2020年の映画を振り返る

自粛期間中に何をしてきたか

 2019年のレビューを最初の緊急事態宣言下で書いていたのですが、今回のレビューもふたたびの緊急事態宣言下で書く羽目になりました(2021年初頭から書いてました)。いまとなってはすっかり昔話ですが、ふたつの緊急事態の間で、政権がひとつ吹っ飛んでるんですよね。かの人の退陣表明があった日は、祝杯でエビスビールをたくさん飲んだなあ。あのときが2020年のベストシーンだったかもしれません。

 まずは最初の緊急事態中および自粛期間と思しき時期に私が何をしてきたのかを振り返ってみたいと思います。なお、人物名の敬称を略していることをあらかじめ記しておきます。

自粛前に観た映画、自粛明けに観た映画

 東京都内とその近郊の映画館が長期にわたって一斉に休館する事態は、おそらく戦時中にもなかったと思われ(この辺りは調査不足ですが)、その異常さは際立っていたと思います。現在は座席間隔を空けている劇場から、マスクを着用していれば飲食もできる劇場まで対応はさまざまで、まさか衝立付き劇場がオープンしたりスマホの電源を入れっぱなしにしてよかったりする時代がやってくるとは思いませんでしたが(半個室はありえたかもしれませんが)、理論上はクラスタ化し得ない空間だという認知がかなり進んだのでしょう。いまだに可燃性フィルムを前提としているんじゃないかと思うような面倒くさい規制によって、もともとトゥーマッチなほどに衛生的な施設であったことが幸いしました。

 とはいえ科学的な立証で安心できる向きばかりではないので、ある程度の経験値と感情の抑制を経ないと社会的に受容されなかったわけで、この辺は似た内容を後述しますが、どうにももどかしさがありました。

 自分自身の映画鑑賞記録を振り返ると、自粛期間の前に最後に映画館を訪れたのは3月22日で、『弥生、三月 -君を愛した30年-』『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』『一度死んでみた』を鑑賞していました。そして映画館再開後は、外国映画では5月31日に『暗数殺人』、日本映画では6月7日に『もみの家』を鑑賞していました。再開日は劇場によって微妙に違っていましたので、本格的に鑑賞を再開したのは6月だったと言えます。実に69日間にわたって映画館に入らなかったのですが、2007年からつけている鑑賞記録を調べてみても、過去最長記録でした。東日本大震災の翌週末にも映画館に通っていましたので、なにか日常が消滅したような気分になりました。

2020年興行収入

 ちなみに興行収入は、過去最高だった2019年から一転して大幅減だったわけですが、以前から指標にしている『ドラえもん』『名探偵コナン』各シリーズのランキングの位置を確認してみます。まずコナンが2020年内の公開を断念、ドラえもんは6位でした。これらの作品が上位にくる年は興行的に不作と判断しているのですが、今回は判断不能です。なおベストテンのうち5作品が東宝配給でしたので「東宝しか勝たん」という状況だったと言えます。もっとも東宝も『鬼滅の刃 無限列車編』に助けられてはいると思います。

 ベストテンを見ると、先行公開が2019年だった『パラサイト 半地下の家族』が4位だったようです。これまでも多くの作品で取り上げられてきた格差社会が、ビジネスで成功したセレブと、韓国独特の半地下住宅に住む家族の対比と邂逅と浸食によって描かれることで、テーマとして非常にビビッドになっていました。もともと私はポン・ジュノファンなので前半だけでも十分面白かったのに、後半、実はセレブの邸宅に地下室があるという話になってからのドライブのかかり方にはしびれました。豪雨でもあの地下室は何ともないのに、半地下の部屋は住める場所ではなくなります。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)とは意味合いが違うものの、降下する水が社会を支配している感じ(権力のメタファーというか)が見事に表現されています。ものすごい奥行きを持った作品で、やられたなあというのが感想でした。作品のベースにしたと言われるキム・ギヨン『下女』(1960)は観たことがあったのですが、ここまでアップデートされると、下敷きであることは理解しつつも、もはや別物ですね。

 本作はコロナ禍がなければもっと興収を伸ばした作品だったのではないかと思います。シネマルナティックの橋本支配人が語るところでは、同館の2020年の売り上げは本作があったから維持できたのだそうです(12月27日「松山サミット」配信より)。遠方で足を運べないミニシアターが日本中にたくさんありますが、ある意味では偶然にも2020年が営業を維持できたとしても、史上類を見ない危機が続いていることは間違いありません。

新作が多すぎたこれまで

 上述のように映画館自体が閉鎖してしまったわけですが、実のところはそんな自粛期間を気楽に過ごしてもいました。コロナ禍以前は、毎週すべての新作を鑑賞できるわけもなく、年々体力に粘りもなくなり、あくまで私の場合ですが、1日3本として土日でせいぜい6本程度なんです。しかもそれのために、おそらく映画館通い以外の多くのことを失っている気がするんですよね。昔は美術館にも行きましたし、芝居にも大相撲にも競馬にも行きましたし、もっと気軽に昼から飲み歩いてました。新作が多すぎて追いつかないんです。本当は観る側は消費者ですから、好きな作品だけつまみ食いするものだと思うのですが、それができない強迫観念って何なんでしょうか。

 いったん全部ストップしたことで、家にいて、窓を全開にして、しばらく聞いていなかったラジオ番組を聞き直したり、歩いたことのない道を散歩してみたり。家の窓からは庭と隣りの建物と駐車場ぐらいしか見えないのですが、それでもその景色をまんじりと眺めたのは、引っ越ししてきたとき以来でした。映画から解放されたんです。心身がとても落ち着いたし頭がすっきりしたと思います。

 そういえばコロナ禍に坂口恭平のtwitterをフォローし直したのですが、彼は私たちがインプットばかりでアウトプットしていないと指摘しています。たしかにそうなんです。なので、いまこうしてアウトプットしています。

自粛期間中のレビュー DVD編

 コロナ禍に映画から解放されたおかげで、いつか観ようと思っていたDVDやら、期間限定で配信されていた作品やら、好きなように気ままに観られたのはとてもよかったですね。ちっとも映画から解放されていないのですが、これはいいんです。

 家の収蔵品でようやく観られた作品に「東映 presents HKT48×48人の映画監督たち」(2018)がありました。購入してからいまだにCDを手に取っていないのは彼女たちに申し訳ないのですが、附録の短編作品の監督陣がたいへん面白そうだったんですね。詳細なリストは他サイトで確認していただければと思います。正直を申せば内容はピンキリですが、ロマンポルノとかキラキラ映画とかこういう企画とかで癖(へき)を出せる監督が私は好きです。『へんげ』(2011)の大畑創が長宗我部陽子に地底人探索をさせたのは最高でしたし、ほかにもファンタジー的な作品が多い片岡翔、オフビートな鈴木太一、唯一無二の世界観のベテラン・篠崎誠、ホラーと見せかけて別ジャンルに吹っ飛ばすヤングポールなどなど。柴田啓佑作品での二ノ宮隆太郎の脇役演技も素晴らしかったです。

 そのなかでも出色は横浜聡子『トチカコッケ』(2018)でした。2度目の五輪を控え国立競技場が建設中の東京で暮らす、大陸からやってきた異民族の少女。日本社会とはまったくかけ離れた野性味溢れる日常を送りながら、彼女は卓越した身体能力で五輪出場を目指しています。なのですが、ときおりコホッと小さな空咳をする。それが作品のアクセントになっているのですが、実際に五輪が開催延期になったいま、この作品を観ると背筋がぞっとします。偶然にもすごいものを観てしまいました。

自粛期間中のレビュー 配信編

 上述の通り、映画館が開いている限り新作映画の亡者になってしまう私は、名画座も大好きなのですが、なかなかそこまで足が届きません。もちろん映画館が閉鎖したということは名画座もまた然りなのですが、配信の世界では時流に乗ってしまった旧作が話題になり、私も鑑賞することができました。

 感染症ものとしてまるで現在を予言したかのようだったのが『コンテイジョン』(2011)でした。ほぼ日本映画専門の私はどうやらソダーバーグ作品が初めてだったようで、こんな作品があったことも知らなかったのですが、公開当時には伝わらなかったであろう臨場感があります。いや、実際にはSARSをはじめとした疫病があったからこそ作品が完成したのだと思いますので、その影響をあまり受けなかったこの国で関心が薄かったことが、いまこの作品に驚くことになっていると思いますし、公開当時に当事者感がもっと強ければ、いまもっと違う対策が講じられていたのかもしれません。

 もうひとつ、『復活の日』(1980)もたいへん面白かったですね。コロナ禍をいち早く訴えた中国の医師はコロナで亡くなったそうですが、この作品の緒形拳とシンクロします。また、物語は疫病の世界から核戦争後の世界へ進行しますが、つい最近まで現職のアメリカ大統領が核ミサイルの発射ボタンを押さないように真剣に議論されていたことも、まるでこの世界観じゃないですか。小松左京の原作の臨場感のすごさも話題になっていますのでいつか読んでみたいものです。

自粛期間中のレビュー 旧作劇場編

 配給各社が新作公開を足踏みした結果、名画座が食い扶持を奪われるようにシネコンで旧作のリバイバル上映が相次ぎました。なかでも印象的だったのはスタジオジブリが再上映に踏み切ったことでしょう。世間ではジブリはほぼ旧作上映を許諾しないと言われており、閉館が決まった劇場のさよなら興行だとか、国立映画アーカイブでの学術的な上映だとかしか機会がないと思っていただけに、驚いたと同時に、その心意気に感激しました。

 私もせっかくなので、宮崎駿作品を制作順に『風の谷のナウシカ』(1984)、『もののけ姫』(1997)、『千と千尋の神隠し』(2001)を再見してきました。あのように連続で観ると発見も多いですね。ナウシカはまだ連続テレビ小説「なつぞら」(2019)のようなアニメーターの手書きの質感を堪能できますし、主人公が世界観を語る台詞の多さは、まだ映画における省略のストイックさを採用できていないように見受けられます。

 これが『もののけ姫』になるとストーリーテリングにストイックさが出てきているうえに、CGをレイヤーで挿入させて時代を感じさせます。これは評価の難しいところで、最新のアニメーションに目が慣れてから見るとこの作品のCG部分と手書き部分のマッチングに違和感があるわけですが、他方最近のフルCG作品だとあらゆる質感がのっぺりしてしまうので、メリハリや遠近感をつかみにくい。なので、当時のあの手法でしか表現できなかったものもあったのだろうと思います。

『千と千尋の神隠し』になるとフルデジタルなので、もののけ姫のような独特な質感がなくなります。いわば今日の作品と同じで、特別に演出しない限りは、遠くのものも近くのものも同じ視力で認識できるようになります。それでも作画に奥行きを感じるのは、さすが優れた技術だったんだなあと感嘆します。そして物語も、3作品ではもっとも映画的だと思うのですね。これはリアルタイムに観たときも感じたのですが、この作品でとうとうアニメーションが実写の日本映画と同じ土俵に立ったというのが私の解釈です。それは優劣ではなくて、アニメーションがいわゆる第七芸術に参戦したような、そんな感覚が当時からあるのです。

 最後に、これがコロナ禍で解禁されたのか分からないのですが、ANAの機内放送用に制作された「星の都」という短編のシリーズものが期間限定の配信で観られるようになっていたので少し取り上げます。シリーズを通じて、太陽フレアによって携帯電話が使えなくなってしまった、そして日本でオーロラが見られるかもしれない1日という設定があるのですが、清原惟『これが星の歩き方』はなかでも監督の世界観とマッチしていたように思いますし、彼女の作家性がいかんなく発揮されていることに力強さを感じました。携帯電話が使えないことと自粛期間の日々が重なって、現実世界ではこの国でオーロラなんて見られるはずはないのに、そこに希望を託すように観てしまいました。

 なお、実際には同様に鑑賞した作品が、ここでは紹介されずに後述していることがあります。

自粛期間中のレビュー コロナ禍映画編

 コロナ禍は興行だけでなく、映画制作にも(もちろんテレビにも)多大な影響をもたらしました。予定されていた商業作品の撮影が中断したことにより、非常に制約を受けた条件で何か作品を作れないかと模索したケースも多く見られました。おそらく代表例としてあげられるのは、行定勲『きょうのできごと a day in the home』『いまだったら言える気がする』、岩井俊二『8日で死んだ怪獣の12日の物語』ではないかと思います。岩井作品はその後劇場公開作品にもなりました。あるいはSHINPAでは数多くの監督が日替わりで短編を公開しました。

 どんな作品にも個人的な好みはあり、これら作品群においても同様なのですが、その前提で言えば、それぞれの作家のフィルモグラフィに含めてよいのか分からない作品がほとんどでした。すべての作品を余興だと思ってよいのかもわかりませんが、ほぼどれも面白くなかった。この辺りは2011年から数年間の震災センチメント時代も近い現象だったと考えており、作家が情動的に発信したいことについて、受け止める側がいかにバイアスを設けて接するかということなんだろうと思います。それはちょっと違うだろうという私のもうひとつの気持ちと闘いながら、この場ではいちおうそういうスタンスを表明しておこうと思います。

 それでも、やっぱりさすがだなあと思ったのは高橋洋『彼方より』でした。暗い空間、PCのスクリーンから顔だけ見える気味悪さ(というか、気味の悪いスクリーンなんですよ)、物理的にスクリーンとスクリーンで交わされるやり取りが、この制約下でないと出しえない怖さを醸し出していました。

 この延長上でないと紹介できそうにないのでここで取り上げますが、状況設定をコロナ禍そのものとし、マスクや手洗いなどを演出に盛り込んだ本邦初めての作品は『真・鮫島事件』ではなかったかと思いますがどうでしょうか。冒頭のコロナ禍の新宿の光景や、ZOOM飲み中に巻き起こる怪奇現象など、おそらく困難な制作環境で短期間にここまでのエンタテインメントに昇華させられていることは、きちんと歴史に記録していいと思います。途中からお兄ちゃんに電話で指示出しゲームになっているのはご愛敬でしょうか。

追悼

 コロナ禍で亡くなった方は、感染症の患者ばかりではありません。死に優劣はないと思うのですが、望まざる死がある一方で、自ら選んだ死もある。というか、それを選んだように見えて、選んだことに責任を持てない場合がほとんどだと思いますし、その意味では選択の自由をなくした状態にこそ、選んだかに見える死があるのかもしれません。

 ただ、春ごろに聞いたのは、自殺者が減ったという話でした。それが、夏ごろにはかえって増えている。これは想像に過ぎないのですが、コロナ禍でなければ死んでしまったであろう人と、コロナ禍でなければ死ななかったであろう人とがいる。生きられる術が見つかったのなら、それがどんな世界だろうと幸いと言っていいのだと思います。終末思想が強かった1990年代には、阪神淡路大震災の光景に世界の終わりを見てほっとした人がいると言われました。それとちょっと近い気がしています。いま現代史において、阪神淡路大震災、東日本大震災に次に訪れたパラダイムシフトのなかにいるのだろうと思います。

 ただし多くの場合、起きた災害よりもそのあとのほうに絶望があるように思います。90年代後半には、永久に不景気なんだろうなと社会がしょぼくなってきましたし、東日本大震災のあとに目立つようになったのは分断でした。それは単に現実が見えてしまっただけで、毎日1/1000ぐらいずつ悪くなる世の中では、元に戻そうとする力でバイアスがかかってしまうところを、はっきりと変化が感じられただけなんだとは思います。なので、本当は災害のせいにしてはいけないのですが。

 でも、絶望に気付いて死んでしまうぐらいだったら、いっそ気付かないでおめでたい人だと思われたほうが、生きているだけマシですよね。これも聞いた話ですが、本当に死を決めた人は、むしろ晴れ晴れとしているそうです。だから、他人から見たら、あるとき不意に死んでしまったように見えるんですよね。それがかえって、残された者にはしんどい。

 ひとりひとりの本当のところは分かりませんけど、それにしても、驚くような死の知らせがあまりに多かったと思います。映画の話でないのですが、津野米咲の死には激しく動揺しました。彼女が担当していたNHKのラジオ番組を開始時から多くの放送回を聞いていましたし、なによりコロナ禍でいっそうラジオを聴くようになって、リクエストを送ったりして完全に生活の一部を為していましたので。赤い公園も好きでしたが、ベイビーレイズの「ビッグ☆スター!」が好きでした。もうあんな才能は出現しないんじゃないかといまだに悔やまれます。

 映画の話に戻りますが、どうしても死についてと生についてを考えながら鑑賞する時間が多くなりました。後者については別枠を設けます。映画界でことさら衝撃を受けたのは三浦春馬の死でした。『永遠の0』(2013)での、一途というか共演者たちとのバランスを超えるようなのめり込み方が印象的な役者でした。私が好きな作品は『東京公園』(2011)でした。おそらく最後の主演作『天外者』は、彼の演技のタイプにとてもよくマッチしていました。

 また竹内結子は私と学年違いの同い年でしたので、同年代に先立たれることにきついものがありました。私は『リング』(1998)を初めて観たのがつい2年ぐらい前でしたが、あの頃、本当にかわいかったんですよね。この時代に『リング』を観ていて、なんで松本穂香が出ているんだろうと思ったぐらい、すごく似てませんでしょうか。ちなみに一番好きな出演作は『黄泉がえり』(2003)でしょうか。これも2年ほど前に久しぶりに鑑賞して、あまりによかったのでDVDを買ったほどです。あるいは『サイドカーに犬』(2007)の父娘との三人芝居も。そういえばあのときの娘役は、映画監督の松本花菜でしたね。

