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「おかえりモネ」論 その8 還るべき場所へ(終)

あの日あのとき、私は東京の九品仏にあるカフェにいました。勤め先のプロジェクトで、お客さんを集めて自社サービスについてインタビューする催しをしていて、それももう終わろうかとしていたとき、ガタガタと尋常でない揺さぶりが始まりました。慌てて外に出ると、商店街の電信柱がゴムのようにゆらゆらとしていました。同僚のワンセグでは、大量の海水が流れ込む仙台空港の滑走路を映し出されていました。

地震は断続的に続いて街の機能が戻ることがなく、帰れそうなお客さんを帰し、無理な方には別の同僚の家まで歩いて避難してもらい、私と数人がカフェに残って警備を兼ねつつ一晩を過ごしました。朝になって、土曜日の東京をひたすら歩いたり、わずかに動いている電車があれば乗り継いだりして、5時間ぐらいかけて家にたどり着きました。帰り道で唯一営業していた回転寿司屋で腹ごしらえをしていたら、なんだか無性に泣けてきてしょうがなかったことを思い出します。

それからというもの勤め先では震災対応で大忙しとなり、その少し前から会社の業績が思わしくなかったこともあり、いくらかの変遷を経て会社の名前も変わり、あっという間に10年が経過しました。

大忙しだったと書きましたが、寸暇もなかったかと言われればそんなことはなくて、会社で案内のあった被災地ボランティアにも行こうと思えば行けたはずなのだけれど、行かなかった。それからしばらくして、いろいろと乗り継いで個人的に三陸海岸を北上してみたけれど、誰と会うでもなく、ひっそりと通過しただけでした。それ以上のことをすることが、どうしてもためらわれたのでした。

学生時代を岩手県で過ごした私には、宮古も大船渡も陸前高田も縁のある土地で、その街々が地震から一夜明けると、まったく違う姿になってしまったことがただただショックで。私はそのときに東京にいて、もちろん東京だって大きな揺れと帰宅難民で大いに混乱したのだけれど、それでも安全なところから災害を見ていた。そのことで、完全な断絶を感じてしまったのでした。いや、本当はそんな断絶はないはずなのですが。

震災の数年前、会社の出張で岩手県を訪れました。当然、勝手知ったる土地ですし、かつて県民だったアドバンテージで地元の人たちと仲良くやっていけると思っていたのに、「私、どこそこに住んでたんですよー」と得意げに話す私に誰も反応を示してくれない。ああそうなの、というぐらいの素振りしかしてもらえず、空っぽの肉体だけで帰京することになりました。ひとえに私の人間性に問題があったのですが、かつてその地にいたことが何の意味も持たない。いま、その地面を踏みその空気を吸って生きる者だけが、アドバンテージを持つことを許されている。その感覚が以後ずっと染みついて、その延長線上に震災がありました。

本当にそんなことは言い訳だったと思うのですよ、ということを言い訳するわけですが、でも、そこにいなかったことの断絶はやっぱり存在していて、その気持ちはずっと抱えて生きながら、時薬(ときぐすり)によって寛解するのを待つしかないのだろうと、私は思っています。

時系列が前後しますが、震災について思うとき、しばしばJIGGER'S SONの「バトン」という楽曲が頭に流れてきます。歌詞はここを見てください

JIGGER'S SONは80年代末に仙台で結成し、私の故郷の北海道でも人気を博しながらも90年代末に活動を休止します。その後しばらくはボーカルと作詞曲を手掛ける坂本サトルのソロ活動に移行しますが、震災をきっかけに2012年に再結成を果たします。その際に発表されたのがこの楽曲でした。後悔の念があっても、大事なことは、別れを繰り返しながら想いをバトンのように引き継いでいくことなんだということが歌われています。

実はこの「バトン」は震災のことを歌った楽曲ではありません。作詞作曲した坂本サトルによると、亡き父親を想って作ったのだそうです。だけれども本当に不思議なことに、震災で残された、断続を抱えた人のための歌に聞こえてくるんですよね。聴くたびに救われるような思いがしてグッときます。

