見出し画像

【エッセイ】下総②─矢切の渡しととんがり帽子の取水塔─(『佐竹健のYouTube奮闘記(51)』)

 江戸川の堤防へとやってきた。

 やっと秋の様相が見え始めたばかりの江戸川の堤には、草が風をうけて穏やかに波打っていた。その向こうには、雄大な江戸川と少し落ち着いた感じの色調の秋の空と、向こう側にある千葉県松戸市の様子が見える。

(近くにある葛飾大橋を渡ったときに見た光景は、本当にびっくりしたな)

 私は去年(2022年)の11月に松戸まで自転車で行ったときのことを思い出した。

 前にも話したと思うが、23区に接している県境の街は大都会だ。板橋と接している埼玉県の戸田市、北区と接している川口市、品川区と接している川崎市は、東京23区の辺境よりも栄えていた。武蔵野市や西東京市といった、東京都の中にあるそれは言うまでもない。

 だが、葛飾区と接している千葉県の松戸市はそうではなかった。一面畑だったのだ。

矢切のネギ畑(2022年11月撮影)

 都内を出たら一面畑。この光景を見た私は、本当に驚いた。東京都区部の橋を渡った先が、まさか畑だとは思っていなかったからだ。

 松戸の畑には、ネギ畑が多かった。

 後で調べてみたのだが、ここら辺の畑で作られているネギは、この辺の地区の名前を取って「矢切ネギ」と呼ばれているそうだ。


 矢切の渡しへと着いた。

 目の前には桟橋があり、右隣には手書きで「矢切の渡し」と白いペンキで書かれた太い杭があった。また、桟橋の左隣には、真っ赤な彼岸花が咲いている。

(渡し場に彼岸花)

 絵にはなっているけど、なんだか縁起でもない組み合わせに感じる。彼岸花と渡し場という組み合わせが、あの世を連想させるからだ。

 渡し場の前で、怖いおばあさんが白い服を着ている亡者を脅していたり、河原で親より先に亡くなった子供たちが石積みをしていたら、もう完全に三途の川のそれである。

 風景描写から感じたことから、話を矢切の渡しに戻す。

 矢切の渡しとは、かつて現在の葛飾区と千葉県松戸市の矢切を結んでいた桟橋のことである。江戸時代に関東郡代であった伊奈氏によりかけられた。

 矢切もしくは柴又に住んでいた農民で、対岸に田畑を持っていた者は、この渡し場から出る船に乗って行き来をしていたのだという。

 昔はこうした渡し場が、東京にもいくつかあった。例を挙げると、現在の板橋区と埼玉県戸田市を繋いでいた戸田の渡し、現在の品川区と神奈川県川崎市を結んでいた六郷の渡しがある。前者に至っては「舟渡」というわかりやすい地名まで残っていて、駅名にも入っているので、東京と埼玉を行き来している埼京線ユーザーにとってはなじみが深いのではなかろうか。

 渡し場は、橋がかけられたり、都市化が進んだりしたことによって、次々と姿を消していった。

 矢切の渡しは、令和の世の東京に残る唯一の渡し場なのだ。といっても、今の矢切の渡しは、昔のような交通手段ではなく、遊覧船みたいな意味合いが強くなっているが。


 東京の渡し場は、大体荒川や江戸川、多摩川のような大規模な大河のある場所にあった。今の埼玉県や千葉県、神奈川県との境になってる辺りを思い浮かべるとわかりやすい。もちろん、都内にも渡し場が無いわけでもなかったが。

 隅田川のような、そこそこ大きい、もしくは小さな河川にはしっかり橋がかけられていた。両国橋や蔵前橋、永代橋のように現代にも名前が残っている橋も多い。もちろん今では全て鉄筋コンクリート造りになっているが。

 この事実を聞いて、

「江戸みたいに大きな河川にも橋をかければいいじゃないか?」

 と考えた人もいるだろうから、説明しておく。

 江戸時代に江戸周辺の大河に橋がかけられていなかったのは、いくつか説がある。有名なものとしては、防衛目的でかけなかった説がある。

 関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は石田三成に味方した西軍の大名を次々と改易もしくは減封させた。安芸120万石の毛利輝元が萩36万石に、会津120万石の上杉景勝が米沢30万石に減らした話がよく知られているだろう。