 もうひとり。『赤色彗星倶楽部』(2018)のユミコテラダンスも忘れがたい役者でした。自主映画ばかりでしたので出演作を収集するのがたいへんなのですが、学生役で見せる奔放なようで繊細な感じが記憶に残っています。2020年の鑑賞作では『追い風』『青い』がありました。きっともっと大きな役を取る人になると思っていました。

ふたたびの震災回顧(1)

 2020年は阪神淡路大震災から四半世紀、2021年は東日本大震災から10年になります。節目というのはそれを考えるきっかけにすぎません。「時薬(ときぐすり)」という言葉を、これもラジオで知りました。時間が経って少しずつ冷静に、少しずつ温和にあのときを見つめられるようになってくる。気持ちが和らいでくる。それは、忘れるとか、悲しくなくなるということではないのだけれど、硬直状態からちょっと腕や足が動くようになるような感じなのだと思います。きっと、時薬が映画をも作り出すんじゃないかなと。ひと段落していたこれらを題材とした映画シーンにも新たな動きがありました。

 自粛期間が始まるかどうかという3月、大阪アジアン映画祭で観た『れいこいるか』(その後一般公開)は、阪神淡路大震災で一人娘をなくした男女が、どうしても埋められない隙間をつくりながら別々の人生を歩む物語でした。過去を忘れないように生きたり、忘れたふりして生きたり。自分も親も年を取るし生活は豊かにならないし、生きることに精いっぱいだけれど、新長田の鉄人28号がどこか人としての心をとどめてくれているような、温かな作品でした。

 温かさというのは、災害の混乱から慟哭を経て、長い時間、それも小さな子どもが大人になるぐらいの長さの人生と時薬があって出てくるものなのでしょう。なので東日本大震災および原発事故については、『風の電話』のように感情が尖ったままの場合もまだまだあると思います。もっともこの作品については私の感情にかなり複雑なものがありました。作品に共感した方がとても多いようなので、時薬どころではない気持ちに寄り添う作品だったのかもしれませんが、映画がまだあの位置に留まってよいものだろうかと思ったのです。少なくとも、私はあの主人公の情動からは脱したかった。脱して、未来から振り返りたかった。

 史実に対して忠実ではないとの意見もありますし私もミスリーディングがあったのでは思いますが、『Fukushima 50』は、それでも事故の検証を経ないと作れない物語でしたし、原発事故現場の奮闘は大芝居調で沁み込みやすく感動のある作品だったと思います。史実と演出への賛否両論は、原作者の性質によるところも大きかったでしょう。ただ、津波のVFXは唸るほどでしたし(それなのに外国のニュース映像のチープさはなんなのよ)、あれだけの大立ち回りを経ても避難所では白い目で見られる対象になる作業員たちの描写にも、震災センチメント時代とは異なるものがありました。ちなみに勝手に名付けている震災センチメント時代ですが、震災についての捉え方が変わったと感じたのが『サバイバルファミリー』(2016)でしたので、定義付けるとすればそれまでの約4年間を指すだろうと思っています。

 ちなみに原発事故で言えば、映画館が営業していない頃に観たHBOのドラマ「チェルノブイリ」(2019)は強烈でした。原発内外の様々な人の視点で紡がれていくドラマですが、ソビエト連邦の情報統制がかかっていたであろう社会でどのように事故に気付いていったかの描写から、内部で起きていたこと、それぞれの立場の職員のそれぞれの行動、重篤な被災者たちのたどる道、社会と環境の変化、検証、裁判、国家による処理等々。部分ごとの程度の差こそあれ(つまり福島のほうが重い内容もあるのではという意味も含めて)、2011年の当事者が理解を深められる、内容も時期もこれこそと思える作品でした。チェルノブイリは功罪のどちらも意味でも、強権的なソ連体制でこそ発生し収拾された事故なのであれば、原発は強権的な国家以外が有するに適さない凶器のように見えます。

 なお、『BOLT』には福島を舞台に、まるで「チェルノブイリ」のような事故対応の描写が登場しました。

ふたたびの震災回顧(2)

 東日本大震災に話を戻しますが、新興宗教の集団生活内で震災を予知した少女が登場する『サクリファイス』は、さすが篠崎誠の門下生らしい作品でした。宗教って何のためにあるんだっけ、ということを考えさせられもしました。震災しかり、コロナ禍しかり、人知を超えた困難に対してこそ介入してほしいところです。望まない集団生活で大人の被害者だったあのときの子どもたちは、自らの生い立ちに飲み込まれているように見えるけれど、それでも物語を持たざる者からすれば、持つ者の強さがあるようでもあります。短い出演で抑えた演技の三浦貴大がよかったです。

 異色の写真家を通じて津波の被災地を捉えた『浅田家!』は、主人公自身とその家族のおかしなエピソードの前半から一転、生きている証としての写真にフォーカスした後半にぐっと深みがありました。映画史をたどると、震災直後においては、『ヒミズ』(2011)に収められた気仙沼の瓦礫の途方もなさや、『遺体 明日への十日間』(2012)の釜石の遺体安置所、もしくは『ヒップスター』(2012)、それと似た演出を取った『長いお別れ』(2019)のような外国で目撃する津波の映像など、あの一瞬とその直後の絶望が中心だったと思うのです。それが、先に書いたように『サバイバルファミリー』(2016)では新しい概念の中で生き抜く人びとが中心になり、残された人の視点で震災を俯瞰するようになってきたように感じています。そして『浅田家!』では、避難所の日常が震災後にやってきたよそ者の視点で描かれているのが特徴的です。それにしても菅田将暉の芝居には唸りましたし、『湯を沸かすほどの熱い愛』(2016)に続いて篠原ゆき子に泣かされるとは。

 前作に続き陸前高田を見つめたドキュメンタリー『空に聞く』は、どう言えばいいのだろう、落ち着いていて柔らかい監督の視線が被写体に注がれていることがありありと想像できる、本当に温かな作品でした。臨時災害放送局と言われるラジオ局のパーソナリティが主人公でしたが、ラジオというさりげない存在が町を包んでいるように感じられます。ちなみに「時薬」という言葉を知ったのは、劇中に登場するIBC岩手放送のラジオ番組「大塚富夫のTOWN」でした。ほぼ投書の紹介だけのシンプルな構成なのに、笑ったりしみじみしたりして、毎週聴いています。

タワーマンションが示すもの

 時薬についてもう少し考えると、それがいかに早く効くかを検討したところで、誰しもが最短ルートで進みたい心情にあるわけではありません。時薬という言葉が使われる場面では、むしろ苦しんでいることが多いはずです。

 そのことと関連して書くと、『空に住む』は興味深い内容でした。タワーマンションが何かの象徴として、たとえば『朝が来る』のような見かけ上の成功や上級感、『ジオラマボーイ・パノラマガール』のような空間あるいは空虚さ(結果論かもしれませんが)として描かれているケースはあると思うのですが、本作のように異界として描かれている例は見かけなかったように思います。つまり、衣服や持ち物のような記号的な取り扱われ方ではなく、どちらかというと『パッセンジャー』(2016)のような「宇宙空間独りぼっち、人間以外はいるけど。衣食住に不自由なし。」の設定に近い。

 両親を同時に失った本作の主人公は、親類の勧めで彼が所有するタワーマンションの一室に引っ越してくるわけですが、彼女の振る舞い方や勤め先を見ても、明らかに異空間に来てしまっています。地上からの高さといい、他者との接触のなさ、あるいは接触の秘密、監視カメラ、ゴミ捨て場。これらが、これまでの記憶や関係性とまったくと言っていいほどリンクしない。まして彼女は、以前の家屋からは驚くほど何も持ち込んできていない。

 その結果、彼女にとって暮らしたい暮らし方をしているとは思えないものの、一方で両親の死への重さが感じられなくなっています。それは、忘れるということとは違うはずです。この作品を観ている間ずっと、これはいったい何の映画なのかとやや混乱していたのですが、東日本大震災からもうすぐ10年という時期に、こんなSFみたいな現実の話が成立してしまうことには、意味があったように思っています。

社会を変えるのは誰か

 本当に特異な1年だったと思います。コロナ禍であらゆるものが吹っ飛んだわけですが、オリンピックもこの国の政権もそうですが、アメリカの政権が吹っ飛んだのも、この年の物語がきれいに汲み取られているように感じます。これらすべて、個人的にはまったく好きではなかったので、「なあんだ、やればできるじゃん」の気分です。ただしアメリカの政権については、過去の映画レビューでもアメリカ民主党とて必ずしもクリーンではないことに言及してきましたし、バイデンこそがアメリカ国民が実に60年ぶりに誕生させた『アイリッシュマン』(2019)なのではないかということを、記憶にとどめておきたいと思います。

 ちなみにオリンピックについて、東京開催でなければ存在自体を私は否定していません。どうせアメリカのメディア都合で決めていくのであれば、世界中のいろんな都市に分散すれば、24時間真っ昼間の環境で競技を中継できていいんじゃないかと思うんですけど、どうなんでしょうか。北半球と南半球をうまく使って、夏季と冬季の同時開催というのは可能なのでしょうか。

 話がそれましたが、誰もが既定路線だと思っていて、それに抵抗するのがとろくさいぐらいに思われていたものが、ともかく次々とひっくり返った。しかし、それを成し遂げたのは人間ではなく、新種のウィルスだったということです。とうとう人類は人類以外に自らの命運を握られてしまったのでしょう。『吸血鬼ゴケミドロ』(1968)を思い出すものがありますが、人類以外どころか生命体以外だとすると、むしろ『AI崩壊』のほうが近いかもしれません。

「なあんだ、やればできるじゃん」は、非人類に向けた言葉でした。命の問題を避けて通れないので心境複雑ですが、人類でないほうが正しく判断して行動してるんじゃないか。近代以降の人類はとくにおこがましくて、それまでは人知を超えたことも含めて世界だと規定していたのに、科学で制圧できると思ってしまったことがそもそもの間違いなわけで。『AI崩壊』を観ていても、「おい小娘、集中しろ」と言いたくなるような展開です。

 人間がいかに無力かということを散々書き散らかしているのですが、『アリ地獄天国』のようにたったひとりから始まったプライドと尊厳をかけた闘争が世の中を変えるんだということは、きちんとベースとして認識しているつもりです。『チリの闘い』(1975-1979)に登場する民衆の民度の高さや情熱に感動し、いまだに彼らに尊敬の念を抱いてもいます。そういったことは、やはり念頭に置いておきたいと思っています。

よく生きる上で必要なこと

 近代以降の人類がおこがましいのはその通りだとしても、科学を批判するのはちょっと違う。たとえば『FUNAN』で表現されていたクメール・ルージュは社会を科学して最適化したつもりだったのだと思いますけど、全然うまくいかなかったばかりか大量の死者を出して最大不幸社会になってしまいました。「家族」「親交」「楽しみ」などなど、それらが非科学的なんじゃなくて、要件考慮漏れなんだと思うのですよね。

 それはコロナ禍にあって映画館や演劇が必要なのかとか、風俗業やナイトカルチャーがどうなのかとかいう話とまったく同じじゃないかと。『リトル・サブカル・ウォーズ ~ヴィレヴァン!の逆襲~』がこのタイミングで公開されたのはよかったと思います。あるいは私は映画自体を観られなかったのですが、藤岡みなみが『100日間のシンプルライフ』を受けて実践したシンプル生活がこの問題に対するとても重要な示唆に溢れていますし、『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』は、空から降ってきた圧政に対してしんちゃんが、行為の以前に思考することと発想することが必要であることを教えてくれました。

 その意味では、科学をちゃんと理解していればいいのかもしれません。台湾がコロナ禍の対処で成功した一因は科学だと思いますので。科学をきちんと使えたところと使えなかったところは何が違うのか。為政者や官吏の問題は大いにあると思いますよ。ただ、彼らと庶民に通底する決定的な違いを感じていて、この国でキャッシュレス決済の普及が遅いことに象徴的で、科学は意識高い人や力のある人が使うものだという謎の観念があるのだと思います。「いやいや私なんかには」とか「まだ早い」とかいう人にこその科学というか、生きにくいことをお金で解決できない人のためにあってほしいのですよね。でもユーザ側にべき論をぶつのではなくて、国のあり方としてそういう構造でないといけない。慣性の法則のように、従前通りであろうとする力の強まりが社会を覆おうとしたときには、それでは解決し得ない歪みを誰かが認識していないといけないのではないか。

 と、威勢よく書いてみましたが、コンビニやスーパーマーケットの無人レジが閑散としていて、有人レジに長蛇の列ができているのを見るにつけ、ああこの国の主権は前に進まないことを選んだんだなと感じてもいます。実のところ、とっくのとうに心は折れているのですが。(無人レジの使いにくさにも問題はあると思いますよ)

コンプレックスのはなし

 さきほど宗教は何のためにあるのかと書きましたが、実は学問にも同じことを思っています。この社会の苦悩に対して、学術界隈が何を為してきたか。何もなかったとは言わないにしても、もっと容赦なくコミットする方法はあったはずなのではと。それは決して、日本学術会議の問題について政権を肩を持つものではありません。そうではなくて、付け入る隙を与えたこと自体が敗北ではなかったかと思うのですね。

 邪気をはらんだお坊ちゃまだった前首相から一転、地元の名士にならずに(なれずに)東京の苦学生になったらしい現首相には、何かすごいコンプレックスを感じるのですよね。インテリゲンチャに対する強いコンプレックス。そのまなざしはかつて官僚養成学校だった東大出身者がひしめく中央官庁に向けられて、彼らの人事権を握ることに執着があるように見えるし、それと同じまなざしを学術界にも向けているように見えます。経済重視型の為政者なので、もしかすると実学的なものへの奮起を求めているのかもしれず、だとすると学術界にはそういう側面もあるのでそこは理解できるのですが、同じだけの情熱を基礎研究ならびに研究することの自由さにも向ける必要があります。その視座のありやなしやというのは、一国の宰相としての器を試すものだと、私は考えています。それが科学をちゃんと理解するということです。

 ところでこの現首相を見るにつけ、私は原敬に似ているように思うのですよね。ともに庶民派であるようなイメージで就任したものの、あくまで「名士の側」の庶民であって、前述のような謎の観念で大衆から格上と認知され区別されてきたし、本人もその立ち位置を崩さずに「名士の側」におもねったからこそ地位を築いたのだろうと思います。とはいえ爵位のある者たちとの距離感にはコンプレックスも強かっただろうと。では何を為したかという点においては、イデオロギー的でも義を果たす感じでもなかったのではないでしょうか。最近、100年前のニュースをツイートしてくれるアカウントをよく見ているのですが、そこで見つけた宮中某重大事件での原の動きを追っていると、なんだか変化に怯えているだけの保守気取りにしか見えないんです。ああ、現首相もそんな感じで、何も為さないことのデメリットだけが蓄積していくんだろうなと、うんざりした気持ちになってしまいます。

権威のはなし

 またまた脱線しましたが、謎の観念の話に戻すと、それを権威と呼ぶんじゃないかと思うのですが、そんなものはどうせはりぼてなんですよ。ということで『はりぼて』の話をしたいのですが、力のある人とは知的で道徳溢れているものであるという物語は、まるで半島の王朝のようですが、これってアジア的なんでしょうか。儒教っぽいのかもしれませんね。でも実態はあの通り(あ、富山の話です)なわけです。そういえば登場人物のひとりが最近も報道で話題になってましたね。すごく救いだと思ったのが、報道が愚直に使命を全うしようとしたことだと思いました。だからこそ、あのラストには悔しさもありましたし、でもそれもスクリーンに映せたんだという感慨もありましたし。

 その点、面白さより不満で首をかしげてしまったのが『さよならテレビ』でした。テレビ局が自らの内部を取材して、このタイトルを付けて公開したことはセンセーショナルですし、少なからずの自省で成立しているのだとは思います。その意味では勇気があるし、それを讃えたほうがよいのかもしれません。ただ、映し出されるのは、撮影されることに不満があり非協力的な正社員たちと、前線で懸命に働くアンカーと契約社員たちの姿でした。契約社員たちと正社員の給与差はおそらくかなりのものと想像できますが、視聴者が思うテレビ局を作っているのはどちらでしょうか。この作品を撮る監督も正社員ですし、契約社員たちの不遇さを、安全なところから見ているとしか思えませんでした。それを感じられたら作品としては成功でしょうか。でも正社員側のもがく役割をアンカーひとりに押し付けているのって消費社会的な感じがあります。アンカーを軸にしたテレビ局の内実という点では『スキャンダル』の世界もまったく一緒ですよね。旧社会が旧社会によって支えられている感じがすごくきつい。あの衝撃の現場を演じたマーゴット・ロビーには賛辞を贈りたいと思います。

