実家はきっと迫害されてしまうし、自分も生きてゆけない。それで、収容所にいる時分からほとんどの者が偽名を使用して生きていました。そのため日本で彼らの消息を調べることが非常に困難でした。作品は、岡山のハンセン病療養施設に住むカウラからの生き残りの男性にフォーカスしています。おそらく一般の兵士だった彼が収容後に体調を崩して、収容中にハンセン病を宣告されてテントで隔離生活を送るのですが、それゆえに逃走についての直前のやり取りに参加できずに、事態が発生してからそれを知り、しかし逃げずにとどまります。帰国後に彼は逃げるように療養施設に入り、最後まで偽名で通し続けました。最晩年になって高校生たちが取材に訪れて、カウラについて語るようになり、90歳を過ぎてカウラ訪問の誘いを受けるが、高齢で妻の介護もあるため断念。代わりに訪れた学生たちが収録した映像を見てものすごく懐かしそうにしている彼の表情が印象に残りました。

下北沢映画祭で上映された『Yokosuka1953 彼女の、記憶の中の母を探す旅』も関連した作品として取り上げます。戦後の横須賀では、米軍の要請で遊郭の女郎を集めて慰安所が作られたが女性が足りなくて、米兵が民家を物色して土足で上がっては女の子を連れ去って行為に及ぶことが日常的にあったといいます。そうして捨てられた女の子たちが産み落とした混血児(当時の呼称ママとします)が大量にいて、彼らの多くは孤児院に集められたのち米国の里親に引き取られました。ある日、本作の監督は米国からFacebookで連絡を受け、当時の混血児である老婆に出会います。彼女は当時のことを鮮明に記憶していました。彼女が日本で生きた痕跡と実母の追跡をするなかで、その実母のことを覚えている人が現れます。その人の記憶では、老婆の母親は地元でふつうに暮らしていて、ふたりいた子供のひとりが混血だった。ふつうの人がありふれた感じでひどい目に遭っていたことが浮き彫りになっていきます。来日した老婆が奇跡的に出会うことができたかつてのご近所さんや同級生や職場の同僚が、忌み嫌うのではなく、感激とともに再会を果たしているのが印象的でした。ある過酷な時代を共有した者たちの絆の強さのようなものを感じさせられます。

もうひとつ、ノイズの話と隣り合わせだと思うのですが、戦争と政治によって分断した社会が横浜の中華街にあり、その歴史を『華のスミカ』で観ることができます。私自身、中華街には大陸系と台湾系がいて、かつてそのことで少し問題になっているようなニュースを見た記憶があります。実体としては、中華人民共和国の建国以来の分断があって、学校もバラバラ、生活空間もバラバラで、あの狭い空間ですら分断後の学校に転校したら何十年も旧友に会わない状況でした。植民地から解放してくれたから、生まれた土地だからということで大陸系になった人、共産主義が嫌いで台湾系になった人。でもそれらは何十年も昔の理由で、いまとなってはじっくり聞き出さないと知る由もないようです。作品は、中華街で生まれ育った青年が地元と自身のルーツを巡ります。それは父親を知る旅でした。彼の母親は両系統の争いに我が子を巻き込みたくなくて、青年が日本の学校に行くことを望んでいました。ほかの家ではインターナショナルスクールを選ぶことも。作品の最後には両系統が和解に向けて進んでいる様子も描かれていました。

やはり希望の断片も書き残していきたい。この項目の最後に伊勢長之助を取り上げたいと思います。息子である伊勢真一監督の新作『いまはむかし 父・ジャワ・幻のフィルム』は長之助の戦時中の足跡をたどるロードムービーです。30年前から監督が考えてきた父親の足跡。父親が生前あまり語ってこなかったので探索することになるのですが、結果的に語られなくてよかったと監督は言います。だからこそ足跡をじかに確かめることができたと。監督と息子はジャワ島へ。現地取材で老人たちから、同化政策を実施していた日本人がとても怖かったという証言を得ます。その状況下、街にいまも残るオランダ時代からの撮影所で、長之助は戦時中のニュース映像を制作していました。彼が撮影した映像を監督はオランダのフィルムアーカイブで発見します。戦意高揚が目的ではありながらも、長之助は同地の人びとの生活の様子を多く取り入れ、自身の作風を持ち続けようとした痕跡が伺えます。それはどちらかというと、表向きだけ戦争宣伝の、長閑なホームムービーのようです。かつての作品を見せたときの老人たちの表情がパッと華やぐのが印象的でした。

本作の公開を記念して長之助の特集上映が催されたのですが、戦後の日本で制作した『東京裁判 ─世紀の判決』(1948)はまさにGHQ監修のニュース映像という感じのお仕事作品ですが、どうして戦争に負けたのかということが「1分でわかる」的な感じで示されているのがすごく今っぽい作りでした。勤労動員までかけた結果か゚これ、といって焼け野原が映されるのが、ものすごいイメージ訴求な気もするものの、当時の人びとには響いたのかもしれません。市井の掲示板のようなものに量刑を筆で書きこんでいる様子も撮影されているのですが、判決の実況でもしていたのか、面白い光景でした。

本項のテーマから大きく飛躍してしまいますが、長之助特集のなかで出色は『森と人の対話』(1972)でした。これはすごい。静岡県井川山林のあらゆるものが映り込んでいました。すごい山に分け入って、倒木からギャップ(森林にぽっかりできた光が射すスポット)が生まれて、その朽ちた木から芽が出て新しい木が誕生することを示したり、植栽やら伐倒やら下刈りやら、亜高山から高山帯における林業の正統なものを余すところなく撮影していると思います。空撮も含めてものすごくダイナミックですし、すごいところまでカメラを持って行ったんだなとよく分かりますし、網羅性も分かりやすさも見事。新しく建設したという事業所の機能性のよさにも驚きます。山の男たちの様子、彼らが余暇に囲碁を打つ様子や、ちょっとした宴会のようなもの、年末に小屋を閉めて山を下りるところも。いやほんとすごい。林学に入学したら学生さんはまずこれを見るとよいように思います。最高の映像でした。ちなみに、いまリニアモーターカー建設が知事判断で止まっている地帯は、まさにここです。

90年代を振り返る、その前に(1)

1990年代とは何だったのか考えるのが私のライフワークのようになっており、ここまでの過程は2017年の振り返りから毎年言及しています。ここではあまりおさらいはしませんが、もう2年ぐらい前には映画表現としてはたいてい出尽くしてしまい、もう書くことはないのではないかと思っていました。むしろ00年代を振り返る作品が主流になっていくはずだと。

ところが、2021年になっても1990年を題材にした作品、もしくはそこに創作のヒントがありそうな作品が多数見受けられたのは意外でした。あの頃の若者がまた映画館での観客のターゲットになったのもしれませんが、その世代が企業のなかで自分の手で企画を通せるようになってきていて、自分たちの若い頃を作品にしたがっているのかもしれません。

しかし90年代は、ただ懐かしむには奇妙な時代だったとも言えます。その奇妙さをつかむために、あくまで2021年に私が鑑賞した、90年代以前を題材にした作品から始めて、時代を下ってみたいと思います。

まず70年安保闘争から始めてみたいと思います。新左翼の武装闘争が確立したと言われる10・8羽田闘争とその後の関係者たちへのインタビューで構成された『きみが死んだあとで』は、大阪の高校を出て京大に進んだ学生の山﨑博昭氏の死をきっかけにしています。彼が1年次の1967年に佐藤栄作がベトナムを訪問するのを阻止するデモに参加して死亡した事件について、高校の頃からの友人や学生運動を通じて知り合った人びとの証言によって明らかにしつつ、彼の人柄やどのように運動にかかわっていったか、初めて上京してすぐにデモに巻き込まれていく過程、弁天橋での様子から、事件後の出来事、さらには武装化して学生運動がどうなっていったのかを明らかにしています。とことん証言で成り立っている作品でした。

てっきり弁天橋での事件のことをひたすら取り上げるのかと思っていたのですが、高校時代の話から事件までで前半が終わってしまい、後半は死後の話になっています。なるほどたしかに、タイトルの通り「死んだあと」のことを描いているのですね。高校生だった彼らは、ただ革命を志した者たちの集まりがデモをしていただけで、その頃は警察や教師とかに叩かれてばかりでした。しかし大学生になると先輩たちは先鋭化していて、喧嘩には強いだろうけれど、どちらかというと若手を前線の海兵隊のように扱っていた節があります。それでも警官を突破できるようになり、警官も怖かったからか暴力的になったのではないかと思います。それで警棒で散々頭をぶん殴って、人が死んでしまう。この、暴力のレベル感が一段上がったところ、ここが象徴的な事件ということなのだと理解しました。政治の季節と呼ばれる時代の、ある意味では教科書的な、歴史をうまくレビューした作品と言えるのではないかと思いました。

60年安保後、新左翼が高校生まで範囲を広げてオルグして、それがだんだんと反社会的勢力みたいに組織化して鉄砲玉を用意したり東京では分裂が相次いだりして、どうして革命が遂げられないのかの議論のなかで内輪喧嘩がはじまって、競うように武装化していく。そうすると彼らはもう学生を逸脱して職業革命家になっている。かつては庶民も、警官と対峙している彼らを応援して石を拾ってくれていたのに、武装化すると離れていって支援しなくなってしまいます。そのなかでおそらく東大全共闘がその状況を回避したくて結束を呼び掛けていったということなんじゃないかなと。それが解放区を作るという闘争だったんじゃないか。だとすると『三島由紀夫vs東大全共闘』(2020)に記録されているように、本当の敵はそこ(保守論壇)じゃないんだというのは、みんな分かってたのかもしれません。作品で証言する人たちも、山﨑氏の友人たちは鉄砲玉になるときにこんなことを続けたくないと言い、多くは離脱していきます。当時を振り返って、ツリー(組織ピラミッドのことだと思われる)に対して別のツリーを作って対決しても戦争になるだけと言っているのが印象的でした。

その事件から数年。学生が武装化して職業活動家化していく一方で、学生でないところに思想を持った集団が狼と称して武装闘争を展開します。彼らを取り上げたのが『狼をさがして』でした。

思えば東アジア反日武装戦線について何も知らなかったなと痛感しました。1969年に安田講堂が陥落しておおよそ学生闘争が沈下したのだと思いますが、1972年にあさま山荘事件があって、いよいよ社会が彼らを見る目が変わってしまいました。その前年には『マイ・バック・ページ』(2011)の元になった「赤衛軍事件」があり、70年安保に乗れなかった連中による模倣犯なのかなと世間は考えます。

それからさらに数年。1974年に東アジア反日武装戦線「狼」による三菱重工爆破事件が発生します。このドキュメンタリーは韓国の作品で、韓国人の監督が、父親の足跡をたどる過程で日本の日雇い労働者たちを知り、そこから日本の反政府活動について掘り下げていくという独特なアプローチをしています。東アジア反日武装戦線はまさに働きながら活動する人たちで、山谷や釜ヶ崎に支持者が多かったことが示されます。なるほど、だから学生闘争史から漏れてしまい、よく分からなかったのか。

もともとノンセクト・ラジカルと見られていたようですが、アナキストで、戦前の日本企業による経済侵略が戦後に復活していることの阻止が目的で、思想的にはかなり明快な気がしました。また、中心的人物の大道寺将司氏が釧路の出身でアイヌを身近に見てきて、自分たちが植民地側の人間なんだという意識が思想の芽生えになっているというのが興味深かったです。北海道出身の私自身もそうですが、ルーツについてのコンプレックスがあって、やっぱり根無し草であることの劣等感みたいなものは捨てがたいし、どちらかというとこの国の歴史の負の側面を受け継いでいるというのは、思想的な旅のきっかけになり得ます。

そこで自分を否定したのが彼だったし、アイヌを中心に据えた共生を思うと、独立の話にもなるんだと思います。そして彼が、関係ない人も殺害してしまったので、三菱重工爆破事件は失敗だったと自己批判しているのは意外に思いますが、思想を継続するために必要な振り返りだったのだとも思います。学生闘争でトロツキスト集団がいて労働者と蜂起しようとしてもうまくいかないのですが、彼らは労働者のなかにいて稼ぐことを活動と捉えているので、実はより純度の高い革命家であったようにも見えます。劇中、42年ぶりに刑務所から出所した浴田氏のことを、地元は過激な人が帰ってくると思って拒否するのですが、映像に映る彼女がとてもそんなふうに見えないのが面白かったです。

90年代を振り返る、その前に(2)

1974年の大きなニュースとしてはほかに小野田寛郎氏の帰還もありました。戦前の財閥が復活して経済侵略が進む傍らで、フィリピンに潜伏していた軍人がようやく武装解除してこの国に出現したわけです。『ONODA 一万夜を越えて』はそんな小野田氏の半生を綴った劇映画ですが、ものすごい作品でした。

陸軍少尉だった小野田氏の半生をまったく知らなかったのですが、中野学校出身だったのですね。それで、戦線撤退時に空港や港湾を破壊する特殊工作のために南洋に送られていました。あくまで作品が描いた内容についてですが、はじめは何も知らないよそ者呼ばわりされた彼は、自らに従える者とそうでない者をある意味では命の選別をして生き延びて、それから20年以上潜伏することになります。その途中では数少ない部下の諍いや銃撃、逃亡がある。そしてわりに早い段階で父親による帰還の呼びかけがあったのに、あれは偽物だと、いわばスパイ気取りでいきって否定して、やがて唯一の生き残りも失くしてしまいます。

小野田氏の青年期から潜伏期間までを演じた遠藤雄弥と津田寛治が実に見事でしたし、部下役の松浦祐也と千葉哲也、カトウシンスケと井之脇海らも素晴らしかったです。なによりフランスの監督がこれだけ克明に、日本軍や日本の歌などとともに演出していることに驚かされます。後半にやってくる仲野太賀演じる鈴木紀夫がものすごいピエロで、彼を通じて転調して、果たして彼は帰国するのですが、その帰国のヘリコプターでの小野田氏のシーンで作品は終わります。どうしても後日譚を入れたくなるのが人情だと思うのですが、このドライな切り取り方は日本の製作では無理だったかもしれません。ひとりの工作員が任務を解かれるまでの映画と捉えるべきかもしれません。映像のすごさ、美術などディティールも、驚くべき彩度で戦争を描いています。ラジオを通じて妄想する時局が(小野田氏は潜伏中、日本には米国の傀儡政権があり、亡命政府が満州にあると思っていたらしい)、どこか現代の陰謀論的な暴走を想起させます。また、小野田氏がやってきた殺人などもきちんと扱っているのもいいと思いました。

同じ頃、海外ではベトナム戦争がありました。いや、昨年のレビューで『戦車闘争』(2020)を取り上げて、ベトナム戦争に日本が加担している様子を書きましたので、他人事として区別するのは適切でないでしょう。ただし隣国にとっての爪痕はより大きく、ドキュメンタリー作品『記憶の戦争』では、ベトナム戦争時に派兵された韓国軍による暴行と虐待だけでなく、韓国にいまでも残る闇も映し出していました。本作の証言者によると米軍と南ベトナム兵はドラッグにハマったが、韓国軍はドラッグをやらない代わりに女を買った。そのうえ集落全体を虐殺していったと言います。当地で生き残った女性が現在の韓国にやってきて謝罪を求めます。民間裁判が行われ事実認定されたものの、退役軍人たちはそれが事実でなく、たいへんな任務に当たったのというのになんという仕打ちかと抗議行動に出て、ついぞ謝罪はしませんでした。おそらく今日においても戦争における殺人行為自体は法的に禁じられていないと思うのですが、ニュルンベルク裁判以来、非人道的行為における罪については裁判にかけられるようになっています。たしかに、北朝鮮よりも貧しかったかもしれない当時の韓国が米国の支援やドイツの鉱山への労役で外貨を稼いでいた時期に、煮え湯を飲むように戦争に加担していたのかもしれませんが、彼らの加害と名誉のはざまの問題は残ります。それでもわざわざベトナムからたったふたりで韓国にやって来た彼女たちを前にして、抗議行動をして非難する仕打ちはなんともむごいものがありました。そんななか、中学生たちが女性に寄って行って記憶を受け継ぐ旨を話す様子は胸に残りました。

もう一度70年代日本に話を戻しますが、水俣病は50年代に発覚した公害ですが、ユージン・スミスが取材したのは70年以降でした。『MINAMATA―ミナマタ―』はジョニー・デップが製作と主人公のユージンを演じた作品でした。私の不勉強はあるにせよ、すごく後年まで裁判で争い、チッソという会社が皇族の結婚問題にまで至ったことからして、闘いの様子や会社の対応、会社の仕業や警察と結託した迫害の様子などは、史実としてあったのだろうなと想像します。ではそういうものをジョニー・デップがどうして映像化したかったんだろうと思ったのですが、ラストで世界中の公害の様子が写真で紹介されていて、なるほど会社の利益のために一生ものの被害を受ける貧しい人たちのことを取り上げたかったんだなと納得しました。作品評を見ていると、水俣病のことをよく知る人にとっては内容に物足りなさがあるようですが、あるカメラマンの物語として脚色されているので外国の人たちにもとても分かりやすく、作品に入り込みやすい構造になっているのではないかと思いました。通訳という行為を途中から省略する演出の独特さもきれいにハマっていました。真田広之や加瀬亮、青木柚といった日本人役キャストもよかったのですが、美波がこんな大役を見事に演じていることに感動してしまいました。

時代を1980年代に移します。『かば』は80年代前半の大阪西成の中学生たちと教師の物語。生徒たちには新聞配達する者も不良もいれば、いなくなった親の代わりに家事をしている者もいます。みんな何かしら生活がしんどい。部落か朝鮮か沖縄しかいないと言われる環境で、彼らだけの世界では差別はなくても、一歩外に出ていけば差別が付きまといます。そんな彼らを、新任の臨時講師が着任してからの日々を通じて描き出すのが本作です。誰かが特別だったりスーパーマンだったりするのではなく、不良でも純朴に生きる生徒と、彼らに真摯に付き合う教師がいるだけ。それでも、家に入ってシンナーを吸う生徒を力づくで止めたり、警察が出動したと聞けば彼らを煙に巻いて先回りして生徒を叱りつけたり、親の信頼を得るために何度も生徒宅を通ったり。その純粋なぶつかりのひとつひとつが丁寧に描かれ、胸を打ちます。また教師の“かば”が再会する卒業生が出自ゆえ交際していた男性と疎遠になる様子も描かれます。実際の新米講師“かとちゃん”は男性だったらしいのですが、脚本上で女性に書き直したことでとてもバランスのよい人物構成にもなっています。長尺ですがまったく飽きさせない作品でした。

ここまでは歴史がどこか地続きになっているというか、第二次世界大戦からの因果が分かる時代の変遷だったような印象があります。しかしこの国においては、80年代後半に歴史がぶっ飛びます。1995年にラジオ放送された「大瀧詠一の日本ポップス伝」で、80年代だけ音楽シーンの歴史が断線しているという趣旨の発言があったと記憶しています。ある一時代だけ、明らかに異質になっています。

1989年の作品『彼女が水着にきがえたら』はまさにぶっ飛んだ時代を代表する作品のひとつです。ホイチョイ・プロダクションズ馬場康夫監督の2作目はマリンスポーツ。前作『私をスキーに連れてって』(1987)のスキーの場合は、スノーモービルはあるものの、北国の人間からすればむしろ金のかからない庶民のスポーツなのを、都会の人間がリゾートでやるから豪奢に見えるだけなのですが、本作のスキューバダイビングとかヨットとかクルーズ船とかは、明らかに金持ちのそれです。しかも若いOLが10万円もする水中カメラを持っていたり、空想の長物かと思うようなメカが登場したり。これは本物の金持ちのやることで、いかにもバブルです。ただ、遠いリゾートではなくて、神奈川のどこかのヨットハーバーが舞台だというのは興味深いところです。沖縄などのリゾートでのアバンチュールではなくて、あくまで週末の金満趣味的な楽しみだというのが、かえってハレとケの「ケ」が狂っていることを示しています。いまはもう「ハレ」でさえこんなふうにはならない日本ですが、アメリカとか中国とか東南アジアの富裕層だったらいまでもありそうな話でしょうし、異質な時代だったとはいえ、なんだか日本だけがこの世界観を捨ててしまったようにも感じてしまいます。

90年代を振り返る(1)

その束の間の異質な時代を経て、1990年代の多くの時間は、一見すると近代日本にあって稀に見るひどく凡庸な時代に感じられました。こと後半は不況だったこともあり、あまり明るさを感じることのない時代でもあったと思います。もっとも、00年代以降を知ってしまったいまとなっては、それでもまだ余裕がある時代だった気もするのですが、とにかく当時は時代の面白さに乏しかったなと。

しかし、それを70年代を無理やり引っ張ってきた延長戦のように捉えることは本質的には誤りでした。時代は確実に変容していました。たまたま2021年に映画館で見た作品で強引に比べると、『三月のライオン』(1992)で描かれた東京と、『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)でのそれではまるで違います。とはいえハコモノやコンピュータや携帯電話の普及のような科学技術から変容を捉えるのもまた見誤りがちで、今日に通底する人間の価値観の変容の端緒がこの辺りにあったけれど、そのことに気付かないまま時間をやり過ごしてしまったというのが実際ではないかと私は振り返っています。

その90年代にあって極めて重要な出来事のひとつがオウム真理教による諸活動であり、地下鉄サリン事件だったと思います。とても大きく深刻な事件で強く糾弾されるものだと思いますが、突飛な、宇宙人みたいな人による不可解な事象と捉えてよいのかについては懐疑的です。むしろ人間にとっての価値観の変容にとても敏感なあまり、鈍感だった当時の社会に居場所をなくしてしまった人たちの末路のように感じられ、つまり彼らは普遍的な隣人だったのではないでしょうか。

『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』では事件被害者で後遺症を抱える監督が、荒木浩氏を誘って彼のルーツをたどりながら事件について対話します。監督自身が荒木氏と京大の同窓だということは流れでつかんでいったのですが、おそらく監督は、お互いのルーツである関西をめぐりつつ、監督の両親と対面、謝罪させるまでのプロットをもって撮影に臨んだのでしょう。ただし、二人旅で対話を続けることでセルフドキュメンタリーにするつもりだったのか、事件そのものを追及するつもりだったのか、贖罪を発生させることが目的だったのか。監督自身も整理できないまま手探りで旅をしていたのではないかという印象があり、前半は会話のぎこちなさが強い感じがあります。荒木氏が出家するまでの出来事や彼の心模様が出てきたことで、ひとまず観客が事件を理解する助けにはなったと思います。宗教が身近でない国で、無から宗教への芽生えが生まれるというのは、ほかの国ではあまりないことかもしれません。また、監督の両親や報道陣に謝罪の言葉を発することをすごく躊躇する姿は、たぶん一般的にはまだ洗脳されているとかテロルを正当化しているとか言われるのではと思うのですが、彼は広報担当だし、事件を起こした実行者でもありません。だから、大きな意味ではクレーム対応なのだと思うのですね。それに、麻原氏と決別するかどうかは個人の問題です。師と決めた人だからと彼が言うのは、たぶんそこを否定してしまうと自身の人生の数十年を白紙にしてしまう恐れもあったと思うし、それ以上に、麻原氏のことをすごいと思った初期衝動は犯罪とは別のものだからなのでしょう。奇しくも私が鑑賞した3月20日は地下鉄サリン事件からちょうど26年の日でした。

別の作品を関連付けますが、『キャラクター』は永井監督らしい映像強度の強い作品でしたが、劇中に登場する4人家族崇拝というカルトは、どこかヤマギシズムやオウムを参考にしている感じがありました。90年代カルトで生まれた戸籍のない子どもの悲劇といったところでしょうか。殺人鬼の生い立ちを見つめ、私という人物が何なのかという話に結びを作っていっているわけですが、振り返るだけでなく、未来を見つめる終わり方をしてくれればなおよかったのかなと思っています。一作品としては、とくにタイトルが出てくるところの映像のスタイリッシュさはいつもながら見事で、サイコスリラーとして申し分なく面白く観ました。小栗旬が突然刺殺されるシーンには私もびくっとしました。わりとゴア描写が強く、あわや妊婦が刺されるかというところまで実にひやひやするのでなかなかに心臓に悪いです。

1995年の一連のオウム事件から数ヶ月後。『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996)のテレビ放送が開始されました。本放送当時、私は中学生で受験生だったこともありリアルタイムで観ることはなく、同学年には同じように過ごした人も少なくなかったはずですが、高校に入学すると、自分の部屋にテレビのある家の子は深夜の再放送で番組にドハマりしていったのを目の当たりにしていました。深夜にテレビを見るなどもってのほかだった我が家ではエヴァンゲリオン文化が芽生える余地もなく、ただただ友人たちの熱狂を隅っこで眺めるばかりでした。そんな私が『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開を機に意を決して、配信で過去のテレビ番組と劇場版をすべて追いかけました。価値観の変容にとても敏感で社会に居場所をなくしてしまった人にとって、アイデンティティの喪失と強烈な父性への反発で迷走する碇シンジがカタルシスになっていたのかもしれないなと感じました。この作品の一方で庵野秀明監督が、鈍感な社会を手中に収めて躍動する女子高校生たちを描いた『ラブ&ポップ』(1998)をも制作しているということに、いまさらながら驚きました。

『ドライブ・マイ・カー』はエヴァンゲリオン

90年代論を少し脱線しますが、『シンー』についての詳細は後述するとして、シリーズを一通り鑑賞したあとに『ドライブ・マイ・カー』を観た私の感想は、碇ゲンドウを主人公にしたエヴァンゲリオンではないかというものでした。

どこまでが村上春樹の原作なのか分かりませんが、全体のプロットが原作のままだとしても、オーディションの様子や、韓国やアジアの国の人びとと共演したりする、その脚色や演出は濱口竜介そのものでした。主人公・家福の演出方法は監督のそれで、ラジオ「アフター6ジャンクション」での監督インタビューによると、自身にとって自信のある方法をそのまま取り入れたとのこと。そうなのですが、それ以上に、ある意味では家福=濱口な部分があるのではないかとも思いました。いつまでも立ち稽古が始まらなくて演者たちが訝しむのは『親密さ』(2011)と同じで(もちろん演出法自体も)、あのときは若い男女ふたりの話だったから見えにくかったものの、あれはあれで監督がふたりに分化して同じ方向を向いたり対峙したりしていたんだなと気付かされます。『親密さ』で佐藤亮が演じる男の要素を強めに取り入れたのが家福なのだと思います。青年団やチェルフィッチュを取材しているようですし、全体を通して現代口語演劇で演者の癖なり大仰さを殺しているのはいつも通り。2012年にオーディトリウム渋谷でのレトロスペクティブで濱口竜介に衝撃を受けた身としては、自動車事故の様子は『ハッピーアワー』(2015)だなとか(『寝ても覚めても』(2018)もですね)、韓国人といえば『THE DEPTH』(2010)だなとか、どうしても過去作品と比較して楽しんでしまいます。濱口演出でないと到達できない感覚は確かにあり、いい湯につかった気分になります。

あのドライバーを北海道出身の三浦透子が演じていますが、ドライバーが北海道の上十二滝村という架空の(これは村上春樹の設定だそうですが)村の出身であることの一致は偶然でしょうか。広島から2日間で車と新潟経由でフェリーで行って帰ってきたのだと思いますが、気が遠くなるような行程です。劇中劇「ワーニャ伯父さん」を多言語でやるのは面白いですし、演劇とはそういうことも可能なのだよなと感じました。そこに韓国手話が入ってくるのはすごかったです。劇は家福と彼女のふたりで終幕します。それは妻を亡くした家福への、まさに福音なんだろうなと思うのですが、あれっと思ったのは、次のシーンには主人公であるはずの家福は登場せず、韓国に渡ったみさきの物語になってしまっていることです。この違和感と、既視感。まるで『シン・エヴァンゲリオン劇場版』ではないか。列車のなかでシンジと対峙したゲンドウが妻との別れを遂げて列車を降りるシーン以降、親子の話だったはずが、ゲンドウは登場せず、気が付いたらシンジが宇部にいる、あの感じ。亡くなった妻を心のなかで成仏できずにウジウジしてるのをバレないようにイキってる男の話として、これは同じではないのかと。そのため、エヴァンゲリオンあってこその『ドライブ・マイ・カー』だというのが、すっかり私のなかでの通説です。

世の批評では、家福がモラハラだとする指摘もありました。鬼演出家とハラスメントの境界線はけっこう難しい問題だと思いますが、深刻な話題を目耳にする機会が増えており、急速に見直しの機運が高まっていることは記しておきたいと思います。また、手話を動作記号としか捉えられていないことへの批判もありました。ここも私の学習が足りていないのですが、ただしこの批判を教訓にしているのではないかと思われる作品が登場しつつあると思っており、この論点は2022年に譲ります。(レビューできれば、ですが)

90年代を振り返る(2)

90年代論に戻します。『ボクたちはみんな大人になれなかった』は90年代末を出発にした平成後期のグラフィティ的作品でした。全体的に『ペパーミントキャンディー』(2000)方式を採用しているように見えるのですが、韓国の本家は優しい青年が軍事政権下に徴兵されて学生を撃ってしまい、除隊後も人が変わったように人生が転落していく、政治に人生を狂わされた物語になっています。戦後の日本にここまでの時代の重厚さはありません。そうなのですが、本作中で一番古い時代が98年ごろなので、山一証券とか北海道拓殖銀行とかの破綻の翌年、経済的にこの国が転落していった時期です。そこからコロナ禍の今日までの20余年は、転落する国とそこに生きる転落した人たちの物語として、日本版『ペパーミントキャンディー』がなんともしっくりきていました。

