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推しとは幻想であり、現実である。


こんにちは。ミユウです。

先日初めて推しの現場に行って参りました。
(ジャニーズJr. 某侍グループのSくんの舞台です)

初めてこの目で推しを見て、思ったこと。

推しとは幻想であり、現実である。

私が「推し」に抱く感情はさまざまですが、

■デビューしてほしい
■たくさんお仕事をしてほしい
■生きているだけで感謝
■人として好き、尊敬

みたいな部分が大きいです。

そしてその感情は全て、「テレビの向こうの世界の人」「芸能人」という
フィルターで推しを捉えたときに湧く、いわば幻想としての推しという
側面が強くあります。

推しはこういう人で、こういう部分が素敵で、だから自分は推しが好き、という自分主体のロジックで、アイドルとしての推しの幻想を作り出します。

そしてその幻想が好きで好きでたまらない。なぜなら推しは、自分主体のロジックで作り上げられた自分のための幻想であるからです。

私も実際、推しに対しては幻想や理想を抱く面が強くあり、
引くほど素晴らしくて手の届かない人、という風に思っていました。


しかし実際に現場に行き、推しを生で見て、実際に会ってみて思ったのは、「あ、推しも人間なんだ」という、どこか現実味のある感想でした。

まず、引っかかったのは推しの主演舞台でしたので推しのファンの方ばかりだったという点です。

「推しは自分だけの存在ではない」「みんなが推している一人である」という感情に呑まれ、推しは私の幻想なんかではなく、この世界の現実であり、星の数ほどいる人間に推しというフィルターで共有されていると思いました。

それが、自分のための幻想としての推し、という考え方を解いていきました。

二つ目は、動いたり、話したりする推しの姿です。

私はもともと10年以上のアニオタ出身ということもあって、
画面の向こうで二次元的にしか捉えてこなかった「推し」を、どこかいないもののように感じていたところがあります。

しかし目の前に推しはいて、すれ違う人や友達や家族と同じように、
お芝居をし、歌を歌い、動き、声をあげていました。

それを見て、「理想」「幻想」「二次元っぽい」としての推しの概念は崩れ、「この世にいる人間の一人」として捉えるようになりました。

推しとは幻想であり、現実である。

初めて推しに会う経験を通して、
推しは確かに幻想だけど、同時にちゃんと現実である、という意識が芽生えました。

そう捉えるようになってからは、推しの人物像に対して幻想を押し付ける、というよりも、アイドルとしての推しのあり方をより尊重していきたい、という気持ちが強くなったように思います。

アイドルとファン、エンターテイメントビジネスの中で、
彼のアイドルとしての人物像にだけ幻想を抱き、彼が一人の人間であることを正しく認識することが、たぶんこれからもずっと推し事をする中で必要なんだろうな、と思います。

推しに幸あれ!

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