 権威という名のはりぼてとしてはもうひとつ。いやこちらのほうがきついかもしれませんが、『ワンダーウォール 劇場版』の山村紅葉です。大学事務局は学生たちが駆けつけると、必ず決まった職員を窓口に立ててくる。事務所には何人も座っていて、責任ある役職の人もいるのに、一番権限のなさそうな人がやってくる。それがはじめは成海璃子だったのに、あるとき山村紅葉に変わってるんですよね。彼女たちは派遣さんなので、学生の話を真摯に聞いて場が動き始めたかなと思うと、すっと人を差し替えてくる。背景にいる職員たちは誰も変更していないけど、窓口の派遣さんだけが差し替えられて、彼女しか学生と相対しない。あの、成海璃子が山村紅葉に変わったとき、ただでさえマドンナを失ってショックなのに、これまでの努力が何の意味もなかったことを知った学生はものすごい絶望を味わいます。でも、自分が職員側だったら、やるかもなあとは思いました。あの学生寮の梁山泊のような雰囲気はとても素晴らしかったですし、近いものを『旧グッゲンハイム邸裏長屋』でも感じました。関西に残るあの雰囲気を大切にしたいと思いました。

普通に生きることが困難

 2018年のレビューを書いた際に、狭義の「ふつう」と広義の「ふつう」という話をしました。多くの人が「ふつう」だと思っている生き方について、何の意識もせずに「ふつう」の範疇にいる人もいれば、「ふつう」に寄せたり「ふつう」であるふりをする努力をすることで「ふつう」であろうとする人もいる。前者を狭義の「ふつう」、後者を広義の「ふつう」と呼んだわけです。「ふつう」が人間として生きるうえでの成功であるならば、努力を重ねて「ふつう」になることへの憧れとなったときの優越があるし、そうならなかった人を「ふつう」じゃないと批判し、「ふつう」になることを強要する人が現れるでしょう。

 しかし、生き方は多様化しています。それは流行の類などではなくて、長い人類の歴史を経て、「ふつう」などはりぼてだということに、「うすうす気付いてたけど、やっぱそうだよね」とカミングアウトしたにすぎません。封建社会など社会のオフィシャルな階級が存在していた時代には「らしく、あるべき」が階級ごとに定義されることによって一様な「ふつう」が形成されたのかもしれませんが、たとえ形の上でも、階級なき平等な社会である以上、かつ社会科学が平等を追供するものであるのであればなおのこと、生き方が多様なものであると定義することは必然なのだと思います。

 ただし「ふつう」が消えたとか崩壊したとかいうことではないと思います。少なくとも、無理難題でない意味で「こう生きたい」と思えるものにこそ「ふつう」があるということではないか。その意味では、狭義の「ふつう」はよほど要領よく生きられる人のものなのでどんどん狭くなっていく一方で、広義の「ふつう」は広がっているのだと思うのですが、そこで素直に生きることの大切さについては、2019年のレビューで書いてきました。

 ですが、ありたい姿としての「ふつう」の的(まと)がどんなに広がっても、そもそもその地にたどり着くことがどうも難しい。2020年は、そんな見えづらい生きにくさを扱った作品と、だからこそ生きることとは何なのかを掘り下げた作品が多かったように感じています。コロナ禍でそんなふうに見えただけなのではという指摘はあると思いますが、前述の通り、少しずつ進行していたものが見えやすくなっただけで、トレンドはコロナ禍以前から不変だったのではないかと思います。

「ふつう」のアイコン、仲野太賀

 出演作が多いから記憶に残るというのもあるでしょうけど、それにしても仲野太賀という存在が、あまりにいまの空気を纏っているように思いませんか。素直そうで、生きづらそうで、何者でもなさそうで、言葉を持ちあぐねていて、藻掻いている。そんな演技ばかりではないのに、そんな印象がとても強い。スクリーンに彼が登場すると、時代を連れてきたような感覚に陥ります。

 いくつかのサイトを調べると彼の出演作の最古は熊切和嘉『フリージア』(2007)だそうですが、喫茶店の玉山鉄二ばかり記憶に残っていて彼の出演を思い出せません。その後の出演作を見ていても、これは私の記憶力の問題だと思いつつ、出演作がとても多く、スクリーンで見かければすぐに分かるのですが、どちらかと言えば影が薄かったように思います。

 あくまで主観ですが、インパクトが強かったのは吉田大八『桐島、部活やめるってよ』(2012)でしょうか。どこか中空に置かれている視線。上記の彼への印象はこの作品での視線に影響されているかもしれません。若手の役者が集結した作品において、出演作の多さからベテランの風格さえあったことも発見でした。また、佐藤快磨『壊れ始めてる、ヘイヘイヘイ』(2016)、中川龍太郎『走れ、絶望に追いつかれない速さで』(2016)、廣原暁『ポンチョに夜明けの風はらませて』(2017)といった若手の作品に相次いで主役で起用されていることからも、そのとき撮りたいものを体現してくれる人物としてキャリアを重ねてきたことがわかります。

 2020年も出演作がたいへん多く、『静かな雨』(中川龍太郎作品)では足を引きずった研究員を、『僕の好きな女の子』ではヒロインの彼氏のサラリーマンを、『#ハンド全力』では主人公高校生のチャラい兄貴を、『MOTHER マザー』ではラブホテルの店員をそれぞれ演じているのですが、こうして振り返るとまったくタイプの違う役どころであったことに驚きます。それぐらい、作中において「ふつう」の位置を保っているんですよね。中心とかメジャー/マイナーとかではなくて、前述の広義の「ふつう」。つまり、社会に対して優越感を持てる立場ではないけれど、かといって一線を越えてしまったりはしない、外部にある強い何かに影響を受けてしまいそうな生き方としての「ふつう」。決して私たちひとりひとりと同じというわけじゃない。お互い違うけど、お互い「ふつう」の領域の内側にはいる。彼が多種多様な「ふつう」を演じ続けることは、私たちにとっての他者を私たちの一部に包含する作業なのではないかとさえ思います。

 佐藤快磨『泣く子はいねぇが』は、監督の郷里である秋田県を舞台に、うまく態度に出せない本音と、優しさゆえに言われるがままふらふらと転がっていく様を、仲野太賀でしか出し得ないストレートさで表現した快作でした。むかしからの延長線上で生きてきて、なんとなくしゃんとするきっかけがないままのことってあると思うのですが、主人公の最初はまさにそんな感じ。そこから東京に逃亡して、よりによって見事にモラトリアムに突入します。この人はきっと大人になる準備期間がない人生だったんだろうなと。そして帰郷すると、いたるところ裏道ばっかりなんですよね。なんだか彼と奥さん(吉岡里帆)の数年間って、この国の20年か30年間を見ているようだなと思います。仲野太賀はそんなふうに時代を擬人化したようなところもあるように思います。ラストのなまはげに、もういろんなものがぎゅっと詰まっていてぐっときます。

 若葉竜也、大島優子と旧知の仲を演じた『生きちゃった』での主人公としての仲野太賀は、言いたいこと、本音を口に出せない。愛する妻に愛を伝えることができない。なのに、習っている中国語や英語では、妻のことも将来の夢もすらすらと出てくる。ものすごい表現下手なのですが、本音を言えないのは日本人だからかなあなどと親友に悩みを打ち明けます。それでも言わなきゃいけないんだと親友に必死に諭されて、泣きじゃくる主人公。不器用だけど熱情たっぷりに生きる人びとを描いてきた石井監督の世界観が、諭される人のなかに表現されています。希望と苦悩と混乱がないまぜになった主人公を仲野は見事に演じています。劇中の中国語と英語の件が、おそらく中国とアメリカに挟まれたこの国が何かを発し得ないということの比喩なのでしょうが、そんな日本という国の擬人化が仲野太賀なのだということが、2020年の象徴のように感じられます。

「この世」としての地方

 毎年話題にしている地方感についてなのですが、おそらくこの国が全土を守れなくなった際に自らの機能を維持できるラインを設定するだろうと想定したとき、その際(きわ)になる地域を第一辺境と勝手に呼んでおります。おそらく北関東のどこかにそれが存在するとみているのですが、2018年ごろにはその第一辺境と思しき地域を舞台にした作品が多かった。若手作家たちが、あの地帯をこそ「田舎」だと規定しているのではないかと考えたのですね。ごく最近、『ガメラ2 レギオン襲来』(1996)を観ていて驚いたのですが、仙台を壊滅させた(これが東日本大震災を想起させます)レギオンが東京に来るのを阻止するために自衛隊が決めた防衛ラインの最終が利根川にあって、ガメラはレギオンと足利あたりで激闘します。あれがまさしく第一辺境だと思いました。四半世紀前にはすでにフィクションで想定されていたのですね。

 それが2019年には一転して、その先の地域―東北や北海道や沖縄―が舞台になっていて、どこか浮世離れしたものが多かったため、その現象を「あの世に近づいた」と評しました。

 では2020年はどうだったかというと、引き続き「その先の地域」が舞台になるケースが多かったと思います。そう考えると第一辺境とはいったい何だったのかという思いが強くなるのですが、第一辺境というのは基本的に保守的な土地で、かつ衰退する東京と心中する運命にあるために、明るい話題や進歩的なテーマを扱いづらいことが引っかかっているのかもしれません。この点は、もう少し長い目で捉えてみたいと考えています。

 また「その先の地域」においては、2019年とは違い、もっと実生活に近いところを描いた作品や、現代史を扱った作品が特徴的だったように思います。いわば「この世」の物語です。それ自体が新しいことだとは思いませんが、『男はつらいよ』シリーズ(1969-1995)や『釣りバカ日誌』シリーズ(1988-2019)、あるいは『となりのトトロ』(1988)や『おもひでぽろぽろ』(1991)など郷愁を掻き立てるものは、東京が座標の中心にあって、そこから遠くに行くことを旨としている。なのでそれらも「あの世」映画の一種と言ってよいと思います。何度も映画化された『伊豆の踊子』も同様でしょう。

 その意味では『仁義なき戦い』シリーズ(1973-1976)のほうがよほど「この世」だと思いますが、大林宣彦が残した多くの作品において「この世」が描かれており、やはりそれは、その土地をよく知る者たちの作品であることが鍵であるように思われます。遺作『海辺の映画館―キネマの玉手箱』でついに尾道に帰ってきたことも、何か象徴的な感じがします。映画史の追求と、作品に夢や希望を希求し続けた姿勢に敬意を表します。この作品の本来の封切り日に没したのは、もはや伝説です。

スクリーンで観る岩手の諸相

 近年、岩手県がここまで取り上げられた年もなかったのではないでしょうか。そこに言及するのは私がかつて県民だったことと不可分ではないと思いますが、たしかに岩手県が舞台の作品が多かったのです。それがなぜなのか、について即答するのはたいへん難しいのですが、東京から見て第一辺境の外側、原発問題が不可避となってしまった福島と、大都会の仙台を超えた先、後述のように東北新幹線の最初のターミナルの地が、「あの世」ではない、「この世」の果てとしてイメージされている可能性はあると思います。『泣く子はいねぇが』の秋田県もそれに近い捉え方ができるように思います。

 盛岡の情景を存分に映した『終わった人』(2018)が「陽」であったならば、『影裏』は盛岡あるいは岩手の「陰」を捉えていたように思います。私が6年間過ごした盛岡という地は、とくに2000年前後のその地は、都会と呼ぶほどには記号的でないが田舎と呼ぶよりは機能的で、なにより盲目的と言ってよいような人のよさが特徴的でした。それゆえのぬるさと冷たさは、イノセントすぎるのでよそ者にしか分からないのかもしれません。本作の主人公はゲイであることでエッジの利いたよそ者であり、彼が親しくなる男は、地元出身だが学歴詐称で出自が不透明。いわば東京で魂が死んで、嘘の魂で「この世の果て」に戻ってきた男なんですよね。それで、近しくなっていく。そんな彼らの関係があったからと言って、主人公は排斥もされなければ受容もされない。その微妙さが、そこで生きていた人、しかもよそ者からするとぐいぐいと心に迫ってきます。

 とても長い時間を友情とその綻びに費やし、暗部を丁寧に描きつつも、全体を静かに抑揚なく描く。盛岡出身の大友監督でしかできない仕事だと思いつつも、監督のフィルモグラフィーでは特殊な感じもします。劇伴の大友良英にとっては、『あまちゃん』(2013)では描かなった岩手ダークサイドの補完作業的なアートワークだったのではないかと思っています。

 私が盛岡に引っ越したのは1999年の春のことで、父親と短時間の市内観光をすべく乗り込んだタクシーの運転手さんからいろんなお話を伺ったのですが、いまでも印象に残っているのは、新幹線が乗り入れてきてから東京の資本が盛岡に支社を作るようになったということでした。それまで住んでいた札幌は古くから地理的要件とは離れて独自のカルチャーを築いていた土地でしたので、新幹線の影響というのがとても新鮮だったのを覚えています。

 その新幹線の新花巻駅を開業するまでを描いた『ネクタイを締めた百姓一揆』は、大河ドラマを見ているかのような大作でした。盛岡まで新幹線が整備されることは確定していたが途中停車駅の決定時にあっさり選から漏れて、しまったと思ったところから始まる招致運動で、これはもう時代劇と言っていいんじゃないかと思うほどなんですよね。当時の商工会、政治家、国鉄職員、農民などありとあらゆる顔と顔のぶつかり合いが最高です。あのパッションの前には出演者がプロの役者かどうかなんて関係ないんです。監督の演出力がものすごい。田中角栄とその門下の小沢一郎、角栄失脚後の中曽根による民営化、そして運輸族の三塚博。国労と動労は民営化に抵抗し活動しますが、しかし彼らは時代遅れの男たちだった。そのもの悲しさと駅開業が並行して描かれる、見事な現代史絵巻でした。

 他方、県南の山間集約を舞台にした『もち』は、もうすぐ閉校する中学校とそこに通う少女、彼女の気持ちと周囲で起こることや家族、食について、ドラマとドキュメンタリーを織り交ぜた作品でした。撮影を担当したのが『トニー滝谷』(2015)の広川泰士。なんと見応えのあるショットの多いことかと思いエンドロールを見てびっくりしました。主人公はじめキャストは地元で選ばれたようですが、瑞々しさというべきか清々しさというべきか、訓練されたものとはまったく別個の魅力に溢れた作品でした。知らぬ間に80年代のフランス映画の雰囲気を纏っているのかもしれません。主人公の話し方やしぐさがまたいいんですよね。あのラストは、しんみりしそうなところを爽やかにしてくれる素晴らしいショットでした。

 現実的な問題として、いま100万人いる地方都市でも人口減少は避けられないと思いますし、『ネクタイを締めた百姓一揆』は工業国としての日本が成長しているうちのサクセスストーリーではあるけれど、東京との時間距離が短くなるとその地方の人口流出も加速しますので、いまとなっては功罪入り混じっています。かつての夢の延長線上をどう生きるかという点においては、どうしてもシビアな捉え方になってしまいますが、厳しさのなかにもどこか甘美さが残っているのではないでしょうか。

性産業ノスタルジア

『彼女は夢で踊る』はこれまでも広島で作品を撮り続けている時川監督の最新作でしたが、かつてストリップ小屋が満杯だったころの八丁堀での出会いで運命が変わってしまった男の物語でした。現在の主人公演じる加藤雅也が、運命が変わってから今日に至るまでの長い白昼夢を見事に演じているわけですが、冒頭、現在の主人公が八丁堀を歩きながら、映像は街の風景を追い続ける。やはり街や建物の古さはどうにもしがたく、地権者交渉もうまくいない。そういうことは百も承知で、でも彼にだけはどこか魔法がかかってるんですよね。ストリップ嬢を演じる岡村いずみにレディオヘッドが鳴り響く。時代が合わないはずですが、この魔法は信じたくなります。(舞台になった広島第一劇場はその後、2021年5月に閉館することを発表しました。)

 かつての夢と言えば『ホテルローヤル』は北海道釧路地方の農村地帯に建っているラブホテルが舞台で、『彼女は夢で踊る』と近しいものを感じました。こちらの主人公は夢を追った男ではなくその娘なのですが、ラブホテルを廃業するにあたって、さまざまな思い出が去来します。全盛期だった90年代の、テレビに映し出される北海道の風物がものすごく再現度高く、また北海道出身の安田顕の地元臭が凄まじいのも見どころでした。ラスト、主人公が来るまで釧路の中心地を走り抜けるシーンで、ようやく夢から現実に移動してきて、物語全体が街の物語になるのも印象的な作品でした。

 2作品に共通している、昭和から平成初期にかけての性産業へのノスタルジアは、今日の社会の潔癖さの対極にあるものとして題材になったように思います。むかしが素晴らしかったと一面的に評するのは難しいのですが、しかし今日へのアンチテーゼではあるはずです。まして2020年という、非常に暴力的に排他的な潔癖さが指示された社会にあって、人間らしさを表現した重みある作品であったと思います。

故郷と人生最高のとき

 これが今日の夜の産業をノスタルジアなしに描くとどうなるか。『糸』は北海道美瑛で平成元年に生を受けた男女の物語でしたが、小松菜奈演じるヒロインはたいへん不遇な家庭環境で、継父に連れられて札幌に引っ越していくのですが、暴力に耐えながら生きているわけですね。それで、進学してもお金に困窮して東京で夜の仕事に就きます。菅田将暉演じる運命の男がそんな彼女を救い出せるわけもなく、勢いのある起業家に飼われて生きていきます。そこにあるのは、ロマンあるほうを選択した生き様ではなくて、そうとしかできなかったそれでした。彼女は流れ流れてたどり着いたシンガポールで、ようやく生き方を選択し、それから人生を真逆に振り切ったものの揺り戻され、しかしとうとう故郷が約束の地になります。それがこども食堂というのがいいですね。