この10年あまりをこんなふうにして過ごしてきた私は、「おかえりモネ」の百音を他人とは思えない心持ちで見ていました。入試の結果を見に行った帰りに震災に遭い数日帰宅できなくなり、その間に島で起きたいくつもの慟哭の部外者になってしまった百音。故郷の島が大好きなのに苦しくて、島を出ることにして、でも絶えず島のことが気になっている。本当はずっと島にいられればいいのに、あの日あのときそこにいなかったことで生まれた断絶がそれを許さなかった。その断絶は本人の心のなかにしかないのだけれど、それを振り払うかのようにとる行動は空回り。幼馴染にはきれいごとだと言われてしまいます。

それでもしぶとく、やっぱり島にいたいんだという、ある意味では初期衝動を胸に生きていると、やがて近しい人たちが何を抱えて今日まで生きていたのかが見えてきます。祖母の手を放してしまったこと、教え子たちを置いてけぼりにしようとしてしまったこと、家業を継がずにきてしまったこと、大切な人を失わないように誰も大切にしてこなかったこと。百音も家族も仲間たちも、誰もがそれぞれに時薬を必要としていた。還るべき場所に還るために9年かかった人びとの物語、それが「おかえりモネ」でした。

あるいは百音が気仙沼で出会った学生は、その土地の人でないことに挫折していちどは東京に戻るものの、ふたたび気仙沼を訪れる。私でもいいのかなと言う彼女の気持ちを受け止め、受け入れられるのもまた百音であって、かつ「行って、帰ってくる」という原始映画的なシチュエーションの重なりがそこにあります。百音の母親の教え子だった少女もまたそうですね。百音なら、彼女たちに共感することができる。何かを解決したり、伴走したりはできなくても、共感したり想像したりすることはできる。9年をかけて、真に百音にしかできないことができたのだと思います。

あの震災から10年以上が経過して、私たちの物語は、生死を別った物語から、残された者の生き方の物語になりました。あの日生まれた子が小学生になり、あの日の子どもたちは大人になりました。彼らは彼らの物語を生きています。物語は、やがて継がれていくことでしょう。東京で心の重石を吐露していた彼らが、百音の実家でふたたびテーブルを囲んだときには、それぞれの未来に向けて進んでいる様子がたいへん感動的でした。

さて、作品の最終盤、気仙沼を訪れた菅波先生は病院からの緊急呼び出しで東京に戻されます。2014年から始まった物語がコロナ禍というリアルに追いついた瞬間でした。震災からコロナ禍へ、そしてそれから百音と菅波先生が再開するのは2年半ののちのことでした。まるで違う星に生きているようなふたりが、まるでクリストファー・ノーランの『インターステラー』のラストのようで、壮大で希望のある終幕でした。もうすぐ私たちも、その夏を迎えることになります。

震災と林業の取り合わせで、何かを書かないわけにはいかないという衝動に駆られてしまって、自分でも終着が分からないまま書き始めてしまいましたが、最終的にはグズグズしている私を成仏させるための論考になったのかもしれません。でも私はこれからもグズグズするでしょうけどね。最初から最後まで一切ドラマ論に突入しないまま全8回の「おかえりモネ」論を終わろうとしています。

いやちょっとだけ触れましょう。朝ドラにしては物語が重かったという意見を見かけましたが、その通りだと思います。ただ、震災から10年というタイミングで、当事者が抱えるものについて半年かけてじっくり問い続けることもまた朝ドラでしかやりようがなく、必ず半年間放送される保証あってのテーマでもありました。歴史と型のある枠でチャレンジングなことをやる作品が好きなので、その素晴らしい脚本と演出にいつも唸りながら観ていました。

静と“もやもや”と熱が共存する難しい役どころを期待以上の芝居でやり遂げてくれた清原果耶と、主役を食うほどのインパクトを残したみーちゃんの蒔田彩珠の、シスターフッド作品でもあったと思います。また、本放送終了直後に公開された安達奈緒子脚本の『劇場版「きのう何食べた?」』がまた素晴らしく、両作品に貢献した内野聖陽と西島秀俊を楽しく見てもいました。やや脱線しますが、鈴木京香と内野聖陽と言えば森田芳光作品で、『(ハル)』のふたりが前期と後期で朝ドラを担当しているというのも、感慨深いものがあります。

これで終わりにします。

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