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「おかえりモネ」論 その1 震災後を生きるということ

 いま、朝ドラ「おかえりモネ」を、皆勤賞を目指して頑張って観ています。集中力のない私は連ドラが苦手ですぐ挫折してしまうのですが、1回目を観てすぐに、これはただものではない作品ではないかと感じてしまいました。そこには、私なりのシンパシーも大いにあると思っています。そんなわけで、「あまちゃん」(2013)以来の集中力で視聴を続けており、観るにつけ、何か書かねばという謎の衝動に駆られております。そこで、書いてはアップすることを繰り返すので全体構成が自分でもさっぱり分かりませんが(途中で飽きるかもしれませんが)、いろんな角度から「おかえりモネ」について書いてみようと思っています。もっとも、私にはドラマ論を展開できませんので、注釈集みたいな内容になるのではないかと思っています。よろしければお付き合いください。

 2021年は東日本大震災の発生から満10年にあたる年です。学生時代の数年間を盛岡で過ごし、沿岸の街にも何度か訪れ、そこに友人も住んでいた身としては、ひとつの恐ろしい災害というだけでなく、うまく言えませんが、自分の中で何かが破壊され、喪失した出来事でした。いまでも、なんだか身体のどこかに古傷があるようで、何かのはずみであのときの恐怖とその後に受けた「生の感覚」が蘇って、涙ぐんでしまいます。

 もっとも、当時の私は就職して都内にいましたので、津波を目の当たりにしたわけではありません。それでもとても恐ろしかった。恐ろしさのスイッチが入った気もしていて、おそらくその原体験は、1993年の北海道南西沖地震の奥尻島なのだろうと思います。あるいは東北の人びとも、幾度も大地震と津波を体験しています。このあたりの人間は、人生に何度か、大きな地震と津波を記憶に刻んでいます。

 あの津波で、三陸沿岸では多くの方が亡くなりました。家族や親類や友人を亡くした人も大勢います。その一方で、その後に発生した原発事故による影響を避けようと、主に関東地方から西日本に移住した人もいました。しかし、あの大地震を経験した人びとのほとんどは、実はそのどちらでもない。地震も津波も恐ろしかったけれど、親しい人を亡くしたわけではないし、まだ、同じ場所に立っている。私もそうです。

 いちばん辛い思いをした人のことを知っているから、被災者を自称するのは憚られる。何かを誰かに同情してほしいわけでもない。でも、自分が生き残り、いまここにいる理由について考えることは少なくないのです。坂本サトル氏は震災から10年を機にした楽曲の制作依頼を受け、仙台の大学生たちへのインタビューをした際に、そんな気持ちを発見したと言います。そして発表された楽曲が、10 for 10 TOHOKUによる「10 年後の僕ら」です。

 震災の日、ドラマの主人公・百音(ももね)は、地元気仙沼の島を離れて、父親と仙台に来ていました。受験した高校の合否発表を見るためでした。仙台で被災した百音と父親は、数日後に船でようやく帰宅したのですが、その故郷は、出かけるときとはまるで世界線が違っています。再会した友人たちも、妹・未知も、それまでとはまったく表情が違っています。津波で変わり果てる島を眼前にした未知の慟哭と、その前後の時間だけを知らない百音の慟哭。それでも分かち合いたくて未知に寄り添い、いつかまた元に戻るよと励ます百音に対して、未知はもう戻れないと憤ります。こればかりは未知の言う通りなので、百音にはもうかける言葉もありません。

 百音の疎外、あるいは何者でもなさについては、実はたいていの若者につきものなのだと思うのですが、あのときの強い体験を経た彼女には、島を出るという選択肢しか残されていなかったように思います。外の世界に何かがあるというよりは、ここではないどこかに身を置くほかに、自分を保つ方法を思いつかなかったのでしょう。両親はそのことを意外そうにするのですが、それこそまさに疎外なわけですよね。愛情と疎外は違う。その分かち合えなさは言葉にしがたいものです。本作は、その気持ちを抱えて生きる、ひとりの女性の物語です。

 さて、高校を卒業して島を出て、祖父の伝手で登米の山主を頼り、森林組合に就職した百音。物語はそこから始まります。朝ドラ史上、こんなにも林業をフィーチャーした作品はあったでしょうか。ここからは、思いつくままに、いろんなテーマで「おかえりモネ」の周囲をぶらぶらしてみようと思っています。

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