40代半ばになった現在の主人公は、婚約者に逃げられて、収入はまあまああるのかもしれないし会社も大きくなったけれど、すっかりクズになってしまっている。行きずりで瀟洒なホテルに連れ込んだ女はDVDを6枚も出しているというが、いずれもB級のイメージビデオ。こんなものに出たキャリアを口に出すのか、と思ったかもしれないが、しかし彼がいま20代の若者だったらそうしたかもしれないという気持ちもあったのではないでしょうか。この国がトッブギアで走っていた1970年代と80年代から、なんだか速度が落ちたけれどサードで我慢すれば元に戻ると思っていた90年代、ところがますます速度が落ちてセカンドから踏ん張らないといけなくなって、もう牽引車がないと移動できないぐらいになった現在。この国は確実にギアチェンジしているのに、変化に気付いていない、というよりは、気付いていたのかもしれないけれど、いまちょっと我慢すれば元に戻ると思い続けて30年以上が経過したように感じます。ふつうになんかならないと思ってたのにふつうになっちゃった。ラスト、タクシーに乗った主人公が「ふつうだな」とこぼすのが印象的です。

劇中、多用される小沢健二。かつて主人公が付き合っていた文通から始まった彼女はペンネームが「犬キャラ」。ドライブデートのシーンで、MDウォークマンをカセットでカーステレオとつないでかけたオザケンが、道中ずっと流れています。あの、ちょっとずつぶつ切りにたくさんの曲をかけて時間と移動距離とふたりの関係性を示す演出はすごかったと思います。『ジオラマボーイ・パノラマガール』(2000)にはなかった正しいオザケンの使い方、正しいパルコの使い方がありました。FAX、ポケベル、公衆電話、コムスンを思わせる事件、そこから復活してくる謎の男、30年続いたバラエティ番組の終了。小道具やトピックの拾い方もいい作品でした。

さて、90年代を戦後からの流れで捉えた作品もあり、2021年は『孤狼の血 LEVEL2』でした。前作は深作オマージュをしたかったんだなあと思いつつ、育ちのいいお坊ちゃんたちの芝居が鋭さと残虐さを履き違えてないかとか、吠えてもお上品なんだよなとか思ってしまい、個人的には退屈でした。しかし今作は、まだ野暮ったさはある気もするものの観点が変わったせいか、面白く鑑賞しました。それでも、どすを利かせることがゆっくり喋ることだと思っている役者が多いのは気になります。成田三樹夫や渡瀬恒彦があんな演技をしていただろうか。

今回の主要な舞台は、西野七瀬と村上虹郎が演じる姉弟が住む、平成初期だということを忘れさせる、原爆スラムを彷彿とさせるような、原爆ドームを望む住宅地。一億総中流を達成した時代になお残る貧困とヤクザの世界の関係性を描いていることが今回の特徴だったと言えます。この世界には戦後がいまだ息づいているということを描写しているように思います。その舞台に、ヤクザ云々を超越したサイコスリラーが出現します。その端緒は、主人公がかつて工作した事件だったということ。ヤクザみたいな所轄警察官の主人公と、中村梅雀演じる県警本部の老刑事のバディの捜査には趣がありました。梅雀を思わぬところで堪能できたのはとてもよかったのですが、彼の存在自体が県警が仕掛けた罠で、妻と称する宮崎美子演じる女も含めて紛い物だったというのがとてもいい。宮崎美子がシャマランかアリ・アスターの映画に出てきそうな気持ち悪いキャラクターになっていました。むしろそっちのほうがサイコスリラーじゃないのか。ラストに狼を探すシーンは鶴岡慧子『過ぐる日のやまねこ』(2014)を思い出しました。

さきほど大瀧詠一の言葉を出しましたが、90年代も初頭の音楽シーンは独特なものがあったのではないかと思います。『映画:フィッシュマンズ』は170分ぐらいあるのですが、一冊のノンフィクションを読み切ったような、ずっしりとした読後感がありました。フィッシュマンズは私にとってはもっと大人たちの音楽で、リアルタイムではほとんど知らなかったですし、失礼ながらちょっと気持ち悪い音楽の人たちというぐらいの印象だったのを覚えています。ましてやレゲエバンドだったことも知りませんでした。もともとはイカ天よろしく立ち上がった学生バンドで、音楽的な特徴はあまりなかったなかでほいほいとメジャーデビューすることになって、そのあとでカラーが出てきたというのがこの時代らしいなあと思います。実力がないまま大人の意のままに大きくなってしまう、90年代の謎の雰囲気をひしひしと感じます。その後にさほどのプランもなく放置されてしまうあたりも時代だなと。亡くなった佐藤伸治氏が最初のレコーディングでこだま和文氏を指名したというのは、彼にだけは何かが見えていたのでしょう。おそらく天才肌の彼はどんどんとハイクオリティな人びととやりあうようになるのですが、バンドのメンバーはそれについていけなくなる。たぶん暴君に見えたんだろうなと思うけど、得てして天才とはそういうものなのかもしれないですね。そうやってひとりずついなくなって、でも前進し続ける佐藤氏には、最後は自分さえもいなくなってしまうんじゃないかという思いがあったのかもしれません。本作は多くの人物のインタビューで構成されていますが、最初のうちから佐藤氏の死後までスピード感をあまり変えずにじっくりと追っていることに映画的正しさを感じました。数々のインタビューが、誰とも交わらずに語られていることには、スケジュールの都合もあるのだろうけれど、関係性の壊れたものがあるようにも感じられました。最後に一堂に会するステージが素晴らしかったです。

1998年はサッカーのワールドカップに日本が初出場した年でもありますが、ウインタースポーツに親しみのある身として長野オリンピックは思い出深い大会です。とくにスキージャンプは(五輪以前に)大倉山シャンツェで大会を見たこともあり、私のなかではいつまでも目玉競技です。あのときの日本代表選手を捉えた『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』はド直球のスポーツ歴史ものでした。ただのお涙頂戴とかスポコンとかではなく、史実ものとしてここまでストレートな作品は、日本映画では珍しいのではないかと思うほどです。韓国映画の『ハナ ~奇跡の46日間~』(2012)を思い出すものがありました。それにしてもまさか西方仁也選手が映画になるとは。98年のスキージャンプを題材にするにあたって初めから西方選手ありきだったのでしょうか。原田選手や船木選手ではなく、西方選手というスポットライトの当て方は見事だと思いました。94年リレハンメル大会での原田選手の不発で優勝できなかったところから始まる4年間の物語。作品を観ながら、西方選手はテストジャンパーとしての役割に使命を感じて名裏方として君臨するのだろうと予測していたのですが、それに反して、終盤までずっとやる気がなく、引き受けるんじゃなかった、引退しようとか言っています。この映画は大丈夫なのだろうかと心配していたら、ラストのラストでようやく「いま、ここ」の意味と意志が現れます。

思えば飯塚監督の作品です。暇人を撮らせたら日本一の監督による、くさくさした男の悶々とした作品なのでした。まさに飯塚映画でした。テストジャンパーのなかには難聴者がいて、そういえばそんな選手いたなあと思い出したりもしました。女子ジャンパーがいたのはフィクションかと思ったら、ちゃんと史実で、なんといい話なのかとも。その後の女子ジャンプの黎明につながっているし、まさにネクスト社会の予兆でした。その女子ジャンパーを演じた小坂菜緒がことのほか器用に北海道弁を操り、その強烈なまでの真っ直ぐさが当たっています。私にとって、この時代の話はいやがおうにも泣けてきてしまうのです。クライマックスの急激な盛り上がりと原田選手の再現が素晴らしい作品でもありました。出ないのかなと思った当時の写真がわずかに紹介されたのも素晴らしい。こんな現代史も映画にできるようになったことにも感慨深いです。ちなみに本物の船木選手はもっときれいな飛行だったような気がするのですよ。

これはフィクションですが、『夏への扉 ―キミのいる未来へ―』は、日本を舞台にした作品にするにあたり、時代設定も含めた脚色がなされており、やはり90年代が特徴的に登場しています。

主人公の設定が1968年生まれで、1995年に開発者としての将来を断たれてしまうのですが、1995年と言えば(しつこいですが)エヴァンゲリオンです。1968年に3億円事件の犯人が逮捕されているような現実とはちょっと違う世界線で、90年代にはタイムマシンの実験も成功しているのですが、阪神淡路大震災の様子はこの世界線にあっても描かれています。ただの空想話というよりは、いわばこの国がたどれたはずのもうひとつの道を描いているように感じられます。現実の90年代では、どう生きたらいいか分からずオウムに入信してしまう若者がたくさんいた社会を、科学者が未来を切り開いて別世界に作り替えているようです。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(2007-2021)では暴走した初号機に乗ったまま、主人公が宇宙で14年間も成長が止まったままたぶん眠っているのわけですが、それは30年間凍結催眠していた本作の主人公とも似通っています。ちなみにタイムマシンの科学者との関係は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ(1985-1990)をトレースしたと思われます。

また主人公と仲のいい少女・璃子がいつも聴いているMr.Childrenの「CROSS ROAD」は調べると1993年の作品で、その後にもヒット曲がたくさんあるのにわざわざ本作で使用されているのが気になります。この曲は「同窓会」というテレビドラマの主題歌になっていました。私はリアルタイムで見ていなかったので聞きかじりで恐縮ですが、同性愛やバイセクシャルを扱った作品の嚆矢と位置付けられているとのこと。その登場人物たちが27歳で、本作の主人公とちょうど年齢が一致しています。90年代のなかでもエポックメーキングな出来事が続いた1995年と、新しい時代の物語としての「同窓会」をつないで、失われた数十年と言われている歴史を、1960年代から今日まで有機的に連関させようとする試みなのかな、というのは妄想が酷すぎるでしょうか。だとすればたいへんチャレンジングなわけですが、ただし、璃子も含めて2011年を寝て過ごしてしまったことについては物語としてかなりうっかりしているのではないかと思います。あるいは、2011年は転換点ではなかったということなのでしょうか。それについては同意できなくもないのですが、本当にそういう考えに基づいているのかはちょっと分かりません。20代後半から30代前半ぐらいの登場人物の物語は、やはり三木監督の得意領域だなと実感した作品でもありました。また音楽との相性のよさも三木作品だなと思いました。

90年代を振り返る(3)

2021年は海外でも90年代について考えさせられる様々な題材が映画になりました。最後に海外の作品を取り上げたいと思います。『ソウルメイト/七月と安生』『サムジンカンパニー1995』については先に取り上げた通りで、それぞれ90年代の中国と韓国が舞台の物語でした。同じアジアでは、配信作品『軍事国家ミャンマーの内幕』は1990年に最初軟禁されたアウンサンスーチーが政権を奪取してからいかに困難な国家運営を強いられていたのかを映し出しました。ミャンマーのニュースを見聞きするたびに彼女は善良な為政者なのかという疑問が沸いたものですが、それはかなり困難な国家構造に押し潰されたことによる印象だったことを思い知りました。軍が突然民主化すると言って、制服を脱いで変わらぬ面々で民主政治ごっこをおっぱじめる光景には、フィクションなのだろうかと目が点になります。制裁解除で外資を獲得したいだけなのですが、かといってIMFなどに救済を求めると外圧で民主化されてしまうので、アジア通貨危機からの学びとして、自ら民主化した体を保つという作戦に出たのがすごすぎます。そしてロヒンギャ問題が顕在化します。この迫害が、おそらく唯一と言っていいぐらいに国民に支持された軍の行為だというのが本当に恐ろしい。強烈なリアル田舎ホラーです。外国に調整を求めたことでロヒンギャ側が暴発したという流れはあまり飲み込めなかったので、予習復習しないといけないなと感じています。

旧ユーゴスラビアの歴史と、マカオの歴史。『いつか、どこかで』は90年代に激動の時代を送った世界を浮遊するロードムービーでした。90年代の総括として、日本以外のアジア諸国をレビューしてきましたが、そのアジアとヨーロッパとをリンクさせたのが本作の特徴です。細かく分裂した国々を、ピクニック感覚でひょいと越境できるロードムービーですが、それぞれの国の華やかさの違いにハッとさせられます。そんな探訪が、インスタグラムで知り合った人に会いに来たという軽さから始まります。本当にあんなに治安がいいのかはわかりませんが、スラブ地域独特の、日本の東北地方のような田舎っぽさと人のよさが印象的でした。

『スクールガールズ』は1992年のバルセロナ五輪直前ぐらいのスペインが舞台。あまり大都市でない場所の修道院のように見えますが、いわゆるミッションスクールっぽいところの生徒たちなのだろうと思います。高校生の話かと思ったのですが、それよりも幼く見えるので中学生なのかもしれません。90年代初頭ということで、当時地元で流行っていた音楽がたくさん流れたり、背伸びしてディスコに行ったりするシーンや、テレビでユーゴスラビア情勢についてニュースになっていたりします。当時のスペインをそれほど理解しているわけではないのですが、アジアにおける動乱期とはかなり違う平穏な様子が窺えます。むしろすごく普遍的なものとして、思春期のちょっと不良な日常と、母子家庭への冷たい視線、我が子をそうさせないためにと強気に出ることが裏目に出る母親の物語になっていて、母親が長らく疎遠にしていた自身の母親との対峙も描かれます。ラスト、歌が上手でないためかずっと口パクを指示されていた主人公が歌い出すところで終わりますが、それはもちろん自立とか成長とかを意味していて、でもそれだけでなく、反抗心を持ち続けたまま生きていくという意思の固さも見受けられました。ただ、この物語でこのタイトルなのにはちょっと違和感があります。原題は「女の子」という意味らしく、そのほうがしっくりきます。

00年代も振り返る(1)

先ほども書きましたように、2021年のトレンドは90年代論より00年代論になると思っていたのですが、あまりそうなりませんでした。将来的に00年代を本格的に振り返られるようになってはじめて、この年にトレンドにならなかった理由を考察できるのだと思います。単純に振り返るにはまだ早かったのかもしれません。少なくとも、各年代のカラーみたいなものが、まだパッと思い浮かばない気もしています。情報化社会というものが時代の差を失わせているのでしょうか。『竜とそばかすの姫』について反芻するにつれ、インターネットが作り出す未来について想像することの難しさについて考えてしまいます。

細田監督は相変わらず仮想空間に言及し続けています。インターネットについての映画というと『(ハル)』(1996)を想起する方は多いと思いますが、以前のこのレビューではTBSドラマの「空と海をこえて」(1989)を嚆矢として紹介しました。細田作品がいまでも、あの世界観からそれほど変わってないのはある意味ですごいことです。せっかく『サマーウォーズ』(2009)でユビキタス(メタバースと置き換えたほうがよいでしょうか)っぽくなってきたのに、またしても「第四空間」っぽいものにとどまってしまう。ちなみに「第四空間」とは学校、家庭、地域社会のどこにも居場所がない人が集まってくるインターネット空間のことで、宮台真司が作り出した言葉です。世界観が近いものに『レディ・プレイヤー1』(2018)がありますが、あれは個人のアーカイブにたゆたう話なので、何ができるのかよく分からない“U”の世界とは明らかに異なります。“U”はセカンドライフとも違うし、「空と海をこえて」にも登場するパソコン通信的な何かのように見えます。ただ、冒頭の映像のすごさは圧巻で、これを描くことに心血を注いだと言われれば、それは見事だと言いたいです。それに高知の山々の絵も、男鹿和雄とまでは言わないにしてもとてもきれいでよかったですし、冒頭を観た時点では傑作の誕生だと思いました。カンヌが上映したのも頷けるなと。

内容も、現実世界の学校での陰キャとか陽キャとかの『桐島、部活やめるってよ』(2012)みたいな世界と、インターネット内の誹謗中傷もあるような好き勝手でひがみや妬みで溢れた世界の描き方もいいと思いますし、このテーマをきちんと取り扱ったという点では面白いと思うのです。とくにジャスティというキャラクターは、秩序を守っているという名目でスポンサーもついているが実際はイキって正義を振りかざして誰かを虐めているだけの存在ですが、彼を支持して従っているうちは痛快な存在であり続けるという不健康さ、気持ち悪さを可視化することは大事だと思います。ただそれは物語の本筋ではなくて、やがて竜とは誰なのかという問いに収斂していきます。主人公はそれを知らなくてはいけないという使命感にかられるわけですが、そもそも個人情報ですし、それを暴くことが大事だという発想がよく分かりません。しかし主人公は果たして発見してしまいます。

その映像から聞こえるチャイム・・・あれ、毎日のように聞いている気がする。川崎じゃないかと思ったら、本当に武蔵小杉のタワマンが映し出されます。いまさらですが、私は川崎市民です(ちなみに2023年に転出しました)。DVの象徴としての川崎、そしてタワマン。そこに主人公が単身乗り込んでいくことの危険性を指摘する声がありますが、そりゃそうですよ。ただ興味深いのは、身近な話がインターネットで壮大になって、壮大なフィナーレになっていく過去作と違って、ミニマルな家庭の問題にフォーカスしていく、しかも女性が男兄弟を助けに行くという設定になっている点にあったと思います。

蛇足でしょうけど、多言語を超越して交流している“U”において、高知と川崎の話でいいのか、という疑問はあります。これがたとえば高知とソマリアだったら救おうとせず見捨てるんじゃないかという気がしてならないのですよね。最後に、主演の中村佳穂は本当に素晴らしかったです。

00年代も振り返る(2) モーヲタという名の青春を愛でる

さて、2021年の映画シーンが00年代を振り返るトレンドにならなかった理由に話を戻しますが、振り返る媒体がもはや映画ではなくなったということも仮説になり得ます。だからこそ、最新の事柄を映画にしようと考えると、上記のように逆に古臭くなる可能性もちょっとだけ感じています。物語にリアル空間が必要だと考えたときに、題材を作りにくい可能性もあります。リアルが見た目としてつまらないからです。その意味では、『あの頃。』はリアル空間におけるキラキラした思い出を詰め込んだ、稀有な00年代映画だったと思います。

私も元モーヲタですが原作未読でしたので、本作は私よりもっと上の年代の話だと思っていたのですよね。それこそライムスター宇多丸氏や杉作J太郎氏がヲタだったのは4期メンのあたりだと聞きかじっていたので。しかし物語が始まる2004年のCDショップに並んでいるものは当時私も持っていたものばかりで、そうか、むしろ私よりもう少し後の話なんだと気付きます。といっても1〜2年ぐらいしか変わらないと思いますが(調べたら私は原作者劔氏の1歳年下でした)。主人公は大学院に進学できなかった人として登場したのだと思うのですが、年齢的には私とほぼ同じで、モラトリアムの時期に、私もやっぱり同じような落ち込み方をしていて、しかもジャックスなんか鼻歌を歌うところもまったく一緒で。自分がなっちやこんこん推しだったところを、主人公の劔があややだったに過ぎないのでした。誰かに強烈にハマって推しになることについて論理的に説明するのはたぶん不可能で、自分のなかでは交通事故に遭ったという解釈で落ち着けています。ちょっと脱線しますが、大学院時代のモラトリアムというのは、思えば結構深刻だったのかもしれません。せっかく社会人になるチャンスをふいにして、講義もほとんどなく、1年のうち200日以上は自習なのだから、コロナ禍に学校に行かずに高校生になってしまった若者となんだか似ているなと。

私の周囲に似たヲタがいなかったために本作のような仲間はいなかったのですが、かつて一度だけ、オークションで落としたコンサートチケットがあって、おそらく相模大野にごっちんのソロコンを見に行ったときではないかと思うのですが、チケットの受け取りのためにヲタが集まるファミレスに入ったことがあります。ファミレスでだべってるあの感じ、車の中で大音量でハロプロをかけている感じ、まさにこの作品の世界そのものでした。あのときすごく仲良くなっていたら、今頃違う人間関係もあったかもしれません。問題なのはコミュニケーションです。彼らは、実はコミュニケーション力がとても高いのです。それがない僕は誰かと急速に仲良くなるというのがすごく難しい。それでたくさん損してきたと思います。作中のあんなトークライブがあるのはすごく羨ましいのです。

実は本作の物語は、思っていたものとずいぶん違っていました。序盤、あややにハマってしまった瞬間から仲間ができて学園祭に乗り込むくだりは面白く、ディープな世界をたくさん思い出すだろうなと予感しました。しかしあやコンのシーンでいまおかしんじ演じる20年後の劔が登場するあたりから、ちょっと違うなと。あんなふうに客観視するということが、夢中になっているものに対してあまり訪れることがありません。もっとも、あのシーンはラストへの布石になっているので必要な演出だと思うのですが。

実際は00年代史みたいになっていて、ブラウン管とDVD、折り畳み式のガラケー、iMac、mixiなどの風物がたくさん出てきます。90年代に比べて圧倒的にIT化は進んだけれど、それでも世界を根底から覆している感じはまったくなくて、本当に社会全体がモラトリアムな気がしました。もしかしたら、近代以降でこの時代ほど日本が世界から見向きもされなかった時代もないのかもしれません。作中には「恋愛研究会。」のメンバーの親とか親戚とかがまったく出てきません。本作を00年代の『トキワ荘の青春』(1996)みたいにも見られると思いますが、あんなふうに彼らを見つめてくれる大人の存在がありません。たとえ嘘や幻想だとしても、『就職戦線異状なし』(1991)のような進むべき将来の姿みたいなものが浮かんでこない時代の、ちょっとだけ大人の青春群像劇なのでした。

後半はわりとハロヲタでない時期の物語が続きます。病床のコズミンもフィギュアを集めています。私の感覚でも、2008年にもなるとハロプロがそれまで持っていた歴史の連続性みたいなものがちょっと潰えた感じがしましたし、彼らにもいよいよそれぞれの人生があるころです。その意味ではコズミンが一番純粋に「あの頃」に取り残されていたように見えました。イベントも本来の趣旨ではなくなってしまい、シーンとして当時の男性的価値観が修正されずに出ている部分があり、否定的な意見も見られます。それはそう言われても仕方ないことかなと思います。そこを今日的観点で修正したことによって彼らの生き方に持続可能性が生み出されてもちょっと違います。破滅とも疎遠とも違う関係性が続いて、中学10年生が20年生になっても、好きなものは好きだし捨て去るものではありません。ユーミンが作詞した「いちご白書をもう一度」の髪を切った青年からすると、本作の彼らは勝者だと、私は思います。

ラストの道重さゆみの発言のシーンは生き方の強い肯定だと思いますし、これまで生きてきた道のりがいまを楽しくさせているというのは、コロナ禍におけるメッセージとさえ感じました。好きなことを続けるために売れるものを作らないとと葛藤した『トキワ荘の青春』、好きな人といるためには変わらないといけないと葛藤した『親密さ』、『花束みたいな恋をした』とは違う、売れなくても変わっても変わらなくてもいいけど好きなものを好きでいるという指針が出てきました。それは監督が述べるように、起承転結では収まらない、「結」がない物語をどう描くかということでもあります。それは時間の扱い方が変わってくるということです。その意味で、映画史にひとつ石が置かれたのかもしれません。監督と言えば、本作の監督は結局SNSを手放さなかったのですね。

00年代も振り返る(3)

『サイダーのように言葉が湧き上がる』はすごい色彩感覚の作品でした。団地とショッピングモールと、その前の田んぼと、じいさんが営むレコード店。ほとんどそれだけの世界観。ショッピングモールの前が田んぼというのがいかにも00年代の地方都市のショッピングモール然としていてよいのですが、モールをワンダーランドのように描くことはなく、ただの箱庭的な街として描かれています。なかでもデイケア施設でのシーンが多く、箱庭の究極は駐車場でおこなわれる夏祭りです。そのミニマルな世界から捻り出される俳句は、風景のよさではなく、若いはじけるような気持ちを季節の言葉に乗せています。ヘッドホンで外界を遮断する主人公と、マスクで口元を人に見られないようにする女の子、それぞれのコンプレックス。そしてモールの土地の歴史とじいさんの恋とご当地ソング(なんと歌声は大貫妙子!)、ラテン系のいたずらな少年。そのひとつひとつが地方都市の、さらに郊外の風景をよく表していました。SNSの使い方がよいという評がありましたが、たしかにしっくりしていますよね。俳句とtwitterは相性が良いのです。さわやかな青春活劇でした。世界を救わない系のアニメーションといった趣でした。

もう一作、『ランブラーズ2』は『リアリズムの宿』(2003)の17年ぶりの続編でした。とても小さな作品でしたが、当時の登場人物がちゃんと枯れて出てくるのは楽しかったです。売れない時代からのつながりで、最後まで売れないまま亡くなった役者の葬儀で一堂に会す様子が、『あの頃。』っぽくもありました。また、前述のように『女たち』の主人公が00年代の就職氷河期を経てままならない人生を歩んでいたことを、いま一度付記しておきます。

海外のほうが00年代がビビッドなのかもしれません。『モーリタニアン 黒塗りの記録』は、これが実話だということがすごいというか、観ているこちらも具合が悪くなりそうな話でした。ドイツに留学して初めて自由を謳歌できた青年がアフガニスタンで軍事体験をしていて、それがもとで証人として連行されたものの起訴されないまま長期の拘留がされたばかりでなく、グアンタナモで最初の死刑囚候補として選定され、米軍が何らかの罪状で起訴をしようと強烈な拷問を展開します。錯乱状態を超越した究極的な異常さ。それでもその男には、自白の後に米軍に差し出されたハンバーガーを吐き出す信念がある。弁護士が言うように、グアンタナモに収容所があるのは、収容された人ではなく、収容している側が何をしてもバレないようにするためなのでしょう。もともとはソ連のアフガン侵攻によりそれに抗う側として米国が支援に回っていたのに、911を経て当時の政権があべこべな作戦を展開したために、文脈のない罪と犠牲が発生してしまった。それだけでなく、後継の政権はノーベル平和賞を受け取った人物ですが、裁判で無罪になっても拘留をやめなかった。

裁判においてリモートで証人になった男は、それらの扱いについてアッラーの名のもとにすべて赦すと言います。あるいは、収容所で出会ったマルセイユと呼ばれた秘密の友人が亡くなったときの祈りの言葉は、子供も老人も男も女も、信仰のなかに死があるという内容でした。キリスト教的なものが世界を秩序あるものにしていく、救済するという大義名分が言われがちですが、実際にはそんな博愛的なものは憎しみのもとで潰されていて、むしろ相手の男が、本来言うべきことを言ってのけてしまう。取引とか非難とか要求とかではなく、赦しによって相手に残っているかもしれない善の感情に訴えかけている。問題の本質は宗教ではなかったのだ。こうやって史実が再現されて公開されることの、作り手たちのパワーには感服するし、ラストに登場する本人が明るく理知的で、実はそれが一番すごかったです。

本項の最後に、時代を飛び越えて、インターネットの未来は実はこれだったのかという、最新の世界の映画化について取り上げたいと思います。『悪なき殺人』は、フランスの田舎町で発生していることが遠くアフリカの地とつながっているという、インターネット時代の松本清張みたいなダイナミックさがあり、それがこの作品の面白さを決定づけているのだと思うのですが、ひとつひとつの関係性だけを取り上げても十分に作品として深みと緻密さとリアルさをもって語られています。その充実感がすごいですし、中心人物だと思われた心を病んだ青年が後半でどうでもよくなっているのがまたすごい。観客を遠くに連れていける作品だったと思います。アビジャンでのなりすまし裏ビジネスで大金を手にした青年が地元の成金みたいになっているくだりが最高にいいですね。無用に華美な服装で決め込んで、クラブで司会者にCFA将軍と持ち上げられて(そのネーミングセンスがたまらない)、お金を手品みたいにばら撒く浮かれっぷり。でもきっと、フランスの人からすればさほどの大金でもないのでしょうね。その差さえも浮き彫りにしています。そしてその青年の元カノが小金持ちのフランスの老人にお金を払ってもらって渡航するのですが、アビジャンとは比べ物にならない田舎町に連れてこられて呆然とするのがラスト。これってほぼ人身売買だよなあと。奥さんに隠れてチャットをして、あろうことかアビジャンまで来てしまう男が小太りで目つきが悪いというのは、仕方ないのかもしれませんがルックによるイメージを優先してしまっているようで少々気になりました。

ふたつの震災(1)

2021年は東日本大震災から10年だったためか、劇映画もドキュメンタリー作品も、あの震災を題材にした作品が多かったように思います。その一方で、前年が阪神淡路大震災から四半世紀だったこともあってか、数は少ないですが良作が観られもしました。

阪神淡路大震災から時間が経った現在の神戸を切り取った作品としては『れいこいるか』(2020)が代表作なのではないかと思いますが、2020年の日本映像グランプリで受賞した『にしきたショパン』は、いわば、若いふたりによる『れいこいるか』でしたし、ピアノと青春と挫折の物語は『蜜蜂と遠雷』(2019)を想起させもしました。ピアノレッスンで切磋琢磨している高校生のふたり。男性のほうが天才的な技能を持ち、コンクールで優勝して海外留学するものと目されていた。しかし震災が発生し、彼は腕を怪我してピアノが弾けなくなります。コンクールでは女性のほうが受賞し、やがてピアニストになります。1995年に震災があって、不景気とは言われながらも一時的なものだろうと思われた社会は一変しました。震災でピアニストの夢が断たれて、それでも何かに負けまいとして恨みにも似た意固地な青年になる男には身につまされますし、あの益体もない、過去に引きずられた感じが時代に人格を持たせたかのようにも見えます。留学先から帰国した女もまた過去に引きずられていきます。変調をきたす彼女もまた時代の体現です。『れいこいるか』『さくら』(2020)と並んで、90年代関西シーンの良作が続いていることが素晴らしいと思います。高校生時代と青年期のメイクや演出の使い分けも見事で、作品に引き込まれました。