『ミッドナイトスワン』はとにかく草彅剛が素晴らしかったのですが、主人公・凪沙がそうとしか生きられなかった姿を、故郷・広島の親は知らないのですよね。それでも東京で働く店では同僚はみな同じような境遇を生きていますので、局地的なコミュニティはありました。それを振り切ってリスクの高い道を進んだのは、肉体的にも女として生きるという選択をしたことと、一果という大切な子のために生きるという選択をしたからでした。しかしその選択はまるで主人公の命と引き換えのようでした。性転換手術を受けたタイ(また東南アジア!)から帰郷して大立ち回りした主人公は、あれだけ蔑まれてもあれが人生最高のときだったのではないでしょうか。

 年を経るごとに多様性が重んじられる社会になってきているはずなのに、生きづらさはいや増している。これはいったい何なのか。受験競争がまったくなくならなかったり、その受験で男女の採点に人為的な差をつけられたり、女性管理職が少なかったり、ルッキズムがやまなかったりするのはなぜか。凪沙のことで言うと、おそらく母親も、他人の子が性転換しても非難したりしなかったように思うのですよね。好感を持つかどうかは分からないけれど、認めるところまではいく気がします。でも自分の子についてはダメなんですよね。多様性は認める、身内以外は。やや悪意をもって書くと、自分や自分の身内には道を外してほしくなくて、他人が道を外せば、自分たちがその道の上で生き残れる確率は高まるわけですよね。どこか、多様性を認めることが、ノアの箱舟から自ら降りることを認めることであって、呉越同舟みたいなこととは異なものなのではないでしょうか。

伝統的なるもの(1)

 さて、『もち』における食文化もそうでしたが、地方映画と「伝統的なるもの」の相性もまた注目されるところです。ちなみに私は伝統という言葉をあまり好んで使用しません。たしかな文献に出会ったことがないので勝手な解釈となりますが、伝統は、前近代からあって近代にも残ったものの総称なのではないかと考えています。そもそも近代は前近代を否定し非難して、科学的に説明可能な概念と価値観、社会の個人化を推奨しているので、伝統と呼ばれるものはその対岸にありますし、なんなら伝統という言葉自体が侮蔑的表現なのではないかと思うのです。とはいえ、いま、伝統という言葉以外にそれらを指し示す概念がないため、便宜的に「伝統的なるもの」と表現しています。

 本当は2020年はアイヌに注目が集まるはずだったのですが、『アイヌモシㇼ』は観光地として残存するアイヌコタンで生きる少年の物語でした。家が土産物屋を営んでおり、そこにやってきた観光客が少年の母親に向かって「あなたはアイヌですか」「日本語上手ですね」とか言ってしまうような社会なのですが、彼はそれが嫌で学校を卒業したらどこか外に出たくてしようがないんですよね。それは仕方ないなあと思うんです。父の喪失が余計にそうさせているのですが、ある日父の友人が小熊を捕まえてこっそり飼育しているのを知り、彼もかわいがるのですが、それはイヨマンテを復活するための準備でした。

 私は生まれが北海道ですので、とくにアイヌコタンと縁があるわけではないのですが、そういえばクラスにいたあの子はアイヌだったのかもなあなんて思い出せる人が何人かいますし、地名の多くがアイヌ語に由来しますし、テレビではアイヌ語辞典の編纂の様子や、初めて国会に行った萱野さんのことがたびたび取り上げられていました。つまりけっこう身近で、とくに差別的に見るような人も近くにはいませんでした。でもそういう体験をしている人は全国的には特殊で、沖縄の先住民と違って、ふつうに生活しているというイメージに乏しいのかもしれませんね。アメリカ先住民のように、国立公園のなかの展示物のように思っている人もいるかもしれません。

 実際には東北地方や関東地方にもアイヌはいたと言われており、岩手県の沼宮内はおそらくアイヌの言葉が語源ですし、千葉県の野田という地名もそうらしいです。そういう歴史もあるのに、あるいはかつてこの国が植民地にした千島や樺太にも別種のアイヌがいたり、それ以外の少数民族もいたとされているのですが、いまでは「アイヌ=北海道」ですね。これもある種の「多様性は認める、身内以外は。」なのかもしれません。

 思いっきり脱線しましたが、『アイヌモシㇼ』の、父親の影を追ったり命への葛藤を見せたりしながら大人になっていく主人公の少年が、とてもいい顔つきをしていました。彼をはじめとしたアイヌ中心のキャストがいい味わいの芝居で見せてくれました。

伝統的なるもの(2)

 他地域に目を向けると、私は関西地方のことがほとんど分からないので、大阪の奥河内というなかなかの山間地帯があることを初めて知ったのですが、『鬼ガール!!』は鬼の末裔が人間社会に溶け込んで暮らしているという奇抜な設定でした。鬼そのものが社会のなかでの異なもの=マイノリティのメタファーなのかもしれませんし、主人公の成長譚として分かりやすいプロットでしたが、劇中劇として連鎖劇を取り入れるという構造が作品を大いに盛り上げていました。なおここでしか取り上げる場面がなさそうなので脱線しますが、2020年映画シーンにおける桜田ひよりのインパクトの強さは、出演作品数以上のものがあったと思います。本作ではブリブリなモデルを、『妖怪人間ベラ』では猟奇的行為に及ぶ高校生を、『映像研には手を出すな!』では穴倉的生活の音響部員をそれぞれ演じていましたが、いずれも主演よりも気になる存在でした。今後も意外性のある役どころに期待しております。

 近代史以降との関連となりますが、『実りゆく』は長野県のりんご農家の倅が、家業を継ぐか目指していたお笑いの道に進むかを選択する物語、だと思うのですが。いちど土壇場で継ぐことを断った主人公は周囲から総すかんで、いろいろあって心を入れ替え、すっかり継ぐ方向で整ったかに見えたところで、かつての相方が現れる。そこで言い争っているかに見えて実は即興の漫才になるというクライマックスです。その件はさすがプロの漫才師、話の転がし方がうまいなあと思うのですが、前述の総すかんだった連中がその芸を見て突然心を入れ替えちゃって、今度は彼らが芸の道に進むことを許容してしまうんですよね。この人たち、本人の芸も見てなかったのか。見てなくてもいいけど、そんなに簡単に気が変わってしまうような覚悟で継ぐだの継がないだのと言ってたのか。ちょっと謎の結末でした。地元での練り歩きの光景はすごいですね。

『夏、至るころ』は福岡県田川市が舞台。松本隆の「木綿のハンカチーフ」の故郷のイメージが田川のようですね。炭鉱閉山で都会への人口流出が起こったころを歌っているので「東へと向かう列車」なのだとか。そんな歴史も今は昔です。2020年は筒美京平が亡くなった年でもありました。さきほど津野米咲のことを書きましたが、彼女が担当するラジオ番組の生前最後の放送回で最後に取り上げたのが筒美京平でした。すっかり脱線しましたが、本作は炭鉱の煙突に都市伝説を絡ませて(あの煙突は「炭坑節」に出てくるものだそうですね)、爽やかな青春ものだったと思います。和太鼓が物語によく映えていました。

 厳密には2019年公開でしたが、『ハルカの陶』は脱サラして備前焼に没頭する女性の物語でした。奈緒の迷える人の芝居がとてもよかったのですが、笹野高史演じる人間国宝の老人が、夜の公園で酒瓶を抱えて飲みながら主人公を励まします。そのとき老人は、持っていた備前焼の湯呑を放り投げるんですよね。土の地面にごろんと落ちて、でも壊れていない。その頑丈さが備前焼だと、老人は教えてくれたわけです。コロナ禍で、ふいにあのシーンを思い出すことがあります。この困難を生き抜くとは、あの放り投げられた湯呑の精神だなあと。そう思うとなぜだか救われる思いがするのです。

 さきほどから広島が舞台の作品を取り上げていますが、ほかにも『光をとめる』『犬ころたちの唄』が街のいまを切り取っていましたし、この年は広島の街並みをよく観たなあと思います。

東京、ウォーターフロント

 普遍的なものとして東京と地方の対比について書きますと、『朝が来る』は東京のウォーターフロントのタワーマンション(原作では武蔵小杉のようですが映像上は脚色がなされていたように思います)に住む夫婦が長く続いた不妊治療に力尽きてのち、特別養子縁組で子を授かります。その子の実母は中学生の時分に意図せぬ妊娠をしていたわけですが、彼女が出産するまで過ごしたのは瀬戸内海に浮かぶ島にある施設でした。その海の対比。このふたつの海がそれぞれの人生の断絶を示してるように見えて、すべての海はつながっているように、邂逅と融和も示される。主人公のひかりが事の後に受ける疎外は観ていて実に辛く、それだけにラストの受容に大きな安堵がありました。『つぐみ』(1990)における銀座から築地を経て見せる海と、つぐみの住む伊豆の海の対比にも似ていたように思います。

 そのウォーターフロントのタワーマンションは東京五輪に向けて急速に建設され、投機対象にもなっていました。『ジオラマボーイ・パノラマガール』の主人公もその一角に住み、建設中のマンションに忍び込むシーンも印象的でした。世代的に(というかそもそも私は漫画を読まないのですが)岡崎京子をよく知らないのですが、同じ原作の『リバーズ・エッジ』(2018)は1990年代の風景をかなり再現していた一方で、本作はオリンピックのロゴも登場し、2019年の物語になっています。それはまだ空き地があった90年代の東京ではありません。それでいてオザケンを口ずさんだり、都会の象徴としてパルコが登場したりする不思議さがありますが、あまり難しいことを考えずに瀬田なつき節全開の映像を楽しむべきなんだと思います。『あとのまつり』(2009)でも舞台となった湾岸のその後の風景としても楽しむことができます。

そのほかの地方映画

 ほか印象的な作品として、『実優ちゃんは群馬から来る』は半分ほどドキュメンタリーのような作品でしたが、実際に前橋の自宅から通って俳優活動をしている手島実優の特集上映に合わせて制作されていました。まさしく第一辺境の際と中を行き来している彼女ですが、背中に負っているもののことはまったく知りませんでした。ただただ天真爛漫なキャラクターという印象的でしたので、そんな背景を知りつつ、自分でハンドルを握って夜遅くに帰宅する様子を見て、大人の女性の立派さを思いました。

 場所は特定されていなかったように思いますが、群馬や栃木がロケ地だった『踊ってミタ』は、ボカロだったり「踊ってみた」だったりのカルチャーを素材にした町おこしムービーでした。飯塚作品ではおなじみのコンビを楽しみつつ、しかし素材のそれらにはもうひとつのれなかったのですが(個人的な問題かもしれません)、加藤小夏のインパクトがとにかく忘れられません。氷よりも冷たい視線があんなに脳髄に刺激的な演者がいままであったでしょうか。自分の潜在的な何かを呼び覚まされそうになりました。

 また東京国際映画祭からは、外国人研修生が主人公の『海辺の彼女たち』がありました。冒頭、どこの都会から逃げ出したのか分かりませんが、フェリーに乗ってたどり着いたのは青森の漁港(なのでフェリーというがちょっと考察しにくいのですが)。それまでどんな境遇だったのかは計り知れませんが、パスポートを失って不法就労者になった彼女たちの様子を、今後一般公開されて多くの人が目にするとよいなと思います(都内では公開が決まったようです)。人間として正当な接し方をしないことで闇に落ちてしまう。誰も幸福にならない。作品としては、ラストがもうひとつピンとこなかったのは編集によるものでしょうか。上映後にビデオメッセージを披露した主演3人が、劇中とはまったく違うとてもきれいな方だったのには驚きました。

キム・ジヨンたちの社会(1)

 2020年も韓国映画が充実していたと思いますが、なかでも象徴的だったのが『はちどり』と『82年生まれ、キム・ジヨン』の2作で、対で語られることが多いと思うのですが、個人的には『子猫をお願い』(2001)と併せて三部作っぽく捉えるのがいいのではと思っております。90年代半ばに中学生だった『はちどり』の主人公ウニ、2000年前後に高校を卒業して就職していた『子猫をお願い』の主人公テヒ、そしてキム・ジヨン。ほぼ同世代とみなしてよいのではないでしょうか。ちなみに『子猫をお願い』でペ・ドゥナ演じるテヒとともにラストに旅に出る親友の名前がジヨンでした。

『はちどり』に表される兄への過信と妹への冷遇っぷりって、私自身が兄妹の4人家族だったこと、私が1980年生まれでだいたい同じ世代なので想像できるのですが、すごくリアルですよね。程度の差こそあれ、あの辺は日本も韓国も大差ないなと。あれって、両親としてはけっこう平等に子どもたちを見ているつもりなんですよね。ただ、役割はあるだろうと思っていて、でもそれがヒエラルキーっぽいとは思っていない。そんななかで出会う漢詩の先生がどうやら活動家らしく、彼女が生き方の指針を見せてくれる。あの橋の崩落を眺める彼らはそれぞれ何を思ったのか。あの先生との別れを意味したとは思うけれど、阪神淡路大震災のように終末観もあったのではないかと、少し考えていたりします。

 あのあと韓国では金融危機があってIMFが介入してきて産業構造がかなり変化するので、『子猫をお願い』の仲間たちは就職自体がままならない状況でした。『82年生まれ、キム・ジヨン』は主人公が大学卒なのでもっと状況が改善されていたと思うのですが、就職できればうまくいくわけではありません。職場ではいつまでもいるわけじゃない人として扱われるし、子どもを連れて外に出れば邪魔者にされてしまう。夫の優しさのイノセントさは『はちどり』の両親と通底するものがありますし、夫の親兄弟問題は、問題なく関係することがむしろ宝くじみたいな気がしてしまいます。私は男性ですが、正月のシーンは観ていて肩が凝りました。

 本作はコン・ユとチョン・ユミがみたび共演することで話題になりましたが、チョン・ユミのフィルモグラフィを見るまでホン・サンス『ソニはご機嫌ななめ』(2013)のソニ役だったことにまったく気付きませんでした。あれを見るとチキンで焼酎をあおりたくなります。ウニがやがて大学生になってソニみたいになっていたらいいなと、ちょっと思ったりします。

キム・ジヨンたちの社会(2)

 こうして韓国映画を通じて女性にフォーカスした作品をレビューしてきましたが、社会を俯瞰して、それに対して声を上げる端緒としての韓国映画の豊かさを感じつつ、では日本にはそういった作品がないのだろうかと思うわけですね。結論としては、いろいろあるのですが、作品規模の問題なのか日本映画としていきなり髄を見ることの抵抗感なのか、あまり話題になっていないのが不思議です。

 その筆頭として挙げたいのが、これは厳密には新作でないのかもしれませんが、『王国(あるいはその家について)』(2019)でした。滅多に劇場でかからないので観る機会を逃していたのですが、配信で鑑賞して、その独特さに衝撃を受けました。ひたすら同じシーンの本読みを反復しながら、本当に徐々に物語が見えてくる構成です。そのことにはじめは観ていて混乱するのですが、やがて物語の深さとスリリングさが伝わってくるつくりでした。

 タイトルの「王国」(英語表記では”domain”)というのは、主人公とその親友(どちらも女性)が子どものころに家財で作ったままごとの囲いのようなものなのですが、主人公にはそれが生きるうえでのアイデンティティになっている。その後、大学も出て働いていたけれど、心に支障をきたして帰郷してきたところから物語が動き出します。帰郷してきたけれど、親友はまったく別の人生を歩んでいて家族もいる。生きることの位相がずれている状態で、かつての盟友といえども鑑賞されたくない部分も多分にできています。それが主人公には”domain”の喪失と感じられるのですね。

 2時間半近い長編でありながらも強い反復でできている作品ですので、(半ば劇中劇ともいうべき)シーン数はかなり少ないです。それだけに、どのシーンで誰が何を思って話しているのかということを、登場人物の数だけ切り口をもって確かめる作業でもあります。主人公には、あの王国からいままでの間に何があったのか。それはあまり多く語られないのですが、なのに手に取るように分かる気がするんです。普通に生きようとしていただけなんだと思うのですね。それって上記の韓国の作品群とまったく同種のものだろうと。想像でここまで表現を飛翔させた事のすごさを思いつつ、物語の重さを噛みしめました。

キム・ジヨンたちの社会(3)

『王国-』は登場人物の世代がおそらく30代という設定だと思います。もう少し若い世代の物語だと、『サンキューフォーカミング』でしょうか。主人公は、本心でどう思っていたかはともかく、親の敷いてくれたレールの上で安全に生きているタイプだったのですが、職場でのセクハラがひどく、それが父親に発覚して、父親が強引に退職させます。もちろん退職によってセクハラはなくなったのでよいのですが、父親の介入によって、本人の意思でどうにかするという機会は失われます。それを本人としても口惜しく感じているんですよね。ただここは難しいところで、もしかすると本人は、職場環境に我慢することを選択してしまうのかもしれません。やがて学生時代の先輩と恋仲になり身籠るのですが、実は彼には家族がありました。彼は主人公に子を堕ろすよう告げます。

