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「第九」はじめて物語

新日本フィルnoteではダントツの情報量「岡田友弘《オトの楽園》」。指揮者の岡田友弘が新日本フィルの定期に絡めたり絡めなかったりしながら「広く浅い内容・読み応えだけを追求」をモットーにお送りしております。今回は年末恒例、ベートーヴェン「交響曲第9番」、「第九」のおはなし。筆者の第九との出会い、初演にまつわるエトセトラ、そして日本での「第九」の初演をしたのは意外な人たち、意外な場所だった!これを読むと、今までの「第九」が違って聞こえてくるかもしれません!

ボクの「第九」初体験

ベートーヴェンの肖像

日本でも年末の風物詩といえる「第九」。ベートーヴェンの交響曲第9番はクラシック音楽史に燦然と輝く「金字塔」といえる。

この作品、日本では年末になるとプロアマ問わず各地で演奏される。しかも第九の公演は日々集客に苦心しているオーケストラ界においてお客さんが入る演目の筆頭格だ。年末に「第九」が演奏され始めたのは1940年頃とされている。NHK交響楽団の前身「新交響楽団」が年末の演奏会で取り上げたことがきっかけだというのが有力な説。その後大晦日に同交響楽団の大晦日の第九演奏会がラジオで生放送されて「年末の第九」が恒例化していったとされる。そして戦後になって、地方オーケストラの先駆けであり、映画「ここに泉あり」でも知られる群馬交響楽団の第九演奏会が大きな成功を収めたことがきっかけとなり、日本各地で「年末の第九」が広まっていったらしい。

群馬交響楽団が長年本拠地としていた群馬音楽センターでの「第九」演奏の模様(群馬大学フィルハーモニックオーケストラ、指揮は筆者)

この曲の有名部分といえば、第四楽章の「フロイデ シェーネル」から始まる「歓喜の合唱」と言われている部分。作品ではバリトン独唱が先に同じ歌詞、同じメロディーをうたうのだが、全合唱と大管弦楽で奏でられる部分が特に有名で、ドラマや映画、CMなどでも多く登場する。

僕もその部分を一番初めに知ったひとりだ。その興奮するような音楽を求めていた僕は、確か小学校の高学年か中学1年の頃に地元のジャスコ(今のイオン)の一角で売られていたクラシック音楽のカセットテープの中にあった「第九」のカセットを買った。確か980円くらいだったと思う。このカセットは自分で初めて買ったクラシック音楽のソフトだった。最初に親に買ってもらったクラシックのレコードはディズニーの「ファンタジア」のサウンドトラックだったが、ひとりで自発的に買い求めたのはこの「第九」だ。

ジャスコから自転車で自宅に帰ってステレオで買ってきたカセットを再生した。僕は「フロイデ」の合唱の部分しか知らないので、ずっとその部分の登場を待っていたのだが…なかなかそれが登場しない。気の短い僕はカセットをB面に裏返しで再生した。今度は音楽すら流れない無音…「不良品を掴まされたか!」と思ったが、それはA面に1楽章から3楽章までが、B面に4楽章が入っていたからで、1から3楽章までは約45分、4楽章は約25分なので45マイナス25ということで20分のブランク時間が再生されていたというオチだった。結局僕は我慢強く最初から聴き直したのだった。レコードなら曲間のミゾが分かるので各楽章の開始部分に上手く針を落とせる。またCDだと簡単に頭出しができるので聴きたい楽章から聴くことができる。当時はCDは存在せずカセット隆盛の時代の末期だった。カセットデッキに「頭出し機能」があるものもあったのだろうが、我が家の高級ステレオにはそれがなかった。最初から最後まで飛ばすことなく余裕を持ってクラシックを鑑賞することが「上流階級の嗜み」であったのだろう。

いつまで経っても僕の知る有名部分は登場しなかった。ついにはカセットのA面の再生が終わってしまった。ここまで約45分、学校の授業1時間分だ。子どもにとっては長い…。途方に暮れながらB面を聞き始める。