『心の傷を癒すということ≪劇場版≫』はNHKドラマの再編集版。神戸、在日カルチャー、そこから心の問題に関心を持った青年が主人公です。やがて訪れる震災。『浅田家!』同様に避難所の様子が描かれ、避難所や仮設住宅で精神医療のボランティア活動をした実在の精神科医の日々を、柄本佑が演じています。精神科医の目を通して描かれるので、震災後に「残された者たち」が生きるための様子なのですが、当時の精神科医の立ち位置や、心の病というものの落第者的な感覚にいかに辛抱強く立ち向かっていったかが描かれていました。先ほどの通りNHKドラマだったためか、演出担当のクレジットはあっても監督ではありません。そのこととつながっている気がするのですが、物語を通じて何にフォーカスしようとしたのかはわりと薄く、ずいぶんと淡々とした物語になっている印象がありました。しかしあえて存在感が濃く描かれなかったことによって、主人公の人柄を映していたのかもしれません。柄本佑がとてもよかったと思います。さりげなく90年代後半の不景気も映し出されていました。

脱線しますが、柄本佑は『痛くない死に方』でも風変わりな医師を演じていました。病院勤めをやめて訪問医療のスタッフになった医師は、末期癌患者の自宅療養に付き合いますが、最後に苦しんで亡くなってしまったことに思い悩み、先輩医師に相談し、彼のもとで勉強することになります。冒頭の主人公はとても飄々としていて、この感じでずっと進むんだろうか、変わった作品だなと思ったものです。これがもっと若い主人公であれば、常識知らずの青年の成長譚として描かれるところでしょうが、演じているのは柄本佑です。それまでどうやって生きてきたのかもうちょっと描いてくれてもよかった気もしますが、ともかく先輩医師のもとで痛くない死に方を目の当たりにして、新しいキャリアを築き始める物語です。往生することがどういうことなのかよく伝わってきました。『病院で死ぬということ』(1993)とのつながりで捉えたくなる作品でもありました。怖い奥さんの梅舟惟永や、苦しんで死んだ父親に自分を責める坂井真紀。先輩医師役の奥田瑛二と同僚となる大西礼芳。主人公が担当した患者役の宇崎竜童と、みな魅力的ないい芝居をしています。

ふたつの震災(2)

東日本大震災についてはドキュメンタリー作品から取り上げようと思います。『二重のまち/交代地のうたを編む』は陸前高田を撮り続けているユニット「小森はるか+瀬尾夏美」による作品。『息の跡』(2015)、『空に聞く』(2020)は地元の人物をじっくり捉え、復興の進む高田の土地と風景に溶かしていく作品でしたが、本作はワークショップに集まったよそから来た若者たちが、地元の人たちと行動を共にし、話を聞き、やがて2031年の物語を朗読する構成です。嵩上げによって一新されようとしている高田の市街地。震災のあった2011年と嵩上げ後の2031年の中間にある、2021年。その位置から、過去を未来に向けて押し出していく、そんな作品でした。未来に生まれる人びとからすると、震災があった頃の土地は地下深くに眠っていることになります。遺跡のような感覚なのだと思います。他者が訪れることによってあのときを振り返り、考えがまとめられていく地元の人たちと、自分があまり知らなかった出来事を知り、語り部となる若者たち。彼らを通じて、私たちも何かを知る。それは記憶を歴史にしていく行為なのかもしれません。夕方5時の鐘が鳴って、そうしたら朗読でも鐘の話が出てくるという演出。さりげなくすごい仕事するよなあと感じ入りました。

『たゆたえども沈まず』はテレビ岩手と日本テレビの取材班が追った震災からの10年間の岩手を捉えています。発生時の社屋や各地拠点の様子、取材で撮影された津波とそこから逃げる人びとの様子にはあらためて涙ぐみます。取材班は避難所で何人ものビデオレターを作っていて、今回、その人たちの10年後を再取材しているのですが、お年寄りには亡くなった方も多い。次の世代が家業を継ぐなどしている様子にはしみじみとしますし、ご存命の方々もすっかり小さくなっていて歳月を感じました。

この10年あまりクローズアップしてこなかったかもしれない、震災と障害について、その一端を表した作品として『きこえなかったあの日』がありました。主な登場人物は東日本大震災当時の避難者たちではあるけれど、熊本地震や西日本豪雨、コロナ禍のような災害にもスポットを当てて、災害やその後の生活で苦労する聾者や、一方で災害ボランティアとしてパワフルに活動する聾者を映し出します。避難所で何が起きているのか分からなかったり、誰かの真似をして行動せざるをえなかったりというのは、まったく言葉が通じない外国で路頭に迷ったときに似ているのかもしれません。そんななかで対策を取る聴覚障害者協会の人びとや、仮設住宅などでその後の暮らしを明るく生きる人びと。やがて各地で条例が施行され、その後の災害で避難所に手話のできる人がいるような、時代の流れも見えてきます。かつて聾学校で手話禁止だった時代の当事者がまだまだたくさんいて、コミュニケーションの浸透が追い付いていないのはたいへんだと感じました。まったく過去の話なんかではないのですよね。

ふたつの震災(3)

では劇映画について扱います。まず、扱うテーマとして、震災と原発事故を大別したうえで、それぞれについてまとめて書きたいと思います。一連の出来事であることは間違いないのですが、起きたことに対してどう考え、生きるのかという点では、やはり違うだろうというのが私の意見です。それはどちらが上とか下とかではなく、観点の違いです。まずは震災についてです。

さらに映画について書く前に取り上げたい作品があります。東日本大震災から10年というこの年に、NHKは朝ドラ「おかえりモネ」を放送しました。かつて東北で暮らしていた身として、この10年は重かった。もっとも身内に被害があったとか、経済的に何かを被ったとかではありません。あくまで気持ちの問題なのですが、でも私自身のなかでは重かったと思っています。そんな2021年に、真っ直ぐに震災と向き合った素晴らしい作品だったと思います。私は学生時代に林学を専攻していたのですが、なんと本作の主人公が林業に従事していたこともあり、全放送回を観ないわけにはいきませんでした。ときには一杯ひっかけながらむせび泣いて観たものです。そんなこともあり、「東北」と「震災」と「林業」を合わせて何かを書けるチャンスもそうそうないだろうと、当noteで「おかえりモネ論」というエセーを全8回で書きました。

そして劇映画についてなのですが、この年を代表する震災映画として『護られなかった者たちへ』を挙げたいと思います。先の「おかえりモネ」と本作は、あまりにシンクロ率が高い作品だったため、これについても「おかえりモネ論」に書きました。いま読み返しても、両作品についてそれ以上に書くことがないので、そのシリーズのリンクをここに貼っておきます。全体の半分は林業についてですが、よろしければあわせてご覧ください。

上記でも少し取り上げていますが、『岬のマヨイガ』も震災映画でした。序盤から津波の瓦礫のなかを歩く老婆と少女たち。彼女たちには血のつながりはないが、交流を経て疑似家族になっていく過程が描かれます。少女たちは震災の前にいろいろあって、その渦中で遭った震災によってひとりぼっちになっていました。老婆に連れてこられてたどり着いた住処が、マヨイガ。序盤のいきさつを経て、物語はいつしかほぼ妖怪大戦争に。震災で封印が解けて逃げ出したというウミヘビの化け物。その赤い目が人に悲しいことや悪いことの幻覚を見せていきます。震災によって人びとの負の感情が堆積したところにやってきた禍なんですね。少女はDVをはたらく父親との関係を脱却して、やっとできた納得できる家族を選択する――意思を示す――ことで禍を克服します。全体的にすごく地味で、民話や仏像、そば(ガレット)やジンギスカンなどなんの解説もなく出てきますが、これらは岩手の名所や名物です。これはこれで、ご当地ムービーの新たなステージなのかもしれません。震災という、誰が見ても大勢にとっての災禍なので、主人公が「なんで私だけ」のようなかなりパーソナルなところに落ちてしまうのは、アニメーション作品にありがちな矮小化のようにも感じました。問題はいつでもパーソナルなのですが、私だけが問題ということは決してありません。ちなみに河童役のなかに宇野祥平がいたのは一発で分かりました。いい声です。

『浜の朝日の嘘つきどもと』は福島が舞台ですが、震災とその後について語られた作品でした。福島県の朝日座が廃業寸前のなかでやってくる女。高畑充希演じる彼女は震災に遭い、父親は人助けと思って現地でタクシー会社を起業するも、儲かって周囲から陰口をたたかれて父親以外は街を追われてしまいます。母親は震災の混乱で精神を病んでしまっている。父親は母親から逃れるために被災地に行ったのか、家族を捨てたのか。高校の屋上から飛び降りそうなところを女性教師に声を掛けられ、彼女は救われます。大久保佳代子演じるその教師が生徒思いでルーズで男にだらしなくて憎めない。窮屈に生きている少女にとってサンクチュアリのような人で、本当に好演していました。

震災があって、人の心が変わって、荒んだり壊れたり。なんとか誇りをもって生きていても、コロナがあって、もう映画館は行き詰っている。映画館が緩やかに斜陽になっているのは分かっている。建物も老朽化している。みんな動画配信を見ている。むしろリハビリなど老人向けの施設のほうが喜ばれるし、そのような土地の活用のほうが「正しい」というのも分かる。そんななかでやっぱり映画館はいいというのは、エゴかもしれないし、ただのノスタルジーかもしれないし、街のデベロッパーが言うようにセンチメンタルかもしれません。それは否定できないけれど、映画館と映画がやっぱりいいという気持ちも消えることはない(と私は思う)。タナダユキ監督なりのこの10年と、コロナ。正しさの先にあるものがあるんだよ、という、タナダ監督の苦悩をまとめた「わたしと映画」という論文発表のような作品だったのではないかと感じています。語りが多いという評があるのはその通りなのだけれど、優しさと、考え続けることの大切さを示す重要な作品だと思います。とくに、コロナ禍のこの物語が、震災で生き残った人たちの話なんだというのがぐっとくるのですよね。

朝日座の支配人を演じる柳家喬太郎は『スプリング、ハズ、カム』(2015)以来の映画出演だと思いますが、福島県なのに江戸弁のべらんめえ。対する女も郡山出身のようですがなかなかのがらっぱち。この会話の応酬が面白いのですよね。寅さんのようなテンポがよくて、ちょうどいいガラの悪さのやりあいがとてもいいと思いました。香盤表にある『怪奇!!幽霊スナック殴り込み!』(2016)をめぐって言い争うのには笑ってしまいました。

『フラガール』(2016)から15年。『フラ・フラダンス』も震災映画と捉えてよいように思います。震災のあの日、ステージで踊っていた姉は亡くなり、まだ何者でもない妹はいま姉の年齢に近づこうとしている。あるとき募集の告知を見て、ダンス経験がないながらも応募した彼女は、姉が務めていたスパリゾートハワイアンズに就職が決まります。厳しいレッスンを経てダンサーデビューするも、散々なパフォーマンスが逆の意味で話題に。それでも悪戦苦闘しながら、ダンサーチームは成長していきます。勝手に子は育つとはよく言いますが、子からすればすごく考えて育っているということでもあります。主人公なりに震災を思い、自らの身体に消化していくことと、姉の残像を追いかけることは同じことでした。本作もまた、震災で残された者たちの個人の物語でした。

ジェイク・シマブクロのあの楽曲はいまやスタンダードナンバーになったのですね。エンドロールで常磐ハワイアンセンター開設時の写真や現在の福島の写真が登場し、きちんと歴史を踏まえようとしている姿勢には好感が持てます。アクアマリンふくしまが震災復興の象徴的に描かれるのもいいと思いました。震災から数年後に訪れたことがあるのですが、生態系の再現が見事な素晴らしい施設でした。作中で気になったことですが、秋田出身の女性が小太りで訛っているのは、今日的なフェアネスでどうなのでしょうか。また、作画にもう少しお金をかけてくれてもよかったのでは、と思ったのは私だけでしょうか。

原発事故を取り扱った作品は意外と少なかったようです。上述の「おかえりモネ論」でも書きましたが、震災直後の石巻でロケを敢行し『ヒミズ』(2011)を完成させた園子温の新作『プリズナーズ・オブ・ゴーストランド』がそうでした。ただし、はっきり申し上げてとても酷い作品でしたし、現時点では監督自身への適切な評価も難しいことから、作品への詳細な言及を省きます。この監督はこの作品をやりたくてわざわざ渡米したのだろうかと疑問に思わずにはいられません。これをやり遂げて満足したのだろうかと。震災や原発の話をしたかったのは、『ヒミズ』や『希望の国』(2012)もそうだったからライフワークなんだと思うけれど、それで仕上がったものは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)か『狂い咲きサンダーロード』(1980)か。いずれにしてもその劣化コピーでしかなく、ジョージ・ミラーにも石井聰互にも謝れと言いたい。いかにも西洋人が見た日本っぽい悪趣味ないやらしさはわざとだと思うので、そこは目をつぶろうと思いますが。

他方、『名も無き世界のエンドロール』がこの流れでちょっと気になるので取り上げます。ともに親のいないキダとマコトとヨッチの三人組は子どもの頃からずっと一緒にいた。やがて大人になってマコトがヨッチにプロポーズしようとした矢先、彼女は車に轢かれて亡くなってしまいます。ある日、彼らが働く自動車整備工場に持ち込まれた自動車を見て、マコトは姿を消してしまいます。粗筋をそう書くと大仰な物語ですが、その実びっくりするほど小品です。ものすごくライトノベルっぽさがあると言えばよいでしょうか。社会的に許されない出来事の告発ではありますが、爆破されたホテルには罪がなく気の毒です。主要3人のキャストについては、こと子役の配役がよく、大人になってからのシーンがしっくりくるのがさらによかったです。『サイレントトーキョー』(2020)といい、クリスマスには爆破したくなるものなのでしょうか。幸せそうなものを壊す象徴の日なのですね。『サイレントトーキョー』が90年代のPKOを背景にしているとすれば、本作はもっと最近の、2010年前後の事故の話ということになります。とすれば、あの自動車事故が原発事故の比喩になっているというのは、無理があるでしょうか。高級ホテルを爆破するのですから、そのぐらい黒いものが下敷きになっていると予想してもよさそうに思います。

東北と映画

さて、震災や原発事故とは別個に、2021年は東北を舞台に、あるいは東北で制作された作品に印象的なものが多かったので、ここで紹介したいと思います。

まず、『いとみち』には感動しました。青森出身の横浜監督による魂の映画だと思いました。祖母の教えで津軽三味線の大会で受賞するほどの腕前だった高校生の主人公は、その演奏姿が恥ずかしくて最近は三味線を弾いていない。ある日、自宅のある板柳からは遠い青森市内でメイド喫茶を見つけ、そこでアルバイトを始める。店員や様々な客とのやり取りを通じて、人見知りの彼女の生活は変化していく。

言語コードは津軽弁だろうか。標準語字幕はありません。なので聞き取れない部分はありますが、意味は全体からつかみ取ることができます。弘前から少し離れた板柳で、父親とばあちゃんと3人で暮らす高校生のいと。ものすごいディープな津軽弁話者にしてばあちゃんから耳コピできる有能な三味線奏者でもあります。でも「何者でもなさ」の風情が強烈に出ていて、何となくぼーっとしているというか、ちょっと中空を見て直立しているのが印象的です。主演の駒井連は背が高いので、余計にでくの坊っぽいのですよね。周囲とのコミュニケーションが上手でなく、学校に友達はいない。それがクライマックスでは、カフェでのライブとその後の岩木山の親子登山、そしてお岩木山に手を振るラストカットで、地に足の着いた人物へと変貌します。この演出が本当に素晴らしい。全体のプロットとしては何者でもない人が子どもから大人になっていく成長譚で、オーソドックスな気もするのですが、そのベースの上には電車を通じた(バイト先までの経路)津軽の土地勘、津軽の多くのロケ地、青森市中心地の様子、ショッピングモール、りんご、あるいは青森県下での空襲、とくに軍部が避難場所から呼び戻したところに焼夷弾が落ちてきて被害者が増大したという話、そして三味線修理の職人の様子など、多くの津軽が詰まっています。人間椅子も。一般的には盛り過ぎに見えるかもしれませんが、津軽の遺伝子による津軽の作品としてどうしても込めなければならない魂だったのだろうと思います。

主人公の周囲の人物の話をすると、横田真悠演じるカフェの同僚は、コミュニケーションが上手そうにしているけれど漫画でしか自分を表現できないと思い込んでいる。いとからすれば輝いて見えているのですが。でも結局はいとみたいな真正の不器用な人のほうが好かれるんだというのは、たしかにあるだろうなと。どちらも愛おしい人物です。あるいはジョナゴールド演じる途中からできた学校の友達を通じて、主人公が三味線を自分の中に取り戻していく様もとてもいいですね。爪を研ぎ、カフェに向かい、そしてあのライブ。三味線の音圧もあるけれど、やはり佇まいが素晴らしく、その王道のクライマックスには思わず泣いてしまいました。

『偶然と想像』は濱口監督の初めての短編集。そのラストの舞台が仙台でした。本作、がっつりロメールです。それにちょっぴりホン・サンス。演出は完全に濱口演出ではあるものの、かなり実験的なのだろうと思います。ただ、長尺が多い濱口作品に対して、約40分の短編が3本というのはすごく見やすくてありがたいです。そしていつになくコメディになっていて、劇場中がどっと笑いに包まれます。その辺の、ちゃんと笑える脚本を書ける濱口監督は素晴らしいと思います。まさか監督がコメディを作るなんて、と濱口ファンは思うわけで、その時点ですっかりやられてしまいます。

1本目は若手役者たちのアンサンブルがいい。濱口作品にしては台詞読みに躍動感があります。古川琴音の、一見弄んでいるようでいて友人に男を取られたような悔しさや嫉妬で溢れている感じは、駆け出しの時期にしか出せない独特なよさがあるのかもしれません。この作品が一番ホン・サンスっぽい気がしました。

2本目はとにかくエロティック。そして、一見トラブルを回避しようと冷静に対処しているように見える教官役の渋川清彦が、実は本物の変態だったというあたりの可笑しさがたまりません。そしてちょっとしたミスからすべてが壊れてしまった5年後、学生だったクズ男は社会人のクズ男になっています。この男を監督はかなり悪意を持って描いている気がします。まだ思いを引きずっているような、陥れたいだけのような女性の行動がミステリアスです。ちょっと脚本が男性的な気がしなくもないのですがどうでしょうか。
3本目はコロナ禍を想起させる、コンピューターウイルスで電子的なものがなくなりアナログ化した社会の話。仙台でばったり出会った女性とつい懐かしくなって高校時代の話で盛り上がりますが、それぞれのいまの暮らしは必ずしも明るいものではなく、次第に会話が噛み合わなくなっていきます。『サバイバルファミリー』(2017)より緩やかで、見た目は21世紀の社会だけれど、仕組みは昭和か平成初期に戻ったかのよう。それでこその勘違いと、そこから巻き起こる奇跡。本人ではない、完全な他人でもない、「ふり」をしてくれる他人にだからこそ言える気持ち。震災とは関係のない物語ではあるものの、仙台と、再会がテーマの作品というのはなにか感慨があります。いい脚本でした。

『光を追いかけて』は秋田を舞台にした初監督作品だということですが、とんでもないものを観てしまったなと思います。離婚した父親に連れられて父の故郷にやってきた主人公は周囲になじめず暗い感じで過ごしているが、ふと屋根の上に女の子・真希を見つけます。彼女は不登校中のクラスメイトで、ふたりはそれぞれの場所で緑色の光を目撃します。その光の行く先にはミステリーサークル。そしてその中には真希。そこから生まれる交流と、彼女たちが参加しない閉校祭の壁画制作。交わらないふたつがそれぞれうまくいきかけたところで、実はそうやって分断することで何となくうまくいっていたことに気付き始めるのでした。世間にさらされるミステリーサークル、侵される安全圏。衝突と対話、大人の事情。あるいはヒロインを演じた長澤樹の画力の強さと、脇役に徹した中島セナの存在感、彼女らに比べるとすっかり大人になったけど大人から見たらひよっこな微妙なポジションを演じる生駒里奈。大人の代表としての柳葉敏郎。ドローンを緑色の光からの視点として使用する撮影方法がうまいですし、それに足るだけの広大な田んぼが見事です。光の正体は分からずじまいですが、彼らに寄り添う何かとして、それぞれの登場人物の人生の1ページを見つめていきます。とにかく監督の演出力に驚かされます。ババヘラとか鶏を絞めるとか畦道で芹を収穫するとかの秋田のリアルが嫌味なく、むしろ力強く出てくるのもいいと思います。『泣く子はいねぇが』(2020)でも思うのですが、青春にしても大人の人生にしても、それを冷笑するのはいつも周囲のほうで、東京ではできなくても、秋田では真っ直ぐに人間を描くことができる。東京から遠く離れた場所には物語があるのだと思います。

『階段下は××する場所である』は意外な面白さでした。全編山形ロケで、先輩女子がふいに捕まえて付き合うことになった高校生(ちょっと『3D彼女 リアルガール』(2018)っぽい)が身近な謎を解いていく物語です。3つの短編からなる構成は会話のテンポも脚本もいいですし、ジョークセンスもいい。ものすごく高校生らしいミステリーなので学生の卒制なのかなと思ったら、監督は30代のキャリアある人物とのこと。アニメ作品のように実写を撮ったと監督はコメントしているようで、それがどう映像に反映されているのかはよく分からなかったものの、編集で作るアニメ的リズム感にはすでに見る側のリテラシーができているので、むしろアニメ作品を意識した構成が見やすくなっているのかもしれません。くすりと楽しく観られました。

『越年 Lovers』も山形ロケということで、同郷の峯田和伸と橋本マナミが出演していました。事前情報をまったく入れずに観てしまったため、岡本かの子の小説からのオムニバスだったことをエンドロールで知りました。どうにも退屈してしまったので内容を思い出せないのですが、台湾映画『共犯』(2015)ヤオ・アイニンを久しぶりに観られたのはたいへんよかったです。また女優・白光のことを知ったのも勉強になりました。彼女の出演作をぜひ見てみたいものです。

生きづらさの現在(1)

おそらく毎年テーマにしている「生きづらさ」ですが、以前は切り口のひとつとして提示したつもりでした。しかしこうして見ていると、たいていの作品の主人公は生きづらそうにしています。昔からそうだと言われればそんな気もするのですが、社会にうまく適応できていなくても、幸せそうな主人公はたくさんいたような気がします。でも、最近の作品の主人公は幸せそうでないのです。

そんな、生きづらくて幸せそうに見えない人物の物語を、できるだけたくさん取り上げていこうと思います。細部で分類化しづらいように思うので、羅列のように見えてもご容赦ください。

ともかく2021年に私が考えるもっとも生きづらい映画は『新しい風』でした。観ているうちはただただ混乱していました。友人の友人とはいえ大晦日の夜中に他人の家に押し入って非常識な振る舞いをする人びとにただただ腹立たしく、家にいる彼氏が怒るのは当然です。彼が辛くなるのはどうもこれが初めてでもないようで、禍を呼ぶ人というのはそういう人なのかもしれません。それで狂ってしまって腹を切ってしまうのですが、翌朝にどういうわけか彼はバレリーナの姿で再登場します。混乱に次ぐ混乱。前日の人びとともにその状態で1日を過ごして、別れて終わる。狂った男は、押し入った人びとのひとり・小太郎から離れがたい様子でしたが、結局は彼女に引き取られていきます。これはいったいなんだったのか。ここまで混乱しか残らない作品も珍しいし、ある意味ではそういう作品を作るのも才能だとは思いますが、中村監督はいったいどこに向かっているのか。……とは思ったのですが、ふと冒頭を思い出しました。正確ではないのですが、私たちはこれからどうしていけばいいのかというようなことが書かれていたのです。あの彼氏から見て、ずけずけと自分の領域を侵されていって無邪気に自由を奪われていく残酷さが、どこかいまの社会のメタファーになっているのだろうと思いました。ただふつうに正しいことをしていただけの人が壊されていく社会。壊した側は何も気づいておらずけろっとしているか、壊れたことを慰めてくれている。その不条理劇を、あったのかどうか分からない回想っぽいシーンで謝っていました。すごく分かりづらいが、やりたいことは分かった気がします。

『POP!』はとにかく小野莉奈をずっと観ていられるという点ではすごく意味のある作品でした。主人公は、空気がちょっと読めないし大人の事情には違和感ばかりだけど、役者としてはうだつも上がらず、でもとにかくきっちり生きたい。反面、人生に迷ってマッチングアプリをやってみたりもしている。きっちり生きようとしている主人公にとって他者とは違和感であり、他者にとっては主人公の存在に違和感がある、というか浮いている。ちゃんと生きているのにどうしてうまく生きられないのか、もっといえばちゃんと生きている人のための社会でないのか、ということの違和感をすごく可視化している作品でした。『新しい風』との連関を感じるものの、大人の事情を会得していくラストにたどり着くのが、監督としては少女が大人になっていく過程にしたかったのかもしれないのですが、いやいや丸くなるなよって主人公に言ってやりたかったですね。そういう、尖った作品にしてほしかったです。

打算もなくよかれと思ったことがことごとくよからぬ結果を招いてしまう。『私はいったい、何と闘っているのか』はいわゆる小市民映画ですが、その主人公を安田顕が心の台詞をさんざん口にしながら見事に扮しきっています。そう、演じきっているというよりは扮しきっているという感じです。身を挺して、とにかく一生懸命、多くの人に愛されるぐらいに頑張る主人公。上司だった店長が死んで後任にと本人も意気込むも、本社からよく分からない人が投入されます。そのふにゃふにゃした店長役の田村健太郎がまた最高です。トラブル発生時、社内の問題を通報せずに強く目を配ることで問題を解決したことに、学級委員長的な後輩は腑に落ちません。目を配った相手の店員はその目に耐えかねて退職してしまいます。優しさがどうもうまくいかない。そう、優しさが毒にはなっても薬にはならないのです。でも、そんな人がちゃんと素敵に生きる世の中って何なのよという作品でもあるのです。それを職場で知っているファーストサマーウイカ演じる同僚、家庭で観ている小池栄子演じる妻がいい。沖縄のシーン、たまたま居合わせた娘たちの実父である運転手とのやり取りが王道だが何とも泣かせます。何度も登場するカツカレーのシーンは彼の身上を物語るものとして、本作にお誂え向きのいいシーンでした。

『ふゆうするさかいめ』はぶっ飛んだ世界観と演出だと思いますが、私はけっこう好きでした。主演のカワシママリノがとことん眠そうなのですが、よくこんな奇跡のキャスティングが実現したよなあとすごく思う作品です。とにかく、いつも寝ている人の話を作りたかったというのはすごく伝わります。その主人公を軸に、なんだかうまくいっていない人たちが描かれたように思いますが、テーマのインパクトと、布団生地を破って家を羽だらけにすること以外を思い出せません。でも本作の監督の今後の作品は追ったほうがよいぞという確信だけが残っています。

『自宅警備員と家事妖精』は函館の古い洋館を舞台に、母親が死んで一人住まいになってしまった引きこもりの男と、実はその洋館に長く居着いていた絹と名乗る妖精の話。大沢真一郎演じる引きこもりがあまり引きこもりっぽくないというか、けしかけられたとはいえわりとさっさとハローワークに出かけたりするので、病的というより完璧なパラサイトとしての自宅警備員だったのかもしれません。しかし実際に社会に出ようとするとブラックなバイトでパワハラを受けてしまいます。やがて洋館のルーツとなる人物の祖先が訪ねてきて窮地を救われたり、絹の恋路を知ったりするのですが、それらを通じて主人公は洋館を使って自立しようと試みます。ストーリーは突拍子もないのですが、作品全体に流れる劇伴がまるで無声映画時代のそれのようで、本当に古い映画の雰囲気を現代に再現したかのような、新感覚の作品でした。それも無声映画にするのではなく、あくまでトーキーで現代社会を投影しながら再現していくのが面白かったです。

戸田真琴が初監督した作品『永遠が通り過ぎていく』は、一般公開されるかどうかわからなかったので半休を取って渋谷のLOFT9に観に行ったのですが、まさかの観客1名。カフェスペースの奥のスクリーンでたったひとり、コーヒーも早々に飲み干したままじっと観た居たたまれなさを忘れることはないでしょう。観客1名も、シネコンだと劇場の生産性が低くて申し訳ないなと思う程度なのですが、ミニシアターや特殊環境だとメンタルをやられますよね。かつて存在したココマルシアターでもやらかしたことがあり、『スリーアウト! -プレイボール篇-』(2019)だったのですが、しかもアフタートークのある回で、1on1になることを覚悟して質疑応答のシミュレーションをしながら鑑賞したので気もそぞろでした。結果的にイベントは告知もなく中止されましたが。すみません、私の生きづらい話でした。

さて作品についてですが、監督自身を投影した、とくに年の離れた誰かとの位置関係や対立、分かりあえなさや説明のしにくさ。自分がきれいだと思うものを残したい、しかしそれは成仏にも近いのかもしれない、というような監督が感じているモノやコトを映像に転換したような印象がありました。ほぼどれも二人芝居。大勢ではない、分かりあえるその人と自分だけ。女の子とは、みたいな大文字の語りはしない。ある意味でミニマルに、大仰に語らない分だけ、監督自身が上手く投影されていたのではないかと思いました。