 最後に堕ろすのか、産むことを選ぶのかどうか。『海辺の彼女たち』の主人公は非情な決断によって堕ろすしかなく、観ていてもとても悲痛なのですが、一方で『スワロウ』(2021)のように自分の力で生きていく、解放としての決断もあります。なので、どちらを選択しても善悪を語れるものではないと思いますし、本作の主人公もまた、きっと初めて人生の岐路で自らの意思を表明したことにこそ、物語のよき結末があったように思います。途中、主人公の実家が家庭崩壊のようになってしまうのですが、あれには『man-hole』(2001)の本田博太郎を思い出します。本人にも家族にとっても、再生なんですよね。

 ほかにも、『VIDEOPHOBIA』は強烈でした。あんなふうに隠し撮りしてばらまいてしまうことが、きっと本当にあるのでしょうね。人間が人間の形を残したまま、人間でなくするようなきつさがあります。冒頭の家族のシーンがちょっとコミカルなだけに、その先で起こること、そして終盤の大きな変化と、ものすごいドライブの作品でした。一方、『Daughters』のような作品をシスターフッド映画というのでしょうか。映像も相まって、格好いいですよね。仕事もちゃんとやって、バキッと遊んで。すべての選択肢が彼女たちとの掌にあるようにも見えるのですが、予期せぬ妊娠が発覚します。相手のことは分かっていても、それでも生き様を崩さずにやっていく、強さというより軽やかさがありました。

 シスターフッド映画ということでは『レディ・トゥ・レディ』もそうでしょうか。ルール違反と言われても、本人たちの情熱を所詮テレビ番組のコマとしか思われなくても、こんな社交ダンスがあるのかと周囲の目を変えていくふたりに、私も目頭が熱くなりました。また、『甘いお酒でうがい』は『美人が婚活してみたら』と姉妹作として観たい作品でした。40代女子(ここは敢えて女子と書きましょう)、自宅アパートの和室に布団を敷いて寝る侘しさがあっても、好きな若い男子との恋仲がどうであっても、堂々としていればいいじゃないかと。またひとり、大九監督によって素敵な女性像が出来上がりました。

『甘いお酒でうがい』はシソンヌじろうが原作者でしたが、『架空OL日記』はバカリズムの原作と主演でした。テレビドラマは未見でしたが、終始笑って鑑賞しました。ある男の妄想話でありつつも、当たり前ですが80年代や90年代のOLの話とは、たとえば『会社物語 MEMORIES OF YOU』(1988)や『ココニイルコト』(2001)とはまったく違いますし、どちらかというと植田まさしの漫画に出てくるサラリーマンが女性になった感じですよね。やっぱり軽やかでいいと思うんです。

キム・ジヨンたちの社会(4)

 こうして振り返ってみると、公開規模の大きな商業作品(というか、一般的に商業映画と呼ばれている作品ですね)は、大きなくくりで同じテーマを扱っていても、明るいですね。そういうものなのか。必ずしもそうしなければいけないわけではないと思うのですが、この辺がプロデューサーの調整範囲なのでしょうか。後ろめたくなるラストにしたくない心理が働く可能性もあるんじゃないかと。穿った見方でしたらすみません。

 ということでふたたび自主制作に戻るのですが、『愛のくだらない』はテレビマンの彼女と芸人の彼氏の妊娠をめぐる物語でしたが、生き方や働き方、あるいは彼女が出会うトランスジェンダーの人とテレビ業界の実態など、ものすごく入り組んだ内容を95分にまとめあげた脚本が見事でした。『マイライフ、ママライフ』の主人公は子どもを作る気持ちはないのだけれど、夫が欲しいと言い始めます。その折、仕事で出会った女性は子育てをしながら働いていた。そのふたりの生き方が交わりあい、それぞれに人生を進めていく様子が暖かい作品でした。また『水深ゼロメートルから』は『アルプススタンドのはしの方』と同じく高校演劇が原作で、とくに高校生たち自身の出演による映画化でしたが、コロナ禍で上演できなくなり急遽映画化に踏み切ったようですね。こちらもまた女性であることの生きづらさを、こと高校生たちが大人になっていくにつれて見えてきてしまっている、彼女たちから見える現実がまざまざと描かれていました。

 最後に、ジェンダーのことについては女性だけのことではないですし、日本映画界では商業作品においても同性の関係性については(内容への意見は多々あるのかもしれませんが)多く描かれてきました。2020年にも『his』や『窮鼠はチーズの夢を見る』といった作品があったことも記憶しておきたいと思います。とくに『his』については、都会を舞台にして描かれがちなところ、いわゆる田舎で生きる物語になっていることが特徴的でした。案の定というか、ふたりの関係性が明るみになると白い目で見てくる人びともいるのですが、真剣に生き方を訴えたときに受容してくれる人もいて、やがて周囲に溶け込んでいく様子に感動しました。受容が叶うのであれば、むしろ小さなコミュニティのほうが、マイノリティが生きやすいのではないかと感じられました。

 上述のように、女性についての作品としては韓国の作品が注目されたわけですが、韓国で同性の物語はあまり見ないように思います。と、『詩人の恋』(2017)(私の鑑賞は2021年)を観ていて思いました。この辺にはかなり文化差がありそうです。

静かに人生の獲得を

 2019年のレビューでは生き方について、「自分の物語の獲得」「素直に生きること」「誰かの側に立つこと」とキーワードを挙げました。ごく当たり前のことを書いたに過ぎないので仰々しく書くのもお恥ずかしいのですが、そういったことを考える作品が多く、今後の指針になると思ったのでした。2020年においてもその進路はとくに変わりなかったと思いますし、それこそ大仰にすることなく、それらについて静かに深く考える作品がたくさんあったと思います。

 自分の物語と言えば『37セカンズ』がまさに出色だったのではないでしょうか。自らも脳性麻痺で障害を持つ佳山明が主演し、おそらく本人のキャラクターなのだと思いますが、とても素直そうな様子や口ぶりから、むしろ葛藤や苦悩が強く伝わってくるいい演技でした。母親のことは好きだけど、母親(神野三鈴がまた素晴らしいのですが)のもとでしか生きられない苦悩から強引に脱出し、そこから彼女の世界が広がっていきます。途中で出会う幾人かの人びとの助けでタイにまで行って、人生の空隙を埋めていく。まさに自分の物語を獲得しています。帯同する男性は長期休みが取れたのだろうかといらぬ心配が付きまといましたが、全体としてとても爽やかな解放の映画だったと思います。

 自分の物語は、もちろん若い頃に獲得できるのに越したことはないと思います。高校生ぐらいの、これから社会人になるという過程で得られるならばなんと素敵なことかと。しかし、こと近現代の東アジアでは、たとえば文化大革命だったりベトナム戦争だったり民主化闘争だったりで、まともに青春を謳歌できなかった人はとても多く、その頃の若者を主人公にした作品もたくさんあります。その点、日本は1945年以降(まったくなかったとは言いませんが)さしたる革命や国家的騒乱がなく今日に至っています。そんなこの国でさえ、自分の物語を獲得するなんてことは、きっと稀なことだったに違いありません。

『おらおらでひとりいぐも』の主人公・桃子さんは、東北の農村で、一時は既定路線のように嫁入りするかに思いきや、脱走して勢いで上京します。上京して就職して仲間ができて、それだけでも彼女の世界がぐっと広がったと思うのですが、この人と決めた相手と結婚して子どもができて、子らが巣立つと夫が死去。そのてんてこまいを経てひとりになったとき、太古の世界に思いを馳せたり、自身の生い立ちを思い起こしたりして、ようやく誰のためでもない、自分のための人生になります。桃子さんみたいな人のことを未亡人といったり、独居老人として淋しそうな人として見ますよね。でも、桃子さんにしか見えない世界があって、果たすルーティンがあって、けっこう充実している。自分の物語である以上に、物語の主導権を握っているという意味で、それを人生の獲得と呼ぶにふさわしいんじゃないかなと思います。

数奇な半生だったとしても

 あるいは『本気のしるし ≪劇場版≫』は、とくに前半においては、偶然出会ってしまった浮世さんに翻弄され人生を維持できなくなっていく男性の転落が描かれるわけですが、ふたりの関係が途絶えたあと、浮世さんはひとりアパートの一室で暮らしながら訪問営業の職に就きます。そこからはほぼ浮世さんのパートになりますが、それまでは生活力が皆無の人なのかと思われた浮世さんが、ふつうに生活しています。以前に友人が語っていた自動車教習所でふつうに訓練していたころのエピソードがフェイクのように思えたけれど、それこそが浮世さんの本来の姿だったわけですよね。そのふつうを阻むものが出てきて、ひとつひとつが微妙に狂って、おかしくなっていった。誰しもが、何らかの悪意でその転落を味わう可能性を持っているのでしょう。彼女が訪問営業をしている理由がクレイジーではありますが、その行為を通じて自身の人生をふたたび獲得していっている。土村芳が見事にハマっていてすごい作品でした。

 ほか、『燕 Yan』は自分の物語を台湾に求めに行く物語でした。そもそもが父親から押し付けられた用事でもあり、初めて訪れた高雄での主人公の嫌悪にも似た混乱が印象に残っています。『花と雨』は外国で過ごした少年期には東洋人だからと虐められた主人公が、日本にやって来ると今度はカルチャーの違和感でハブられて、やがてラッパーとして物語を獲得していく、実在の人物の自伝的作品でした。あるいは、そもそも物語を持てというけれど、それほどの人生かと訴えてくるのが『タイトル、拒絶』でした。でも、風俗嬢「にすら」なれなかった主人公だけでなく、あの場所にいたすべての登場人物に、やっぱり彼女たちなりの物語はありますし、もしくはいつでも物語を持ちうるんだと、逆説的にも作品が見せてくれていると思います。

『約束のネバーランド』もこれらの系統でしたが、浜辺美波がどうしても他の子らと同年代に見えない愛嬌ある作品でした。興行成績がよくて続編ができれば、その辺の違和感も薄らぐのでしょうか。その頃には施設の子どもたちの演技ももう少しパッとしてくれればよいのですが。

 本作の舞台である孤児院の「ママ」も、かつては主人公たちのように解放を求めて施設を脱出したわけですが、諦念(この場合、すべてがあきらかになるという意味)によって、優秀なママであることに野心を燃やすようになり、主人公たちを肥育することになります。本作ではもちろん冒険譚を紡ぐ子どもたちが人道的にも圧倒的に正しいわけですが、ママにもママの人生の選択はありました。

『人数の町』はどちらかというそちら側の物語でした。『ロブスター』(2015)を彷彿とさせる世界観でしたが、社会から忽然と消えてしまった人たちが、強い制約のなかで、ある意味では自由を獲得しています。それは「人数」という、物語を放棄したことと引き換えに得られる自由なんですよね。まるで肥育ですよ。きっと主人公はひとりでいる限り反発しなかったのでしょうけど、そこに迷い込んでしまった女性とともに逃亡する。その果てに彼が選んだ生きる道というのが、どうにも爽やかでない。そのざらつきを味わう作品ですし、とてもチャレンジングで面白かったです。こんな突拍子もない世界をすっと観客に理解させる中村倫也という役者の重要さについては、『水曜日が消えた』でも同様だったと思います。

 外国作品では『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』が印象的でした。施設の老人たちの優しさも、主人公を本気でぶちのめしにくる元レスラーも、どちらも彼への愛情がありましたよね。

思い出を拾ったり捨てたり

 さて、他者を思う作品も振り返りたいと思います。やはり2020年といえば『佐々木、イン、マイマイン』でした。冒頭、主人公は喪服を着ています。あとで分かるのですが、それは佐々木の葬儀のためです。高校時代になぜかずっと一緒にいた仲間たちが、あれから大人になってそれぞれの生き方をしながらも、佐々木を思う。そんな物語です。かつて一緒にいた佐々木も、いまにして思えば貧乏で、親はどこに行ったか分からなかったうえに死んじゃったし、それでいて勝手に笑われ役になって、ダサくて、でも誰かの背中を押して見せたりする。彼はほぼ寅さんだと思うのです。山田洋次は寅さんを2019年に思い出にしてしまいましたが、彼は今でも心に生きている寅さんです。

 そんな佐々木の名前を耳にし、久しぶりに会って驚くべき生き様を知り、あるいは死後に明らかになる淡い恋路を思う。あいつとあいつが結婚してたり、主人公は主人公で分かれたはずの彼女と『さよならも出来ない』(2017)のような関係が続いていたり。そこに、戯曲の「ロング・グッドバイ」の台詞が重なっていきます。編集の妙もあり、誰かのことを思いつつも、残された人の生がフォーカスされる演出になっていたと思います。この辺は同じ内山監督の『ヴァニタス』『青い、森』にも通底しています。そうか、佐々木を演じて本作の企画も担当した細川岳は『ガンバレとかうるせぇ』(2019)のサッカー部の青年だったのか。憑依したようなものすごい演技でした。ラストの裸踊りが最高のクライマックスでした。

 作品の舞台は、テレビがブラウン管なので00年代ではないかと思うのですが、佐々木が好きな曲だというのが西岡恭三の「プカプカ」だったり、エンドロールでは佐々木が歌う中島みゆきの「化粧」が流れたり、それらが彼のもつ生きづらさに呼応する言語となっていることも注目点だと思います。

 外国作品では『ハッピー・オールド・イヤー』には本当にグッときました。ヨーロッパからタイに帰国した女性が、暮らしていた北欧の影響とごちゃごちゃした地元の反動でミニマリストを志すのですが、母親には猛烈に反対され、本人も借りっぱなしだったものをひとつずつ返却しつつも、一切を捨て去ることに躊躇もあり…。田舎がいやで上京して、何かをきっかけにやむなく帰郷してみたものの地元のヤダみが許せない、といった作品はたくさんありますが、それと同じ構図と作品です。ただ、多くの場合は自分自身を見つめ直して田舎と和解していくのですが、本作のすごいところは、悩みながらも意思を実行していくところなんですよね。

 とはいえ、前述のように借りたものを返していくなかで、仲違いしていた友人と対峙せざるを得なくなりますし、元カレとも遭遇しますし、元カレの今カノとも向き合わなくてはいけなくなる。けっこうハードに過去の清算をしながら、自身の「何者でもなさ」が露呈して、見えない鎧が剥がれていきます。極め付きは家に鎮座しているピアノ。そこから思い出される父の記憶と、手放したくない母親の強い思い。それでも手放す。

 それらの行為を、もしかしたら初めはクールにやり遂げるつもりだったのかもしれませんが、最終的には鉄の意志だったと思うのです。ただ、血も涙もないということではなくて、後ろ髪をひかれながらも強い気持ちでやり遂げている。変えないといけない。それは自分自身のためだけではなくて、社会を変えていくために、為さなければいけないことがあったということなのだと思います。ひとつひとつの思い出を記憶として、物を持っていたころよりいっそう誰かのことを思いながら、未来を見つめる。いや、でも母親はそれらの行為に最後まで納得しているとはとても思えないし、結末にざらつきがあります。そのもやもやを私たちが受容してこその作品だったと言えます。

誰かと向き合い、問題と向き合う

 もともとオーソドックスなテーマなので関連作品は多いのですが、誰かを思うことの巨匠とも言ってよさそうな今泉力哉監督作品のなかでも、『mellow』はその特徴がとてもよく出ていて好きな作品でした。名優・白鳥玉季を堪能しました。Wikipediaによると特技はバランスボールだそうです。あるいは『魚座どうし』では、学校は違うけどそれぞれの境遇を抱えた少年少女の邂逅にちょっとだけ希望があったように思います。全体に漂う「やだみ」は山中監督の手腕だと感じますし、調べるとあらゆる作品で主人公の子供時代を演じてきた根本真陽がさすがの演技で応えています。映画祭出品作からは『(Instrumental)』は、子どもの頃に助けてあげられなかった友人をきっかけに新聞記者になった主人公の物語でしたが、学生の制作とは思えぬリアリティ溢れるディテールが素晴らしい作品でした。

 同じく映画祭からですが、『次は何に生まれましょうか』の主人公は、周囲と同じようにできない子どもを育てるシングルマザーですが、ただでさえ育児で苦労しているのに、実家の母親が冷たい反応を示しいよいよ窮地に陥ります。そのとき友人がするハッとする言葉に心をつかまれます。あるいは『アルム』では、はっきりとそうとは描かれませんが、大学生の女性と交流を深めていく清掃係の青年が、ひょっとすると「周囲と同じようにできない」タイプだったのかもしれません。でも、彼にはすごい才能があって、主人公に”arme”というメッセージを残します。フランス語で武器とか武装とかいうんですよね。前述の『愛のくだらない』とともに、これら3作品はいずれも野本監督作品でした。

 外国作品から1本、『淪落の人』を取り上げたいと思います。多くの香港作品のなかでも郊外の団地のような風景が描かれているのが新鮮な作品ですが、障害を持つ香港人の男性が外国人労働者の家政婦を雇います。男性の気難しい性格で苦労しつつも、解雇されると強制的に帰国させられてしまうので彼女も必死です。やがてお互いを理解できるようになっても、周囲は依然、彼女を下女として蔑みます。近しいバディムービーはいくつかあるように思いますが、身近な国の、しかもブルーカラーの物語ですので、近未来に日本で訪れるであろう光景を見るようでした。

