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「おかえりモネ」論 その4 山の所有と利用の関係

我が国の森林のうち、「私有林」は、森林面積全体の約6割、人工林総蓄積の約7割を占めており、林業生産活動に主要な役割を果たしている。(平成22年度 森林・林業白書)
保有山林面積規模別にみると、保有山林面積が10ha未満の林家が88%を占めており、小規模・零細な所有構造となっている。(中略)なお「1990年世界農林業センサス」によると、保有山林面積が0.1~1ha未満の世帯の数は145万戸であり、現在も保有山林面積が1ha未満の世帯の数は相当数に上るものと考えられる。(令和2年度 森林・林業白書)
平成22(2010)年に農林水産省が実施した「林業経営に関する意向調査」によると、保有規模が小さい林家ほど、施業に対する意欲は低い傾向にある。今後5年間における森林施業の実施に関する質問に対しては、保有山林面積規模1ha以上20ha未満の林家の69%が、「実施が必要な山林はあるが、実施する予定はない」と回答している。(平成22年度 森林・林業白書)

 ものすごくかいつまんで言うと、この国の森林はとにかく零細規模の所有者が多く、高度経済成長期に植林した木が成長してどうにかしないといけない段階にあるけど、とくに何もする予定がないケースがものすごく多い。しかもここで引用したのは「林家」(「はやしや」じゃなくて「りんか」と呼んでください)という林業従事者の話なのですが、それ以外のケースもあります。

 話が明治維新まで遡るのですが、山は村の衆みんなで公正に使うものだったのに(そのために制定された村の掟とかもあるわけで)、地租改正で国家が土地に対して税金を取る仕組みを作ってしまいました。なので村によっては山を世帯数で割って分割所有することにしましたし、共同所有するにしても「AさんとBさんとCさんと・・・Zさんの所有」みたいにしたケースがたいへん多いのですね。

 そうするとどうなるか。個人所有にしようと共同所有にしようと、財産なので所有者が死去したら相続しないといけないのですが、近代になって山を生業にすることが少なくなって、なおかつ子どもたちはみんな都会に出ちゃって地元の問題に触れてない。なので、土地所有者の変更が必要なんだということが分からないんですよね。というか、所有者になった体験自体が一代ぐらいしかないので、所有者自身も息子に権利を渡すということに気付いていないケースがすごく多かったんじゃないかと思うのです。そうやって、本当に相続しているはずの現存の土地所有者が誰で、いまどこにいるのか全然わからなくなってしまったので、法律でどうにか整理しようとしているわけですよね。

 学生時代にテーマにしていたのはこの辺の所有権問題だったのですが、私がよく見聞きしていた東北地方の風景はこんな感じでした。なのでサヤカさんみたいな大規模山主って本当にいるのかなと思いまして、調べてみました。そうしますと、500ha以上を所有している林家が2戸だけ存在していました。朝ドラと言えば「ほんまもん」の主人公の実家もけっこうな山主でした。主人公が進学するにあたっての学費調達で木を伐る様子が描かれていました。あれはたしか和歌山県でしたね。

 私が土地所有権の研究をしていたのにどうしてこういった財産持ちに出会わなかったのかといえば、入会林野の土地所有の近代化をずっと調べていたからなんです。入会は「いりあい」と読んでください。共有地に意味が近いですし、コモンズとも言いますが、山でも野でも川でもいいのですが、そこにあるものをみんなで分け合って利用することを入会と言いまして、その山のことを入会林野あるいは入会山と呼びます。これは所有とは完全合致していなくて、所有者=利用者ではありません。生きていくために、たとえ他人の土地であっても入会で資源を獲得する権利については、物権の一部として民法に規定があり、いまでも公式に認められています。

 でも、いくら権利が認められているからといって、財産が所有権のほうにくっついてしまっているので、所有という概念で近代的な整理をした結果、所有者が他者に対して排他的になるケースはやっぱりあるんですよね。あれ、みんなの共同所有なんじゃないのと言われそうですが、もちろんそういう土地もありますが、小作農のようにつねに借金をしていて財産を所有し得ない人もいたことを忘れてはいけません。実際、権利をめぐって民事裁判をして負けたり、土地に侵入して刑事裁判にかけられて有罪になったりしたケースもある。その代表例が「小繋事件」なんだと思います。

 ちなみに統計上たまに見かけて、実物を見たことがないけれど結果的にいい選択だったのかなと思ったのが、団体所有でした。具体的には財産区を作るか、生産森林組合を作るかです。財産区は地方公共団体の一種です。団体を作っておけば、構成員の変更はやっぱり必要ですけど、とりあえず意思決定できる状態にあれば、構成員の一部が行方不明でも財産管理の責任の所在が消えることはないと思います。理論上は。

 さて、もう語るまでもないのですけど、どうしてみんなが山を見なくなってしまったかというと、山を生業にしなくなったからです。生業というのは木材生産である必要はなくて、薪や炭でも、畑の肥やしのための落ち葉の採集でもいいし、きのこや山菜でもいいのだけど、山を利用しないで生活するということがスタンダードになっているわけですよね。川沿いの家屋は昔は川のほうに玄関があったのに、道路が整備されるとそっち側に玄関が反転しちゃった、みたいな話と同じです。

 あとは、木材価格が落ちてしまって、木材生産のために山に入ることで赤字になってしまったのも大きいです。戦後、ものすごく木材を必要として、復興で景気もいいし、人口も増加してこれからどんどん発展するから、ますます木材が必要になると思って、ものすごく植林したんですよね。1960年代ぐらいまではそうだったはず。それが1970年代になって、高度経済成長期が終了して環境問題に目が行ったときに、これはおかしいのではないかという感じになっていく。それと矛盾しているだろうけど、鉄筋コンクリートと化石燃料の世界になって、木材の需要が落ち、価格も下落し、しかも木材は外国から輸入さるものになってしまった。

 でも、あのとき植えたスギは、先ほどの宮城県の資料によると、多くが11齢級か12齢級、つまり60歳ぐらいにまで成長しています。この国のスギ事情はだいたい同じだと思います。奈良県の吉野みたいな特殊な栽培方法は別として、ふつうに手入れしていれば40~50歳ぐらいでいっぱしの木材として収穫できます。いっぱしの木材というのは、3寸四方の柱が取れるということなのですが、ピタゴラスの定理で計算すると直径16cmぐらいが最小でしょうけど、芯(本当は「髄」と言うのですが)の部分は強度が低いので、ひとつの丸太で「田」の字みたいに4本の柱が取れるのがベストで、とすると直径35cmか40cmぐらいあるとよいでしょうか。11齢級というと、ちゃんと育てていればそのぐらいのレベルには余裕で達しているはずです。

 ただ、ちゃんと育てていたかというと、先ほどのように、山に入っていないケースがたいへん多い。間伐と呼ばれる間引きをしていないと幹が太くならないのですが、それを誰がするのか。もっと言えば、だれが伐採して出荷するのかという問題になってきます。そこで担い手とされているのが、森林組合です。ということで、次回は森林組合の話から始めたいと思います。


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