外国作品のピックアップはあまり多くないのですが、『アンモナイトの目覚め』は、『燃ゆる女の肖像』(2019)と全体的な雰囲気がとても似ているのがもったいないと言えばもったいないのですが、とても質感のいい作品でした。舞台は19世紀イギリスの海岸沿いの街。主人公は実在の人物であるメアリー・アニング。彼女が採集する化石を求めて裕福な学者がやってきます。その妻・シャーロット役のメランコリーなシアーシャ・ローナンが素晴らしく、厄介になっている手前、裕福な結婚をした彼女が主人公のために何かをしようとしても、石炭ひとつまともに運んでこれない現実に、シャーロットは崩れ落ちてしまいます。一見してメアリーは明らかに孤独ですが、シャーロットもまた孤独なのですね。シャーロットをもっと高飛車な人物として脚色することもできただろうし、従来の作品であればそういう展開にしたのではと思うのだけれど、裕福さのなかにある空疎さが前面に出てくるのが現代的脚色なのかなと感じます。終盤も、ロンドンにさえ来てくれれば自分の意のままになってくれるだろうと期待する彼女ですが、主人公は地元で化石採集して研究するほうを望みます。フィールドワークのなんたるかが分からなかったという結論なのですが、心を許せる相手よりも実地で生きる選択がまた現代的かもしれません。シアーシャの“濡れ場可愛い”は見ていいのだろうかというドキドキ感がすごかったです。

生きづらさの現在(2)

順序はともかく、少しずつ登場人物が深刻な作品になっているのですが、外国作品でもうひとつ、『アナザーラウンド』ではうだつの上がらない高校教師が、血中アルコール0.05%の状態がもたらすテンションで日々をうまくやっていこうとします。バレないようにふるまう者の行動は傍目にはちょっと不自然で調子はずれ。でも積極性が出て持ち前の能力を発揮していくので周囲は概ね好意的です。段々調子がよくなって仲間とともに濃度を上げていくのですが、限界に挑戦しているくだりは最高に面白かったです。『ハングオーバー!』シリーズ(2009-2013)にも似ていますが、彼らが本当に冴えないおっさんたちなのを知っているだけに、酔っぱらって虎になっている様子がバカらしくても憎めない。酒場で泥酔して解散してから、かたや布団で失禁し、かたや路上で流血して目覚めるのは、まさに酔っ払いの勲章。とくに流血は知人を見ているようで笑いが止まりませんでした。でもそのあとで家庭を壊してしまう主人公。たぶん多くの人はそれを因果応報というか、危険な飲酒には責任を伴うんだというのでしょうけれど、ラストのように、生徒たちが無事に卒業試験にパスして先生と一緒に喜んでいる様子を見ると、そういう人生もあるじゃないかと思ってしまいます。人間は、教師はこうあらねばならないという観念からの解放でもあったのだろうなと思います。ただ、仲間のひとりが本格的なアル中になって亡くなってしまうのは本当にしんどかったです。それも含めて味わい深い人生劇場でした。

日本映画に戻ります。『彼女はひとり』はちば映画祭以来の鑑賞でした。2度観ても物語の詳細を理解しきれない部分があったのですが、かつて幼馴染の3人がいて、ひとりの女子が主人公の父親と交際し、もうひとりの男子がそれを主人公にリークして、つまりアウティングになって主人公はおかしくなる。母親も死んでしまい、主人公はますます壊れてしまう。やがて高校生になり、男子が主人公の過去を再度アウティングしたことで主人公は橋から飛び降りる。怪我で済んだ主人公は、男子が秘密裏に教師と交際しているのを撮影して脅しにかかる。金銭の要求だけで終結したかに見えたが、そこで主人公はアウティングをして大騒動に展開する。だいたいそんなプロットなのだと思います。クライマックスで主人公が言い放つ、自分抜きでうまくいくのが嫌だ、というのはすごい台詞です。なにかいまの社会のあらゆる部分にそれがあるように思います。クレームが執拗だったり、SNSで叩いたりするのも、ペナルティがないと自分抜きでうまくいっている気がするからなのではないか。そんな社会の空気を思いっきりまとった作品でした。

『草の響き』の主人公は自律神経失調症と診断された男。入院してしまうのではないかという悲壮感で訪れた病院でそう診断されて帰宅して、運動による改善を言われたために、すぐさま真面目にジョギングを開始し、それを毎日続けます。客人が来てもかまわないし、毎日続けることの重大さが周囲の用事に勝ってしまっています。ストイックに見えて、自分しか見えていない主人公。夫である主人公の不調で東京から夫の故郷に移住してきて、夫の回復を見守る妻。しかし夫は自分の症状のことばかりなので、妻が異郷の地で孤独なことに気付きません。やがて男は「大学も出たのに」という旧態依然の父親と口論になり、おそらくそのあたりから徐々に変調していきます。本人はすっかり回復しているように感じているものの、医者は治療を減らそうとしません。医者の目は正しく、やがて男は自殺未遂をしてしまいます。そして妻はお腹に宿した子とともに東京に帰っていく。その過程が、本当に静かにゆっくりと丁寧に、あまり起伏もないままに描かれていく作品です。そこに寄り添う函館の街並み。シンクロするように、同じく東京から引っ越してきた高校生とその友人たちがいる。本当にそれだけなのだけれど、気持ちの揺れや移住してきた人への冷たさや、家庭内の断線、身内のことには気付き得ないけれど他人のことには気遣える節操のなさなど、本当に緻密に描かれていて、どうにも物語を放っておけません。ラストの疾走は、そうとしか生きられない人の表明なんだと思いました。東出昌大のすごさをあらためて思い知らされる作品でした。

PFF入選作の『Parallax』はすごく現代風刺的なアニメーションでした。ちょっと容姿の違う親子が数多くある何らかの審査に悉く落ちます。それをずっと繰り返しているのですが、ちょっとマスと違うぐらいで分断され、切り捨てられ排除されてしまう、その様子を痛烈に描いていました。

この流れの最後に、日本に住んでいたり旅行でやって来たりしている外国人たちの群像劇『COME & GO カム・アンド・ゴー』を。大阪の梅田近辺を舞台に、日本のエロ文化を楽しむために旅行する台湾人や、中国の団体客、そこにひとりだけいる浮いているおっさん、過酷な労働から脱出したベトナム人、日本語学校に通いながら料理人を目指しつつ講師に恋をしているネパール人、恋をされてまんざらでもない女、その夫の刑事、刑事が追う事件。そんな、日本人とアジア各国の人びとが交わったりそれぞれに生きたりしている情景がぐるぐると映し出されます。授業料も寮費も払えなくてバイトしている女性が男性従業員にセクハラされたり、台湾人と中国人が居酒屋対談で分かりあったり批判しあったりしながら最終的に仲良くなったり、息子にマレーシア移住を勧められて憤るがスナックのママに言われてまんざらでもなくなったり。それらがひとまとまりに何か主張するわけではないけれど、同じ街にこんな人たちがいて、何となくアジアのなかのとあるジャンクションとして何となく群像劇を成しています。もちろん多くは異国の人たちの物語ではあるけれど、やがて人種のるつぼになるかもしれない日本の物語でもあります。たびたび映画の舞台になる西成とはまったく違う大阪のもうひとつの姿があったように思います。

生きづらさの現在(3)

このテーマを扱うにあたって、その代表的ペルソナのひとつとして反社会的勢力があります。近年いよいよ生きづらさが極まっているのか、本当のところは分かりませんが、2021年に発表される作品数は多かったように思います。ここでそれらの作品をまとめて取り上げようと思います。

『ヤクザと家族 The Family』は『無頼』(2020)同様に歴史が描かれており、やはりあの社会と文化の凋落が映画を作らせている感じがします。主人公である不良少年はとある抗争に偶然巻き込まれ、組長の窮地を救ったことから関係を持ち、やがて子分になります。組で順調に出世した主人公は、出会ったホステスに思いを寄せつつも、抗争から組を守るために立ち上がります。タイトルからしても本作は『ヤクザと憲法』(2016)を参考にしているのではないでしょうか。『無頼』が成功者としての成り上がり組長が海外にフロンティアを求めるラストであった一方で、本作ではかつての弟分に刺されて終わってしまう。この違いは監督同士の世代の違いでもあるかもしれません。ヤクザ社会は井筒監督からすれば「あの日よもう一度」でも、藤井監督にとってはいまを生きる無理ゲーなのだと思います。主人公が思いを寄せる相手も、『無頼』でいわゆる「極道の妻」になった柳ゆり菜に対して、ひっそり生きる本作の尾野真千子が対照的に映ります。ただ、時間の流れを几帳面にコツコツ追っていた井筒監督に対して、3つの時代のぶつ切りになってしまった藤井演出がちょっと歴史を捉えにくかったのも確かです。

引退したヤクザが刑期を終え出所するところから始まる『すばらしき世界』は、物語の全体像は序盤でおおよそつかめるものの、そこから想像できる範囲では物語のすべてを見ることができない、とても多面的で奥行きのある作品でした。人生の大半を刑務所で暮らし、出所後は身元引受人のもと社会復帰しようとしている主人公。母親を探している彼のもとに、ドキュメンタリー番組の取材班が声をかけてきます。塀のなかで独房暮らしをするほど荒れた末に満期で出所して、塀のなかの風習が沁みついていたところから、昔の感覚で威勢よく吠えるあたりまでは、社会に憤りはありつつもまあ何とかなるだろうという楽観的観測を感じます。しかし九州に戻って現実を見てしまったところから本格的に生き方を見つめ直す心境は、塀の中で本人が得られなかったものでしょう。また主人公の三上を取材するツノダが身分帳や三上の過去を紐解いていくうちに、事件と裁判の過程も見えてきます。現実というものはきれいでも正しいものでもないけど、わかってくれる仲間は必ずいる。そのことのよさを痛感します。劇中で梶芽衣子が言う「みんないい加減に生きてるのよ」という台詞はまさしく。生きづらさがなぜ生きづらいかということの本質だと思いました。ツノダは「ふつうになろうとしてるんですよ三上さんは」と言います。それは実に深い人生についての物語ですよね。はみ出し者を受け入れてきた機構が破壊されて、彼らも「ふつう」のシステムに受け入れられるべき存在になっています。他方、ツノダもまた生きづらいひとりで、ほかにも障害を抱えた優しい青年など、彼ら生きづらい人びとのひとりが、三上なのだと気付かせてくれる構成も素晴らしかったです。西川監督の大作だったと思います。

昨年の見逃し作品ながら、『ひとくず』は観ておいてよかった作品のひとつです。空き巣の常習犯の男が窓ガラスを割って家に侵入すると、そこにいたのは母親とその恋人に虐待を受けている少女。男は少女を助けるためにその恋人を殺し、3人で暮らし始める。近い状況の作品はいくつかあったと思いますが、貧困や過酷さで終始する作品と異なり、少女にかつての自分を重ねる男と、少女自身と、やがて母親とで人生の再生を夢見るまでの物語には安堵感があります。粗暴な男が、それでいて他者と出会って人の道を進もうとするよさもあります。夢物語は男の逮捕によって一度は崩れますが、出所してからのラストに思いもよらない強度もあり、見逃せない人情噺だったと思います。

その上西監督の新作が『ねばぎば 新世界』でした。元ヤクザの男は慰問先の刑務所でかつての弟分と再会する。出所した彼は男が勤める串カツ屋で共に働くようになる。ある日、男は少年が宗教団体の施設から逃げ出して追われているところに出くわす。調べると男の恩師の娘もまたその団体に入信しており、彼らを救うべく、弟分とふたりで施設に乗り込んでいく。そんなに新しいことをしているはずはないし、新世界自体が珍しいわけでもない気がするのですが、でもやっぱり困難なロケ地で撮影したのだろうと想像します。主演に赤井英和を迎え、彼のとぼけた感じと持ち前の腕っぷしでコメディタッチの人情噺に仕上げられていました。『ひとくず』と共通して、監督の視座は大人に無視されてしまった子供にあるのだろうと感じます。相変わらず子役の演出がうまいし、素人の使い方がいい。いかにもな新興宗教だが、洗脳された役どころの有森也実の存在がリアルすぎて怖かったです。

本作鑑賞後、上西監督と先輩格の役者のハラスメント問題がクローズアップされたことにも言及しておこうと思います。舞台挨拶のたびに熱い思いを披露していた監督ですが、どの土台の上にある熱さだったのかを思うと、多作が実現したことに何となく頷ける一方で、その代償としてもう新作を撮ることはないのではと思います。(実際には2023年に新作が公開されています)
こうして見ていると、ヤクザはヤクザでも、引退済みの人物であれば今日的物語のお天道様のもとに存在し得るのですが、現役となるとその社会の凋落を映さざるを得ず、もっと言えば時代と死す主人公になってしまうことが分かります。では現役かつ生き生きとしたヤクザの物語は難しいのでしょうか。

言わずもがな、それは難しいと思います。しかし社会構造が変わったいま、かつての社会のエッセンスが別の場所で息づいているとも言えます。かなりのデフォルメにはなりますが、「型」を用いた比喩が本家に勝るとも劣らぬ魅力になることがあり、『地獄の花園』は実に痛快な作品でした。主人公はいわゆるOLとしてありふれた日常を送っているのですが、彼女の周囲では実は抗争が勃発しており、たびたび喧嘩が発生しています。ヤンキー映画をOLに置き換えたのはもちろんそうですが、『仁義なき戦い』(1973)とそのシリーズの系譜でもあると思いますし、つまりはヤクザ映画なんだと思いました。反社会性をストレートに描くことが難しくなってきている半面、このようなアレンジで実現していくというのは、クリエイティブのあるべき姿だと思いますし、バカリズムの才能にあらためて感嘆しました。惜しむらくは『架空OL日記』(2020)もそうですが、そもそもOLという種族が時代に沿っているのかどうかということ。男性社員に小間使いされているようなシーンがあまり見受けられないのは時代によるチューニングとも言えます。

ところで本作の出色は広瀬アリスで、『スープ〜生まれ変わりの物語〜』(2012)で松方弘樹を模写したのを思い出す名演でした。物語がものすごく俯瞰的に存在していて、よくある展開だとこうだが……のように語られる件が何度も出てきて、広瀬アリスは『用心棒』(1961)の三船敏郎みたいに救世主的主役だと思っていたら、それは永野芽郁だったというオチ。その挫折から彼女が這い上がってくるボクシング的な流れが面白く、最終決戦で負けたかに見えて恋愛では勝っていたという大オチが最高でした。この軽さがいいのです。大手企業の軍団の主力が男性演者(の女装)で描かれているのは面白く、遠藤憲一がバラエティショーをおっぱじめるおふざけも、この内容なら悪くないと思いました。続編を求めにいかない構成にも好感が持てました。

さて、反社会的勢力はヤクザだけではなくなっていますが、それらがなかなか映画の中心で描かれることはなかったように思います。『JOINT』はいわゆるインディーズ作品ですが、半グレ上がりを『無頼』(2020)のような大河調で物語にした作品で、とうとう出現したかという感慨が深かったです。半グレが刑期を終えてふたたび稼ぎをもって、やがて社会の日の当たるところに出ていこうとする様子を見事に描いていました。裏で入手した名簿を詐欺や脅しに使って稼いでいるうちに、潰れそうなベンチャー企業のコンサル紛いを任されるようになります。そこで出会う計算はないが夢のある起業家に、おそらく彼なりに惚れたのでしょう。主人公の素性を知った投資家たちが起業家に彼と手を切れと言ったときに、最終的には受け入れたものの起業家側が抵抗を見せ、図らずもそこに友情が生まれていたのは興味深かったです。朝鮮系の裏家業の人たちとのエピソードもそうで、主人公は彼らと縁を切るために冷たいことをするが、なんだかんだでやっぱり主人公の優しさを知っているのだろう、ラストには逃亡を手配してあげています。ただの悪い人たちというイメージしかない半グレを肯定するものではないのは分かっていますが、何かの事情でそう生きるしかなかったけれどとても人間的魅力のある人もいるということなのかもしれないし、ヤクザに変わってそういう人たちを受け入れる空間がそこなのかもしれないと感じました。本作もまた、知らない役者と少ない予算で作ったはずなのに、メジャー製作のヤクザ映画に引けを取らない映像の素晴らしさでした。

最後に、生きづらさの文脈で扱おうと思った作品にもうひとつ、『パーフェクト・ケア』があったのですが、ロザムンド・パイクのキャラクターが濃すぎて、どうにも本項に取り入れられなかったことを付記したいと思います。

若者の生き様(1)

「生きづらさ」もスタンダードな切り口ではありますが、さらにスタンダードなのは、群像劇を含む若者の生き様です。その現在地を見つめることはレビューにおいても普遍的だと思いますし、何よりもこのジャンルは私の好物であります。

私が日本映画のなかで若者の実像をもっとも捉えていると感じるのはWACKオーディションの一連の作品群なのですが、2021年にも『らいか ろりん すとん -IDOL AUDiTiON-』がありました。前作『IDOL-あゝ無情-』(2019)は「なっちゃない感じ」。オーディションに臨んだ少女たちの変わりたい気持ちとショービズのギャップが解決されない様子と、以前せっかく合格したのに、要求されるプロの仕事をできずに解散するグループを映し出していました。それを経たからなのか編集のせいなのか、今作ではおちゃらけた感じがあまりしません。あのプロデューサーはオーディションに集まる少女たちに相変わらず不満なのだけれど、思うに少女たちはきっと、「頑張る」とか「やりきる」とか「本気になる」とかいうことがそもそもどんなことなのか、生まれてこの方知る機会がなかったのではないか。そう考えると、私の若い頃もまったくその通りで(いや今もそうかも)身につまされるのです。本作を観たころにちょうど見かけたのですが、NHKの「あさイチ」に吉田鋼太郎が出演した際(2021年1月5日放送回)、以前共演した松坂桃李が人生で怒ったことがなくて演技で悩んでいたことを紹介していました。これも同じ話で、そういうことって多いのだと思います。その意味では、オーディションで合格するかどうかというより、たとえ不合格で挫折したとしても、いい経験をしているよなあと思いました。また、一見合格ラインにいそうな子をあえて不合格にする不条理にはプロデューサーの直感があり、その予感が見事すぎるぐらいに的中するのには唸ります。今回もいろいろと考えさせられました。

劇映画に移ります。上記とはかなり趣向が異なりますが、『プリテンダーズ』も粘っこく私の記憶に残り続ける作品です。みんなと同じようにできない、違和感があるのに、みんなと同じように生きるように言われ続ける。そんな生きづらい高校生が退学して、障害者のふりをして助けてもらう様子や、日本人と韓国人が口論する様子を撮影する、迷惑系ユーチューバーみたいなことを始めます。ただし非公開で。世界を変えたいというようなことを言うものの、人の迷惑は顧みず、素性を明かさない不遜な態度も鼻につきます。最終的には親友によって投稿を雑誌にリークされ、騒ぎになる前に方々に謝りに行く顛末になります。そこまではいいのですが、謝罪を経た主人公が友人に責められて渋谷駅前で叫んで自意識を解放するような、四半世紀遅い感じの結末で強引に終わる展開に。その演出に唖然とします。そういえば熊坂監督と言えば『人狼ゲーム ビーストサイド』(2014)でもなぜか主演の土屋太鳳にラストで歌わせていました。この監督の演出と私とはどうも相性が悪いのかもしれません。

『サマーフィルムにのって』についてはすでに書きましたが、本項でも取り上げたくなる作品です。同じ松本監督の作品に『青葉家のテーブル』もありました。美術予備校の夏期講習に通うことになった主人公は、母親の旧友を頼って青葉家で下宿する。青葉家は母の旧友とその息子、彼女の友人とその恋人の不思議な4人暮らし。主人公は有名人である母親との関係に悩んでいるが、その一方で母親と旧友もまた長年の不仲にあった。なんと言いますか、理論では証明できない、すごく感覚的な「好き」がビシビシと出ている作品でした。Youtubeやってますと言ってみたり、やたらと動画編集がうまかったり、母親と別の人生を歩みたいと言いながらも母親を意識すぎている背伸び感のすごさが痛々しいのだけれど、いまどきこういうふうに才能を開花させて大人になっていくのかなあ、ついていけないし、若者を理解したりできないかもしれない。ついそんな気分にさせられてしまうような主人公なのですが、いやいや高校生は高校生だろ、ちゃんと遊んで、そんなに大人に巻き込まれずにやりたいことをやんなよと、若い監督が言ってるんですよね。若い者同士のいくつかの友情と、母親同士の古い友情、そしてふたつの世代をつなげていく音楽など、きっと同じ時期に同じ経験をして、恥ずかしくなって、振り返ってまた恥ずかしくなる。でもいつか人生を一歩前に進めてくれるんだよねという普遍性と、脚本の構造をとても好ましく感じます。最高の青春映画だなと思いました。主演が誰か分からずにずっと気になっていたのですが、気になったまま観ている栗林藍希という異物が、すらりとした美しさがありクレバーな感じも生意気な感じもする佇まいがとてもよかったですね。『サマーフィルムにのって』と本作を通じて、素直に青春を楽しめばいいじゃない、という松本監督のメッセージを感じました。

若者の生き様(2) 石川瑠華という生き様

『うみべの女の子』は中学生の性やその他についてのかなり危ない話だったと思います。この感想には個人差があるのかなとも思っており、案外何でもないと受け止める向きもあるでしょう。少年少女が性の目覚めから直線的に暴走してしまうことってあるとは思うのですが、日々悶々として過ごすばかりだった中学生時代、私のクラスメイトが実はこんな感じだったと知ったら気絶したかもしれません。そういう意味では、私自身の経験(というか経験のなさ)からくるぐさぐさとした感情が、あんな感想になったのかもしれません。とはいえ、です。浅野いにお原作でありながらいままで映画化しなかったのには、さすがに実写化しづらいなという見解があったのではないかと推察します。同級生の下半身にだけ興味があるとか、プラトニックな関係なのはともかくとして、好きな先輩だからといってずいぶんなことをさせてくることとか、中学生なのに大麻に手を出していたりとか。ここでインモラルだとか程度の低い保守主義者みたいなことを言わないようにものすごく慎重に書き進めています。原作は2009年に連載がスタートしたようですが、岡崎京子の「都市感」とは違う「田舎感」を表現したかったのでしょうか。半端な知識で臨むべきではないかもしれませんが、なにかしらの影響があるような気がしています。この無茶な世界観を映画として成立させられたのは、出演者たちによるところが大きいと思います。とくに青木柚が屈折したキャラクターを好演しています。その一方で、ドロドロと暗い内容になりそうなところを、中田青渚と前田旺志郎が明るく純情を演じて中和してくれているのも素敵です。そして本項では難役のヒロインを見事にやり遂げた石川瑠華について注目したいのですが、彼女は「何者でもなさ」を体現する、令和初期における第一人者なのかもしれません。彼女の出演作をまとめて取り上げたいと思います。

MOOSIC LAB2019で話題だった『ビート・パー・MIZU』を下北沢映画祭でようやく観られました。石川瑠華のコケティッシュさが全開でコミカルな作品ですが、いかにもMOOSIC LABらしいライトな恋愛ものでもあり、いまどきは水中シーンさえも自主映画クラスのバジェットで実現できてしまうんだなあと感慨深くなりました。少し脱線しますが、この時の映画祭で本作はコンペティションノミネート作品だったのですが、直井卓俊氏が審査員なのに自社規格の出品作をノミネートすることの公平性は問題なかったのでしょうか。無冠だったのは配慮なのか実力なのか。無冠になるのが予定調和なら招待作品でもよかったのに、ともやもやしたことを記録しておきます。

2021年に目撃した石川瑠華で出色は『猿楽町で会いましょう』でした。すごく今日的なことをビビッドに描いていて、将来的に『花束みたいな恋をした』(2021)や『佐々木、イン、マイマイン』(2020)と一群で評されていく作品だろうなと感じました。石川瑠華のフォトジェニックであどけなく、それでいてそこまでスターっぽくない感じがずばりハマっているし、観客もまた主人公同様に彼女に引き込まれ、魅了されてしまいます。メジャーというより地下アイドルを見つけてしまったような感覚に近いのかもしれません。彼女が演じる人物は新潟から単身上京して演劇(ではなくて実際はモデルでしたか)の学校に通うが授業料を満足に支払えず、同級生の誘いでグレーなバイトで稼ぎます。そこの客の紹介でカメラマンの主人公に出会うのですが、編集で謎ときっぽくなっているロジカルな構成はちょっと懐かしい感じもあります(たとえば内田けんじとか)。彼女はいろいろごまかして、嘘をついて生きている。でも嘘という感覚はない気がします。取り繕っているというか、場当たり的に最適解を繰り返しているだけで、ちゃんと考えてないだけというか。下積みが全然なく、ものすごくからっぽ。からっぽなまま切り売りされて消耗してしまう。カメラマンである主人公はそこそこ下積みがあるように見えますが、まだ何者でもなくて、彼女をきっかけに自分の道を開いていきます。主人公にはすごく葛藤があって、彼女のことが好きだし信じたいけど、嘘についていけないし、グレーな商売も許せない。彼女にピュアさを求めちゃったりする、そのオールドファッションな感じに苦しんでいて、この辺はぐさっときました。覚悟が足りなかったということかもしれません。ただし問題はここからで、彼女は去り、主人公も部屋を引っ越す。まるで社会に廃棄されてしまったような彼女がその後どうなったのか。ここがけっこう大事な部分だと思うのだけれど、それが描かれないのはどうにも物足りないのですよね。残酷物語があまりに今日的過ぎて「その後」がまだ存在していないのかもしれません。

若者の生き様(3)

映画をたくさん観ると周囲に言うとアート系とか小難しい作品を観ているのだと勘違いされがちなのですが、むしろキラキラ映画が好物です。ただし、キュンキュンしたいというより(それも全否定まではしませんが)、要件さえ満たせば作り手の自由度がある程度確保されているジャンルを、作り手がどう調理してくるのかを楽しみたいのです。なのに要件の範囲内で仕上げてしまうケースが多いのは残念です。そんななかで2021年のベストは『ハニーレモンソーダ』でした。一言でいえば、成長のキラキラ映画。キラキラ映画かくあるべしという素晴らしい作品でした。主演のラウールにどのぐらい演技の実力があるのかはよく分かりませんでしたが、とにかく美しいのだから、格好よく演じきる、そのように演出することを徹底したのがよかったと思います。批判しているのではなく、過去の出演作を知らず参考情報がないだけです。格好よくできるが過剰にイキっているわけでもなく、茶目っ気もあるし、なかなかよかったと思いますよ。ヒロインの吉川愛はキャラクターも似合っていましたし、演技もしっかりしています。脇を固める堀田真由、岡本夏美、浜田龍臣らがヒールにならずにちゃんと人間として真っ当。そう、中心にいる人たちが全体的にすごく真っ当な人たちの真っ当な青春をやっているのがいいのです。他人からすればなんでもない、どうでもいい十代の日常の機微をちゃんと拾って、ちゃんと丁寧に演出しているのが好感度の高い作品でした。とはいえ、2021年に取り上げたくなるキラキラ映画が本作だけというのは寂しいですね。

高校生の群像劇では田辺弁慶映画祭より『魚の目』もきらりと光るいい作品でした。優等生なんだけど自分というものがない高校生の主人公が、台風の目のようなクラスメイトと関わることで、主人公と彼女と幾人かのクラスメイトの群像劇へと変わっていきます。島田愛梨珠という主役をキャスティングできた時点で作品の8割ぐらいが完成したのでは、というぐらい彼女の魅力が溢れていました。あの、いつも何かに困っているような表情がたまらなくいいのですね。なんでもない青春かもしれないけれど、京都の古い校舎と、漢文の先生の人柄が作品に深い味わいを与えていました。漢文を教わる男子生徒と先生のやり取りが何度観てもいいのです。弱くてもいいんだ、弱いからこそのヒーローだという先生の言葉は豊かです。ところで古典の先生役の堂島サバ吉が市川準監督の遺作『buy a suit スーツを買う』(2009)でホームレスになった兄を演じた鯖吉と同一人物で、しかも役者が本職なのかと思いきや、大阪電通のCMプランナー直川隆久氏のことだったことを最近知りました。市川監督はあの作品をCM仲間と制作したと聞いたことがありましたが、本当にそうだったのですね。当時から朴訥としたいい芝居をする方です。

高校生のダークな物語をひとつ。『衝動』は渋谷でヤクの運び屋をする少年とウリをしている少女の物語でした。かなり終盤に至るまで、辛い者同士のボーイミーツガールを描きたかったんだろうなというぐらいの印象でした。やりとりから類似の他作品を思い出して察してほしいと言わんばかりのふわっとしたシーンが多く、何となく実写でトレースした『天気の子』(2019)みたいなものかなと。その印象が変わったのは、覚醒剤を事務所から盗んで逃亡しようとして失敗して監禁されたあたりからです。いくらなんでも無計画すぎてバカなのかなと思ってしまうのはむしろ脚本の問題だと思うのですが、捕らえられてお仕置きされるシーンがやたらとゴアで見応えがありました。それでようやく気が付いたのですが、高校も通えずに日なたの仕事もできずにいる人たちは、こういうふうに裏で搾取されるしかないんだなと。そして意外とそういう問題を扱った作品は少ないのかもしれないと感じました。脚本の緻密さは欲しかったですし、尺は80分ぐらいで何とかならなかったものかとは思います。

