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璦憑姫と渦蛇辜 16章「死者の行軍」①

 数日かけ賽果座サイハザの近海に到達した夷去火いさりびたち一行の舟は、汐曇りの中を滑るように進んだ。
薄靄の向こうに大小七つの島影が見える。どれもみな無人島であるがおかに最も近い島は海賊たちの根城であり、タマヨリもかつて寝起きした海賊島だった。

 「寄るか?」

とカイは訊ねたが、

「いやお頭の屋敷へそのまま向かう」

と夷去火は答えた。
舟は海賊島と無人の小島の間を抜けて進んだ。海賊島の黒い岩肌にはやぐらが組まれ、土塁と戸板とで寝ずの見張り番のように鎧われていた。

「見ないうちに海賊島はゴテゴテになっとるなぁ」

と云うタマヨリに、

肚津穢土ハラツェドが攻めてきたらここで足止めするんだ」

とカイが教えたのをウズが受けて、

「海から来たらこの七つ小島を通らないと賽果座には入れん。いわばここが門番よ」

と得意げに海賊島の役割や装備を説明し始めた。だんだんに熱がこもってくるウズの話を聞き流しながら、タマヨリは舟と並走する海面の影を目で追っていた。
それに気がついた夷去火が、

「おっ、迎えがきたな」

とにやりとすればタマヨリはそのまま海中へ飛び込んだ。

波座なぐら!」

そう呼びかけて鯱の鼻先に抱きつくと、さかなも甘えるように身をよじった。
背鰭に手をかけると波座はぐんと速度をあげて、タマヨリを乗せおかをめざし泳ぎ始めた。

「おい、波座に負けんな!競争だ!」

ウズが櫂を掲げて叫べば、

「ハト、負けないよー」

と俄然やる気を出した若者三人はがむしゃらに漕ぎ始めた。それを煽るように鯱は跳ね、その背でタマヨリが手招きしてみせた。


沖の七つ小島

 
 そうして一行は陸に辿り着くと、休むこともしないで礁玉しょうぎょくのいる館へ向かった。
亥去火達が礁玉に状況を伝えている間、タマヨリは馴染みの海賊達の歓待を受けた。そのまま夜には亥去火達を囲んでの酒盛りとなった。
上を下への騒ぎの中、姿を現した礁玉に一目散にタマヨリは駆け寄って抱きついた。

「おいおい、いい娘になって帰ってきたかと思ったら中身は変わっておらんではないか」

「へへへ。礁姐の匂いだ」

「少し顔つきが変わったか?」

いつまでも離れないタマヨリの顔を礁玉は両手に挟んだ。

「そうかなぁ」

挟まれて動かなくなったタマヨリの顔をしげしげと見ながら前髪を梳いて流すと額の小さな傷が目にとまった。

「うかつだな」

と傷をなぞるとタマヨリはハッとなってかぶりを振った。

「違うんじゃ。これは母上に…………」

と云って口ごもる先を礁玉は聞こうとはせず、代わりに前髪を整えてやった。
不意に礁玉の中に予感のようなものが疼いた。
ワダツミに半ば押しつけられる形で引き受けた娘だったが、最初に感じたのは怖れだった。礁玉は怖れに従う。およそこの世に怖いものなどないような女だったが、怖れるべきものを正しく怖れることで航海と戦いの日々を今日まで生きのびた。
怖れの正体を見極めようとしても娘はただ幼く、礁玉に不思議なほど懐いた。人ならぬ力とその無邪気さはまるで不釣り合いで、さすがの礁玉にも手の打ちようがなかった。

ー親を探すと云って旅立った時、これでこいつとの縁は消えたと思ったが……。ワダツミがいなくなりタマヨリだけがまた戻ってきた。これは?

礁玉の手から解かれてもタマヨリはそばを離れず、肩を預けて座っている。

ーこの娘はあたしの竜宮らくどとなるか、泉下じごくとなるか、おそらくどちらかであろうな………

目の前の喧喧囂々たるさまに、束の間の思案から引き戻された礁玉はほうっと小さく笑った。
タマヨリはそれを気遣わしげに見やり礁玉が常と変わらぬのを承知すると、喧騒に負けぬ大きな声で聞いた。

「なあ、ろうの姿が見えんが」

「ああ、あいつは忙しくてな。あたしより偉くなったんだぞ」

とくくくと礁玉は笑った。

「浪、どうしたの?」

「巫女の夫になったのさ」

「本当か!?」

「ああ。病いの巫女に代わってお告げを王に伝える新しい位をつくってな、それが実質は三国の王以上の実権を握ることとなった」

それは礁玉とコトウが描いた筋書きであった。水軍の長として礁玉、まつりごとの不可侵の存在として浪を立てた今、賽果座はほぼ礁玉一味の手中にあった。しかしタマヨリが喜んだのはそこではない。