 前述の『海辺の彼女たち』のような悲劇を起こしている場合ではありません。『コンプリシティ/優しい共犯』の主人公は蕎麦屋で束の間の安らぎを得ますが、元はといえば劣悪な労働を強いられていました。問題は労働だけではありません。『君がいる、いた、そんな時。』で示されるような子どもたちの間での偏見もあります。その窮地を助ける司書の先生と、図書館に入り浸る周囲から浮いている少年。それぞれに問題を抱えながらも、つながりに救われていく様子は感動的でした。あの少年、エンドロールで女の子だと分かったときは衝撃でした。また映画祭からは『ムイト・プラゼール』は課外活動で訪れたブラジル人学校で日本の高校生たちが知る彼らの現実と、交流を甘く見ていた彼らが短い時間でぐっと成長している様子を描いた、とてもストレートな表現の作品でした。

90年代を戊辰戦争から振り返る

 昨年のレビューまでずっと、1990年代という時代について追いかけていました。もう論考を終結させたつもりなので、いまから新たにどうこうするつもりはないのですが、どんな時代だったのかつかみかねていた90年代をある程度認識できるようになったことで、過去からそこまでの連関と、そこから現在までの連関を捉えられるようになったように感じています。これまでも「90年代は社会そのものが、認識として70年代の延長だという錯覚をしていた」(昨年のレビューより)と考えていましたが、さらに認識のレンジが広がってきた感覚です。まずは「90年代以前」についてです。

 おそらくこれが遺作だという覚悟があったであろう大林宣彦『海辺の映画館―キネマの玉手箱』で監督が論じたのは戦争史でした。彼の主張が特徴的なのは、その論述の最初が戊辰戦争にあることでした。彼が批判した戦争は第二次世界大戦だけではなく、日清日露にもとどまらない。つまり近代そのものが戦争とともにあった、近代史=戦争史だったという主張なのだと思います。戦争を点として、大きく見たとしても10年か20年ぐらいのスパンで捉えたときに、どうして戦争するに至ったかということを考えてしまいますが、何であれ、そもそも戦争する理由が発生すること自体が、彼にとってはナンセンスだったのだろうと理解しています。

 近年、古い映像のデジタルアーカイブと修復技術が進んだために、映像も音声も鮮明な状態で歴史を捉えることが身近になってきました。公開からちょうど40年だった『二百三高地』(1980)は日露戦争を題材にした作品でしたが、旅順要塞を攻める陸軍の塹壕戦は、この時代特有の残酷さなのだと思います。塹壕戦といえば、第一次世界大戦におけるヨーロッパの戦地を再現した『1917 命をかけた伝令』はダイナミックでありつつ目を覆いたくなるようなシーンも多かったのですが、あの作品のベースになった映像をデジタライズしてカラー化したドキュメンタリー『彼らは生きていた』と併せて観ると、当たり前ですが、こんな現実が本当に存在したんだと衝撃を受けます。また、当時の兵士たちの証言が盛り込まれていますが、わりと楽観的なコメントから、最後には戦争に対して否定的なコメントへと変化していき、彼らにしても見たことのない惨劇だったことが想像できます。

 暮れにキム・ギヨンのDVDBOXが発売になったこともあり、『玄海灘は知っている』(1961)のデジタル復元も観ることができました。主人公がなぜ冒頭から日本軍に目をつけられていたのかよく分かりませんでしたが、執拗ないじめに遭う様子は、彼を肯定的に見る日本人の様子も並行して描かれており、あまり誇張したものではないのだろうなと感じました。どなたも言うようにラストは凄かったです。また新作ではエメリッヒ『ミッドウェイ』はハリウッド制作でありながら、戦争初期に米軍がかなり手こずったことを時間をかけて表現していました。

 小林正樹『東京裁判』(1983)は正確には2019年にはデジタルリマスター版が公開されていたはずですが、私は2020年にようやく鑑賞できました。そんなことも知らなかったのかと言われそうなことですが、そもそも戦争犯罪とは何で、なぜ裁判が成立するのか、なぜ講和条約とは別に裁判が必要なのかということが、こうやってドキュメンタリーとして示されることでようやく分かるんですよね。それこそ第一次世界大戦も夥しい戦禍であったが裁判は行われていないと思うのですが、それだけ第二次世界大戦が民間人を巻き込んでいて、とくにのちに第三世界と呼ばれる地域に犠牲が多かった。フィリピンからやってきた判事が日本に敵対心を隠さない様子が、やってきたことを物語ってるよなと感じました。

 裁判の終結後、講和条約まではまだ年月を要します。伊藤俊也の新作『日本独立』は、その間に日本国憲法を作成していく様子を、吉田茂や白洲次郎を中心に描かれます。東京裁判も連合国によるいまだかつてない取り組みではありましたが、憲法の作成にいたっては、専門家がほとんどいないなかで手探りで組み立てていった様子が窺えました。画期的なものとはそのように作られるものなのかもしれません。

70年代へ

 昨年のレビューで『天気の子』(2019)について、主人公が新宿駅の線路上をひた走るシーンが新宿騒乱から半世紀経ったことへのオマージュではないかという趣旨のことを書いたのですが(違うのでしょうけど)、ざっくり言って戦後復興からの経済成長の絶頂期が1970年代初頭でした。それが安田講堂の陥落を経て70年安保闘争が一般社会の関心から削がれていった時期とシンクロしているわけですが、その1970年に開催された討論会を収めたのが『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』でした。

 いま勤め先の60代の先輩社員から、お前はこういうの好きだろうと関連本を貸していただいていて、これを書き終えたら読もうと思うのですが、学生時代にちょこっとだけマル経に触れたぐらいでは、あの世界で論じられていることをまるで理解できない。賛成とか反対とかではなくて、何を議論しているのか把握できないんですよね。まず、解放区というものが分からなかったんです。私が観た劇場は当時を知る人よりむしろ私より若い人が多かったのですが、たぶん議論自体はみんな口ポカンだったんじゃないかなと。でも、三島の振る舞いがすごかったのだけはみんな分かる。三島は殺される覚悟で乗り込んだと言っていて、怖かったのかもなあとは思うけれど、お互いにとってお互いは本当の敵ではなかったんですよね。本当の敵は、いまでも同じ場所で生きている。

 折りしもベトナム戦争の真っただなか。あの討論から2年後に横浜で勃発したのが『戦車闘争』でした。作品を通じてこの闘争を初めて知ったのですが、ベトナムで損傷を受けて戦車を日本に持ってきて修理して、またベトナムに送り返す。戦車とか戦闘機とか、手荒く使うんだから故障するだろうけど、そういうときはどうしているんだろうといつも疑問に思っていたのですが、当時の米軍はわざわざ日本まで運んでたんですね。たしか『桃太郎 海の神兵』(1945)では南方の島で急増した飛行場で戦闘機の修理をするシーンがあった気がするのですが(すみませんファクトチェックできてないです)、兵器再利用のスケールがまるで違います。そしてそうやって、日本が実はベトナム戦争の当事者になっていたわけですよね。

 闘争にはたくさんの人が参加しましたが、舞台となった橋の前には団体さんが陣を張っている。作品の公式サイトには当時のテントの分布図が掲載されているのですが、労組のテント、大学や高校のテント、さまざまなセクト、べ平連、社会党に共産党がモザイク状になっている。面白いのは、地元の商店の人たちが当時を思い出して、社会党と共産党が仲が悪い話とか、社会党は戦闘的だったけど共産党は違った話とかをするんですよね。ここからは完全に私論ですが、社会党のほうが実力行使ありきで、共産党は理論的展開を重んじてたのかなと。で、民社党がいない。やっぱり闘争が産業構造に依存するんだろうなと。社会の変化で産業構造が変容したとき(変容する側にしようとするとき)、旧態産業依存していないほうが指示されやすいのはそりゃそうで、この辺は今日の政治に思いっきり反映されています。

 その後、石油危機の手前までが戦後復興の経済のピークで、闘争で得るものがなくてもちゃんと豊かになってしまうので、国鉄の民営化みたいなことが力づくで押し切れてしまうようになったのだと思います。『ネクタイを締めた百姓一揆』で国労と動労が文句を言いながらも同じ場所でスト闘争を展開しても、道行く人には関心がない。あるいは『無頼』で銀行に糞尿を撒いて暴れても周囲の白い目で見られるだけで、みんなネクタイを締めて社会を歩かないといけなくなるんですよね。ヤクザ映画の考察については来年に持ち越したいと思うのですが、いずれも昭和史を見事に綴った大作だと思います。

80年代から90年代へ

 国鉄民営化から数年後の1990年代前半、PKO法案が成立し、やがてカンボジアでの活動が展開されます。「NHKスペシャル ある文民警察官の死~カンボジアPKO 23年目の告白~」(2016)では、自衛隊派遣だと思われていたPKOに実は警察官が派遣されていて、文民のため自衛隊法が適用されず、丸腰で勤務していて銃撃にあったことが伝えられました。その出来事との関連は語られないものの、どう見てもカンボジアでの悲惨な体験が劇中のテロルに至ったであろう作品が『サイレント・トーキョー』でした。PKO法案当時、あれだけ法案の成立に反対していた社会党が、そこからわずか2年後に自民党と連立政権を発足させてしまうことに、個人的にものすごい不思議さがあったのですが、ここ数年の90年代論考を経て、避けがたくなってきた産業構造の変容に対して、旧時代の労使が結託して国体を維持しようとした運動だったのではないかと思うようになりました。本作は、セットで再現した渋谷駅前が実に見事でしたし、爆弾を前に浮かれていた若者がことごとく吹き飛ぶ描写、そのスローモーションだけでも十分に見応えがありました。それ以外のことには目を瞑ります。

 時代が前後しますが、1980年代のグリコ・森永事件をモデルにした『罪の声』は、活動家が主犯格の株価操作説を取って事件を追った物語でした。未解決事件がモデルですので推測でフィクションにした部分が多いのだろうと思いますが、それでも非常に緻密に再現を試みた原作があり、海外ロケや時代考証もしっかりしてその世界観が映像化されていました。タイトルにあるように、脅迫テープに使われた子どもの声があり、意味も分からず事件に加担してしまった彼らの苦悩を軸にした、素晴らしいヒューマンドラマでした。

 戦後復興が終了し、石油危機の渦中に開始された主要国首脳会議(サミット)のオリジナルメンバーとして構成され、この国は豊かな国として位置づけられ、国内でも一億総中流と言われました。しかし、その豊かさから取り残された人もいて、そういう人のことが上述の作品に登場しています。『糸』のヒロインの実家もそうでした。いまは中流がどこにあるのか、中流って富裕層なんじゃないかとさえ思う社会になりましたが、その源流がこれら作品のなかに表されているということなのかもしれません。この国では昔からずっと格差社会だったということを、社会が認知し始めているのではないでしょうか。

90年代とふたつの震災

 以上のような歴史の上に、90年代があるということですね。2020年の作品では、『ラストレター』は岩井俊二なりの90年代回顧だったのではと思います。あれだけ絶妙すぎる配役で描かれる淡い物語は、何か夢を見ているようでした。ラストで広瀬すず演じるヒロインが卒業式の練習で答辞を読むのですが、あれは未来の自分たちに向けたものですよね。未来とは、「いま」です。人生の流転もそうですが、舞台となった宮城は大きな津波に見舞われますし、さらに、これは偶然でしかありませんが、世界的パンデミックを目前に控えた「いま」なんです。そのことを思って聴く答辞が胸に迫ってきます。

 もう1作、『さくら』を取り上げたいと思います。この作品は90年代の話だと明示されているわけではないのですが、主人公の兄妹が1980年生まれと1984年生まれで(作品は三兄弟ですが)、我が家と一緒なんです。矢崎監督はこの作品を自身の映画史が詰まっているとコメントしていますが、私自身とのシンクロもものすごかった。やがて失踪する父親にしても、明らかに自分の家族と違うタイプの彼女を連れてくる長兄も、家を飛び出した次男も、何をするでもない奔放な末っ子も、家族のよくある風景なんだけど、それぞれが難破船に乗っているような感じもある。そうなんだけど、やっぱりつながっていて、劇中だと母親が同じ位置を保ち続けている。当事者感が強すぎてうまく書けないのですが、この家族自体がどこか90年代っぽいなと思って感動しました。ちなみに劇場で近くにいた若い女性たちが口ポカン状態でしたので、かなり観る人を選ぶ作品だったのだとは思います。

『サクリファイス』は東日本大震災後の設定ですが、劇中の宗教団体はオウム真理教がベースになっているのかなと感じました。この国ではどうしても宗教を胡散臭いものと捉えがちで、それゆえに社会における役割が希薄になってしまうのかもしれないのですが、本当は救いであったり、似た境遇の人たちが結束したりする大切なものだと思うのです。あるいは『星の子』は、主人公自身にとっては誇りだった宗教団体が、思春期になり他者が見えるようになって、突然嫌になってしまうんですよね。でもやっぱり家族は大事で仲間も大事。そんな主人公をとても柔らかく包む大森監督の演出が印象的でした。

 ほか、『羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来』の演出の長らく忘れていたような90年代っぽいギャグテイストや、90年代末からの記憶とともに旅をする『魔女見習いをさがして』を観るにつけ、あの頃を原体験にもつ表現者がいま最前線にいるんだろうなと感じます。あるいは海外では、アトランタ五輪の爆破事件を扱った『リチャード・ジュエル』、非常に抑圧された環境で自由を求めた女性たちの『パピチャ 未来へのランウェイ』が、いずれも90年代の宗教原理主義による脅威を映し出していることも記録しておきたいと思います。

00年代へ

 さて、「90年代以降」です。5年ぐらい前には90年代後半の日本映画の興収復活期に映画を志した人びとが第一線に出てきたように感じていましたが、いましがた書いたように、いまは90年代を原体験にもつ人びとが映画界を牽引するようになっていると思います。そして『君が世界のはじまり』を観たときに、いよいよ00年代映画が始まった気がしました。

 劇中の高校生たちは、郊外で鬱屈していたりもやもやしていたり、何となく地元志向があったり東京に行きたがったり。そんな様子がまるで私が若かったころによく似ているので、ふくだ監督は同世代なのかなと思っていたのですが、なんとひと回り近く下の世代だったんですよね。たしかに、スマホで音楽を聴いてますので、90年代ではない。

 しかも、そのデバイスで聴くのがブルーハーツです。以前から聞いていたというよりは、鬱屈した気持ちをザッピングして発見した曲に乗っている感じ。私が中学生のころ(90年代半ば)、1学年先輩の女子が「あなたたちにはこの世界観が分からないでしょ」と言って上から目線で紹介してきたのがブルーハーツで、たしかに当時の私にはよく分からなかった。というより、私にとっては少し上の世代の音楽という認識で、真剣に聴こうとしなかったんですよね。そのブルーハーツを、スマホを持った高校生たちが聴いている。そればかりでなく、登場人物たちの共通言語になっていて、エンドロールでは主演の松本穂香が「人にやさしく」を歌っている。いま売れている音楽じゃダメだったのだろうか。

 きっとダメなんですよね。2020年の高校生のことは分かりませんが、この作品においては。昨年書いたレビューで90年代は「変化した価値を受容することを試される時代だったことに、あまりにも無自覚」だったと書いたのですが、90年代はみんなが聴いている共通の音楽がたくさんありました。好き嫌いはともかく。でも、その後は世代世代の共通財産みたいなものがどんどんなくなって、つまり多様化していく。それ自体は否定するものではないのですが、彼らをつなぎとめるものが同世代のものではなく、もっと上の世代のものを介して遠いところで手を握っている感じがあるのではないでしょうか。その感覚が00年代っぽい気がしたのです。

 ブルーハーツでいうと、映画祭出品の『レイディオ』もそうでした。偶然にもコロナ禍に、ラジオを通じて交流する男女の物語がレトロフューチャーなのかなと思います。さらには(これは00年代ではないですが)『私をくいとめて』ですと、大瀧詠一の「君は天然色」が主人公のテーマソングでした。自分を自分にしてくれる音楽が、いまの時代に生まれない。こんな音楽の使われ方は、まだまだ続くのではないかと思います。

そして現在へ

 では00年代的な音楽は何だったのか、と考えたときに、ラップではなかろうかと思うのですね。共通言語というわけではないのですが、勃興したという歴史がいくつかの作品になっていました。『花と雨』のSEEDA、『追い風』のDEG、『その男、東京につき』の般若と、それぞれ別々の活動だったようですが、彼らの活動がいまの音楽シーンの礎になっているということなのだと思いました。この辺は門外漢なものであまり詳細は書かないでおきます。

 ここでもういちど『戦車闘争』の話をしますが、実際の闘争の様子はわりと作品の前半に集中していて、後半は何やら違う話をし始めます。これはいったい何だろうと思って観るわけですが、ごく最近の話として三沢基地からシリアに向けて米軍の戦闘機が飛んでいるという内容に驚愕しました。そんなに長距離を飛行できることも驚きですが、米軍と言えば沖縄だと思っていたので、実は戦争の最前線が内地にあるということにも、口をあんぐり開けてしまいました。この2021年にもこの国の内部に戦争が存在している。大林の近代史=戦争史は完全に継続中だということです。

 この数十年の歴史は、東アジアのなかでは日本だけが特殊な位相を持っています。本来、90年代はもっとたいへんな時代で、その直前の89年に中国で天安門事件があって、韓国はまだ軍事政権の最中、台湾も2018年まで徴兵制がありましたし、90年代末には香港が中国に返還されています。本当は激動の時代でした。