これまでよりもインパクトのある音楽が始まったが、これまた僕の知る「第九」ではない。しばらくすると低音の弦楽器が静かに旋律を演奏する部分が現れた。その旋律は僕の唯一知っている「第九」の旋律だ。しかし「歌」がない。その旋律は楽器を変え、どんどん盛り上がっていく。そしてオーケストラ全体で力強く演奏された。しかし「歌」はない。

もはや諦観の境地に至ったとき、4楽章冒頭の音楽が戻り男性の独唱がはじまった。なんだか誰かに説教しているような歌が続き、男性合唱がコール&レスポンスの如く応答する。ここで独唱が僕の知る旋律を歌い始めた。それに合唱も加わっていき「いよいよか!」と思ったが、僕の知っているものとは少し違う…一体なんなんだ!?

長い伸ばしのあと、今度は打楽器も加わり行進曲みたいなものが始まった。曲としては嫌いな感じでもないし、何となく有名旋律に似ていた。だんだん盛り上がり賑やかになったと思ったら、音楽が静かになり、それが一気に盛り上がったところで、あの有名部分が始まった。「ついに!」と僕の心は高揚した。ここまで約1時間…待たされるとその喜びや美味しさは何倍にもなる。その歓喜に浸る間もなく、その部分が終わった。時間にして1、2分…。その後、僕の知る唯一の「有名旋律」は登場することはなかった。これが僕の「はじめての第九」体験である。

初めて音楽事務所からもらった仕事も「第九」。アマチュア団体を指揮するプロ指揮者さんの「代振り」、つまり練習指揮者の仕事。駆け出しの青年にとって第九は試練とほろ苦さを伴うものだった。練習は大船だったのだが、あの日の夜の光に浮かぶ大船観音の姿が目に焼き付いている。あれから20年、思えば遠くに来たものだ。

大船観音

余談だが、第九のドイツ歌詞を日本人が歌いやすくするための「語呂合わせ」がある。誰が言い始めたかは諸説あり、石丸寛さん、山本直純さんなど説は色々だ。

その中のいくつかを紹介するが、これを読むと第九の該当部分がそのようにしか聞こえなくなるかもしれないことを、あらかじめお詫びしておく。

Freude,schöner→「風呂出で 主寝る」

binden wieder→「瓶でビール出る」

ところで、この第九のカセットテープ、演奏者クレジットがなく、ただ「演奏・管弦楽団」とだけ記載されていた。「そりゃそうだろう!」と今では思うが、おそらくは録音のために臨時で編成された、いわゆる「寄せ集めオーケストラ」だったのだろう。指揮者は誰だったのだろうか。

本家「第九はじめて物語」

第九が初演された、ケルントナートア劇場

この作品の初演は1824年にウィーンのケルントナートア劇場で初演された。

ご存知のようにベートーヴェンは耳が聞こえなかった(最近では聞こえていたという説もあるが)ので初演には「総指揮者」として舞台に立ち、実際に指揮をする指揮者にテンポ等を指示したそうだ。初演の際は楽章毎に拍手が起き、曲の終わりには盛大な拍手で公演は大成功!という記録がある。しかしベートーヴェンはその出来に満足しておらず、曲が終わっても客席の方を向くことができず、熱狂する聴衆の様子を見ていなかったのだが、アルト独唱の歌手に促され客席を向いた時にはじめてその成功を確認したという逸話がある。

聴衆の熱狂に応え、初演の際は第2楽章が2回アンコールで演奏されたそうだ。現代の第九演奏会では見られない光景、実際にやったらオーケストラも指揮者も疲弊してしまうだろう。第2楽章にはティンパニにソロ的な見せ場があり、その場面ではただならぬ緊張感と集中力だと思う。それを本編と合計して3回も…初演時のティンパニ奏者の心境は如何に。聴衆は3回目を求めて拍手を続けたらしいが、それは劇場で警備に当たる兵に止められたらしい。もしかしたらティンパニ奏者は「助かった…」と思ったかもしれない。