 また、家康が生きていたときも豊臣家が、大坂夏の陣で滅ぼされるまで、いち大名として健在であった。そして、広島の福島家や熊本の加藤家といった、秀吉の小飼であった大名の発言力もそれなりに大きかった。

 これらの危険因子に関しては、豊臣家は2度の戦いで、秀吉の子飼いに関しては改易といった形で対処していった。

 徳川幕府に対する危険因子が力を失ったたあとも、秀頼の息子という風説のある天草四郎が、圧政に苦しむ農民やキリシタンを率いて反乱を起こした事件があった。天草・島原の乱である。他にも、由井正雪が徳川家光の死後に幕府転覆のクーデターを考えていたことからもわかるように、平和そうに見えても、どこか油断ならぬものがあった。

 これらのことから、仮に反抗勢力が江戸へ攻めてきたときのことを考慮した徳川幕府は、彼らが容易に入れないようにするため、江戸川などの近くにある大河には橋をかけなかった。これが、防衛目的で橋を架けなかった説である。

 大学の歴史学部を出ていない私の勝手な思い込みなので、見当違いなことを言っていたら申し訳ない。けれども、橋をかけなかったことが、防衛に一役買っていたのは確かだろう。


 矢切の渡しを見た後は、取水塔を見に行った。

 取水塔は二つあって、どれもレンガ作りだった。だが、大きく違うのは、屋根の形であった。

 前にある取水塔の屋根は円錐形で、後ろにあるものは半球であった。よく見ると、前の取水塔はとんがり帽子の形に、後ろの取水塔は丸い帽子の形に見える。

「『とんがり帽子の取水塔』か」

「とんがり帽子の取水塔」と聞いて、私は『こち亀』のアニメ版のオープニングを思い出した。

 『こち亀』のアニメ版のオープニングは、堂島孝平の『葛飾ラプソディー』という曲である。そこに、この金町浄水場の取水塔を思わせる歌詞がある。

とんがり帽子の取水塔から
帝釈天へと夕日が落ちる

堂島孝平『葛飾ラプソディー』

 それが、上にあげた部分だ。写実的で、歌詞を一瞥しただけでも情景を思い浮かべることができる。抒情的なメロディもあってか、ありありと思い浮かべることができる。

『葛飾ラプソディー』には、懐かしさがある。

 子どものころから自分をよく知る大工の頭がいて、中高生時代に好きだった女の子もいる。そして、好きな子にラブレターを渡した公園もある。今日も変わらないこの街で、一日が終わる。そんな変わらない地元の暖かさや安心感がある。

 昔『こち亀』のアニメは、日曜日の午後7時にフジ系列のテレビ局で放送されていたと聞いているが、あのOPのイントロを聴いて、

「ああ、明日から月曜日か……」

 と憂鬱になっていた人もいたのだろうか? 『笑点』や『サザエさん』のような日曜日の終わりにやっている定番番組のOPを聴くと、

「ああ、今週の休みも終わるんだ」

 と感じて陰鬱な気分になる症状があるらしいから。

 ちなみにだが、『笑点』のOPや『サザエさん』のED、『こち亀』のOPの『葛飾ラプソディー』のイントロが、どれも陽気に感じるのは私だけだろうか?


 江戸川の堤防を去った後、私は金町駅まで歩いた。金町駅から上野行の列車に乗り、亀有へと向かった。そこで両さんの像や大原部長が描かれたマンホールを見て、葛飾の地を去った。

『葛飾ラプソディー』には、他にも中川や中央広場、ごんぱち池などが登場しているが、こちらについては、またの機会に語ろうと思う。


【チャンネル】


【前の話】


【次の話】


【関連動画】

この記事が参加している募集

熟成下書き

日本史がすき

書いた記事が面白いと思った方は、サポートお願いします!