亜呼あこは………大好きな浪と………亜呼ああああ、良かった!!!」

タマヨリは海賊達の間を浮かれ踊って一周した。

「後で浪のところに行くといい」

礁玉は静かに云った。声の落ち着きが不穏であった。

「亜呼もいる?」

そう聞いたのは、己の禍々しい予言と殺戮の記憶からタマヨリは亜呼に避けられるようになったからだ。
それでも旅立ちの時、たったひとりの親友は「仕合わせになってね」と人を介して伝えてきたのだ。
会い見えることは叶わなくても、亜呼の仕合わせを願うのはタマヨリも同じだった。

「水に還った」

と礁玉が云ったことの意味をタマヨリは理解できなかった。
賽果座の巫女は亡くなると沼地にある湖に舟に乗せて送られる。代々の巫女もそのように埋葬され、その力は水を通して次代の巫女の水鏡に力を与えると云われているのだ。
その話を思い出したタマヨリは一言「なんで………」と聞いた。

「産褥からそのまま」

礁玉は短く答えた。

「後で浪のところに行くよ。久しぶりに亜呼にも会いたいんだ。話したいことがたくさんあるんだ、きっと亜呼もおれに聞いてほしいことが山ほどあるはずだ」

笑っているタマヨリの目から涙が押し出されるように溢れた。



 葦の茂る沼地から水鳥が一斉に飛び立った。タマヨリと浪の気配を察したからだったが、驚いたのはタマヨリの方だった。無数の鳥の羽音が曇った空を旋回し、鳴き声が鳴き声を押し出してけたたましく響いた。
声が静まるのを待って、来る途中で手折った百合の花を湖の淵から放った。水紋が消えても花は沈まず微かな風に揺れてたゆたった。その下の阿呼の眠る水の世界の底は見えなかった。

「おれは親が見つかれば、全部分かって納得できるんだとばかり思ってた」

道中、タマヨリは浪に賽果座を出てからの旅のあらましを語った。浪には浪で聞き出すべきことはあったし、タマヨリは聞き上手の彼相手なら蟠った心内も言葉になって解けた。

「化け物のおれは、どこにおっても収まりが悪いんじゃ。岐勿鹿きなじかの望むようにも母上の望むようにもできん、帰ってきたがおれは………、ただ逃げてきたようなものじゃ。本当は片付けなきゃいかんこともあった、磯螺いそらが云ったことや、贄になる女のことや、ワダツミの……ことだって………」

「私の思ったことを云ってもいいかい」

と浪が隣にきた。陸での生活が長いせいか日焼けのさめた肌は、冷え冷えとするほど白く見えた。

「うん」

「タマの中にはあべこべのものがあるね」

「あべこべって、何が?」

「母親やワダツミの側にいたい。でも、側にいてはいけない。何故なら、予言の通り母殺しと父娘相姦を犯してしまうかもしれないから。離れるのは自然なことだよ」

「でも、おれは絶対にそんなこと………しない」

「そう。しない、と思っている。でも、タマは母親が自分を振り向かないことを分かっている。ワダツミを自分の一部として感じている」

「だからって、予言なんて……、予言なんて」

「そう思うほど引っ張られているではないのかい?タマは自身が恐ろしいのだろう。出生も身に余る力からもできれば目を背けていたい。己の己でない部分が怖くて仕方ない」

「………うん、きっとそうだ」

「なぜなら母を殺すのも造作ないと知っている。分からないのは、父なるものだが……。ワダツミは状況次第で、いや胸先三寸でどうとでも出る男だ」

タマヨリはうつむいた。違うと云いたいが浪の云うことがもっともなような気がする。

「私ならタマを無理にでも連れ帰ったが、亥去火はそうしなかっただろう」

「ああ、どうするか聞かれたな」

「タマが肚竭穢土の皇子の元にとどまることを良しとするなら、あいつは何も云わないししなかっただろうね。まあ、見かけによらずおせっかいなところはあるとしても」

「…………己で決めて戻ってきたはずなのに、おれはそれを引き受けていない」

「自由には代償がともなうからね」

「そんなようなことを夷去火も云っておったな」

「あいつはそんなことをタマに云うのかい?」

「うん。でもな浪、おれは何から・・・自由になりたいのかそんなことも分らんのじゃよ」

湖面の百合に小鳥が一羽留まった。軽やかに茎を伝い、羽ばたいて森の方へ消えるまでタマヨリは目で追い続けた。

「それはそうと、海賊たちといる時は己を怖がらんでいい気がする」

「ほう」

「礁姐も亥去火も浪もみんな強いからな」

「それは光栄だな」

「でもな………」

と云いかけてタマヨリは口をつぐんだ。戦をやめて欲しいと喉まで出かかったのを浪は察したかもしれない。
神の務めを果たすことより、ただ気心知れたもの達とずっと暮らしていけたらと、そんな思いが滴り落ちる。