このエピソードで思うのは、ベートーヴェンが生きていた時代の演奏会は、現代の演奏会に比べて「なんでもあり」な感じがする。楽章間の拍手や交響曲演奏後の2回のアンコール、しかも同じ曲。作曲家が耳が聞こえなかったという事情があるにせよ「総指揮者」として舞台上の指揮者にアレコレ指示する…などなど。

時代が進み、演奏会がどんどん「洗練」されていく中で「拍手のルール」をはじめとした「演奏会の暗黙ルールやマナー」ができていったのかもしれない。そのような慣習の息苦しさや敷居の高さがクラシック演奏会やクラシック音楽に対するイメージに繋がってしまっているのかもしれない。もちろんそのようなことは必要な場合もあるが、個人的には拍手をしたくなったらしてくだされば良いと思う。ただ曲中の「掛け声」や拍手はお控え願いたい。そして大体のホールには「利用区分」があり、その区分内で片付けを含み撤収しなくてはならないことが多い。特に次の区分に他の予約が入っている場合や夜公演の場合はよりシビアだ。ホールの事務所や裏方さんの心象が悪くなるばかりでなく、場合によっては「追加料金」を支払わなくてはならないので、拍手や歓声は「短く盛大に」お願いできたらと思う。

第九の自筆譜

これは本当に「余談」だが、最近の高機能型多目的ホールは全自動で音響反射板を稼働させるホールが増えてきた。さまざまなジャンルで望みうる音響空間を作り出すためで、演奏する側や聴く側にとっては幸せなことだ。しかし、この反響板の設営や撤収には思いの外時間がかかる。ホールによっては「前後3時間を必要とする」と言われる会場もある。安全面と機構的な事情であることは重々承知しているのだが…そのためにリハーサル時間が短くなったり、開演時間を前倒しになるのは些か困りものだな…と感じることがある。現場からの「小さな嘆き」として頭の片隅に置いていただけたらと思う。

その点、新日フィルの本拠地であるトリフォニーホールや定期演奏会が開かれるサントリーホールにはそんな心配はない。「専用ホール」というのは東西南北裏表、すべての方面にとってハッピーなことなのだ。その英断に深く感謝したい。

なお、ウィーンでの初演は思ったほどの収益を得られなかったそうだ。

記録によると初演の収入は会場使用料や写譜代などの諸経費を差し引いて400グルデンだったそうだ。当時の400グルデンがどれくらいの通貨価値かはわからないが、興行者が「2000はカタイ」と言っていた収益が400というのは、ベートーヴェンもさぞガッカリしただろう。現在でもオーケストラ公演には経費がかかるが、ベートーヴェンの時代もそのような悩ましい状態は変わらなかったのだろうか。

「今日のギャラ、2万だと思ったら4千だった…」となったとしたら、それはかなりの衝撃だ。

日本「第九はじめて物語」

東京・上野公園内に移築保存されている奏楽堂の内部

日本における第九の初演として「公式に」記録されているのは1924年(大正13年)11月29・30日、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)のメンバーによる奏楽堂での演奏会。指揮はグスタフ・クローンという教授であった。

しかし、不完全な形とはいえ、第九が日本で初演されたのは「公式記録」から遡ること6年前、場所は首都東京から遠く離れた徳島県鳴門市だ。

何故1918年なのか?何故徳島県鳴門市なのか?それは世界史や日本史と密接な関わりがある。

日本も参戦した第一次世界大戦、日本軍は中国のドイツ帝国の拠点を制圧して多くのドイツ兵が捕虜となった。その捕虜は全国各地の「俘虜収容所」に収容されたのだが、そのうちの一つが現在の鳴門市にあった「板東俘虜収容所」である。