少しずつ大人の作品に移行しようとしています。『街の上で』は、作品の舞台になった下北沢をひけらかすことをしないまま、簡単に出られるはずの街を出ないまま人生を送っている主人公と多くの人びとが描かれる群像劇でした。序盤からいい雰囲気の作品だなと感じていましたが、段々と主人公の周囲の人間関係の、そことここがつながっているんだということが分かって、クライマックスでとうとうドタバタ劇に。これはまるでかつての今泉作品の再来なんだと気付いて嬉しくなりました。そしてとても可笑しかったです。『こっぴどい猫』(2011)で衝撃を受けて以来、初期今泉作品のファンなのですが、誰かを好きでいたり、思いがけず別れを告げられたり、好きな相手に想いを伝えられなかったり、でもバレていたり。そんなひとつひとつのことが徹頭徹尾の今泉節でした。近年は独特のテイストを残しつつも原作ものを担当するなど、フィルモグラフィの広がりを見せている監督ですが、いろいろ旅をして帰ってきたらいままでにないほど豊かな作品になっていた感じが伝わってきました。いま、あの街を描くのに今泉監督が一番よく似合うんだと思います。中田青渚は『サッドティー』(2013)の頃の青柳文子を彷彿とさせますが、とにかくかわいらしいし、自分を持っていて群れない感じがしっくりきていました。本作が今泉作品の(2022年を通じてもなお)最高作だと思います。唐突に登場する渡辺紘文監督までもがよかったです。「簡単に出られるはずの街を出ない」のは『ざわざわ下北沢』(2000)と同じですね。あれから20年の街の変化と、街を行き交う人の変化にどこかしみじみとします。そして『街の上で』は再開発される直前の下北沢を収めたという意味で、もはやアーカイブでもあります。猥雑だからよかった街がおしゃれになり、きれいな街へと変わっていきますが、きれいな街にはなにかいいことがあるのでしょうか。

田辺弁慶映画祭より『スタートライン』の主人公はかつてデュオで活動していたストリートミュージシャン。相方が先にデビューしてしまい、いまはひとりで歌っています。そこに何度もやってくる女の子にギターを教えたら、主人公の歌で練習したいという。すごくいい子なので新曲を作ってあげて、下手なりにストリートで一緒に歌ったら彼女の歌でたくさんの人が集まって、主人公はふてくされてしまいます。女の子はその後もずっとギターを練習するけれど一向にうまくならない。でも歌には魅力がある。最終的に主人公は、自分のギターと彼女の歌でやっていこうと心に決めます。人を支える人生を選択することこそが道だったと気付く主人公の話なのですよね。先に紹介した『浮かぶ』ともテーマが通底しています。サクセスストーリーとも違うし、ナンバーワンやオンリーワンとも違う生き方についての、いまの若い人たちにとっての納得感ある考え方がそれなのかもしれません。

『スパゲティコード・ラブ』はウーバーイーツみたいな配達員の青年が出てくるのでコロナ禍を意識して書かれたのかもしれませんが、一概にコロナ禍の映画とも言いがたい、どちらかというと令和初期の若者群像劇という感じの作品でした。ひとつひとつの小さな物語が取っ替え引っ替えになるように編集されているのは、まるでアイドルグループがちょっとずつ歌うので上手い下手が分からないのに似ています。とはいえ小編ごとは起承転結もしっかりと作られているように見えるし、短編を作る腕はある監督なんだろうなと感じました。この編集手法であれば、大した物語がなく寂しいとか愛されたいとか、そういう内容の作品を永久機関のように作り続けることができるということでしょうか。ただ、ここでいう物語の小ささは、この国のチープさと連動している気もしています。質に入れたギターを取り返してくれた元カレの鞘に戻るとか、昭和枯れすすき感もありました。群像のなかに親の七光りで鳴らしているクリエイターが出てきますが、八木莉可子の演技が一等素晴らしかったと思います。

2019年のTAMA NEW WAVEグランプリ『旅愁』(2019)に代表されるように、中国など海外から日本に留学して映画を学んだ人の優秀な作品がコンペティションに選ばれるケースが増えてきました。2021年のPFFでも、『五里霧中』の監督やスタッフとキャストは中国人で、オール中国ロケ。ビー・ガンの世界よろしく大都市から離れた田舎(と言ってもそこは中国なのでけっこうな人口の様子)で、不正入学も含めてお金さえあれば大学に行けてしまう社会に生きる若者を捉えています。勉強すれば立派になれるような時代でなく、かなりしらけちゃってる様子がありありと見えました。彼らの独特のモラトリアムを興味深く観ました。同じくPFFの『豚とふたりのコインランドリー』は監督が台湾から日本に留学するにあたり、入学試験のために制作した作品だそうです。ほぼワンカットで、元彼に恋々とする女性と、飄々とした男性の会話がコミカルで、脚本と演出の力ある映画作家だと思いました。

映画祭から話題を戻しますが、『僕たちは変わらない朝を迎える』もとてもいい作品でした。勤め人をしながら脚本を書いている男は、一緒に芝居を作っている古い仲で、かつては恋仲だった友人から飲み会に付き合ってと言われて赴くのですが、その終わりに結婚すると告げられます。それで何かが起きるわけではないのだけれど、あんなに仲がよかったのに、なんなら今でも十分に仲がいいのに、近すぎて(彼女の言い分だと"同業はあかん")一緒にいられなかったことを主人公は反芻します。そしてラストは、主人公が彼女に対してこうありたかったという妄想が続くのですが、それも本当に本音なのか、と思わなくもないものの、本人としてはちゃんと終わりにして相手に祝福する様子が描かれます。主演の高橋雄祐の雰囲気がとてもよく、そこに土村芳がすごくいいアクセントのある芝居をしてくれています。さらに、主人公にかかわってくる津田寛治、桃果の振る舞いもよく、味わい深い作品でした。

若者の生き様(4)

最後に、2020年代のいまではない、かつての若者たちの群像劇も取り上げたいと思います。「時代劇」という言葉は西南戦争以前についての作品を指すそうですが、100年前、80年前の設定を現代劇と呼ぶのもそろそろ無理があるように思います。戦後三十余年で生まれた私はすっかり40代になり、戦後から生年までより長い時間を生きてしまいました。そんな人間にとっての「時代劇」と「現代劇」の間にある時代設定について、新しい言葉が欲しいと思っています。

『太陽の子』は戦時中に京大の研究チームによって秘密裏におこなわれていた核兵器開発と、学生たちやその周辺の人びとの青春群像劇。肉親には死んでほしくないし、愛しい人の気持ちは大切にしたい。そうなのだけど、自分たちは戦地に行かず招集もされず国内に残っていることが後ろめたい。せっかくの崇高な研究を前にして、けれども資金も設備も乏しいので全然成果が出ず、やけになって志願して軍隊入りする者さえ出てきます。そんななかでどうしたらいいか分からない主人公。もう、何を為したいのか覚束なくなっても実験を続け、あるいは京都に原爆が落ちるかもと情報を聞きつけては比叡山に籠って観察することを志願するなどします。そのことにうっすらと無意味さを感じていたように思いますが、おそらくそれを振り払うように、そうすることでしか精神を保てなかったのでしょう。すごくニュートラルで優しくて複雑な気持ちを体現した柳楽優弥、休暇が明けたらもう二度と帰ってこれないだろうという気持ちが見事に演技に現れて、かつどうしても現実とシンクロしてしまう三浦春馬、戦争が終わったらこうするんだと地に足の着いた考えをした女性を演じた有村架純など、演者たちの輝きが素晴らしかったと思います。ところで、もともとテレビドラマだという事前情報がそうさせるのか、何らかの物理的な違いを無意識に感じているのか、どうも一般の映画とは別物として見えてしまうのはなぜなのでしょうか。ただしそれは優劣というわけではなく、本作の映像や色彩の美しさは素晴らしいと思います。窯業家から得た絵付けのウランの鮮やかな黄色など本当に印象的に映っていました。

司馬遼太郎原作の『燃えよ剣』はいつもながらの原田活劇で実に面白かったです。相変わらず台詞で聞き取りやすい発話をしないので序盤の戸惑いがありますが、とにかくせっかちに進行する編集が目まぐるしく夢中になっているうちに終わってしまいました。史実に忠実なのかは分からないのですが、衣装にしても舞台美術にしても素晴らしく、スケールの大きさも見応えがありました。農民出身で武芸に秀でたキャラクターの土方歳三が小股で猿みたいに歩くことなど、岡田准一の個性ととてもマッチした小柄で強い人物としてよく描かれていました。冒頭、洋装の土方が語るシーンが、のちに戊辰戦争の真っ最中に肖像画を描いてもらいながら外国人の取材を受けている場面だと分かるのですが、かつて近藤勇が写真撮影されているのを小馬鹿にしていたのに、自分でも遺影を撮るかのように撮影に応じ、そしてそのあと、敵陣にひとりで突っ込んでいって終幕する。歴史は不勉強なのですが、彼にとってもっとも大義があったのは長州征伐をしていた池田屋事件の頃なのかもしれないなと思って観ていました。彼からすると慶喜は本当に腰抜けだったんだろうなと思いましたし、自分だけでも義を貫こうと本気で思ったんだろうなと。また、この時期の日本ですでに塹壕戦があったのは知りませんでしたし、いまでいう赤十字の野戦病院のようなものも含めて、まさに近代戦争の走りだったようですね。なるほど大林宣彦の遺作『海辺の映画館―キネマの玉手箱』(2019)で戦争の歴史を戊辰戦争から始めていたのも頷けました。新選組が京都から江戸に帰ってきたときに東京を戦場にするなと庶民たちに追い出されるというくだりは、だったらどこならいいのかという話で、その辺は東京人っぽいですね。京都は応仁の乱があったので戦場になった経験があるわけで。キャストも面白く、金田哲や村本大輔がすごくうまく起用されていました。

ふつうをめぐる想像の話(1)

このシリーズで毎年のように扱っているトピックのひとつに「ふつう」の解釈があります。これは私が主張しているに過ぎないのですが、世の中が「ふつう」を狭く捉えすぎていて、「ふつう」を無意識に受容する人が必ずしもマジョリティではないのではないか、という感じがしています。いやいやマジョリティが「ふつう」を作るのだ、倒錯だと言われるかもしれません。しかし、「ふつう」を無意識に受容する人の隣で、これが「ふつう」というものなのだと認識したうえで、意識すれば「ふつう」を実行可能な人がいる。その外側に、「ふつう」を体現しえない人がいるのではないか、というのが私の考えです。

その無意識のコロニー、つまりコアな「ふつう」を「狭義のふつう」、意識下でなら受容できるバッファを「広義のふつう」と呼ぶならば、狭義の住人が妥協してその優先的地位を自ら脅かすようなことはしないでしょう。しかし広義については共同体や関係性、あるいはテクノロジーによって領域を広げることもできますし、あるいは周縁において解釈を和らげることで、みなしの「ふつう」を生むことも可能でしょう。そうやって、広義は宇宙のように膨張するものではなかろうかと思うのです。

ただし、その膨張が幸福を生むかどうかはケース・バイ・ケースのような気がします。たとえばアカデミー賞受賞作『ノマドランド』のまさしくノマドワーカーはマイノリティではなくなっているのだと思いますが、その生活に困難が伴う面と、家のような離れがたいものからの解放という両面があるようです。フランシス・マクドーマンドが演じる主人公は、炭鉱が閉鎖されたあとも死んだ夫と住んだ家を離れなかったのですが、町が消滅してしまいやむなく出てきた設定。いくら町が閉鎖されたとはいえ、ほかのどこかに定住する権利はあったはずなのに、ノマドを選んだ。夫との思い出、夫が生きていた痕跡を持っているのは自分しかいないことが関係しているのだろうけれど、そもそも家ってなぜ持たないといけないのか。高齢者社会と低所得による、戦後ショートケーキハウスからのアンチテーゼを感じます。『モバイルハウスのつくりかた』(2012)、『死にゆく妻との旅路』(2011)を思い出しながら観ました。エンドロールを見たら、ほとんどの登場人物が本名で出演していました。フランシスは本物のノマドに混じって演技していたようです。親しい人はいるけれど、いつまでも一緒にいるわけではない。その彼らの生き方が、ドキュメンタリーっぽい演出によく合っていました。おそらく多くの場合、行き交うことはあっても、その人の死に立ち会うことはないのではないかと思います。『佐々木・イン・マイマイン』(2020)は「さよならだけが人生だ」の映画でしたが、本作はさよならを言わない人たちの映画でした。

同じ生き方でないにせよ、日本でも共通した問題は顕在化していると言えます。『老後の資金がありません!』は夫の失業、浪費家の義母との同居によっていよいよ老後の資金に当てがなくなってしまった夫婦のドタバタ劇。夫の再雇用先の同僚がシェアハウスで暮らしていて、そこを訪れた体験から夫婦が新しい生き方を模索し始めます。お金がないという悲喜劇から始まり、シェアという観点の違う啓示がなされる。最終的にその世界に身を置くことだけが選択のすべてではないとは思いますが、長年住んだ家だけが人生のすべてではなく、ある種の軽さをもって結論としたのは新鮮でした。思っていた通りに面白く、だれることなく物語がちゃんと持続するのがいいし、エピソードをひとつひとつきちんと回収、というか始末をつけているように思われるのも好感が持てる作品でした。そして配役は個性の濃淡のバランスがちょうどよく、草笛光子の介添え人としてのクリス松村という適役、また天海祐希とのデュエットで歌う「ラストダンスは私に」には感激してしまいます。あるいは悲しいとも嬉しいともつかないすごい表情で立ち尽くす松重豊が最高すぎます。ほかスポットで登場するキャストも楽しく、30年後に見ておもちゃ箱のような作品になっているように思います。

前段が長くなりましたが、まずは広義のふつうをさらに広げて、こういう登場人物も「ふつう」と呼びたいのだ、という作品を並べていこうとしています。

ふつうをめぐる想像の話(2)

真っ先に取り上げたいのは『ベイビーわるきゅーれ』です。『ある用務員』の殺し屋ペアがまったく違う物語でやっぱり殺し屋を演じた痛快アクションです。あらゆるシーンが工夫されていて絶えず面白く観ていられ、本当に痛快でした。どうやら何らかの事情で親がおらず寄宿舎生活をしながら殺し屋として養成されたのだが、社会人になるべく独立してバイトをして過ごすよう言い渡されているふたり。しかし、驚くべき生活力のなさ。それでも片方はなんとか適性を見つけてバイト先の同僚にも恵まれるのですが、もう片方はコミュ障だし堪え性もないしまるでうまくいきません。それで最終的には殺し屋専任として生きることになるのですが、言ってみれば彼女たちは今日認められるようになったある種の障害の持ち主で、多くの人にとっての適切さのなかでは生きづらいが、しかしそんな彼女たちにだって適した生き方はちゃんとあるはず。そういう、生き方を見つける旅のようにして観るとまた味わいがあっていいものです。ゆるい感じから残酷なまでのアクションに入っていく演出は阪元監督の真骨頂だと思いました。そしてなんといっても悪役が秋谷百音。「ローファーズハイ」ファーストシーズン以来の暴れん坊役は本当によくハマっていました。

男子高校生の主人公が虐められている同級生の女子を放っておけずにかかわるところから物語が動き出す『砕け散るところを見せてあげる』は、疾走感やまっすぐな熱情のSABU監督らしい作品だと感じました。あまりSABU作品をたくさん見ていなくても、ああSABUだなあと思う感じって確実にあると思うのですよね。ふたりの関係性を決定づけるトイレ監禁のシーンはまるで舞台演出のようですが、ずぶ濡れの少女と壁によじ登ったままの少年が長い時間会話する演出に独特な味わいがあります。彼がよじ登ったままにならざるを得ない、少女の要領を得ない会話が彼女の人物像を明確に映し出しています。その後のお汁粉のシーンもそうだけれど、彼女もまたある種の障害を抱えているのかもなと。そして彼女の父親もそうなのではないか。父親は想定外の事態に耐えられなくなると対象を消してしまう暴力性があるのですが、少女はそうではないので、ひたすら虐められて、でも反抗しない。反抗しないので非暴力なのではなくて、彼女は言葉を持っていなかったのではないか。そんな性質を劇映画の演出のなかですごく自然に成立させた監督の演出力が素晴らしいと思いました。ヒーローというちょっと馬鹿げた題材も、それを信じたくなるような共感を作り出しています。中川大志から北村匠海へ、という流れもいいですし、原田知世のちょっと宙に浮いた感じもいい。そして石井杏奈が見事だったと思います。『3D彼女 リアルガール』(2018)、『天気の子』(2019)に連なるボーイ・ミーツ・ガール・アゲインな作品でした。

『Mulu』(2020)のエドモンド・ヨウが『ムーンライト・シャドウ』を日本で日本人と作ったことには驚きましたが、『Mulu』も映像への魅力以外にはかなり退屈で、今作もそんな感じでした。ただ演者が魅力的に映っていたので、きっと監督は映像の人なのだろうなと感じています。何かを振り切るようにひたすら走る小松菜奈。『恋は雨上がりのように』(2018)でも全力疾走するシーンがありましたが、走らせたくなる手足の持ち主なのでしょう。そして佐藤緋美が独特な役どころを本当に独特に演じきっていて、ほぼ彼を観るような作品でもありました。精神的に病状を抱えていて気難しく、ほかの障害も抱えているのか、ひたすらエネルギーを使い果たしたら突然熟睡してしまうし、彼女のセーラー服を躊躇なく着まわしてしまうジェンダーフリーな感じも、彼の存在はいま映画が捉えるにふさわしい気がしました。全体としてはすごく観念的というか、映像美を前面に出しつつも都市伝説的なものに依っていって、死者と出会う超常体験を描いていきます。その邂逅が終わって日が昇って朝になって、橋上の子供らに呼びかけられたときの彼らの表情はどこかすっきりしていました。

『まともじゃないのは君も一緒』はなんてキュートな作品なのでしょう。優秀な作品だと思いますが、それ以上に好きな作品でした。何となく集団のなかにいるけど冷静というか斜に構えていて、自分は意識が高いんだと思っている頭でっかちな高校生。そして数学はめっぽう得意だがコミュニケーションや空気の読み方など生きるセンスに難がある予備校講師。そんなふたりの丁々発止が楽しいです。こんなにも「ふつう」か「ふつうじゃないか」をひたすら議論している作品もなかなかなく、これまで「ふつう」についてずっと論考してきた自分は間違ってなかったなと自画自賛しました。あの先生は、ふだんの会話は奇異なのに、ある女性と会話しているときだけはちゃんと話ができる。きっとそんな奇跡のようなつながりがあるんだろうなと思わせてくれます。一方、といいますか、むしろ物語は高校生の青春と成長物語なのですが、猪突猛進だけど生きるのが不器用で恋愛が何なのかわからない主人公。彼女が素面で管を巻くスナックのシーンには大笑いしました。成田凌と清原果耶の名演技。とくに清原果耶は相米慎二の演出にかかったみたいに生き生きとしているし、ホン・サンスの世界の女の子みたいでもありました。とても普遍的でありつつも、いまこのキャストでないと作れない作品だったように感じています。横浜のおしゃれな感じと無機質な感じと猥雑な感じがギュッと詰まっている、街の撮り方もとてもよかったです。

日本の少年が書いた本が翻訳され、イギリスでドキュメンタリー映画になった『僕が跳びはねる理由』。これはすごいことだと素直に思います。タイトルの飛び跳ねることにはあまり重きを置かず、たとえば話すことが苦手だったり、思っていることとは別のことを話し出したりしてしまうけど、タッチパネルだと正確に伝えられる人に光が当てられます。私の思い出なのですが、中学のクラスメイトに、とても穏やかな性格なのだけれど授業にはまったくついていけず、自分の気持ちを伝えることも上手くできず、まさに飛び跳ねてしまう少年がいました。でも彼は作文がものすごくうまかったのです。彼の書く作文にはクラスメイトも感心しきりでしたし、授業参観の注目の的にもなっていました。彼はいま元気にしているのだろうか。きっと彼みたいな人が、実はすぐそこにいるのですよね。あるいは自身の2歳の頃を正確に記憶している人がいるというのにも驚きます。人とは違うだろうけれど、理解力もあるし、一見しただけでは分からない部分がとても多い。何かに執拗にこだわったり、全体ではなく部分から見て全体に視野が広がっていく思考を見ていると、自分にもそういう面はあるのではという気もしてきます。本作の原作を英訳した翻訳者の子どもも自閉症で、原作本を読んでようやく理解できたと言っていたのが印象的です。とてもいいドキュメンタリー映画でした。

『梅切らぬバカ』は自閉症の青年と老いた母親の物語。自身も夫の連れ子が自閉症だという加賀まりこと、塚地武雅の親子鷹でした。自閉症の彼によるあまりに規則正しい生活と独特なコミュニケーションは周囲には奇異に映る部分もあるし、実際にそれで施設を追われてしまうのですが、彼の心優しさに気付いた人たちは決して彼を悪く言いません。隣家の子どもが悪気なくやってしまったトラブルには、それまで本当に古臭い家父長のプロトタイプのように見られていた男が、プライドはあるもののお隣さんにきちんと近づいていく。そんな優しさがたくさんある作品でした。懐広く動じない占い師の母もとてもいいのですが、塚地武雅の形態模写のような芝居が本当に素晴らしい。隣人役の渡辺いっけいもいい。徳井優たちが演じる施設の様子も、おそらく監督がつぶさに観察して脚本化して演出したと見られ、反対運動なども含めて丁寧に拾って描写されていると感じます。「梅切らぬバカ」という言葉が実際にあるのは知りませんでした。

『愛について語るときにイケダの語ること』の“イケダ”の顔のアップの映像だけ見ると、彼がどんな障害を抱えているのかよく分かりません。けれどもいざ手で何かしぐさをするとハッとしました。ではその障害を悪化させないとか克服するとかの目的で手術をしているのかと思うのですが、そうではなくて、彼はタチの悪い癌に侵されて手術もままならない。次第にやせ衰えていく。そんな過程において彼が語る愛は、つまりはエロい話でした。映画を撮ることにしたからなのか、やたらと風俗に通ってはハメ撮りをする。役者を使って疑似恋愛のエチュードに興じる。彼は障害ゆえ恋愛というものを最初から実現しないものと位置付けている節があり、疑似的なものに愛らしきものを求めているように見えます。しょうもない会話としょうもない遊びに彼の生き様が現れているし、それを世に出すことをちゃんとやっていることに、彼の生への強い気持ちがありました。

PFFグランプリ作品『へんしんっ!』は、身体不自由な主人公が立教大学で映画を撮るということをセルフドキュメンタリーにしています。撮影や録音のスタッフがいて撮影しているのですが、監督がどう撮りたいのだろうとか、どこから撮りたいとか、どんなふうに撮りたいとか。そういうことのディスコミュニケーションは新人監督によくあることなのだろうと思います。ただ、そのディスコミュニケーションが彼の性格によるものなのか、障害者とのコミュニケーションがうまくいっていないからなのか、それがよく分からないのですよね。砂連尾理へのインタビューシーンだったか、彼が促すなかでスタッフからそんな吐露が出てきます。作品では、目の見えない人と耳の聞こえない人の対話のなかで、手話の手の動きを把握したいかどうか、のようなやりとりがあるなど、何か根源的なものを引き出そうとする様子を見ることができます。それは障害者を知ってほしいという発露による表現なのではなくて、その行為を通じて自分自身を知る、つまりはセルフドキュメンタリーなんだと思いました。カフカの「変身」をモチーフにした演舞に出演し、身体障害者の身体性について監督自身も考えていきます。ただちょっと、どういう作品だったのかと聞かれると、少しぼんやりしている気もします。

ここまで作品の物語において「ふつう」としたい内容や人物を取り上げてきましたが、作り手自身の「ふつう」をこそ作品に織り込んでいるケースもありました。佐藤二朗の監督作品としては『memo』(2008)がありましたが、『はるヲうるひと』における監督にしか作れない台詞回しや表現の独特さが凄まじく、演出における癖(へき)が強い。やはりそういった部分が出てきてしまう監督を愛さずにはいられません。あの遊郭を現代社会のるつぼのように、ほんのひと握りの(やたらと「真っ当」を気にする人物の)支配によって成り立っている構図があり、しかし支配者が実は同じルーツを持っていて「真っ当」じゃなかったときのファンタジー崩壊には溜飲が下がる思いがしました。ただ、生き様の描写がどこまであったかといえば、モンスター佐藤二朗の異常性と、そこでしか生きられない人びとの虐げられた様子がどうしても目立ってしまい、それを描くのにビビッドな設定を作ったように見えてしまったこともまた事実です。主人公兄妹の過去についてのエピソードが登場しますが、ほかの女郎たちはどうだったのか。

ふつうをめぐる想像の話(3)

多種多様な性質を「ふつう」として捉えていきたい、「ふつう」の広義的解釈をさらに膨張させていきたい。しかし息を吸うようにそれを体現できるのかと言えば、実のところそんな気はしません。それなりにエネルギーを要する行為であるように感じますし、逆に言えば、狭義の「ふつう」のなかに収まり得るものからしてみれば、自身の幸福にとって最善は、多少のカロリー消費によってその狭さを維持することにほかなりません。その何倍ものエネルギーを費やして、狭さの崩壊が彼らの生存を脅かすものではないことを示していく必要もあるのだろうと感じます。

その活動に必要なこととして「想像」があるのだろうと、まさに『想像』という名のドキュメンタリー作品を観ながら考えました。チェルフィッチュという劇団のことを知らなかったのですが、なんという不思議な台詞と演技の芝居でしょう。台本読みの段階ではこれはいったいどうしちゃうんだろうと思って観ていたのですが、最終的にものすごくおもしろい芝居になっているのが衝撃でした。そこにあるのが「想像」だということなのですが、想像とは別種の演技の新鮮さだったり空間の手前だけで盛り上がってしまっている感じなどもつかみ取りながら、演出者は想像を要求し続けます。うーんそれも面白いけどこうなんだとか、今回はちょっと違うとか、できていないことはいままでやってきたことをやっていないだけなんだとか、空をつかむようで困難すぎる演出家の言葉を、なんとか捉えながら食らいついていく演者たち。語りと動きだけで空間を捕まえにいく、グルーヴを作っている感じ。実際に稽古をすると困難に陥るのかもしれませんが、「想像」をやめず作り上げていく空間の感覚を何となく分かる気はしました。他作品の話を挿し込みますが、PFF入選作『巨人の惑星』は決して斬新なプロットではないと思うものの、巨人がいると主張する引きこもりの元同級生が主人公を外に出ないよう拘束し、その妄想で暴走していく様子が不気味に描かれます。ギャグムービーなのかと思ったらどんどんマジになっていく感じの振れ幅がすごい作品なのですが、その巨人をいかにして見るか。物理的に視界に入らないという事実をもってコミュニケートが無意味化することを超克するための「想像」をめぐる作品だったと言えます。

ドキュメンタリー『想像』に戻りますが、作中の演出を見つめながら、途中からこれは平田オリザがやろうとしていることを別の登山口からアタックしようとしているんじゃないかと思ったのですが、Wikipediaにも超現代口語演劇だと書いてあって納得しました。びっくりしたけど面白かったし、想像とは何ぞやと深く考える映像だったと思います。文章として残そうと思うと、あのグルーヴをつかめた気がした感覚を言語にしづらいですね。しかし「想像」こそ重要であるということは記しておきたいと思います。生きづらさと若者の生き様と「ふつう」をめぐる考察を、ここに帰結させたい。

誰かが困っていたり傷ついていたりしていることに気付いてあげられなかった後悔と、自身の成長の物語として『君は永遠にそいつらより若い』のもつ熱さは出色でした。就職も早々に決まり、単位もだいたい取れていて、バイトしながらゆるゆると卒論の準備をしている主人公。序盤は本当にそれだけの話だなと。彼氏もいないしちょっと風変わりで自堕落。何かを頑張ろうということもなく、湿気ている感じ。モラトリアムにはそんな子はたくさんいますし、すごくぬるい大学生女子の日常を面白く観ることができます。でも雰囲気が少しずつ変わっていきます。いや変わっていくというより、登場人物たちが本気の自堕落で生きているのではなく、自分や誰かに対する後悔や自責の念があることが、見えてくる。主人公・堀貝の昔話に「あの頃のまま復讐したい」と一生懸命語りかけてくる友人・猪乃木。耳の怪我を覆い隠して生きている彼女。その怪我のわけ。気付いてあげられなかったと悔やむ堀貝。あるいはサークルの仲間が事故死したと思ったら自死で、兆候にまったく気付けていなかったことで人が変わったように仲間のことにのめり込んでいく青年。さらにはテレビで紹介される少年の失踪事件。堀貝にはそれが児童福祉士になるきっかけになります。自死した青年の遺書に書かれていた少年の救出は、堀貝のデビュー戦です。すぐそばにある死と隠したい過去と自責の念を見つめながら、自堕落なモラトリアムは終焉します。なんとなく猪乃木とよい別れ方をしなかった気がして小豆島に向かう堀貝は、そのわだかまりを思い出として過去のものにしたくはなかったのでしょう。そして児童福祉士として、四角四面の日々と彼女は言うけれど、社会問題と格闘を始めた堀貝の姿で作品は終わります。言葉にならないような「自分や誰か想う気持ちの揺れ」を作品としてまとめ上げられる吉野監督は、いっそう深いところに行ったような気がしました。今日を切り取ったとてもビビットな作品だったのだと思います。