 それでいま、またたいへんな事態になっています。香港のいまを捉えた『香港画』では、日本のテレビでは見たことのないような過酷な様子を見ることになりました。あの放水が水じゃないというのは衝撃でした。そして雨傘運動から現在までを描いた『散った後』というフィクションがすでに作られていることに、現地の人びとの強さも怒りも反映されていると思います。かつては『THE CROSSING~香港と大陸をまたぐ少女~』のようにドキドキの裏商売のバイトができた土地なのに。もっとも、あの時代にも格差問題があったりするわけですが、この作品に関しては都会を闊歩する主人公と彼女の冒険譚が素晴らしく、東京を切り取った『ジオラマボーイ・パノラマガール』と比較して観るのも面白そうです。

 また『私たちの青春、台湾』を観て、恥ずかしながら台湾もまた揺れていたのだということに気付かされました。大陸の影響がかなり出ているらしいとは聞いていたものの、大陸側に対してのアンチが強くて分断が発生していたのは衝撃でした。コロナ禍を乗り切った彼らが、政治を切り離して隣人を受け入れられているといいのですが。

ムダの進化について

 話は思い切り替わりますが、コロナ禍で悶々としていた頃、いやギスギスしていたといったほうがよいかもしれませんが、ふと見つけたプレスリリースに釘付けになりました。ひとつの場所に複数種が共存しているということは、ある種が他方を絶滅させたり排斥していないということですが、弱肉強食の世界でどうしてそうできるのか。それを解明したというのです。

 要約を読み解いた限りではこういうことです。あるふたつの種類がライバルだったとして、一方Aが増殖していくと、Aが本来為すべき成長や増殖や競争のためのエネルギーが、あろうことかモテるための努力に費やされてしまう。例えば求愛ダンスのようなものを極めていく方向に走ってしまうんだそうです(ムダの進化=種内適応荷重)。そうすると、繁殖が後退するのでAは減っていく。で、逆に減ってしまうと無駄へのエネルギー消費をやめて繁殖するようになって、再び増殖すると。

 ムダこそ共存に必要というのは慧眼ではないでしょうか。モテようと努力すればするほど繁殖から遠ざかるというのもかわいいです。みんな違ってみんないいとも言いますが、何が正しいかなんて人それぞれなのだから、たとえ効率が悪い道のりでも、一生懸命生きていればなんとかなる。いやいやモテようと努力しないとダメじゃんという話かもしれませんが、なんだか生きる希望が湧く気がしませんか。

 繁殖についてはともかく、その人なりに一生懸命生きることは普遍的なことですので、ことさら声高に言うことでもないのだと思います。ただ、やはりコロナ禍でそのことを考えるのは、いつもとは感じ方が違います。

 ほうぼうから批判されていた『キャッツ』ですが、私は好きで、感動して観ていました。これもいわばモテようと努力する話だと思いますし、不遇な暮らしをする彼らが身を寄せ合って生きている様子が、団結ガンバロー的でグッとくるんです。裸ではないかという造形への指摘も、子どもの頃に見た劇団四季もあんな感じではなかっただろうかと勝手に反芻しておりました。

がんばれの映画たち

『アルプススタンドのはしの方』も、一生懸命な人を一生懸命に応援することの素晴らしさがあり、グッとくるラストがきちんとその素晴らしさへのアンサーになっているのがいいですよね。DVDで観た同じ城定監督の『雨が降るまで』(2018)も、奇想天外な物語でしたが、一途さというか一生懸命さというか、通底するものを感じる作品でした。

『前田建設ファンタジー営業部』も、最初はテンションだけ高い上司についていけない部員たちがやがて熱中していく様子がとてもよかったですし、ラストの展開は、なにか現実世界の深刻な問題を暗示しているような気もしました。『根矢涼香、映画監督になる。』の初期衝動を思い起こし奮起する主人公にも、『もしや不愉快な少女』の少年少女たちにもグッときました。

 歴史的ヒットになった『鬼滅の刃 無限列車編』も、不幸な生い立ちと宿命から鬼退治をしている面々ではあったのでしょうが、妹と乗客たちを身を賭して救おうとする様子に夢中になります。テレビを見ていなくてもなんとなく設定が分かりましたし、背景画像の美しさには驚きました。大正時代風の設定だそうですが、前後の戦争などと何か関係があるのか、ちょっと思索が足りておりません。

 ほか、主人公の才能やチームワーク、戦略や駆け引きの面白さを堪能できる『弱虫ペダル』は三木庫一郎監督のあたり作品でした。また父子家庭の年月を静かに温かに見つめた『ステップ』は成長していくたびに交替する子役たちの名演合戦も見どころでしたし、渋谷が地元の仲間たちが大人になっていく様子を意外にもまっすぐ捉えた『とんかつDJアゲ太郎』、ボクシング映画に数多ある感動作のなかでも、サクセスストーリーではない泥臭くて単純でない生き様を見せる『アンダードッグ』も、この切り口における素晴らしい作品だったと思います。『アンダードッグ』で主演した森山未來は『オルジャスの白い馬』ではカザフスタンの民として西部劇をやっているのも印象的でした。またボクシングでいうと『初恋』の男女もここに入れてよいのかもしれません。いろんな意味で三池節でした。ユニディでの格闘は『ジョン・ウィック:パラベラム』(2019)の前に見たかった気もします。

『泣き虫しょったんの奇跡』(2018)もそうでしたが、『AWAKE』も主人公が将棋の奨励会に所属していて、そこでの熾烈な争いに勝ち残れずプロ棋士になることを断念します。それで数年遅れで大学に入って、同志となる先輩に運命的に出会ってAI将棋を開発するのですが、いざ奨励会時代のライバルと対戦する直前に、プログラムの欠陥が世間に知れ渡ります。プロ棋士たるかつてのライバルが欠陥を見なかったことにして真っ向勝負に挑むのがドラマの王道だとしても、人間が機械に負けるわけにもいかないし、でも万が一のことも考えて、悪く言えば捨て駒になってもいい棋士として送り出されてもいる。結局のところ、どんなに精巧なAIを開発したとて、人間の胸を借りているうちが華だったりする。越えてはいけない境界線という景色を見ることが到達点だったんだ、という苦みがこの作品の味わいとなっています。事実、のちに別の機種がプロ棋士に勝ってしまうと電王戦は終了してしまいます。でも、戦っているのは機械でも、れっきとした人間賛歌でしたよね。

集団のありようとは

 2020年はドキュメンタリー作品が豊作だったと思うのですが、なかでもとりわけ面白かったのが『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』でした。あらかじめ書きますと、私は48グループとか坂道とかをほとんどよく知りません。それこそドキュメンタリー映画を見て少し理解するぐらいで、あとは前述のように出演作を観て、ひとりの演者として認識できるようになる程度です。アイドルに興味がないわけではないのです。ハマると危ないのでハマらないように気を付けているというのはちょっと当てはまります。

 本作、久しぶりに高橋栄樹作品を観たように思うのですが、これは令和時代の『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』(2012)だったのではないでしょうか。新結成したグループが、平手友梨奈という稀に見る天才を包含してしまったがために、彼女を最前に配すること以外にバランスが成立せず、周囲が圧倒されてしまう。それゆえに、本来は誰もがセンターを目指すところを、平手友梨奈のバックにいることにこそ価値を見出すような、いわば共依存関係に突入していったように見えました。しかし平手自身は繊細さとプレッシャーで崩壊してしまいます。その始まりと栄華と崩壊と再生の日々。平手なき状況でようやく自らの手で舵取りし始めるメンバーたちは、それまでもあらゆるイレギュラーを乗り越えて強くなっていたとはいえ、その歴史からくる難破船を操舵しきれず、運営側は、改名というある種の歴史の閉じ方を選択したんだと思います。その残酷さとドラマチックさを、ある異能を中心に見つめることで描き出す名作でした。

 平手友梨奈を見ていて、これは『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)だなと思いました。フレディ・マーキュリーそっくりです。コンサートをしばらく休演していた彼女が部分的な復帰を果たした大阪公演は、まるでライブエイドでした。彼女にしか分からない苦しみと、分からないにしても戦友であり続けるメンバーの苦しみがあり、いずれにしても前半は涙ぐまずにはいられませんでした。

 一方、ひながなけやき改め日向坂46を捉えた『3年目のデビュー』は、作品こそドキュメンタリーとしては凡作に過ぎないのですが、欅坂46と比較して見た日向坂46を面白く感じながら鑑賞しました。まるで知らないながらも、このグループがどうして急激に支持されているのか、なんとなく分かる気がしました。長濱ねるが一瞬で欅坂本体に吸収され、ただでさえ彼女の添え物のように思われていたメンバーが漂流してしまう。他グループがおそらく採用しているであろう、主要メンバー中心というフォーメーションを取れないがゆえの集団指導体制は、結果として全員が等しい位置関係のままスター街道を歩くことを彼女たちに選択させます。

 それって経営的にはアメーバと言われるような、全員が当事者という状態なのだと思うのですけれど、どのアイドルもそこが理想と思いつつ、それでは誰もスターになれないリスクもあるし、関係性の機微も乗り越えないといけないので、現実にはプロレス的な競争関係を演出することでパワーバランス(もしくは目を逸らす何か)を作りにいくケースが多いのでしょう。その危ういバランスがいまこのグループでは成立していて、だからこそ面白いのだと思いました。彼女たちを見ていて感じたのは、「青空の11人」のあの雰囲気なんですよね。非常に不安定な均衡なので、未来にわたって維持できるのかは分からないだけに、この先の物語を見てみたくなります。

 以上のことが分かった、というよりそう解釈したのですが、グループが生存のために取った選択と運営の方向性が合致しているのかはよく分かりませんでした。作中、多忙でコンサートの準備ができないとしばしば語られるのは、おそらく他グループでもそういうことはあるのでしょうけど、それが物語になるというのはおかしな話です。運営が過度な業務を強いているに過ぎません。

 そんなこともあって、持ち歌が少ないにもかかわらず武道館を観客で埋め尽くしてしまうのが、彼女たちのどのような努力によるものなのか。作品はグループの宣伝であっても、サクセスストーリーが予定調和のように描かれているのは、実際それが否めない向きがあると思いますが、だとすれば彼女たちの苦悩は無意味ということにもなるので、描いているようで何も描いていないのではないか。ナレーションも多すぎる。作品単体としての評価はおおよそそのようなものでした。

時制について

 テーマ別に書くのはこれが最後になると思いますが、ノーランの『TENET』が異形の作品だったことと、そして時制について取り上げます。私は『インターステラー』がとにかく好きで、閉館直前の新宿ミラノ座の巨大スクリーンで観たのがいい思い出なのですが、コロナ禍の劇場休館明けにIMAXでも観られたのもたいへん貴重な体験でした。『インターステラー』も『TENET』も、未来の世界でもう地球に住めなくなってきたときに人類はどうするのかという話であることは共通しています。前者の地球では為す術がなくて、いわば人類がサバイヴを諦めてくれるために主人公を宇宙に飛ばすのですが、行った先で奇跡的に収集したブラックホールの重力データによって残された民はほかの星への移住に成功します。

 後者は、地球が同じ状況になったときの、いわばもうひとつのシナリオです。前者では主人公がブラックホール内で「彼ら」が作り上げた高次元の世界を体験しますが、そこで解明したのは重力でした。他方、後者は時間のコントロールに成功した世界です。劇中で反物質の話を聞く日が来るとは思わなかったのですが、地球の限界からターンして、原始時代に向かって人類は生存を再開します。で、どうしてあんな戦闘があって、誰がどうしたかったのか、そのからくりにはもうひとつ合点のいかない部分もありますが、順行と逆行が入り乱れるわけの分からない映像は圧巻です。ノーラン、お前さんやってくれましたね、というのが鑑賞直後の感想でした。

 さて、日本の作品でも時間についての作品に良作がいくつかあったことに注目したいと思います。とくにSKIPシティにノミネートされた『コントラ』はまさに順行と逆行が併存しており、衝撃の演出でした。たぶんノーランの演出もこういうことだったんでしょうね。かつて戦地で従軍していた祖父が死に、孫が見つけたメモには祖父が山に何かを隠したことが記されている。そのとき、後ろ向きに走る痩せ細った男が現れる。彼が何なのかは最後まで語られないのですが、過去に向かって進行する戦争の忘れ形見のような何かなのでしょう。先の戦争を見つめた作品として斬新な切り口でありつつ、今日とあの時代を結びつけて物語化できており、たいへん重厚であったと思います。

 ほか、『ドロステのはてで僕ら』は序盤ではちょっとしたネタっぽい作りなのかなと思っていたのですが、話がどんどんすごいことになっていき、最終的にまったく新しいタイムトラベルに夢中になってしまいました。モニターを抱えながらマンションを上へ下へと動き回るのはいったいどうやって撮影したのかと感心します。朝倉あきが素敵な作品でもありました。また『サヨナラまでの30分』はカセットテープが織りなす不思議な物語でしたが、よみがえりものの面白いアイデアだったと思いますし、憑依型の芝居を北村匠海が見事にやり切っていました。あるいは『ドンテンタウン』ではアパートの一室にかつて住んでいた人物との時間を超えた交友が描かれますが、歌を思い出した主人公が歌う、菅原慎一の楽曲が印象的で、ちょっと不思議な作品でした。

外国映画レビュー

 ここまで外国映画をあまり取り上げてこなかったので、印象的だった作品をできる限り紹介したいと思います。

 韓国映画は2020年も重質な娯楽作品が多かったと思います。『エクストリーム・ジョブ』は大いに笑いました。劇中のマ刑事が変なところに才能を開花させるクレイジーでズレた人物でしたが、私の友人に似てるんです。その友人がスクリーンで暴れていると想像して、終幕後もしばらくニヤニヤしてました。あるいは『悪人伝』はマ・ドンソクが強すぎますよね。不敵な笑みが怖すぎて逆に笑えました。

 一方で『マルモイ ことばあつめ』では日本統治下で秘密裏に母国語を保存した人びとが、『スウィング・キッズ』では朝鮮戦争時の南北双方が隣接した収容所の捕虜たちが、『君の誕生日』ではセウォル号事故で息子を亡くした両親が、複雑な社会背景を示しながら懸命に生きていました。朝鮮語が史上稀に見る復活した母語にあたるというテロップにハッとさせられました。また、セウォル号のような最近の出来事が題材になるのは素直にすごいと思いました。

 中国では『在りし日の歌』が一人っ子政策を前面に出した内容でしたが、さすがの中国映画、大河ドラマ調が見事にハマります。ただ、これは中国の激動の現代史ゆえなので讃えていいのか何とも言えないところですが。あるいは『鵞鳥湖の夜』はディアオ・イーナンがふたたびグイ・ルンメイを起用したサスペンスでしたが、夜店が並ぶ広場でのあの独特な集団ダンスがものすごいインパクトでした。あのカルチャーはいかにもな中国っぽさですね。

 さて、2020年に印象的だった役者と言えばフローレンス・ビューだったように思います。『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』では、これは私が原作を知らないせいなんだと思いますが、彼女演じるエイミーは三女だと思ったんですよね。ベスに比べて圧倒的に健康そうだったからでしょう。ちなみに末っ子と間違えたエリザ・スカンレンをその後見ることになるのが『ベイビーティース』(2021)だったのですが、鑑賞後にサイトでキャストプロフィールを見るまで気付かず、びっくりして思わず声が出ました。どちらも病気の役だったのにあんなに違うものかと。

 ピューの話に戻しますと、『ミッドサマー』はたしかに怖い映画だと思いますが、なんと言いますか、ほとんどのよそ者が無残に殺されること以外はほのぼのとしてますよね。ひどいことが起こりすぎて彼らに取り込まれた結果ハッピーエンドに見える。似た感じでいくと『バクラウ 地図から消された村』は、挑発しちゃいけない人たちを窮地に追い込んだ結果、皆殺しなされてなんだかスッキリします。謎の飛行物体があったり、よく分からない部分もあるけれど、強すぎる村人がすべてをねじ伏せてます。『ミッドサマー』がお花畑系田舎ホラーで、『バクラウ-』は逆田舎ホラーとでも呼べばいいでしょうか。

『デッド・ドント・ダイ』のシュールさはやりすぎな気もしましたが、ゾンビが生前に囚われていたものの名前を呼び続けるというのは面白かったですね。それがスマホだと切ないですが、テニスだともっとほかになかったのかとゾンビに突っ込みたくなります。『コロンバス』はある短い期間に出会う男女と建築が見事に溶け合っている、ちょっと見たことのないタイプの作品でした。ヘイリー・ルー・リチャードソンの雰囲気がとてもいいのですが、彼女はゴゴナダ監督の新作にも出演しているようですね。しかもA24で。ロイ・アンダーソンの新作『ホモ・サピエンスの涙』はあまりに散文的でとっつきにくかったのですが、切り取った風景が、切ないものであったとしても、ことコロナ禍で観るとあらゆるものが「かつて存在していたもの」で愛おしくなります。

 ドキュメンタリーでは『馬三家からの手紙』によって中国の収容所での拷問と強制労働が明らかにされますが、そのきっかけがアメリカで購入されたハロウィングッズで、そこに救難の手紙が隠されていたのですね。なるほど、どこで生産されているか分からない謎グッズには、あんなふうに収容所の政治犯たちによるものがあって、それらは日本にも流通しているのかもしれません。最終的に主人公が消されてしまうという悲痛な内容でした。『わたしは金正男を殺してない』では、あの暗殺事件で騙されて殺人者になってしまったふたりのその後を初めて知りました。出身国の外交が絡んで話が複雑になっていたのですね。そしてオウム真理教も使用したVXガスの特性もよく分かりました。驚愕の犯罪計画ですよあれは。