板東俘虜収容所を再現したオープンセット。現在はない。

捕虜収容所と聞くと、劣悪な環境で捕虜は厳しい収容所生活を送っているようなイメージがあるが、この板東俘虜収容所は所長である松江豊寿の方針で、捕虜は最大限の配慮と敬意をもって遇された。所内はさまざまな自由な活動が許され、捕虜たちはさまざまな業務を担い、応分の報酬ももらったそうだ。パン作りや所内報の編集や印刷など「一つの街」のような雰囲気だったようだ。

また、近隣住民との交流も盛んで、音楽、体育などの指導を日本人にしたり、西洋の産業技術を伝えたり、また「博覧会」と称したイベントを開催してドイツのさまざまな文化を日本人に紹介した。そのため板東の人々の多くは「ドイツさん」と親しみを込めてドイツ人捕虜と交流していたそうである。

鳴門市板東に現存する「ドイツ橋」、捕虜たちにより建造された

その板東俘虜収容所においてベートーヴェンの第九が日本初演されたのだ。

板東には1000名ほどの捕虜が収容されていて、これだけ人数がいたら音楽に素養のある人物はかなりの数がいたと推察される。もちろん指導的な役割を担える専門家もいたのだと思う。

彼の地で第九が初演された…とはいえそれは不完全な形だった。

まず、捕虜はもともと「兵士」である。現代では女性兵士もいるが、当時は男性のみ。したがって捕虜も男性のみだ。第九はソプラノ、アルトの独唱および合唱パートがある。そのため女声パートも男性が歌った。また第九にはコントラファゴットという楽器が必要だが、当時の日本国内にもわずかしかないであろう楽器が遠い四国にあるはずもなく、調達できなかった楽器のパートはオルガンで代用されたそうである。

この「1918年の第九」の存在は長く知られることはなかった。戦前に「音楽の殿様」と呼ばれた紀州徳川家当主、徳川頼貞侯爵が板東を訪れた際に、初演後も所内で演奏された第九の1楽章について記したものがあるが、それもまた注目されることなく忘れ去られていた。

徳川頼貞

それが一躍脚光を浴びたのは板東俘虜収容所と所長の松江、そして第九の日本初演を描いた映画「バルトの楽園」。2006年に公開された日本映画で、所長の松江を松平健、ドイツの司令官をブルーノ・ガンツが演じている。映画内で描かれているエピソードは実話をもとにはしているが、史実と異なる部分もあるので「史実をもとにしたフィクション」ということになるが、僕はこの映画を観て大変感銘を受けた。興味を持たれたら、動画配信サービスで視聴する事もできるので是非ともご覧いただきたい。

現在、板東俘虜収容所跡地は「ドイツ村公園」となり整備されている

「全人類よ、兄弟となれ!」がベートーヴェンがシラーの詩をもとに第九に取り入れた歌詞の一節だ。

さまざまな困難を乗り越えて、すべての人々が協働する世界…現代でもその実現ははるかに遠い。実質的、精神的な「分断」や「争い」は絶えず、威勢の良い言葉や大声、過激な言葉や態度ばかりが印象を強くしている。人々の不安を煽り、自分たちの思い通りの方向へ動かそうとするものもいる。

このような世の中だからこそ、第九の、そしてシラーの歌詞の精神を忘れてはならないと僕個人は思っている。第九の歌詞は「友愛」であり「共通の善」を希求しているのだと思う。

松江豊寿

「敗者や傷ついた人は、人に優しくなれる」

そのような言葉がある。僕もその通りだと思うし、そのような人はそれを自慢したりしないし恩着せがましいことはしないように思う。しかし自分の意思は強く、一本筋が通っている人間力の高さを感じさせる。