『明日の食卓』も想像についての作品と言えますが、どちらかというと観客の側が登場人物に対して想像を巡らせていくことで世界観が広がっていくものだと思います。3つの異なる交わらない世界線が並行して進行する構成は『怒り』(2016)に似ていますが、あちらはそれぞれの世界があまり交わらないばかりか物語のチョイスの必然性もいまいちピンと来ませんでした。本作は「母親と息子」の関係性、母親の生きにくさ、息子から見た母親などの展開や物語の揺れがきちんとシンクロしていて、交わらないのだけれど、終盤に登場した大島優子とその後の語りによって、交わらないからこその世界線の意味が語られます。3人の「イシヅカユウ」のあとで4人目が(母親が手を上げたことで亡くなった後に)登場するのだけれど。その母親はごく普通の母親だった。日本中に同じような母親はたくさんいて、立場や環境は違っていてもそれぞれに苦悩しているということが、ものすごく鮮やかに提示されます。それが俯瞰的とか客観的とかではなく、それぞれの設定に感情移入しきった後にそうなっていく演出のうまさ。夫の実家の隣りに家を建ててそこで専業主婦をしていて、夫はお坊ちゃま、息子はサイコパス呼ばわりされている家。老母の真行寺君枝が不気味すぎるのですが、彼女が痴呆症を演じる日が来るとは。困り果てたときにふと誘われてしまう新興宗教のくだりもぐっときます。あるいは都内でフラフラしている夫の一方で子育てしながらライターとして復帰するも、やんちゃすぎる子らと浮気している夫に発狂する女。大阪の長屋でコンビニの朝番と深夜番とクリーニング業を掛け持ちして借金を返している女。どの家も見事な演技でしたが、大阪パートを演じた高畑充希が出色。瀬々作品のなかでも私の好きな作品でした。

『クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』はかすかべ防衛隊のそれぞれのキャラクター「らしさ」のビヨンドを観られる作品でしたが、本作もまた想像が「らしさ」の上を行くことで広がる世界観を指し示してくれていると思います。地元に存在するエリート養成学校はエリートたちをポイントで定量的に管理しているのですが、上を見れば完全に上級市民のようだし、下を見ればポイントなどいっさい無縁を決め込んだ不良集団がたむろしています。この光景、『ビー・バップ・ハイスクール』(1985)でしょうか。また、ポイントというのは『映画 賭ケグルイ』(2019)も想起させます。当然ながら階級主義への批判がありつつ、運営している側がそんなにちゃんとしていないこともあるあるですが、上流階級にギャルがいたり、階級は高いらしいが山ごもりしてコモドドラゴンを飼育している野生児がいる展開は、まったく奇想天外です。しかもその野生児になんとぼーちゃんがガチ恋。まさおくんが番長デビューするのも実は個性が出ていてとてもいいのですよね。もともとは風間君の発案で体験入学したのも、意識が高すぎるがゆえに罠にハマる様子も見事。自分らしく生きるという、実に普遍的な物語に帰結していると思います。前作『クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』(2020)もとても面白かったのですが、いかんせんしんちゃんの活躍ばかりの物語だったのが心残りでした。しかし今回はかすかべ防衛隊の一同が大活躍なので楽しく、しかもこんなに王道かつアイデアに満ちた脚本で、歴代のなかでもストレートによい質の作品だったと思います。

AIによる想像が導くファンタジー『アイの歌声を聴かせて』もとてもよかったと思います。「ポンコツロボットもの」という確立されているだろうジャンルでロボットを美少女にし、なおかつやたらと歌う空気の読めないキャラクターでミュージカル仕立てにしてしまうという設定が面白いですし、それを見事に実現してしまう土屋太鳳の演技と歌唱に感嘆しました。うざったい存在なのに少しずつ人間関係をほぐしていく物語の作りもうまいのですが、それは実は少年がかつて仕込んだ簡易的なAIが、リセットされる前にネットワークに逃げ込んで成長したものでした。その展開はたとえば『レディ・プレイヤー1』(2018)の個人を再現したバーチャル世界と逆の立場で物語とアーカイブを構築しており、新鮮さがあるし実現可能性も感じられます。ラストの、ハッピーエンドを人工衛星からとりなすAIというスケールもよかったです。使徒がやってこない第3新東京市みたいな街なのに、子どもたちが強引に大人にさせられるのではなく、街をリードしている企業が老害とも言うべき年功序列感や女性観、やっかみによって進化を自ら妨げていて、若さがそれを撃破するという展開がまさに今日的。企業が武装化しているというのもありうる未来。その意味ですごくビビッドな作品になっていると思いました。

また、『BLUE/ブルー』はボクシング映画という一大ジャンルの「らしさ」に一石を投じた作品だったと思います。𠮷田監督自身が元ボクサーであるため、多くのボクサーのリアルにこだわった作品なのですが、これもまた隅々まで張り巡らされた想像を観客に突き詰めているという意味で、この文脈で語りたい作品です。その意味では、監督自身が奨励会出身の『泣き虫しょったんの奇跡』(2018)と類似しています。

ボクシング映画は数多ありますが、自分が変わりたいとか何かに奮起したりする人物の、成功にしても失敗しても、血を吐くようなトレーニングとリング上での灰になるような闘いがメインになるのが王道だと思います。少し違っていたのが『アンダードッグ』(2020)で、主人公は負けて相手がヒーローになる「負け犬」でした。そして本作は、どうしてボクシングをやっているかと問われれば、親友というか初恋の人というか、彼女に勧められたからというだけ。好きだから続けているけれど、優しくていつも負けている。負けて、また練習する。しかし彼がボクシングに誘った友人がタイトルマッチをする日、負けて誰にも言わずにひっそり引退して姿を消します。主人公なのに姿を消す。そして防衛戦と彼が教えた選手の試合を、暗いところでそっと見つめる。その後ろ姿が、優しくもあり、寂しそうでもあり。すごくいいショットでした。これをボクシング群像劇と呼ぶのだろうか。好きで、のめり込んで、闘って、負けて悔しくて、愚直に練習する。才能の有無はあっても天才はそこにいない。ジムには事故もあるし慰謝料も払う。経営は厳しい。𠮷田演出のテンポとくすりとした笑いと、素晴らしい芝居と、監督直々のボクシングの“殺陣”のすごさ(見せるというより、実際にリアルのプロの試合を見ているようだった)と。ずっと観ていたい素敵さがありました。

日常の超克(1)

映画は時として、観客を思いも寄らない遠い場所に連れて行ってくれるものですし、あるいは登場人物がたった2時間でとんでもない変貌を遂げてしまうこともあります。いずれにしても日常を超克しているわけですが、リアリスティックにこだわった作品や、社会問題をまざまざと見せつけてくる作品を多く見ていると、非現実が恋しく感じられます。なかには理解できない領域にまでいってしまう作品もありますが、鑑賞後の「やってしまった……」という感覚が妙に楽しいものです。2021年はそういった作品が多かったように思います。日常が暗く辛く厳しいせいなのかもしれませんし、製作側がビヨンドな内容を抑えないようになっている、それだけ力量のある作り手が増えてきた証左なのかもしれません。どんな理由であれ、この手のぶっ飛びは大歓迎です。

多くの場合、登場人物のぶっ飛びが観客のぶっ飛びになっているのですが、その代表格は『ひらいて』でしょうか。珍しく集団の中心にいる山田杏奈が踊っている序盤、その集団の端っこにいたらしい同級生役の芋生悠を助ける。その同級生はⅠ型糖尿病でジュースを飲んで回復するのですが、たぶんあのとき主人公は善人のふりをしつつ同級生を「かわいいかよ」と嫉妬したに違いないですし、口移しで飲ませてあげたシーンで主人公の距離感ゼロの性格が示されます。好きな男子がひた隠すのが彼女だったとは、というのは、日向が日陰になるほどの衝撃だったに違いありません。そこからの執拗さがこの作品の醍醐味ではあるのですが、山田杏奈が好きな相手を見るときの黒い視線が怖すぎます。やがて、勘違いからくる噛み合わない会話から、嘘から出た誠のように女子に対して“おいた”をして、もう何が目的なのか分からなくなるような墜落をしていきます。まさに墜落としか言いようがない。そして日向の人物から(シネマヴェーラ的に言えば)「妄執、異形の人」へと変貌してしまうのですが、それではじめて、日向の人物であっても中身は空っぽだったのだと気付くのです。中身があったのは同級生のあの子のほうだったのだ。妄執は抑えきれず、受け取った手紙の衝動のまま教室を駆け出して彼女の教室に突進する。それで一言、「また一緒に寝ようね」。それは監督のPFF入選作のタイトルそのものではないですか。騒動からひと段落して卒業の時点で、大人になって妄執から脱したのかと思いきやあのラストというのが衝撃で、ただでさえ堕ちていって自分でもわけが分からなくなった後に、まだ妄執しますかと。遠くあっち側に吹っ飛ばされて終幕してしまいました。この混乱は何だろうかと思っていたのですが、鑑賞から数日後、ようやくそれが『インフェルノ 蹂躙』(1997)や『検見川奇襲作戦』(2019)のような、高橋洋的、大工原正樹的、映画美学校的な不気味さの系譜なのだと咀嚼してようやくすっきりしました。『なっちゃんはまだ新宿』(2017)もそうでしたが、高橋洋的世界観を女の子視点の青春映画としてトレースするとこうなってしまう(褒めてます)。そこにぶっこんでくる「夕立ダダダダダ」という冒頭のインパクトの強い楽曲が突き抜けていて最高でした。

映画美学校的といえば『恋愛準々決勝戦』は『やす焦がし』(2019)だとしか思えない配役。それだけで十分不気味で十分楽しかったです。親友の死をきっかけに夢遊病になってしまった自分を解明したくて呼んだはずの、親友に瓜二つの人物が、実は夜中に化けて夫婦関係の崩壊を決定づけてしまいます。物語はそれほど単純でもなく、どれが夢で現実なのかはっきりせず終始もやもやします。いやはっきりしないというよりは、本当は分かりづらくするつもりではなかったところが、編集か演出の問題で分かりづらくなっている感じだけな気もします。ラストに突然踊って終わるあたりなど、映画美学校的な不可思議さがぐいぐい出ていて嫌いじゃなかったですね。と言いますか、この種のぶっ飛びが私の好みなんだと思います。

『浮気なアステリズム』もすごい作品でした。昔の男が忘れられない主人公は職場の男性から求婚されて受けるつもりではあるものの、昔の男を探しているという女が出現して感情が復活してしまう。その男は宇宙人で、彼を探しているという女もまた宇宙人で、男はその星の警察に追われている。という設定を途中まではほぼ現代人の衣装のまま、しかし後半に登場する警察は学芸会かと思うような衣装でやり遂げる荒唐無稽な物語でした。だけれども、その男のぼんやりとしているわりにやたらと女たらしなところとか、それでも今の嫁さんにすっかり手なずけられて尻に敷かれているあたりに、妙に青春の終焉を感じさせてしまうのがいい……のですが、いよいよ警察による捕獲劇で追い詰められたところで発覚する、嫁さんの宇宙結婚詐欺師疑惑。この飛び道具には笑ってしまいました。で、どんな映画だったっけ? と反芻するのがこんなにたいへんな映画もなかなかありません。

『聖地X』もこの文脈の作品だったと言えるでしょう。小説家志望の男は仁川にある別荘で両親の遺産で暮らす日々。そこに夫に愛想をつかした妹が転がり込んできて同居が始まる。ある日妹は出かけた先で兄を見かけて追いかけるものの、たどり着いた飲食店にいた兄はあらゆる部分がおかしな不審者だった。『パラサイト 半地下の家族』(2019)に刺激を受けたのかなと思わせるほぼ韓国ロケの作品。やっぱり入江監督はインディーズをビッグバジェットでやって、ちゃんと豪華なインディーズにできる最右翼ですし、それでこそ生き生きとするタイプの人なんだと思います。ああプールに落ちる演出なんだろうなというシーンでちゃんとプールに落ちる演出を、味わいと取るかベタと取るかは意見の別れるところだと思いますが、そういうところが「インディーズ味(み)」なのではないでしょうか。そんな環境で楽しそうにやってる岡田将生とか川口春奈とか真木よう子とか。よく分からない体操も含めて楽しいですし、分離した自分をどうにかする頭脳話が、どことなく『ドロステのはてで僕ら』(2020)を思い出すものがありました。原作がどうなっているのか分からないけれど、韓国の地方都市での少人数の狭い話だからこそ設定が納得感を生んでいる作品でした。

日常の超克(2)

まともだった人がまともでない人に出会ってしまって、当人もまともでなくなってしまう作品もあります。『愛のまなざしを』は『接吻』(2008)を思い出すサイコスリラーで、行きつく先はどうせ破滅しかないのだけど、とにかく破滅をみんなで見ましょう、という映画でした。そういう破滅に導く女性をファムファタルというそうですが、もともと妻を失ってちょっとおかしくなってる主人公の精神科医がある女に、亡き妻が別の男とできていて息子の父親は別人なのだと嘘を吹き込まれ、いよいよ周囲を破壊しかねないところまで異常をきたす。さすがにいじめ過ぎたと思った義弟が情報の修正に走るのですが、そのとき主人公がえらく素直に言い放つ「なあんだ、そうだったのかあ」の間抜けさに思わず吹き出してしまいます。最終的には女自身も狂気から自死してすべてが終わったので、それで妻の呪縛から解かれたのではあろうけれども、その女の死によって新しい呪縛が転移しただけなんじゃないのという気も。ただの運のない男の話なのではないのかとすら思ってしまいます。と同時に、過去に拘泥するという意味で和製『レミニセンス』なのか、とも思いました。

日本映像グランプリから『写真の女』もファムファタル的な作品でした。無口な写真屋の男は山中である女を見かける。自撮りに失敗して胸に大きな傷を負った彼女を、男は自分の店に連れて行く。そこから女はその写真館に居つくのだった。女の声への演出がどうなっているのかすごく不思議な作品で、アフレコなのはそうなのですが、つぶやくような声が、そばにいても樹の上にいても同じ感じで聞こえてきます。なので幻想なのだろうかと思うほどですが、実存の人物という設定のようです。序盤にお見合い写真を加工しまくってもはや別人化した写真を持ち帰る客が登場しますが、のちに再来店してさらなる加工を写真屋に求めます。女はその客の行為をはじめは虚構だと思っているものの、傷を消した写真で見栄えのいい姿を見せている自分もまたそうだったのだと混乱をきたす様子は面白かったです。青年団の永井秀樹の不愛想で女っ気のない感じがいい作品でした。

これらの作品とは違い、主人公自身がファムファタルになり相手を破壊していく作品に『欲しがり奈々ちゃん~ひとくち、ちょうだい~』があります。とにかくファーストショットから架乃ゆらのかわいらしさがとんでもないことになっています。他人のものが欲しくなってしまう癖にはなんだか共感してしまいますが、主人公はそれが原因で会社を辞める羽目になっています。彼女が心を奪ってしまった男はすっかり主人公に惚れてしまい追いかけてきてしつこいし、父親は厳格そうにしているのにいつの間にか後妻をもうけたと思えば、その人は主人公が勤めるコンビニの先輩店員で、奈々ちゃんの周りは忙しい。私が城定監督のピンク映画を観るのは2本目だと思うのですが、根暗でくさくさしている独身男が情けないけど最後はなんだか吹っ切れて明るい感じになるのが城定作品らしさなのかなあとなんとなく感じています。鍛え上げられた架乃ゆらの身体は素晴らしいですし、相手のコンビニ店長役の守屋文雄もすごくよかったです。『悦楽交差点』(2015)といい、岩切監督の『花に嵐』(2017)といい、家の自分の部屋の壁に片思いの人の巨大な写真が貼ってある『恐怖分子』(1986)スタイルは、病的な気持ち悪さのアイコンですね。

主人公はまともで、社会もまともと言えばまとも。なのに主人公が狂ってしまうのは『裏アカ』でした。アパレルショップの店長である主人公はストレスフルな日々。あるとき魔が差して作った裏アカで過激な自撮りを投稿。たちまち人気となり投稿は過激さを増していく。高校生のようなもっと若い年代の女性が軽い気持ちで始めたSNSなどで毒牙にかかるというのはあるのかなと思ったのですが、もっと分別のある大人が裏アカにハマるというのは、その人の孤独さを表しています。東電OL殺人事件を下敷きにした『恋の罪』(2011)と似た性質を感じます。終盤のパーティーで裏アカを特定する映像をゲリラ的に流されるのは、真剣に調べたら裏アカは意外とバレるということなのでしょうかね。あの場面での周囲の、哀れな人を見るような、汚いものを見るような視線はひどいものです。その一件で主人公は壊れてしまうのだけれど、最終的に作品がどこを落としどころにしたのか分かりませんでした。

上記作品とは逆に、まともでない世界で主人公がまともを貫いて勝利したのが、外国作品の『アンテベラム』でした。これはものすごく面白かったですね。南北戦争時代のアンクル・トムみたいな話なんだろうと思って観始めましたが、なんとなく違和感がある。どうしてこの奴隷たちはノースカロライナなどの出身者なんだろうと。もやもやしていたらいきなり現在のシーンになるものの、どうも夢落ちでもないようで、ちょっとだけ気持ち悪いまま続行します。タクシーに乗ったら拉致されたくだりでようやく「ああそうか」となりました。最後の逃亡劇がわりとあっさりというか、残り20分ぐらいで主人公が駆け抜けるのは、そこがメインにならないようにする仕掛けとしてお見事。最終的にテーマパークっぽいエリアが重機で破壊されておしまい。社会のなかのすごく露悪的なものの可視化として、こんなに分かりやすく秀逸なものもなかなかないのではないでしょうか。

日常の超克(3)

それにしても近年は、これまでであればSFとして表現していた超人的な世界観を、とても身近なものとして映像化する傾向が強くなってきているように思います。さきほどの『アンテベラム』にしても、タイムリープのような設定で表現する手もあったのでしょうけど、思いっきり現実のはりぼてのなかに収めてしまっています。空想っぽさを消すことで、観客にとって地続きのものとして捉えられるようにできている。観客の空想への思いの至らなさであるとも思いますし、科学の発達が空想を空想として放置してくれなくなっているのだとも思います。

認知症の患者に見えている世界を(私は当事者でないので分からないにしても)こんなにも再現できるのかと驚いたのは『ファーザー』でした。とんでもない作品でした。ホラー調ではあるのですが、映像があんなに混乱しているのなら、もう認知症とは違う意味で精神を崩壊してしまいそうです。彼らが本当にこんなふうに世界を生きているのなら、それは厳しすぎます。空想上の1日を延々と行ったりきたり、設定が変わったりしながらずっと生きている。それで、あの人じゃないとか、さっきと言ってることが違うとか、人格が変わってるとか、空間が違うとか、そういう意味不明な言動が続きます。まるで意図せずに振り回されるだけの『インセプション』(2010)みたいです。みんなあべこべなことしか言わない世界。だけど、やったことのないタップダンサーだった過去を話すなど主人公もさるもの。もうn×nの混乱で着地がありません。ラスト、実は老人ホームの一室でしたよということで終わるのですが、それにしたって翌日はまた空想の1日を過ごすのかもしれません。それを一生繰り返す。ものすごい物語、脚本、それを体現したアンソニー・ホプキンス。なにもかもすごかったですね。

日本映像グランプリより『巻貝たちの歓喜』も一風変わっていて、主人公はツブ貝に酔うことでおかしくなっていきます。序盤は主人公にこだわりが強くてとっつきにくそうに思っていましたが、幻覚から幻肢が出現し、しかもある音楽が流れると持続していくという設定で、ますます実体化が進み逆に実存が消滅してしまうというのは面白い世界観です。地下アイドルの件がやたらと長くてくどいなと思いましたが、うんざりした頃に始まる第九という流れがなんとも面白かったです。商業版としてリメイクしてもよさそうに思いました。

あの世は科学的世界ではないと思いますが、死後の世界がきわめて現実世界と近似しているという設定もときおり見られます。『メイド・イン・ヘヴン』では若くして妻に先立たれた漱石を名乗る作家が車に轢かれて死んだら、本人は記憶喪失になってしまうものの、死んだ妻に遭遇します。しかし死ぬ際にファンの女性と一緒だったために浮気だと思われるうえに、妻を覚えていないので夫婦関係がおかしくなっていきます。ただ、記憶を取り戻したときに気付いたのは、その世界が本当の死後の世界ではなく、作家としての主人公が想像したところの死後の世界だった、というオチ。その世界構造をどこまで理解できたのかあまり自信がありませんが、国広富之演じる主人公による新海誠ワールドのような作品だったと解釈しています。妻役の手塚理美や、漱石の作品によって仮想の死後の世界にやってきてしまった堤下敦がコミカルで、意味が分からないところも多いけれど面白かったです。全体的にふわっと不思議な世界なのがなぜか心地よいのでした。

この項目の最後にこの問題作を引っ張ってきてよいのか迷いましたが、作り手たちが本作をエンターテインメントとして昇華しようとしていると感じたことから、『万歳!ここは愛の道』を取り上げます。互いに映画監督として映画祭で受賞歴もある男女は恋人関係であったが、その間に彼女が心を壊して入院してしまっていた。やがて元彼である監督自身がカメラ片手に元カノに会いに行くと、彼女は交際していた2年間の記憶を失っていた。何かすごいものを見たなというのが率直な感想です。どこまでがリアルでフェイクなのかまったくわからないのですが、おそらくふたりの関係や、精神障害のことなどは本当で、もしかしたら記憶をなくした件も、まったく同じでないにしても、一時的な障害としてはあったのかもしれません。その記録は、本当に痛々しくて見るのがしんどい。何を見せられているのかとも思います。終盤ようやくフィクションだなと確信するあたりで少し安心しました。きっと彼らは、この作品を作ることで生きてきたことと生きていくことを肯定することができたのではないか。本作は私小説の究極的なものなのかもしれません。

円環を見つめる(1) すべてのエヴァンゲリオン

先ほど「科学の発達が空想を空想として放置してくれなくなっている」と書いたくせして空想の世界の話に戻そうとしています。洋邦の大作が偶然にも、いや必然なのかもしれませんが、繰り返す世界についての物語になっており、その観点で見れば類似の設定を発見できることから、緩やかにそれら作品を集めてみようと思います。

やはり最初は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でしょう。前述の通り、この作品が公開されたと聞いて、それが完全なる完結篇であり、たいへん評判がよいとも聞いたことから、そこではじめてテレビアニメ版から順を追って見始めました。その際、まずは旧劇場版を一通り観た私の感想が残っていたので、それの掲載から始めてみます。

そうか、自意識を失くせというアジテーションが90年代末から00年代初頭にかけて多かった気がするが、これが象徴的なものだったのか。テレビシリーズの最終話における人類補完計画がそれだった。ちょうどテレビシリーズの頃、阪神淡路大震災とオウム事件の直後で、90年代の真っただ中で、生きることについて当たり前だった“よすが”が消滅した感じがあったんだと思う。愛されることを知らない子が愛し方を知らない。生き方に行き詰って自分を肯定することが容易でなくなった。それで他者を肯定することもまた容易でなくなった。狭い価値観であらゆることを判断していく感じは、あのときよりも今のほうがより強くなっている気がする。
ただ、自意識の解放だけで次の社会に突入していくのは、実際には無理だったように思う。それゆえに次の社会が訪れるのにすごく時間がかかった気もする。宮台真司が自意識を語っていた00年前後から、新自由主義の台頭は避けられないから「共」で対抗するしかないと言った2012年ごろまで、すごく時間がかかっている。厳密に言えば私が理解できるようになるまでそのぐらいの時間がかかった。作品中で「生きようとする者が生きていける」のようなことが何度か語られるけど、生きようとするというそもそものところへの解が足りなかったのではないか。いま思えば。
それって、自意識がなくても生きようとする、自意識があっても生きようとする、あるいは自意識と距離を取って生きようとする、のような。当たり前のことを当たり前に受け入れていたら生きられるわけではない世界で、言ってみれば自分自身を信じて生きていくことの哲学については、作品では語られなかった。
庵野監督自身の半生への総括と、少年少女へのメッセージがふんだんに盛り込まれているけれど、整理されているわけではない。そもそもの構造で、どうしてセカンドインパクトでアダムを抑えなければならなかったのか、それをどうして可能にしたのかは分からない。そもそも使徒が分からないし、万物の源だとしても、どうして人類がそれを知ることになったのか、なぜ使徒を殲滅した先に人類のネクストがあるという筋書きなのか。
とはいえ、『インターステラー』みたいな、人類が地球で生存するのはもう無理だろうというときに、人類が選んだ道のひとつなのだとは思う。それが今作(=旧劇場版)では、人類が作り出した神としてのエヴァンゲリオンを宇宙に放つというユイの構想なのだろう。その後の人間には絶滅を待つことしか意味がないから、融合して不安をなくして存在を消すことになるのだろうか。
後日なるほどと思ったのは、会社でも何でも、ある仕組みを作り出した人がまだいるうちは、人がコントロールしうるものとして存在しているけれど、作り出した頃のことを知らない人だけになったときには、未知の物体のようになって、それが人間に対してどう動くか分からないような不安感もあるのではないか。そんなときに、すべて破壊して無にしてしまおうという気持ちが、この作品の一端としてありそうな気がする。

すでに研究しつくされた作品なのでしょうから、疑問ひとつひとつへの正解がもう語られているのかもしれませんが、調べる時間も作れませんでしたし、感想は感想としてそのままにしておきます。そして新劇場版をシリーズ全体として感想を残します。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007)は旧劇場版とさほど変化を感じなかったのですが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009)については、変化したけれど、むしろ整理されてすっきりしたのかなという印象でした。アスカの名前が違うことと、カヲルがずいぶん早くから登場して、しかも月にいることの答えが何なのかについては、きっと最終的には分かるのだろうと思いつつも、タイムループなのかなと予想していました。リビルドというのは製作にとってのリビルドではなくて、人類補完計画が中途半端に終わって人類がふたりだけ残った世界をやり直そうとして、創造主がある時点まで巻き戻しを図ったのではないかと。それ自体は、ある意味ではどの作品も傷つかない仮説ではあります。

そのあと何の予習もなく『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)を観て、まるでついていけなくて、2回観ました。配信だとそれが容易なのがいいですね。それでもよく分からなかったのですが、いちおう、『:破』のあと14年経って、初号機のコアを使った飛行船みたいなものが出てきて、世界観が『天空の城ラピュタ』(1986)っぽくなったなと。また、エヴァが量産されているのも理解できました。それからトウジはパイロットにはならず、おそらくパイロット候補生たちのクラスだったという設定もなくなっていて、マリが挿し込まれている。ただ、この時点ではその変化がもたらすものについてまったく分かりませんでした。また、カヲルが使徒でありつつもシンジたちの側で同じように生きていますが、これもよく分からない。

そして鑑賞した『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でしたが、よく言われる「全部回収した」というのはそこまで理解できたわけではありませんでした。ただ、見事な終焉だっただろうというのはよく伝わってきました。テレビ版については明らかに制作が追い付いていなかったですし、おそらく本当に着地させたかったようには着地してないんだろうというのは分かりました。旧劇場版でも闇落ちして終わったように見え、あれがあの当時の監督の人生観だったとしても、なかなか腑に落ちるものではなかったのかなと感じさせる内容でした。それらと向き合って自分の物語を成仏させられたことには、実はそれをきちんとやりきれる人は世の中にほとんどいないはずなので、ただただすごいと思うのです。

『シン―』を見ていると、登場人物がいろんなふうに見えてきます。シンジが監督の分身だとして、綾波=母なのだけれど、レイ(仮)は母から産み落とされたもうひとりの自分=監督だと思いました。人として喜んだり感動したり感謝したり労働したりという、人間賛歌的なものの欠落を一から埋めにかかっているのが、それそのものが監督自身の補完計画という感じでしょうか。さらに、マリはモヨコさんだったのですね。それが分かったときは感動した(この辺はNHKのドキュメンタリーによる理解もあったと思います)。第3村で読まれている絵本がモヨコさん作なのは、明らかにあの村に人間的なものを寄せた証左でしょう。ではアスカは何なのか。旧劇場版とは違って、人造人間は監督のことを絶えず叱咤している何か。しかも病んでいるときに、愛や優しさを感じつつも、それでも監督にとっての自信を否定して「あるべき」を問うてくる何か。それは世間だったのではないか。なので人間的なものが前面に出てくる場面では居心地が悪そうにしており、最終的にシンジはアスカを超克することによって自身が救済されたように見えます。そしてミサトはフュリオサ(言わずもがな『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)のヒロイン)だったのではないでしょうか。調べるとfuriosaはラテン語で「怒れる女性」を意味するそうですが、ミサトはまさにそうでした。ジオフロントに始まり、ゲンドウと敵対し空を飛び、そしてまた地下深くに潜ってゲンドウと対決する。真に世界を変える戦士は彼女だった、ということなのでしょう。

さらには、ゲンドウについては父性なのだと思っていたし、父の超克の物語だとずっと思っていたのですが、ゲンドウにもまた人間愛の欠落があり(知っていましたが)、ユイの死を受け入れることや息子と対峙することを避けてきていました。これまでシンジから見たゲンドウばかりが描かれてきたなかで、終盤で視点が逆転し、ゲンドウが一人称で語り始め、人間性を発見したところで物語から降板してしまいます。それって、超克したのではなくて、ゲンドウもまた監督自身だったのではないか。人類補完計画を首謀したのは誰よりも監督だったのではないか。自身を見つめることができたとき、あのときの自分自身を超克したのではないでしょうか。なんだかものすごく生意気なことを書いていますね。

それで、まさかの宇部の実景とアニメーションの融合で終わります。『式日』(2000)ではないですか(後付けで知ったのですが)。これには驚きましたが、あのときの自分が成仏して、自分自身も故郷に帰ってきたのだなと。その世界がどのように形成された世界なのかはよく分からないけれど、あのラストになるべくしてなったのだなと思うことにしました。お見事でした、おめでとうございますと言いたい心持ちでした。

