小説 精神病院の喫煙所にて

「タバコ一本もらえないですか?」
僕は、目の前に居るガリガリで上下スウェットのおじさんに言った。
「いいよ」
おじさんは赤いマルボロの箱からタバコを取り出すと、僕にくれた。
「ありがとうございます」
僕は借りたライターでマルボロに火をつけた。
まろやかな煙からニコチンが染み渡ってくる。なんたって、3ヶ月ぶりのタバコなのだ。
煙を吐き出すと、周りの声がはっきりと聴こえてきた。
「リストラで離婚されてね。する事が無いから昼間から飲んじゃって。気付いたら連続飲酒。救急車でここ。」
ここは、S病院の喫煙所。
S病院は精神科とアルコール依存症の閉鎖病棟がある、この辺りではかなり大きい病院だ。
周りを見渡す。ボロボロの黒い服を着た老婆。ヨレヨレのTシャツに古そうなジーパンの中年男性。
何故かカップルのようになっている大きい坊主頭のおじさんと占い師みたいなおばさん。
聴こえてくる話題は、身の上話か病院コミュニティでの噂話がほとんど。
「ここ出たら生活保護だ」
「◯◯さん、借りたお金返さないから貸したらダメよ」
「あの看護婦は可愛いよな」
僕は、タバコをくれたおじさんに話し掛けてみた。
「暑いですね」
おじさんは少し嬉しそうに「暑いねえ」と答えた。
「どこの病棟?」
おじさんが聞く。
「2の1、精神科病棟です。統合失調症で入院しちゃって」
「そうなんだ。俺は6の1、アルコール病棟。飲み過ぎちゃってね」
「兄ちゃん、ここ出たら何がしたい?」
「ハンバーガーが食べたいです。入院食に飽きちゃって。」
「わかるよ。俺も退院したら、親にスシ連れてってもらうんだ」
僕はどう見ても60代には行ってそうな目の前のおじさんを二度見すると、この歳で何もかも身を持ち崩している様子のこの人の親の気持ちを考え、暗い気持ちになった。
「スシですか。いいですね。」
僕にはそれしか言えなかった。
少しすると眼鏡をかけた若い女と、40ぐらいのガリガリに痩せた男が連れ立って現れた。
「おまえな!親なんか関係ねえんだよ!」
男が女にすごい勢いで叫び散らす。
「でもぉ、でもぉ、親が転院したらって」
「だからぁ!知らねぇんだよ!」
ものすごい当たり方なので、思わず耳を使って話を聞いてしまう。
どうやら、デイケアで知り合ったカップルらしいが、男にDV気質があるようで、とにかく女に辛く当たっているようだった。
女は親に転院をすすめられているが、男はどうしても女を手離したくないらしく、激怒しながら転院を止めている、という構図だ。
とうとう女が泣き出した。
女が泣いても、男は
「だからバカなんだ!お前は!」と怒りの手を休めない。
あまりに男の言い草が子供っぽく、荒くて、情け無いために、聞いているこっちがイライラしてきた。
何より、精神病院の喫煙所に集まるみすぼらしく未来の見えない人間たちの中に、自分が居る事が恐ろしく不快だった。
自分もこうやって中高年になっても入院を繰り返してお金もなく、親を悩ませる生活を送っていくのか?と考えると、恐ろしくて猛暑の中でも薄ら寒い気持ちになるのだった。
男はついに女の腕を掴み始めた。
僕はもう我慢できなかった。
「なんだよ。ダッセェ。」
男に聞こえるように大声で言うと、タバコの吸い殻を灰皿に投げ込んで、その場を離れた。
男は何も言わなかった。
僕は、スッとするどころかますますこの最底辺の喫煙所の登場人物に自分が成り下がったような気がして、泥のような気持ちになった。
暑い夏だった。

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