板東俘虜収容所の所長、松江豊寿もそのような人物だった。松江は福島出身、会津の人間だ。明治維新につながる戊辰戦争で会津は幕府側の急先鋒とされた。それは藩主が松平家であるだけではなく、会津藩の祖である保科正之は徳川家康の孫で徳川秀忠の子。徳川家に対する忠義の気持ちは大きいことは想像に難くない。負け戦と分かっていても、「天皇の敵」とされても会津は徳川のために戦った。そして白虎隊の悲劇に代表されるように敗北した。そして会津をはじめ旧幕府側に与した藩の人々は、明治新政府のもとでは不遇な扱いを受けてきた。そのような「敗者のこころ」を知る会津出身の松江が、今度は勝者の立場で敗者であるドイツ兵たちに対して「やられたことを、自分もやる」のではなく、全く逆の態度で臨んだことに僕は会津人としての気高い精神を感じる。後に松江は若松(現在の会津若松)市長を務めたそうだ。きっと市民のために善政をしたのだろう。

会津若松のシンボル、鶴ヶ城

僕が知る「会津人」もそのような人が多い。穏やかで優しいなかに、何か強い意志や矜持のようなものを感じる人が多い。それは偶然なのかもしれないが「会津人気質」のようなものなのだろうか。今これを書きながら、色々な会津の人の顔を懐かしく思い出している。

会津の子供達が今も教わる「什の掟」の最後には、このような一文がある。

「ならぬものは、ならぬものです」

この一文に会津の精神を強く感じる。全く一致することではないが、この「人として大切にしなければいけない精神」は、ベートーヴェンの第九の「全人類よ、兄弟となれ」とリンクしているように感じる。

みなが「やってはいけないことをやってはいけないと思う」世界が訪れたら、「全人類が兄弟となる」のではないだろうか。それはとても「優しい世界」だと僕は思う。

さまざまな思いを持ちながら会場で聴く第九…今年は「新しい景色」が見え、いつもと違う響きがしてくるような気がする。

(文・岡田友弘)

これからの新日本フィル公演情報


今回の「オトの楽園」の中でも触れたベートーヴェン「交響曲第9番」の特別演奏会が開催されます!今回はNJPミュージック・アドヴァイザーの佐渡裕の指揮で開催。超人気公演のため完売のコンサートもありますが、諦めずWebサイト等で最新情報をチェック!

2022年の締めくくりに、新日本フィルの「第九」で一緒に盛り上がりましょう!

詳細、最新情報は新日本フィルのウェブサイトでご確認ください。


執筆者プロフィール

岡田友弘
1974年秋田県由利本荘市出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻入学。その後色々あって(留年とか・・・)桐朋学園大学において指揮を学び、渡欧。キジアーナ音楽院(イタリア)を研鑽の拠点とし、ヨーロッパ各地で研鑚を積む。これまでに、セントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演するほか、小学生からシルバー団体まで幅広く、全国各地のアマテュア・オーケストラや吹奏楽団の指導にも尽力。また、児童のための音楽イヴェントにも積極的に関わった。指揮者としてのレパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたり、ドイツ・オーストリア系の作曲家の管弦楽作品を主軸とし、ロシア音楽、北欧音楽の演奏にも定評がある。また近年では、イギリス音楽やフランス音楽、エストニア音楽などにもフォーカスを当て、研究を深めている。また、各ジャンルのソリストとの共演においても、その温かくユーモア溢れる人柄と音楽性によって多くの信頼を集めている。演奏会での軽妙なトークは特に中高年のファン層に人気があり、それを目的で演奏会に足を運ぶファンも多くいるとのこと。最近はクラシック音楽や指揮に関する執筆や、指揮法教室の主宰としての活動も開始した。英国レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ・ソサエティ会員。マルコム・アーノルドソサエティ会員。現在、吹奏楽・ブラスバンド・管打楽器の総合情報ウェブメディア ''Wind Band Press" にて、高校・大学で学生指揮をすることになってしまったビギナーズのための誌上レッス&講義コラム「スーパー学指揮への道」も連載中。また5月より新日フィル定期演奏会の直前に開催される「オンラインレクチャー」のナビゲーターも努めるなど活動の幅を広げている。それらの活動に加え、指揮法や音楽理論、楽典などのレッスンを初心者から上級者まで、生徒のレベルや希望に合わせておこない、全国各地から受講生が集まっている。


岡田友弘・公式ホームページ

Twitter=@okajan2018new

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