旧劇場版ではあまり出てこなかった懐メロが新劇場版にはたびたび登場します。それはマリの出現のせいだけではないのでしょうけれど、マリ=モヨコさんがいて、旧劇場版のころには「いま」しか見られなかった監督が、もっと幼い頃の記憶から歴史を語るようになったことが大きな進歩だったのだ、ということなのかなと解釈しています。

ところで、『シン―』の世界においてタイムループはたぶん本当に起きていたんだと思っています。それで創造主による何度目かの試みにおいてシンジが世界を変えられるターンがようやく回ってきて、円環が終わることになったのだろうなと。あの絵コンテのままの映像の部分は、テレビ版の追い付いていない映像のオマージュっぽいものかと思っていたけど、世界を書き換えている過程だったのかな。創造主=監督。だから「よろしくお願いします」なのかな。

マイナス宇宙という概念は、『インターステラー』でいう高次元の空間だし、『TENET テネット』(2020)の反物質、逆行の世界に近いです。やっぱりノーランっぽいし、ノーランより先に物語化していたということですよね。

円環を見つめる(2)

『シン―』の米国からのアンサーが『エターナルズ』だった、という解釈はどうでしょうか。クロエ・ジャオが監督したということで、エターナルズたちがたどってきた数千年の歴史の切り取られ方が、白人による地球支配の歴史をトレースしているとか、メンバーたちの人種やジェンダー(男女比だけでなく同性愛者がいたり子どもが無性愛者っぽさを出していたりも)の多様さがすごく注目されていて、それは本当にそうなんだろうなと思っています。ただ、私自身がほかのマーベル作品をあまりよく知らず、またそもそもいまはあらゆる人種の演者を出演させないといけないルールがあるとも聞くので、どのぐらい相対的に突出した設定なのかはあまり判断がついていません。ただ、ライムスター宇多丸氏が自身のラジオ番組で疑問を呈していた、原爆を嘆くのにホロコーストを出さないのがどうしてかという点について、白人支配のマイルストーンだったからというのは納得感が高いように思いました。もともと彼らが追っていた怪物も、実は彼ら同様に宇宙のかなたから地球に派遣されていて、知的生命体が誕生することを阻害する支配者(地球の場合は恐竜)を壊滅させるために存在していたというのは『スノーピアサー』(2013)的極相感があります。今回破壊者が再出現したのは増殖した知的生命体から新しい創造主っぽいものを誕生させるためで、ゆえに地球は壊滅するという歴史解釈はとても面白いものがあります。観ていて感じたのは、エターナルズたちがエヴァンゲリオンの搭乗者たち、チルドレンに似ていたこと。真実を告げられないまま父的な創造主によって理不尽に戦わされている感じとか、ラストに出現したインド洋で凍結した創造主っぽいものは『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)のクライマックスでレイと融合する第二使徒リリスを想起させます。それに、凍結と言えば『シン・ゴジラ』(2016)です。とすると、『シン・ゴジラ』で広島のカットを入れたのは岡本喜八のオマージュと言われるように、岡本喜八→庵野秀明→クロエ・ジャオというオマージュの遷移がありやしないか。『近頃なぜかチャールストン』(1981)の超絶逆説みたいな感じもありやなしや。作品を観る限りは続編が描かれるように見えましたが、クロエ・ジャオは続編をやるつもりがないかもしれません。最初の世界観を作り込むところまでが彼女自身の役割と認識しているのではないか、とふと感じました。ただの勘です。

外国映画からもう1作。『パーム・スプリングス』が面白いのは、主人公が無限ループに入ったところから物語にするのではなく、もうずっと前からそこにいて、何もかもやりつくしていて、結婚式の新婦の姉・サラがそのループに入ったころには、すっかり投げやりになっていること。主人公はすでに、呼ばれていない結婚式に飛び入りして完璧なスピーチもできてしまう始末です。他者をループに巻き込んでしまったことが唯一トラブルというか悩みの種なのだと思いますが(そういえば『パッセンジャー』(2016)という傍迷惑映画もありましたね)、孤独はつらいし巻き込みたくなるのも分かります。さて、このループのなかでどう生きるのかということで、サラが量子物理学を学びだすのがすごいのですが、このくだりで『インターステラー』のマーフを思い出したのは私だけでしょうか。数多あるタイムループものと、高次元世界がクロスする新感覚の作品でした。脱出に成功した主人公たちの一方で、J・K・シモンズ演じるループのなかの男が、そこで生きることに生きがいを見出しているのもグッときました。

日本映画に戻りますが、『彼女来来』には油断したときにものすごいものを見せられたと思いました。不意に消える彼女と、代わりに現れて座敷童子のように居座る、言ってみれば乗っ取り女。このことの種明かしがあれば、サスペンスかいい話のどちらかで落ちそうなところなのですが、不思議なまま終わってしまいます。どんどん話が進むなかで、これは解を求めたいけど解を提示してくれないんだろうなという混乱と諦めが、まさに主人公の心理の乗っ取られにシンクロしていて、いったい何を見せられているんだろうという気分にさせられます。あの、光がゆらっと女性にかかって見えにくい、ちょっと不思議で不気味な感じのシーンがとても象徴的です。本作を鑑賞しながら『ザ・バニシング -消失-』(1988)のことをずっと考えていたのは、どこか類似の怖さを感じ取ったからなのでしょう。主人公が数年後に、当時とったのとまったく同じ行動を繰り返しているのは、それはもしかして『パーム・スプリングス』みたいな円環だったりするのかという怖さもありました。MOOSIC LABから一般公開になった作品ですが、同企画で久しぶりに名作ができたのではないでしょうか。

『あ・く・あ~ふたりだけの部屋~』も不思議な作品でした。ヒロイン小泉ひなたのことをまったく知らないまま観たのでいきなりものすごい濡れ場でびっくりしました。まさに抜け殻のようだった女性が、能動的でいることで自分の価値を見出し、その自我の発露によってどうやらノアの箱舟に招待されてしまったらしい。どうしてあのふたりなのか、というヒントとして女性が過去に監禁されていた話が出てくるのだと思ったのですが、全然そんなことはなく、最後まで謎のまま。ただ、ストーカーに覗かれて生きる道を見つけ、種の保存のために(ラストの地球はまるでセカンドインパクトだった)ふたりで旅立つという、ピンク映画メソッドによる『パッセンジャー』です。面白かった。

この作品をループものと呼ぶのはさすがに無理がありそうですが、『くれなずめ』は松居監督の作品にしてもあまりに独特な作品でした。舞台作品かと思うぐらいの長回しと会話劇は松居作品らしさだと思いますが、終盤の身体から心臓を抜いてあの世に行ったり、そこから時間をやり直したりする件は、もうやりたい放題だなと。そういう、半ば『ハングオーバー!』シリーズみたいな遅れてきた青春やんちゃものが好きな人にはグッとくるのだろうと思います。キャストの素晴らしさからくる群像劇は本当に見応えがあります。製作があと20年違っていたら主要キャストがTEAM NACKSだっただろうか、などと妄想してしまいます。ラストのやり直した時間の登場人物が終始泣くのをこらえているのは熱い演出でした。女性陣も飯豊まりえに内田理央、前田敦子と見事で、とくにまたしても前田敦子の名演を見てしまいました。もう少し編集が分かりやすくならなかったのかと思うのと、『あの頃。』に続いてホモソーシャルな部分をどう昇華するのかというのがやや難しいところではありそうです。

脱線ついでに『距ててて』。一軒家でルームシェア中の女子3人。いまはひとりが長期旅行中でふたり暮らし。しっかり者だけど収入のないカメラマンの卵と、自由奔放すぎるけどバイトで稼いで家賃を払っている相方。ふだんはうまくやっているけれど、お互いの生き方にどうにも我慢ならなくなって喧嘩になり別居状態に。そんなとき、とある少女が家を訪ねてきます。90分弱のなかに3つのエピソードが詰め込まれていて、思いのほかオフビートで『リアリズムの宿』(2003)の女性版みたいな感じでもあるし、フランス映画の雰囲気もありました。が、終盤で石が光ったりテレポーテーションしたりする唐突さが『くれなずめ』並みにぶっ飛んでいます。のちにちば映画祭で上映された際に登壇した両監督によると、CGをまったく使っておらず、暗い山中で石が緑色の光線を放つのも撮影手法によるものなのだそう。それは驚きです。また作品の制作にあたってロメールを参考にしたとのことですが、それで緑の光線だったのでしょうか。

本章の最後に、こういう内容もループと言っていいだろうかと、ここでぜひ取り上げたい台湾映画が『1秒先の彼女』です。『熱帯魚』(1985)や『ラブ ゴーゴー』(1997)のチェン・ユーシュン監督の最新作。『祝宴!シェフ』(2013)もそうですね。1985年から通算で長編5作目というものすごい寡作の人かつ大ベテランなのですが、本作はとてもコミカルでミニマル、かつ緻密な内容で楽しかったです。これもまた時間をめぐる物語です。個性としてものすごく気の長い人と短い人がいるコメディはあっても、本作の設定はそれとはかなり異なります。気が短いというよりは1秒先の行動をしてしまうので、踊っても歌っても他者と合うことがないし、写真を撮るといつも目を瞑っています。この演出は本当にすごいです。それが本当にその人にとっての1日の尺の違いによるものだという設定がものすごく斬新。なので、いってみればズレている人にはその人たちだけの閏日(劇中ではそう言っていないですが)が存在していて、その閏日は時間が止まって見えている。そうやって閏日に過ごしたデートと、その謎を解明した彼女が彼の到来をひたすら待つ恋愛劇なのですね。構造の見事なSFだったと思います。時をめぐる物語がこの年は多かったような気がします。

日本映画スペシャルメンション(1)

実はもう少し微に入り細に入りテーマを設けてはいたのですが、ここまで紙幅を割くことになるとは思わず、いい加減に疲れてしまいました。なので、どのテーマでも扱えなかった作品の感想を、順不同になるとは思いますが掲載しようと思います。

『すくってごらん』はとんでもない作品で、この年の台風の目であってもおかしくなかったと思います。ほとんど心の声で進行する物語、なぜか多用される熟語のテロップ、そして歌(歌詞の字幕付き)と、癖が強すぎる。テレビドラマでもここまでくどい文字の多用をしないと思いますので、映画としてはかなり御法度のような作りだと思われます。この作風がトレンドになることはやめたほうがいいですし、後にも先にもこれっきりということで言えば、やったもん勝ちのチャレンジングな作風を見事にやり切ったなと。銀行業務を歌うラップのあたりでようやく作品のノリについていけるようになり、主要な登場人物たち以外はみな顔が隠れているという不思議な演出も記号としては分かりやすくもあり、短めの作品なのにわざとインターミッションを入れてみたりエンディング予告がされたりするのは、歌舞伎の遊びでもそんなことがあるといいなとさえ思わされます。脚本にしても劇中歌にしても、尾上松也による市川中車ばりの顔芸(というかパロディか)も、あるいは演奏もあくまでガチ。百田夏菜子があんなにピアノが弾けて歌えるとは知りませんでした。ここまで突っ走ってくれるならもはや文句はあるまい。たぶん違う気がしますが、『君も出世ができる』(1964)のアンサームービーなのかなと思いました。

TOHOシネマズのナビゲーターを長らく務めていた山崎紘菜ですが、その類稀なる手足の長さを存分に生かしたアクションがあれば最高のスターになれるのに、そのような機会になかなか恵まれずにいたように思います。もしアクションが本人の意向でないのであればその生き方を支持するほかありませんが、ようやく期待すべき作品に出会えたのでは、と思ったのが『ブレイブ -群青戦記-』でした。本広監督らしい空間をぐいぐい使った長回しは戦闘シーンで活きる。いままでこういった作品がなかった気がするのが意外なほどです。学園ドラマなのに冒頭から大量に人が死んでいくので『バトル・ロワイアル』(2000)を思い出しますが、撮り方としてはゾンビ映画のそれなのかなと。そして、拉致された仲間たちを奪還する戦争映画でありつつ、行って帰ってくるという『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)方式で、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)でもあります。ラストは降旗康男『憑神』(2007)を思い出しもします。だいたいみんな、わーきゃー言うか叫んで闘うかなので、登場人物の識別がちょっと難しい。もう少し群像劇にできなかったでしょうか、本広監督。あと、山崎紘菜のアクションシーンをもっと見たかったですね。三浦春馬は相変わらずの爽やかさなのですが、生のベクトルが強い演技なだけにぐっときてしまいます。

外国映画を挟み込みますが、山崎紘菜といえば『モンスターハンター』でしょう。これまでも通訳なしでハリウッドスターにインタビューを敢行してきた彼女にうってつけの舞台だったと思います。意外にも物語らしい物語はなく、説明も少ないので誰が何なのかよく分からないまま、ストイックに怪物と闘っている登場人物たち。なのでカタルシスがまったくないのですが、下手に陳腐なものを提供されるよりは面白いのかもしれません。こういう作品はだいたいなぜか英語が通じてしまうことが多いなかで、言葉の分からない者同士の異文化交流という本作の設定はなかなか面白いです。本編を観ると続編を作る気満々のようですが、途中まではこの尺でいったいどこまでの展開を見せる気なのかと変なところにハラハラしてしまいました。そしてなにより、われらが山崎紘奈です。叫んでる以外の台詞はないですし細切れにしか映らないですし、顔にいろいろ装着しているのですが、ちゃんと主要キャストで、おそらく8番目のクレジットになっていました。そして死ななかったので、続編があれば間違いなく登場します。一瞬の登場でも見ていて引き付けられるし、今後が楽しみです。

長い年月をかけて監督ひとりで制作してきたという画期的作品『JUNK HEAD』は、物語としては、地下に向かって進む『インターステラー』(2014)ではないか。人類の未来を賭けた話であり、ぞんざいにしていた人が実はすごい人だったというお伽噺であり、怪物退治の友情ものであり、そしてなにより、気持ち悪さがすごい悪夢系アニメーションです。あれをひとりで作ったなんてとんでもないことです。カメラは動くし指先まで細やかに演出されているし、現代口語演劇のように複数の演出が同時に動くし。どんな工程表なんだ。これこそアカデミーの長編アニメーション部門で審査してもらいたかったところです。ところで、生命の樹にたどり着けなかったし地上にも帰れていないのは、続編を作る気なのだろうか。(どうやらそのようですね)

日本映画スペシャルメンション(2)

『大綱引の恋』は佐々部清監督の遺作となってしまいました。私が佐々部作品に初めて触れたのは『チルソクの夏』(2003)だと思いますが、作品の面白さに気付いたのは『夕凪の街 桜の国』(2007)の頃だった気がします。『三本木農業高校、馬術部』(2008)は年間ベスト級に好きな作品でした。いつの頃からかご当地映画の第一人者になり精力的に活動していましたが、その軽妙な演出によるヒューマンドラマがいつも心地いいものでした。遺作となった今作に井上順がいないのは残念ですが、それ以外の佐々部組が大勢揃って川内の大綱引きに臨む人々を描いています。韓国でも似たように綱引きの行事があり友好都市になっている縁と、主人公と韓国からやってきた研修医とのラブストーリーになっているわけですが、『チルソクの夏』とともに韓国との民俗的な接点を見ているあたりがどことなく佐々部作品らしい気がします。でも、監督にはあまりロマンスを得意としなかった印象が強く、編集のせいだろうか、恋愛のはじまりや行方のポイントが描かれないまま成就しているように見えるし、一番太鼓が主役に回ってくるのは物語上の必然としても、そうなるようにどうにか操作した感じは拭えません。それでも本番の綱引きは思わず力が入り引き込まれます。甑島の風景が素晴らしい作品でした。

アニメーション作品『映画大好きポンポさん』はものすごいカタルシスの塊なんだと思いました。主人公ジーンは映画制作を志しているものの見習いのような立場の青年で、ポンポさんは若きプロデューサー。彼女がジーンを自らの大作の監督に指名します。なぜポンポがジーンを助手に採用したのか。それが一番目が輝いていなかったから、というもので、青春時代を謳歌した人にはクリエイティブは向いていないという趣旨のことを述べています。これはそれこそ『高崎グラフィティ。』(2018)でも似た描写がありますが、現状を思い切り楽しめてしまう人は変化を求めていないし、主張もとくにない。果たして監督になったジーンは持ち前の造形の深さで多くの危機を乗り越えてクランクアップに至るのですが、映画制作が編集であるということをここまで示した作品も珍しいです。さらには、編集とは削ることだというのも、監督カタルシスだと思います。でも話が出来すぎていると言いますか、客観的にSNSが沸騰するほど興奮できるような作品だったかというと、どうなのでしょうか。

そして現実世界でジーンのような青年が多大なる情熱と工作スキルで作り上げたエンターテインメントが『宮田バスターズ(株)‐大長編‐』だったのだろうと思います。かつて映画祭に出品されていたオリジナル短編は結局観られなかったのですが、追撮して長編にしたのが本作です(のちに再追撮した新版も公開されました)。ものすごく低予算なのは間違いないのに、ものすごくよくできていました。宇宙生物がやって来た衝撃で家屋に穴が開いたり、それを退治するバスターズが突撃して壁がぶち抜かれたりするのをどうやって撮って加工したのか。自作のセットを使った撮影なのだそうですが、本当に大胆なことをしているし、エモい演出にも感動して泣いてしまいました。まさか感動する作品だとは思いもよらなかったのですよね。演出もうまい。家を破壊しても宇宙生物を捕獲してくれるから支持されていた彼らも、装置が小型化して庶民が持ち歩けるようになると、やがて斜陽産業化していく中小企業のカタルシスもたっぷり。『ゴーストバスターズ』(1984)から30年以上経って、いまインディーズでそれと肩を並べるような面白い作品が作れるようになっているのだと感じました。

しばらくメジャーで作品を発表していて、なんだか初期の作風をすっかり失ったのだなと思っていましたが、ハリウッドで個性を全開させたつもりの酷い作品を出し(前述の通り)、そして帰ってきた園子温監督。映画屋エレジー作品『エッシャー通りの赤いポスト』では自身の過去作の劇伴をもう一度使う手法も戻ってきて、しかもそれが『紀子の食卓』(2005)だというのはうれしいのですが、あの頃の、どちらかというと美しかった頃の園作品というよりも、さらに初期なのだろうか、本人の趣味の悪い美意識を存分にカメラに収めたカオスな作品に仕上がっていました。かつてインディーズで創作に打ち込んでいたころの自分をスクリーンに投影したかのような、できればこういうことをしたかったんだということを俯瞰して捉えながらも、やっぱりいまやりたいことをやったんだろうなと思わせられました。その意味では清々しいし、あのカオスなストリートを全体整理して撮影しているのはすごいなと思います。そしてあの幽霊役のヒロインが思いのほかよく、劇伴からしても、吉高ちゃん以来の逸材を見つけた気分でいるのかもしれない。と思ったら、そうかあの人が松田龍平夫人なのですね。

『ザ・ファブル 殺さない殺し屋』は本当にお見事だったとしか言いようがないアクションの名作でした。序盤のファブルが暗殺している回想シーンのスリリングさやスカッとする気持ちのよさから、岡田准一のコメディアンぶり、平手友梨奈のアイドル性とカタルシス、さらに岡田准一のコレオグラファーとしての力量、鉄骨を崩しながらアクションをする団地のシーンの面白さ、地雷除去や手榴弾を使ったシーンのうまさなど、脚本の回収も含めて構成が素晴らしく、映像もぐっときます。こんな映画が日本で生まれうるとは思ってもみませんでした。江口カン監督はまだ商業3本目のはずですが。素晴らしいという意外に賛辞がないのではないでしょうか。海外でも十分に楽しめるはずだと感じています。

日本映画スペシャルメンション(3)

ここまで来て打ち明けますと、英勉監督の娯楽作品が大好きなのですが、『東京リベンジャーズ』はまたしてもタイムリープもので、どうしてタイムリープできたのかも、どうして特定の人物と握手するとそうなるのかもよく分からないけれど、肉体は眠ったままで魂だけが別の時間に移動して、気付いたら未来が変わっている(というか書き換えるというタブーを目的にしている)というのはちょっと面白かったです。刑事がその手段で事件を未然に抑えるというのは『劇場版 シグナル 長期未解決事件捜査班』にも共通しています。ただ、面白さは現在のシーンにはあまりなく、どちらかというと『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)終盤の落ちぶれたビフみたいな日常なのですが、過去のシーンで懸命に別の未来を作ろうとする主人公と、彼らの暴走シーンの演出と映像がよかったと思います。脚本で回収できていない個所もあるように思いますが、続編を作れそうだが作らなくてもいいような終わらせ方はうまい(実際は続編が公開されました)。最終的に誰も死なせないように脚本化したのが高橋泉っぽい気もしました。そして今田美桜が登場するラストがとても爽やかで素晴らしい。あのシーンのために長いこと鬘でメイクしていたのでしょうか。

『子供はわかってあげない』は沖田監督が持つコミカルさやちょっとオフビートな感じ、そして人と人の触れ合いがもたらすストレートな温かさがギュッと詰まった、本当に素敵な作品でした。いきなりアニメーションから始まるのには面食らってしまいましたが、これはネタではなくてちゃんと終盤まで生き続けますし、主人公の生き甲斐そのもの(実父と会ってからしばらくアニメを見なかったことのバロメーターも含めて)になっています。継父が本当に個人でアニメ好きなのか娘に合わせてくれているのかは分かりませんが、リビングでふたりでアニソンで踊る長いシーンは沖田監督らしいシーンです。全体的に長回しがとても多く、とくに主人公が校舎内を上がったり下がったりするのをずっと捉えていたり、それが主人公の躍動する気持ちや、門司君との楽しいやり取りを表しているのがよく分かります。グッときているときほど長かったのかもしれません。上白石萌歌演じる主人公は実に天真爛漫。真剣なときほど笑ってしまうという、きっと家庭環境の変化などで培ってきた、事態をやり過ごすうえで沁みついてしまったものがある。それはラストでも結局治ったりはしないのだけれど、本気で人と接することをなんとなく避けてきた主人公が、門司君の助けを借りて無事に告白することができて涙するラストは本当に素敵なシーンでした。豊川悦司演じる実父がまた、どうしようもない人かと思わせておいて、丁寧な挨拶で、仕事もちゃんとしていて、やや世間ずれはしているが人望の厚そうな人柄というのがまたいい。娘と仲良くなれてデレデレしているが門司君の訪問でムッとしつつも花嫁の父みたいにキメるのがおかしいです。探偵役の千葉雄大、古書店主の高橋源一郎、母親の斉藤由貴、部活顧問の坂口辰平、友人役の湯川ひななど、誰もかれも本当にいい位置でいい味が出ていました。2021年の愛らしい作品としてベスト級だと思います。

𠮷田恵輔監督『空白』の予告編を何度も観てしまい、絶対に重くて辛いものを観る羽目になるんだと思っていて、たしかに辛かったのですが、ホラーなどではなくきちんとした人間たちのヒューマンドラマでした。冒頭、伊東蒼が出てきた時点で陰のある雰囲気はたっぷり。古田新太演じる大きくて強い父親に対して、怯えていて言いたいことが言えない女の子を演じています。ただしそれは父親に対しての特異さというよりも、他人とちょっと違って、丁寧だけどやたらと作業が遅かったり、ちょっとやってほしいことがさくっとできなかったりする、生き方の性質そのもののように見えます。クラスによくいるどんくさい子で、もしかしたら何らかの軽い障害があるのだろうかと感じながら観ていました。そんな子が万引きして、周囲をよく見ずに逃げて事故に遭って死んでしまう。でも学校の子らはその子の印象がなく、死んでしまってもどうのこうのということがない。でもあの父親だから、傍から見るとモンスターにしか見えない行動をとります。対する万引きされた店長は正直な男だが不器用で、しっかりした親の元によくいるような右も左もちょっとよく分からないタイプの青年で、その父親とも会話がうまくいかないしマスコミにも騙される。あるいは正しいことをしている自負だけが強い婦人のきつさ。でも、最初に車であの子を轢いた人が自殺し、なのにその母親に恨まれるどころかさらなる謝罪をされて我が身を顧み、さらには娘の部屋からないはずの化粧品が出てきて、父親はハッとします。それで思わず公園にそれを捨ててしまうあたりは父親の深いところでの弱さも映し出しています。そうして、娘のことが分かっていなかったこと、離婚した相手のことを羨ましかった思いなど、こじれていたものがほろほろとほどけていきます。からっと善人になっていく父親にそんなにからっとできるかなあと思いつつ、そこからのヒューマンドラマには心洗われました。その一部始終を見つめている弟子役の藤原季節がいい。すごくいい映画とすごく観たい映画が違うのはしんどいものがありますが、𠮷田監督はそれも承知のうえで、でも撮らないわけにいかなかった作品なのだろうなと感じました。見事でした。

『由宇子の天秤』の序盤はテレビ業界の、表面では正しいことを追及しているようで裏で弄んでいるような実情の話なのかと思います。そこから一転、由宇子の父親の家業である塾で発生した生徒の妊娠が発覚します。娘である主人公は自身の正義と、問題を見えないうちに解決させようとする気持ちと、実際それが可能かもしれないという裏の選択肢とに揺れ動きます。追っていた事件の取材が順調に進んでいるやに見えて大逆転で偽証が発覚するに至り、それでも何とか番組として成立させて、大人の事情はあるけれど報道人として持続可能であろうとするディレクターと、それを許せない主人公。しかしそれは自身のプライベートの行動と矛盾してしまっています。先の塾生の父親に殴られるように仕向け、起き上がって自分をカメラで撮り始めるラストには、本当に正しいことをするというよりは、正義を振りかざす側にいることを放棄して殴られる側を選んだ意志を感じます。いい着地なんて何もないカオスな深刻さのなか、微妙に浮遊する様を描くすごい脚本で、どの演者も素晴らしい芝居を見せてくれました。とくに塾生役の河合優実とその父親役梅田誠弘が出色。あわいをあわいのまま突き進む力強い脚本と演出が最新の日本映画の潮流なのかもしれないとも感じさせられました。

インディーズ作品から1作。『フィア・オブ・ミッシング・アウト』は久しぶりに不可解だけど嫌いじゃない作品と作家に出会った気分。濱口竜介や三宅唱、清原惟の作品に出会ったときの感覚に似ています。親しかった友の自死、その人との思い出、その人が目の当たりにしていた大切な人の死、霊媒師。主人公は友が訪れたであろう寺に向かいながら彼女のことを思います。高速道路のサービスエリアの駐車場の遠景を動かさず、車中の会話を風景の一部として描く。あるいは上空から撮影した高速道路と自動車の灯り。灯りは人がいる証。そのうちのひとつを静かに見つめているのはすごく不思議で、しっかり理解できるようなものでもなかったのですが、感覚的に何か理解できそうな予感もありました。いずれ物語をかっちり持った作品を生み出してくれることに期待したい監督の作品でした。

ドキュメンタリーからももう1作。批判的になってしまうのですが、『14歳の栞』のように、ここまで編集の施された、劇伴の強いドキュメンタリーが個人的にはあまり好きではありません。ドキュメンタリーにカットアップ(というのだろうか)は必要なのだろうか。2時間も見つめていれば、彼らの一人ひとりの顔が分かるようになり、明るい部分も影の部分も見えてきます。それを引き出した監督はすごいと素直に思います。やがて彼らへの愛着になり、とても大きな物語を体感した気分にもなります。きっと先生はそんな彼ら一人ひとりと、彼らがまとまったときそれぞれの物語がたまらなく好きで教師をやってるんだろうなあと。中学生、14歳という人生で最強の時間がそこにありました。ただし、作品の仔細についてSNSで拡散しないように注意喚起はあるものの、未成年素人の、しかもクラス全員の顔と実名をセットで露出してしまうことについてはあまり快く感じませんでした。3ヶ月ほどの取材で得た素材を編集するにあたってのひとつの答えだったのだと思いますが、どこまで取材すれば密着したと言えるのか、その深度も含めて考察に値する作品ではあったのかなと思います。

画角の変化

章立てするほどでもないのかもしれませんが、最近の映画祭で自主制作の作品を観ていると、画角に対してこんなにも自由に作るんだなということに感心してしまいますので、少しだけその話をしようと思います。当たり前の話ですが、フィルム時代は画角によって映写機のレンズも変える必要がありますので、作中で画角を変えるという発想はなかったはずです。強いて言えば、予告編と本編でレンズを変えてカーテンも移動して、別の画角で上映することはあったと思います。いまでも目黒シネマのような名画座に行くと、予告編はデジタル、本編はフィルムという切り替えがあり、あれはちょっとワクワクしますね。

話が少し逸れましたが、画角変化の象徴的作品は、私の印象ではグザヴィエ・ドラン監督『Mommy/マミー』(2014)なのですがどうでしょうか。あれを観て、画角とは黒味なんだという気付きが生まれたとしたら、デジタルネイティブには当然の結果のように感じます。たまたまなのかもしれませんが、この年の下北沢映画祭のノミネート作品にそれが顕著で、『滲み』『ROUTINE』『MAHOROBA』がそうでした。なかにはシネスコどころではない、より横長な画角も登場して、映像の切り取りの新鮮さを感じました。技術的にはできてしまうし格好いいので気軽に採用してしまう向きもあるのかなと思うのですが、すべての作品の当該のシーンにおいて明確な意図があったのかどうかは検証が必要なのでは、と感じています。画角変更をポップにやってしまうことで、大したことない物語をよさげにしてしまう問題が見え隠れしてやしないか。ある意味では観る側にも慎重な判断が求められているのかもしれません。