「でもな」

と別のことを継いでいく。

「おれもワダツミも旅寝暮らしをするしかないのさ。そう決まっておるのかもな。同じようなことをぐるぐる考えて、行っては戻って、人の世には住むところがないな」

「なあタマ。おまえは私にひとつふたつ黙っていることがあるね」

どきりとしたタマヨリが不自然に目をそらすと、浪はくつくつと笑った。

「当たりだね。じゃあ隠していることを云おうか。タマヨリは『竜宮』に帰る方法をもう思いついている。そしてその行動のきっかけになるのは……」

タマヨリの視線が懇願するように浪の顔を射た。

「………うーむ、それは私にも分からないなあ」

「………ほんとうか?」

「ああ」

「千里眼なんじゃろ?」

「え?」

「肚竭穢土ではそう云われとったぞ」

「そうならよかったなあ」

「なんだ!違うのか!」

なんでもかんでもお見通しなのかと萎縮していたタマヨリは、それを聞くと伸び伸びと腕を広げた。
そこにポツンと雨の最初のひと雫が落ちた。

「あ」

「降りだすかな、さあ、もう戻ろうか」

浪は湖に背を向けて歩き始めた。タマヨリも数歩遅れて後に続いた。



「タマ、これは私からの頼みだが、かの国と戦になった時はどうか一切の手出しはしないでほしい」

先を歩く浪の表情は見えない。黙っているタマヨリに念押しのように、

「おまえの無事は私達が約束する。もちろん、ワダツミや乙姫からもだ」

と続けた。

「いや自分の身くらい自分で何とかできるよ、それより手を出すなってなんもするなってことか」

「本音云えば味方になってくれれば心強いが、そうでないなら関わらないでくれ」

「じゃあ、浜で唄でも歌っておるのはいいんか?」

「そこにじっとしていてくれるなら」

「……ああ」

灌木の間の人ひとりがようやく通れる道をふたりは進んだ。歩みが遅いのは道が泥濘んでいるせいもあるが、亜呼の眠る湖から離れたくないゆえでもあった。

「さっきは隠しごとまで聞いてしまったからな。私の秘密も聞いてもらおうか」

「なんじゃなんじゃ、浪も隠し事か」

「ああ。亜呼と私の婚姻はまつりごとの上の駆け引きだった」

「え……」

「私はね、断られてもいいと思っていたのだよ」

「そんな!亜呼は浪のことずっと前から好いておったのに」

タマヨリは今にも飛びかからんばかりの形相になった。

「知っていたよ。私達はね、利用できるものは何でも利用してのし上がってきた汚れた人間なんだよ。小娘の恋情など都合のいい道具でしかなかった」

「おい、怒るぞ」

「それを私はあの子に伝えた」

「酷すぎるじゃろそれは!」

「だから私は断られてもいいと思っていた。断った方がよかろうと………」

「………」

「全て伝えた。すると亜呼はこう云ったんだ。仕合わせになる覚悟があります、と。だから夫婦になっても大丈夫ですと私を見据えて云ったんだよ」

「亜呼………」

「こんなことをタマに云うのもおかしいが、礁玉の頼みだから受けた話だった」

タマヨリの口が開く前に浪は振り返って微笑んでみせた。

「それが、その時のあの子を私は今でもよく思い出すのだよ。私は、きっとあの時、いやあの時からかけがえのない人になったのだよ………亜呼が」

「ああ……なんじゃ、そうか。そうなのか」

「私は賽果座一の仕合わせ者だよ」

「なんだ惚気か」

ふふっと浪が楽しげに笑んだ。

「赤ん坊をみにくるかい。イオメという女を覚えているかな、今は乳母をしてくれている」

「もちろん行くよ。イオメも覚えておる、あんなデカい声、忘れるわけない」

「髭のイリエと一緒になったが変わってないよ」

「うん。なあ、子どもかわいいか?」

「決まってるさ。亜呼と私の子だよ」

「へー、名は?」

「亜呼弥だ」

沼地を抜け雑木林に差し掛かった時タマヨリはふいに振り返った。浪がそれに気付き足を止めてもタマヨリはしばらく動かなかった。湖の方に向き直り、

「亜呼、おれはねやっぱり仕合わせになるよ。後悔はしないよ。おれはおれにしかできないことをする。そしたら生まれてきたわけも、変わるかなぁ」

と云うと浪を追い抜いて歩き始めた。
空から落ちた雫があっという間に沼地も林も隠すような雨に変わった。





続く


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