 驚愕と言えば『誰がハマーショルドを殺したか』は唖然とするような話の展開が観られました。あの説が本当ならば、イギリスが企てた世界最大級の犯罪計画だと言えます。立証できないでしょうけど、ちょっと異常さがすごすぎて頭が混乱します。またドキュメンタリーではないですが『レ・ミゼラブル』が映し出すパリの現在は、共生でなく分断を志向してしまうことの罪深さを露わにしています。どうやって撮影したのかと思うような町中を巻き込んだ騒動も見応えがありました。

2020年ベストテン

『パラサイト 半地下の家族』
『レ・ミゼラブル』
『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』
『燃ゆる女の肖像』
『ジョジョ・ラビット』
『はちどり』
『82年生まれ、キム・ジヨン』
『TENET』
『君が世界のはじまり』
『佐々木、イン、マイマイン』

 これまで取り上げなかった作品では、『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』はドラン作品のなかではとりわけロマンティックな作品だったのではと思います。ドランは力強い作品を数多く作っていますが、いかんせん家族内の罵倒シーンが多く、主人公の苦悩と母親の苦悩がプロレスみたいになってしまうのですが、本作は御伽噺にも似て、またドノヴァン(レオナルド・ディカプリオがモデルになっているそうですが)の苦悩をより映し出すことができている感じがしています。冒頭からのカメラワークの格好よさも素晴らしいです。

 また『燃ゆる女の肖像』は、この年の、いわゆるウェルメイドな作品という意味ではナンバーワンだったのではと思います。描かれるはずの少女を知るほどに描けなくなる。でも描かなければすぐに別れが訪れるし、また誰かが描きに来る。あらかじめ決められた運命に彼女たちがどう対峙したのか。そのことが鮮明に語られるあのラストシーンがあまりに見事でした。

 ワイティティ監督というと『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』(2014)をヘンテコな作品だなと思った程度だったのですが、ナチス時代のドイツで抵抗した人びとの悲痛な運命を描きながらも、軍国少年のボーイ・ミーツ・ガールを優しく見つめる視点が素敵な作品でした。ラスト、連合軍が勝利してようやく解放されたふたりが緩やかに身体を揺らすカットがたまらなく感動的です。ビートルズなど戦後の音楽を多用したポップな演出は奇抜ですが、主人公のイノセントさを理解する一助だったように思います。母親役のスカーレット・ヨハンソンがとてもよかったですね。

外国映画ベストテン

『パラサイト 半地下の家族』
『レ・ミゼラブル』
『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』
『燃ゆる女の肖像』
『ジョジョ・ラビット』
『はちどり』
『82年生まれ、キム・ジヨン』
『TENET』
『ハッピー・オールド・イヤー』
『THE CROSSING~香港と大陸をまたぐ少女~』

日本映画ベスト20

『君が世界のはじまり』
『佐々木、イン、マイマイン』
『ラストレター』
『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』
『スパイの妻<劇場版>』
『アンダードッグ』
『私をくいとめて』
『罪の声』
『影裏』
『すずしい木陰』

『もち』
『のぼる小寺さん』
『宇宙でいちばんあかるい屋根』
『ネクタイを締めた百姓一揆』
『一度死んでみた』
『劇場』
『朝が来る』
『本気のしるし ≪劇場版≫』
『空に聞く』
『さくら』

『スパイの妻<劇場版>』はNHKの壮大なセットのなかで演者の素晴らしい芝居が観られました。蒼井優の終盤の大立ち回りは日本映画史に残る名演でしたし、東出昌大のもつ不気味さは『散歩する侵略者』(2017)もそうでしたが、黒沢監督の世界で本当に活きますよね。黒沢監督というとどうしてもホラーの印象があるのですが、劇中に出現する七三一部隊によるものと思われる人体実験の映像にその系譜が濃縮還元されているようでもありました。高橋一生と蒼井優では『ロマンスドール』もありましたが、ストレートでないながらも可憐な恋愛が心に残りました。男子たちのコミカルさもよかったですね。

 あらためて『私をくいとめて』についてですが、恋愛しなきゃいけないとか結婚しなきゃいけないとか、しないなら仕事に生きなきゃいけないとか、そういうところから飛躍して気ままに生きる主人公が、たぶんその生き方を肯定するよすがとしてAがいるんですよね。Aの存在はともかく、なかなかいい生き方だと思います。でも取引先の男子とお付き合いするようになって、混乱を経て彼とうまくやっていくことを選ぶのが、結局はそっちの生き方に傾くのかと思わないでもないのですが、いやいやそうなるのも自由だよなと。終盤に明らかになるAの姿が「ちょうどいい」というのもなんだか共感できます。かつて私が電車で居合わせた女子学生たちが姿のいい男子のことを「観賞用」と呼んでいたことを思い出します。

 さらに本作でいうと、『あまちゃん』(2013)のアキとユイがこの世界の蘇ったようで、とくにのんがたどってきた道のりを思うと、本来はもっと早く再来してもおかしくなかったはずの取り合わせが、こうやって大人のビターなやり取りで実現したことに目頭が熱くなりました。主人公の名前「みつ子」ってときおり他作品でも主人公の名前になりますが、なにか由来があるのでしょうか。のん出演作では『星屑の町』でのキャスティングも『あまちゃん』のイメージからだったのでしょう。大きな座組でないテレビ以外の作品であれば、比較的制約を受けなくなってきているのでしょうか。

『すずしい木陰』は衝撃的な作品でした。柳英里紗がハンモックで寝て、ちょっと動いて、こっちを見たり違うところを見たり、たまに立ち上がったりするだけ。もちろん台詞はないし、ほかの出演者もいません。いや、樹や虫や遠くの建物や煙が登場人物なのでしょう。昼過ぎに始まって、夕方に町内放送で音楽が流れる。その間の蝉時雨は、爆音で迫ってきて、あるときにすっと失せる。そんな音声のテクニックが作品の強弱をつけていますし、日の陰りでやがて柳英里紗に後光がさしてくると神聖な感じさえしてきます。誰かが同じようにとっても同じようにはならないでしょうし、唯一無二の奇跡がありました。

 古厩監督の新作『のぼる小寺さん』は、映画の世界では新人の工藤遥が本当に猿のように振舞いますが、彼女もまた生きたい道をまっすぐ見据えて生きています。プロクライマーという夢について、それで食っていけるはずはないと周囲は見ているわけですが、拍子抜けするほどあっさりとやってみると宣言する姿が羨ましくさえあります。校舎をよじ登るシーンは2020年ベストシーンかもしれません。現実の伊藤健太郎は小寺さんから多くを学んでほしいと本気で思います。

 藤井道人監督作品は『オー!ファーザー』(2014)以来ほとんどの商業作品を見ていると思いますが、『宇宙でいちばんあかるい屋根』はまさかのファンタジーでした。桃井かおりのあんなコミカルなおばあさん役は見たことがないように思いますが、でもすごく似合いますよね。清原果耶のキュートさをいつまでも見ていたい作品でした。この作品も伊藤健太郎なのか。

『一度死んでみた』はいろんな作品のことを思い出す内容でした。家の中の分断は『さよならも出来ない』(2017)、葬儀の様子は『エンドローラーズ』(2015)(『水曜日が消えた』の吉野監督作品)、あのいい加減な役員会は『釣りバカ日誌』シリーズ(1988-2019)でしょうか。製薬会社の事故ものでいうと『パコダテ人』(2002)も思い出しますし、ストロンチウムといえば『打ち上げ花火、上から見るか横から見るか』(1993)です。非常によくできた松竹の大衆娯楽といった印象です。そのなかでぶっ飛ぶ広瀬すずが本当に素晴らしいです。

スペシャル・メンション LDHと映画シーンについて

 映画館通いをするようになってかれこれ十数年が経ち、ここ数年に鑑賞した作品はnoteに公開しています。公開していることについては、せっかくあれだけの本数を観たのだから自慢してもよいのでは、という気持ちもないではないのですが、どちらかというと、何を観たうえで物申しているのかということを表示する必要があるだろうと思っているのですね。逆に言えば、見ていないものもありますという表示でもあります。たとえばキネマ旬報のベストテンに投票する評論家はたくさんいて、個人の投票結果も誌面で公開されているわけですが、選外になった作品を観ているのか観ていないのかは明らかにされません。それは仕方ないのでしょうが、腑に落ちているわけでもありません。そうであるならば、まず私が観た作品を公開したうえで何かを書こうと思った次第です。

 繰り返しになりますが、観なかった作品、観たことのないシリーズはたくさんあります。スターウォーズを知りません。マーベルやDCをほとんど知りません。ゴッドファーザーを知りません。ウエスタンもスパゲッティ・ウエスタンもほとんど知りません。エヴァンゲリオンもテレビシリーズを含めていちども観たことがありません。寅さんを全作制覇できていません。黒澤明も観ていない作品がたくさんあります。いつか観たいとは思っています。いまさらですが、そういう人間がこれを書いています。

 その意味ではHiGH&LOWシリーズを観たことがないことも打ち明けておこうと思うのですが、それでも漠然と、LDH所属タレントたちの日本映画への貢献度を感じつつあります。これまでも『たたら侍』(2017)が山陰で撮り続けている錦織監督を起用し全編35mmフィルム撮影してモントリオールほかで評価されたり、『パーフェクトワールド 君といる奇跡』で車椅子生活の青年の恋愛を描いて障害者理解の啓蒙活動に一役買ったりしており、映画を通じて社会活動をしているのではないかという感触はありました。

 2020年公開でLDHとして製作した作品(あくまで私が鑑賞したなかで)は『空に住む』だけのようですが、これも数年ぶりに青山真治が新作を出すこと自体に映画界への貢献度が高いと思います。あるいはまさかの三池崇史作品だった『ひみつ×戦士 ファントミラージュ! ~映画になってちょーだいします~』は、朝の劇場で辱めを受けるかのように観たのですが、(KADOKAWA配給なのに)東映京都撮影所を舞台に時代劇や映画に馴染みのない子どもたちへのハウツーになっていたのには感心しました。また、『私がモテてどうすんだ』はともすればルッキズム礼賛になりかねない内容なのですが、変貌前の姿も愛らしく描かれ、ダブルキャストのヒロインが一緒に踊っているラストシーンには感動すら覚えました。『10万分の1』ではALSを発症するヒロインが描かれ、やはりこういった作品で難病への理解を深めることの意義はあるだろうと感じました。

 メインキャストだっただけとはいえ、『フード・ラック!食運』といった斬新な作品、前述の『無頼』といった現代史を綴った重要な作品への出演も印象的でした。

スペシャル・メンション 日本映画

 最後にまた作品名だけでもできるだけ挙げていきたいのですが、『一度も撃ってません』の往年の怪優たちの名演合戦にはニヤニヤしてしまいましたし、『嘘八百 京町ロワイヤル』は久しぶりに出現したプログラム・ピクチュアっぽさが楽しかったですね。前作もそうでしたが、贋作とはいえ焼き物ってあんなDIYでいいんだという意外さがあります。あわよくば森川葵の活躍がもっと見たかった気もします。『Red』は次年度のレビューにつながることだと思いますが、すごい家の息子の嫁になるのはやめようという示唆がありました。

 三木孝浩作品が2作ありましたが、やはり『きみの瞳が問いかけている』のような若い大人の恋愛劇がうまい監督だと思いました。高校生の青春映画の印象が強いのですが、『陽だまりの彼女』(2013)、『くちびるに歌を』(2015)のような年代の作品をこれからも作っていただきたいものです。高校生が主人公の『思い、思われ、ふり、ふられ』はラストを見て『アオハライド』(2014)と一緒じゃないかと思いましたが、福本莉子の出世作として見るものはあったと思います。『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)がクラシック作品のように出てくることに隔世の感があります。

『青くて痛くて脆い』はセカイ系を拒絶したような物語が、ある意味では解釈に歴史的な転換を見たような気がしています。全体的に『何者』(2016)に通底する物語でもあるし、なりたい自分になるというキーワードから『加藤くんからのメッセージ』(2012)をも想起するものがあります。組織は大きくならないと何も実現できないという善行とビジネスのディレンマを青春ものに持ち込むドライさがすごかったです。

 兼重淳作品も2作ありましたが、いつもながら、どんなテーマでもどっしり構えてじっくり撮るスタイルが素晴らしいと思います。『461個のおべんとう』をちゃんと弁当を中心に据えて映画化できたのはまさに兼重マジックです。『水上のフライト』は本当はパラリンピックにあてて公開したかったのではと思いますが、ある人物が再生というより人間的に始動していく物語としてたいへん爽快な作品でした。中条あやみのベストアクトではないでしょうか。

 ほか、『眉村ちあきのすべて(仮)』の驚くべき展開には唖然としましたし、『眠る虫』は何でもない余白をこそ映画にしている心地よさが新感覚でした。金子監督は、かの金子修介監督の娘さんなんですね。『もぐら』『空はどこにある』の山浦未陽監督の描く女性感や家族感の鋭さにはハッとしました。間違いなく今後大活躍する監督です。『蒲田前奏曲』『わたしは元気』で新たなミューズを迎え、渡辺紘文監督が新シーズンに突入したことも記しておきたいと思います。前述のとおりドキュメンタリーが豊作でしたが、『なぜ君は総理大臣になれないのか』の誰もがもやもやした選挙の出陣式の、それでもそこに身を賭す本人と彼の家族に涙しました。『うたのはじまり』は、聴覚のない人が歌を獲得するという、これも新しい感覚が芽生える作品でした。

映画祭ベストテンとレビュー

『コントラ』
『LSS:ラスト・ソング・シンドローム』
『Driving Lessons』
『Tiptoe』
『此処に住むの素敵』
『次は何に生まれましょうか』
『毛』
『夜のそと』
『愛のくだらない』
『B/B』

 映画祭がこんなに急激にオンライン化するとは思わなかったのですが(商業作品中心の映画祭には中止したケースもあったと思いますが)、スクリーンで観たい気持ちは残りつつも、お陰様で自宅にいながら全国の映画祭に参加することができました。なかには初めて出会う映画祭もありましたし、それはそれでよい機会に恵まれたのだと思います。学生を中心に、若手作家による自主制作は、そのとき観られて評価されないと次がないことも多いわけですから、たとえオンラインでも上映されることが重要です。上映されるならむしろオンラインでいいぐらいです。

『コントラ』もまさにオンライン鑑賞でした。2020年の映画祭鑑賞作品ではこれが頭抜けていました。『此処に住むの素敵』の世界観の豊かな発想も、『毛』の気持ち悪い可笑しみも、『夜のそと』のサスペンスフルな展開もとても見応えがありました。『B/B』は『脳内ポイズンベリー』(2015)や『ビューティー・インサイド』(2016)を思い出しますが、多重人格者だからか人物設定がものすごく個性的です。「彼ら」が交錯するなかで出現してくる「何者か」がスリリングで、とてもよくできた構造だと思いました。

 さて、最後にお目汚しと思いつつ、めずらしくリアルで初めて参加したとある映画祭の感想を書いて終わりにしたいと思います。映画祭の名称は伏せますが、女性監督の作品を集めたコンペティションのある映画祭でした。このコンペにノミネートされた作品が、実写もアニメーションもあったのですが、外国から参加したレベルの高い作品もあれば、国内ですでに他映画祭でも評価の高い監督の作品もあり、それぞれを観る分にはたいへん有意義な時間でした。ただ、ノミネーションをつぶさに見ますと、それらの作品に交じって、地元の大学生がゼミでまとめた、ケーブルテレビで放送された教育ビデオみたいな作品が同じ土俵にいたり、かと思えばかつてのグランプリ受賞監督の作品がノミネートされていたりと、どういう意図なのかちょっと分かりかねるものでもありました。

 それでも、さすがグランプリには自主映画では近年名高い監督が受賞されていました。ただ、高校生が撮影した作品と大手制作会社のバジェットの作品をどうやってフェアに評したのかはよく分かりません。その辺は講評で明らかになってもいいものですが、講評を含む授賞式というのが実に酷かった。地元商工会のお偉いさんなのか、女性監督の映画祭なのに、プレゼンターも講評を述べる人物もみんな男性。そのおっさんの講評が言いたい放題で、アニメーション作品はひとりで作っているものばかりで複数名で作れるようになってほしいとか、実写の女性監督は3本作ったら消えてしまうなどなど。どうしてそうなってしまうのかを想像したことがあるのだろうか。働きながら、あるいは母として地道に作り上げている、逆に言えば地道に作れるからこそ維持できている制作活動を否定するような振る舞いだと感じてしまいました。かつてのグランプリ受賞監督の作品が無冠だったことにはノーコメント。じゃあどうしてノミネートしたの。

 上映時の司会進行がちゃんと仕切れる映画ライターで、つねに手話通訳がついていることにたいへん好感を持っていただけに、なんだか最後の最後にすごく嫌なものを見てしまいました。2021年、そしてさらに未来が豊かで寛容な社会に近づいていくことを切に願っています。あと、こんなに長文を書くのは疲れるので、次年度のレビューは簡潔にすることを目指します。以上です。

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