話題が若干ズレてしまいますが、最近の映画館ではカーテンを用いず、それこそ画角をスクリーンの余白の「黒味」で判断する上映形式が多くなりました。そのことも若手作家の画角からの解放を助長したのかもしれませんが、横濱インディペンデント・フィルム・フェスティバルで上映された『お揃いの孤独』の舞台挨拶で監督からの伝言という形で、画角の両端の「黒味」を青くしたのは、劇場がカーテンをしないことへの抵抗があるという趣旨の発言が紹介されました。本編の内容そっちのけでそのことを訴える作品として制作したのであれば分からなくもないのですが、実際に鑑賞すると青みにかなりインパクトがありましたので、劇場側はかえってそこをカーテンで覆えなくなってしまうだろうなと感じました。

外国映画スペシャルメンション(1)

外国映画についても、これまでに紹介できなかった作品について順不同で取り上げたいと思いますが、まずは何と言っても『ビーチ・バム まじめに不真面目』でしょう。本作はものすごく不思議な作品でした。かつて一世を風靡して、いまは都会を離れて飲んだくれて女遊びに興じる詩人のムーンドック。とことんダメ人間なんだけど、奥さんの電話にはちゃんと出るし、娘の結婚式にも駆けつけて、ぶち壊すのかと思いきやそうでもなくてぎりぎりで分をわきまわえているし、そればかりか娘が結婚相手とはきっとうまくいかないことを「悟って」しまったりします。ひとつひとつ積み上げるとなんだか大事なところは踏み外していない感じなんですよね。でも起こしてしまった事故で妻を失ってしまいます。奥さんもぶっ飛んでいたし、そういう生き方だから一緒にいられた相手でもあるし、勿論ショックな出来事ではあるのですが、生き方を曲げてまで生きていたくないという気持ちもあったのでしょう。だからムーンドックは反省したりしないし、家を放り出されてズタボロになっても楽しく生きています。タイプライターだけは手放さずに、けっこうコツコツと作品を書いているのも面白い。小説を書けという編集者に自分は詩人なんだと説明するあたりも、けっこう真面目にポシリーがあるんだよな。それで作品が完成してピュリッツァー賞を取ってちゃんと授賞式でスピーチもします。終盤、引き出した全財産を見事に燃やして(没収されるのは違うけどお金に執着はなかったんだろうな)笑っているムーンドック。近代が(フーコーが言っているらしい)規則と監視で望まれる人間になる社会なのだとしたら、そうでない生き方の楽しさを見せてくれるのがムーンドックです。おっさんはもっとわがまま言って生きれよということだと受け止めてよいでしょうか。

『ピーターラビット2/バーナバスの誘惑』はパート1に続きたいへん面白い作品でした。今回は地元の人間たちとの友愛を経た後なので(厳密にはまだわだかまっているけれど)、舞台が都会に進出します。悪い子呼ばわりされた子は本当に悪い子になる、という教訓話のようなピーターのドロップアウト。言葉巧みに仲間にされて悪さをするけれど、最後には利用するだけ利用して捨てられてしまうあたりは、いかにもありがちな話です。また、ピーターラビットの物語を大規模に出版するくだりも、広告代理店や大手編集者によってまったく別物にしてしまう手口もいかにもで、そんなあるあるが凝縮された物語でした。砂糖でラリったりリサイクルボックスで遊んだりと今日性も生きたいい脚本だと思います。

『シャン・チー/テン・リングスの伝説』のデスティン・ダニエル・クレットン監督は『ヒップスター』(2012)、『ショート・ターム』(2013)の監督だったのですね。途中からはカンフー映画でさえなくて、CGの怪獣同士の格闘映画になってしまい、なんの話かよく分からなくなってしまったので、監督が誰なのかはまったく気にせず観てしまっていました。嫌味ですか、そうかもしれません。ただ、闘いが始まる前の恋人同士のふたりが夜遊びしたりして楽しそうなのですが、とくに「or?」といって正しいふるまいをやめてはっちゃける件が、あとで考えると監督らしい演出だったのかも。バスで突然襲われたときの闘いは格好よかったですし、オークワフィナの大活躍もよかったです。

徐々に欧米から東洋に話題を移していこうと思うのですが、かつて東京国際映画祭にも出品されたイラン映画『ジャスト6.5 闘いの証』は刑事ものでありつつノワールで、革命下のイランでよくこんな作品が制作できたなと感心してしまいました。土管で暮らす(ドラえもんを想像するとスラムとのギャップがすごい)人びとが、とくに男たちはことごとく麻薬中毒で、留置場が足の踏み場もなくなる。その原因を捜索するも芋づるが終わらないので、結局は一掃したつもりでもまた犯罪が生い茂ってきて、中毒患者は増えるばかり。そして売人側が背負っていたもともとの貧困も、のちに裕福になった家族がただ真正直に生きていそうな感じなのもどうにも切ないものがあります。貧困からの脱出が、ほどよい裕福さにならずに、あればあるほど幸せだと思ってしまうのはなかなか考えさせられます。

ドキュメンタリー作品『ミッドナイト・トラベラー』で取り上げられるのはタリバンに死刑宣告された映画監督とその一家。てっきりタリバンから逃げ惑う作品なのだと思っていたのですが、実際はまったく違っていました。タジキスタンにいた家族は庇護申請が通らず帰国してすぐ再脱出を図ります。脱出自体もよほど緊張したと思いますが、しかし全体の旅路のなかでは一瞬のうちにイランの国境を突破しており、山間を歩いて国境を突破することはあるものの、トルコを経てブルガリアまでは誰かに追われたり攻撃されたりすることなく行けてしまいます。それがよいとか楽とかいうことではなく、タリバンは脅威なのですが、逃避劇のなかではかなり序盤戦に過ぎないということです。ブルガリアの難民キャンプで衛生環境に悩み、閉鎖された狭い環境に悩み、なおかつブルガリア国民のなかには移民排斥の動きがあり、襲われ殴られ、難民キャンプにも彼らはやってきて非難されます。この先を占う本当の恐ろしさをここで目の当たりにするわけです。それでセルビアに逃げて、さらにそこから1年以上経ってようやく希望していたハンガリーに移送されます。まさか何百日もかかる逃亡になるとは思わなかっただろうけれど、まだまだ彼らの安定には程遠い。それでも進歩的な映画監督の一家だからこそ、明るく過ごす時間や、楽しかった時間を振り返ることもできたのだと思います。そのカットアップがどこか救いのように感じられる作りでもありました。

チベットからは『羊飼いと風船』。そうか風船とは「あれ」を膨らませたものであったか。「あれ」は一人っ子政策の必需品なわけですが、人里離れたチベットの一家でとにかく恥ずかしいアイテムとして登場するのが、滑稽ではあるが彼らには切実な問題です。古い考え、出家した妹、まるで『ラストレター』(2020)のように綴られた小説、産むか産まないかの問題。作品は期せずして女性の物語として、どんどん深い方向へと突き進んでいきます。終盤、もう家族には父親と息子たちしかおらず、父親は妻の不在という結末にもがきます。せっかく買ってきた赤い風船は、あっさり割れるか手を離れて飛んで行ってしまいます。値切られても我慢して羊を売ってきたのに。飛んでいく風船に彼らが何を思ったのか。どうにもやりきれない気持ちが残りました。

外国映画スペシャルメンション(2)

台湾作品『返校 言葉が消えた日』はゲームが原作だそうですが、怖い教官を見ると『帝都物語』(1983)のようでもあるし、ホラー要素は『トイレの花子さん』(1995)のような90年代平山秀幸っぽさもあります。しかしそれらっぽい脚色が濃いものの、ベースにあるのは60年代台湾の反共や言論統制にあります。主要なふたりのうち男子学生は憲兵に捉えられて拷問にあっているのですが、彼は死んだらあの学校を思い出さなくなるし悪夢も見なくなると言います。シーンの大部分は悪夢ということなのかなと思うのですが、そこに史実が入念に練り込まれています。こんな脚色のエンタテインメントで祖国の黒い歴史を表現するとは、台湾が持つすごい力だと思います。さらに物語に女生徒と教師の禁断の恋が練り込まれていて、悲劇がそこから始まる設定だとは。それでいてラストは、現在から過去をきちんと清算する流れになっている。ジャンルが分からないのですが、何かすごいものを観ました。あの学校は『怪怪怪怪物』(2017)の舞台にそっくりなのですが、本当にそうなのか似た学校がたくさんあるのでしょうか。

さて、2021年も韓国映画は豊作だったと言えるでしょう。

『夏時間』の宣伝では『はちどり』(2018)に続くなどと書いてあったのでまた切なく苦しい思いをするのだろうかと身構えたのですが、まるで『冬冬の夏休み』(1984)みたいな物語でした。ロメールからの台湾ニューシネマ、そして本作に連なる何かがあるような気がします。仕事がうまくいかず家を追われる父(『ホームレス中学生』(2008)を思い出します)、転がり込む祖父の家、束の間の祖父との時間、離婚寸前の伯母。主人公はこんな父親でもけっこう慕っていて、売っている靴がパチモンだと気付かずにプレゼントして大恥をかいたりします。そんないかにも中学生っぽい日々。そして弟。この弟の「弟力」の高さが素晴らしいのですよね。かまってほしかったり怠りごねたりおどけたり。やがて祖父が介護なしには生活が困難になり、家を売るかどうかの話になって怒る主人公。出ていった母親への、愛したいけど愛せない感じや、祖父の死をずっと後になって思って泣いたりすることの何とも言えない切なさ。かけがえのない日々を丁寧に切り取った美しい作品でした。

アメリカ映画『ドント・ブリーズ』(2016)のような「目が見えないのにすごい敵」に襲われるエンタテインメントとは対照的に、『殺人鬼から逃げる夜』は「聾者が危険に晒される」という、聴者に比べて明らかにリスキーだがそれを楽しむことがタブーと思われる設定をエンタテインメントに昇華した作品でした。チン・ギジュ演じる主人公が序盤から最後までめちゃくちゃかわいいのですが、勇敢で聡明で、意図していないかもしれないけれどどこかおちゃめなのもまたよかったのですね。しかしサイコパスが、未来が見えるのかと思うほどパーフェクトに最悪なポジションで最悪ないたずらをして人を弄んでいくのがすごい。よくそんなこと考えるなあと思うほど最悪です。クライマックスでせっかく街に出たんだからコンビニとかで救助要請しちゃダメなんだろうかと思うのですが、大衆を巻き込んで悪い方向に行く演出がまた意地悪。親切な軍隊が主人公を抱えてサイコパスに届けてくれる件など、ひどすぎます。警察は全員バカなんだなと思えるだけの破壊力もありました。

きちんと調べればよいのですが、最近タイロケ作品が増えているような気がしています。中国国内で撮影できないことをタイではできるのかもしれないなと思っていたのですが(『共謀家族』(2019))、『ただ悪より救いたまえ』のように韓国作品も同じなのでしょうか。自国がきれいな国になっていってえぐい話を作りづらくなっている面もあるのかもしれません。タイの人身売買については阪本順治監督『闇の子供たち』(2008)もありますが、今回はどちらかというと、そういった問題を下敷きにしたアクションでした。その意味では、最終的に爆死しないといけないほどの展開にどうして至ってしまったのかいまひとつ理解できなかったのですが、ともかく狂った人が本当に狂っていて、物語から完全に浮いているのにはずっと違和感がありました。路上マーケットみたいなところでの派手なカーアクションは見事でした。

ホン・サンスの新作『逃げた女』では相変わらずのキム・ミニが方々を訪ね歩き、ときには泊めてもらいながら、お喋りをして食事をしてお酒を飲んで、散歩して映画を見ます。それだけなのですが、会話劇の巧みさはホン・サンスの過去作のなかでも特段の面白さなのではないでしょうか。あの何でもない会話で多くのことをそれとなく示し、登場人物の関係性や人となりを表しています。旦那が長期出張でいない間に、結婚以来初めての長距離の外出をしている主人公。旦那との関係性が順調そうであるかのように会話するものの、たぶんきっとうまくいっていなくて家出してきたんだなとか、あの人の旦那とちょっと関係があったんだなとか。これが演劇でなくて映画だということが、ホン・サンスなので当たり前だと思いつつも、やはりすごい作品だなと思うのです。

韓国のアニメーション作品を観る機会は珍しいと思うのですが、『整形水』は、序盤からこれは教訓話なんだろうなとは想起させる作りです。顔や体型を思いのままに変えられる「整形水」を浴びすぎると人間が融けてしまうとか、他人の肉を付け足したら復活するとか、ちょっとしたホラーでもありますし、一方でコメディでもあります。しかしラストに向けて恐怖の正体がいったい何なのか分かってからは、どうかしている完全に狂ったホラーになります。不可解な展開に呆気にとられました。

朝鮮半島と日本(1)

韓国映画についていくつか取り上げましたが、実は朝鮮半島情勢、あるいは朝鮮半島と日本との関係においての作品が多かったことも2021年の特徴ではないかと思います。これまでの文脈にうまく挿し込められなかったので、ここで特集したいと思います。

今回取り上げる作品の時系列で第二次世界大戦から始めようと思うのですが、『keememej』は『タリナイ』(2018)に続くマーシャル諸島のドキュメンタリー作品でした。『タリナイ』から3年、父親の足跡をたどっていた佐藤さんが再びマーシャル諸島を訪れます。前回は父親の死んだ場所を探す旅でしたが、おおよその場所を特定できたところで、母親の遺骨の一部を持ち込んで父親との対面を果たします。と同時に、老齢でもう来られないだろうということで、今回は息子への引き継ぎも兼ねています。息子に聴覚障害があることから孫も帯同しています。その旅と、前作を上映した宮城県の様子も挿入されています。また現地マーシャル諸島でも上映会を実施。そしてまだまだあるマーシャル諸島の戦争遺構。ウォッゼ島のコンクリート壁に書かれた日本語と朝鮮語による詩は前作でも紹介されましたが、戦後の引き揚げ時に、日本軍が連れてきた朝鮮人を現地に置き去っていたという絶望があの詩を書かせていたのだと思うと、もうどうにも言葉になりません。

そしてその後に朝鮮戦争があるわけですが、その時代以降の近代史について、『分断の歴史~朝鮮半島100年の記憶~』はたいへん勉強になる作品でした。朝鮮戦争の戦況の推移は映画に限らず紹介されることが多いですが、犠牲者数が太平洋戦争における日本を上回っていること、全土が焦土化したために戦後の資金援助が役に立たなかった事実は、その過酷さをよく表しています。最初は北側のほうがGDPが高かった話などはあまり日本で語られていないような気がします。そして、北側が融和方向だったのにブッシュが(実際はチェイニーかもしれないが)向こう20年以上かかるようなぶち壊し方をしていたことを改めて反芻するとともに、オバマもそれを否定しなかったこともよく分かりましたし、それと飢餓が密接にかかわっていることも痛々しいばかり。朴槿恵の若かりし頃の映像は興味深く、彼女の数奇な人生が母親の死から始まっていたこともよく分かります。金正日は統一に40年かかると言ったそうですが、かなり現実的な視座があったのだなと思います。
前述の通り戦後に北側の経済発展が先行していたことについては戦前の日本が残した工業的資産が活きたわけですが、国家建設のためにインテリもともに一丸になって進行していた様子があり、かつて理想郷だと言われたのも頷ける雰囲気です。『キューポラのある街』(1962)や『焼肉ドラゴン』(2018)で描かれた世界と直結しています。

南北朝鮮の苛烈な歴史はこれまでも数多くの映画作品を生み出してきました。それらをレビューすることはできませんが、2021年の代表作といえば『KCIA 南山の部長たち』でしょう。『分断の歴史~朝鮮半島100年の記憶~』でもことさら取り上げられた朴正煕と金日成の対照的な経歴を踏まえることができ、実録にして見事な政治劇だったと感じられました。酒を酌み交わしながら突然日本語でつぶやくシーンが印象に残ります。イ・ビョンホンの枯れた演技がとてもいいですよね。『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017)の前日譚とも言われますが、ソン・ガンホは『大統領の理髪師』(2004)でもこの時代を演じており、政治の内外からの視点で両作を併せて鑑賞するのもよいように思います。

そしてもう1作、『偽りの隣人 ある諜報員の告白』はライトなコメディでありつつも、オ・ダルス演じる民主派の大統領候補者の人間性と人心をまとめる巧みさと大らかさと熱さから突き進む、弔い合戦のような選挙戦にグッとくる物語でした。フィクションだとは思いますが、韓国の民主化運動にはこんな英雄が本当にいたのかもしれないと思わせてくれます。他国の例ですがネルソン・マンデラを想起させるものがあります。民主派を破壊する工作員がクライマックスで道化師をやって見せて主人公とバディムービー化してからラストまでの流れがとてもいいのですよね。ひとつのコメディとしてもとても気持ちのよい作品だと思いました。

朝鮮半島と日本(2)

ここからしばらくは北側のその後についての作品群になります。マッツ・ブリュガーの日本未公開だった過去作『レッドチャペル』が満を持して公開されました。北朝鮮の強制労働や過去の大飢饉での大量餓死への嫌悪から、北朝鮮を批判するためにドキュメンタリーを撮ろうと北朝鮮での撮影を敢行する監督。そのために韓国系デンマーク人のコメディアンを引き連れて、彼らのステージを企画します。そのうちの脳内麻痺の青年から次々に飛び出す毒舌が当局に聞こえやしないかとヒヤヒヤするのですが、その滑舌でない彼のデンマーク語を監督がわざと誤訳してポジティブに伝えて事なきを得ます。強烈なバッドジョークなのだけれど、青年はいよいよそれも我慢ならなくなります。そうやって文句を言いまくってパレードに混じって歩く様子がバッチリと地元テレビに映っているのは笑えます。また、コメディアンの相方も北側からの謎演出が原型をとどめないほどの改造がなされて体制のための演出になってしまうことに不満たらたら。なのですが、やがて彼ら独裁国家の様式美の異様さへの気持ち悪さを抱えつつも、多面的に見なきゃいけないんだと肯定的な心情が芽生えてくるのが興味深いところ。それでもまったくぶれない監督。より真面目で社会的で過激な電波少年的な世界観がすごいです。どこまでまともなのか区別が付きにくいのもある意味では快感です。

そしてそのブリュガー監督の新作が『THE MOLE』。北朝鮮を支持するカルト組織が世界中にあるなんて思いもよりませんでしたが、まるで日本会議みたいな怪しさがあります。しかし北朝鮮からすると彼らを国外組織として海外で事業展開し、制裁下でも資金獲得していて、彼らが非常に重要な役割を担っていることが分かります。ほとんど興味本位でそんな組織に入ってあれよあれよと出世してしまった男が、監督とつながって武器や覚醒剤取引の実態を撮影しようと試みます。『レッドチャペル』以来、監督は北朝鮮を出入り禁止中。そのため例の男がフロントマンとして動き回ります。ここまで国家経営の深部に入り、ルワンダなどアフリカを隠れ蓑にした資金調達の実態を明らかにした映像はないのではないでしょうか。途中で登場するスペイン人の大物が不気味で仕方ありませんが、彼にネタ晴らししてみせるシーンが実にあの監督らしく、本当にクレイジーです。監督の末永い無事を祈るばかり。

さきほど、ある時代の北側は桃源郷のように見えたのではということ書きましたが、実際に渡航した姉を訪ねる作品が『ちょっと北朝鮮まで行ってくるけん。』でした。とてもよくできたドキュメンタリー作品で、2時間ありましたがほとんど飽きずに観られました。監督が現地で取材をしているジャーナリストとともに出会った「日本人妻」からの証言で妹を探し当てて、その妹が姉に会おうと北朝鮮に渡航します。妹にとっては20も年の離れた姉と、すぐ上の知的障害をもつ姉を介護しながら仕事としても介護福祉士をしている妹。育ててくれた姉は、おそらく将来にわたって妹たちの面倒を見ることになるのだろうから、それを避けようと渡航したのではないかと推測しています。再会した姉はそうとは言わず、ただ夫との愛に生きたので渡航したのだと、とりわけこの国ではあまり口にしないようなまっすぐさで愛を語ります。かつて姉は3年したら帰国してくると親に言って渡航しました。しかしそれはただの方便で、本人はものすごい覚悟で向かったはず。このあたりに『オキナワ サントス』との違いを感じます。まったく帰国できない姉は妹に金やら古着やらの無心をし、電話を掛けたら妹にたしなめられ、手紙では「はしたない姉」などと卑下する書きぶりもしています。快活で頭のよい姉だったはずなのに。果たして渡航した妹は姉と再会し、まさに号泣して抱擁します。会う場所は招待所なので姉の自宅は明かされないし、姉も口を割ったりしません。言ってはいけないこと、聞いてはいけないことがたくさんある。姉は、周囲の日本人妻たちがまだ親族に会えていない後ろめたさが強かった。それで2度目の渡航時に情報を聞き出して彼女たちの親族を探し当てるも、みな付き合いがないとか会う気がないとかお金をせびられても困るとか、とにかくすごく避けようとして、誰の再会も実現できません。それで北渡航に同行した次男がtwitterで情報を出したものの、拉致被害者とは違うし自己責任だというコメントがついて、結局のところ世間の関心は皆無だったと分かります。当事者との強烈なギャップ。一時帰国予定者だったのに北との関係悪化で突然中止になり、コロナで鎖国して郵便も停止され、姉が消息不明だという結末が心配でなりません。

『めぐみへの誓い』は、本質から離れてしまうかもしれませんが冒頭のシーンから大仰な新劇芝居で完全に萎えてしまいました。思いが強いと大仰で大声になるという発想だったとしたら再考を願いたいレベルです。史実に不明点が多いためか内容は脚色が強いようで、夢のシーンがやたら長い。プロパガンダ映画風なので左派系なのかと思ったら、その逆の作り手たちのようです。わざとかと思うような古臭いデザインのサイトも味わいが深いです。そのなかで出色はめぐみ役の子どもと大人の2役。とくに子役は『ファーストラヴ』の主人公心理士の子供時代と同じ方なのですが、芝居が実にうまい。また冷静に思えば脚色が強いとはいえ史実も多かったはずで、いろいろ知ることのできることも多かったと思っています。

脱北者はある程度の社会適合の訓練を受けて生活保護のような資金が出たうえで社会に出ていくものの、かといって中流家庭のような生活や地位が手に入るわけではないことは想像に難くありません。『ファイター、北からの挑戦者』はそんな女性が主人公です。親切にしてくれた賃貸住宅の仲介人は性的な見返りを要求してくるし、勤め先のジムのまあまあ裕福な客たちはものすごく差別的に、まるでいじめっ子といじめられっ子の関係のように接してきます。それでも飲食店と事務の掛け持ちで父親の脱北を手伝おうとし(父親は中国で拘束されてしまいますが)、使わない言葉や所作に苦労します。そんな生活の違和感と格差と、生き別れた母親との対峙、北での軍務から転じたボクシング経験など、その実態の表現が興味深く、またこの国の背景からくる格差社会の濃さにはぐうの音も出ないなと思いました。そんななかでボクシングに打ち込む主人公ですが、日本だと『百円の恋』(2014)が恋をきっかけにして変わろうとする主人公だったことと比較すると、本作は歴史の重みがまったく違います。それは作品の質の話ではありませんが、この差がもたらす作品のそれぞれの味わいの違いを思うとぐっときます。
脱北者と脱出に失敗した者の物語として『トゥルーノース』もありました。配信で鑑賞後に感想を書きそびれていたためにここで詳細を述べることを差し控えさせていただきますが、タイトルのみ記載いたします。

朝鮮半島と日本(3)

『アジアの天使』は『生きちゃった』(2020)に続く石井監督による世界のなかの日本論的な作品なのだと思いますが、舞台は全編韓国、しかも兄弟と子ひとり以外は全員韓国人、さらには言葉がそんなに通じないなかでのロードムービーという設定です。そのなかでも石井節の最たるものはいつだって愛についてです。真面目ですごく面倒くさい感じで、でも自分の気持ちをとても精緻に語る、池松壮亮演じる弟。いい加減で女ったらしに見えるがまっすぐに愛に生きる、オダギリジョー演じる兄。石井節の真骨頂は池松壮亮が請け負い、彼の伴走者としてのオダギリジョーは『湯を沸かすほどの熱い愛』(2016)にも通じるような、いま本当に脂ののった最高の演技を見せていると思います。兄は、この国では「メクチュジュセヨ」と「サランヘヨ」があればいいと言います。ビールくださいの一言は、私もスペインに行くときに出発前に唯一覚えた言葉なので、すごくよく分かります。そして、みんな青い缶のHITEビールを飲むわ飲むわ。終盤の家でみんなでひたすら貪り食う食事が本当に旨そうです。旨いことは楽しいことだと言わんばかりに食べるのは韓国人の特徴のように思います。『旅の終わり世界のはじまり』(2019)に続く、見られる側に立つ日本人の映画としても面白いです。売れない元アイドルを演じたキム・テヒが、『金子文子と朴烈』(2017)の文子だったとは。鑑賞中はまったく気付きませんでした。

半島の危機には必ず南北の干渉が伴います。そのことが天災や人災と並ぶ災害として娯楽になるのもまた韓国映画の独特さです。『新感染半島 ファイナル・ステージ』は前作『新感染 ファイナル・エクスプレス』(2016)とはまったく別物のパニックスリラーだと思ったほうがよいようです。パンデミックの発生を描いた前作が『復活の日』(1980)での回想シーンと生き別れた彼女側の物語を思い出させるならば、今作は核戦争後の主人公のほうでしょう。半島から逃亡できなかった人びとのコミュニティには新しいヒエラルキーが誕生しており、鬱憤晴らしに、野良犬と呼ばれる人間で遊ぶ者がいます。それには『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)を想像しました。演者では主人公が途中で出会う少女を演じるイ・レが『犬どろぼう完全計画』(2014)の子役だったと知って感慨深くなりました。

『白頭山大噴火』はものすごくぶっ飛んだ話だと思いますし、遠いところの噴火でビルが倒壊するような大地震になるメカニズムがよく分からないのですが、それでも『ダイ・ハード』(1988)のような大惨事映画としてすごくよくできていると思います。ともすれば準備段階のシーンにかなりの時間を割いてしまいがちなところを、設定を示す導入部分がかなりスマートに短時間で表現されています。気が付いたら北朝鮮の荒野に取り残された車1台に実戦経験のない隊員たちだけ。それでもミッションを強行して確保した工作員がものすごい曲者。除隊したはずの韓国軍人と北朝鮮工作員と、そこにマ・ドンソク演じる韓国系米国人の学者が入って、三つ巴の個性が面白い。大局でも南北朝鮮と米国の三つ巴のなか、ギリギリのところで地下坑道にたどり着き、噴火被害を食い止めるため、最後の最後はイ・ビョンホン演じる工作員が白頭山の地下に核爆弾を運び入れたまま爆死します。この件は『TUBE チューブ』(2003)を思い出すものがあります。現実の政治状況を下敷きにして王道を進む見事な娯楽映画だったと思います。

最後に米国移民の物語を。『ミナリ』の舞台は1980年代、レーガン政権下のアメリカ。韓国からカリフォルニアに移住して孵卵場で働いていたが生活がままならず、アーカンソーに再移住してきた家族。この地で成功しようと夢見る父親の一方で、こんな場所で暮らすつもりではなかった(子どもの病院も遠い)と不満を口にする母親。本当は喧嘩をやめるために移住したのでは、と思わせるような葛藤が見受けられもします。そんななかやってくる(子から見た)お婆ちゃん。そこからお婆ちゃんと次男坊の交流の物語が多くなり、とてもまとまりのある温かな家族の物語になっていきます。最初は雑魚寝を嫌がった家族が、納屋の火事を経て川の字で寝るようになります。そして逞しく育ったセリを収穫に行くラスト。とてもきれいな物語の流れでした。「大草原の小さな家」(1974-1982)あるいは「北の国から」(1981-2002)と類されるような作品だと思いますが、アジア人というマイノリティはもちろん、長女の年齢からすると1970年前後に韓国から(夫婦で)渡米したと思われ、当時の朝鮮半島における貧しさからの脱却が端緒になっており、上記作品とはその辺りに違いもありました。

日本映画ベストテン

  1. あのこは貴族

  2. 花束みたいな恋をした

  3. 街の上で

  4. シン・エヴァンゲリオン劇場版

  5. すばらしき世界

  6. 子供はわかってあげない

  7. 大コメ騒動

  8. まともじゃないのは君も一緒

  9. いとみち

  10. 彼女が好きなものは

外国映画ベストテン

  1. ソウルメイト/七月と安生

  2. ファーザー

  3. Swallow/スワロウ

  4. プロミシング・ヤング・ウーマン

  5. 最後の決闘裁判

  6. ノマドランド

  7. 偽りの隣人 ある諜報員の告白

  8. ビーチ・バム まじめに不真面目

  9. 1秒先の彼女

  10. デュー あの時の君とボク

全体の最後に私のベストテンを掲載しました。外国映画については本国での公開年からすると旧作になる場合もあると思いますが、あくまで日本国内で新作扱いになっている作品から選んでいます。

こんなに長文を書くことになると思ってもみなかったため、時間もかかりましたしとても疲れてしまいました。実は2023年に移住で東京圏内を脱出してしまい、2022年もその準備のためにかなり頭を使ってしまいました。今後の鑑賞数や鑑賞内容もかなり変わってくると思われますし、今後もレビューを書くとしても、ここまでの紙幅にはならないと思います。

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