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璦憑姫と渦蛇辜 終章「海神(うみがみ)」②

 それは海の向こうから迫ってくる波の壁だった。大きすぎてその壁と島との間にどれほど隔たりがあるのか目測できないほどだった。
その巨大さに目が釘付けになってそのまま吸い込まれていきそうな、万物の物差しから外れた高波をタマヨリは見ていた。

ーあれは『波濤はとう』じゃ。

タマヨリは直感した。
鉾の力のあらん限りにさらに上乗せした力でもって起こした高波だ。
誰が?
もちろん『波濤』を持っているのは乙姫だ。それだけでなく彼女に力を貸すものがいる。

ーああ、海の神さま達はお怒りだ。島を砕いてワダツミを引っ張りだすつもりじゃな。

八十諸神やそもろかみの誰も手出しできなかった島の結界は、乙姫によって綻んでいる。ただの高波ではなく、神々の剥き出しの牙を持った波だ。

「『いさら』!」

低い声で呼びかけると肚から一振りの儀仗が引き抜かれた。

タマヨリは海嘯かいしょうに向けてそれを水平に構えた。
突風がタマヨリを押し返そうとゴゴウと吹き過ぎれば、髪が逆巻くように宙に開いた。
『いさら』を握る手に力を込めた。波を切る。島には指一本触れさせないと、タマヨリは奥歯を噛み締めた。

 剣の刃を越して見る波の壁は嵩を増している。まだ島から随分離れているのだろうが、海面が盛り上がってくるさまが見てとれた。
聞いたことないような海鳴りが空気を震わせはじめた。海が無情に押し寄せてくる。それに合わせてタマヨリの心の臓はどくんどくんと大きく波打った。
迫る波を前にして、この島はなんと小さなおかだろう。
波はただ通り過ぎるだけで、島の全てを均してしまうだろう。
ぐんぐん、ぐんぐんと。
どくん、どくんと。
波と心音とが高まっていく。
海嘯は対峙するにはあまりにも圧倒的だった。
さあ切ろうと思って果たして切り崩せるものか。
『いさら』は死者を呼ぶ剣だ。泉下からありったけの死者を呼び集めたらあの波を押し返すことができるだろうか。
間に合うか間に合わないか、やれるかやれないか。それを計ることはタマヨリにはできなかった。
タマヨリのできないことのおおよそはワダツミが出来るのだ。

「ワダツミ………、どうしたらいい? 」

と半身の魂に向けて語りかけた。答えはすぐに耳朶の奥に返ってきた。

「ああ、構わない、行ってくるよ」

タマヨリは小さくうなづくとこう唱えた。

「『下海げかい』が乙姫………その真名によって、居所を明かせ! 」

 乙姫の巫術ふじゅつは真名を隠すことで己を隠し他者を操る。名を暴くことで居場所を突き止めることができるのだ。

「汝の名は妒因靈比売とよたまひめなり」

『いさら』が高く鳴り、乙姫と共に海の底にある『波濤』に共鳴した。

「そこにおるな。母上」

海嘯が迫ってくるのと同じ方角に、乙姫の存在をとらえた。
あの波の下に母親はいて、この海嘯を起こしているのだ。一度起こった高波は戻せない。
『いさら』で波を切るより死者を呼んで押し返すより、確実に波を捌く方法はひとつだけあった。
波を喰って術を仕掛けた者ごと屠る。
海嘯そのものを無かったことにする。それができる力がタマヨリの中にはあった。
歴代の海神の中でひたすら強くあることを望まれた、冥府の力を宿した神の片割れ。

 タマヨリの周りで空気が震えた。それが波紋のように広がって、あれほどうるさかった海鳴が嘘のように静まった。
足元の波だけが急に悶え、影が魚の姿に大きく膨らんだ。膨らんだかと思うと見る間にタマヨリの中へ収斂していった。何か見えないものの嵩がタマヨリを中心に増していく。力の演舞が起こり、近くの水面では風よりも強い力で波の背が抉れた。


 力が静が鎮まると風が丸ごと凪いだ。
そのひと呼吸のあと、タマヨリは打ち寄せる波を蹴って走り出した。未だその巨大な姿を微塵も崩さない海嘯に向けて全力で駆けた。
駆けながら手にした『いさら』を後に放り投げた。
『いさら』は大きく弧を描き宙で一瞬止まったかに見えたがそのまま浜に落ちた。タマヨリは振り返らなかった。
腰まで水に浸かるとそのまま大きく体をしならせて泳ぎ始めた。

 懸命に進む体から香気のようなものが溢れた。口元から立て続けに上っていく泡は光りながら水面へ向かった。髪に纒わる気泡の輝きがタマヨリを彩っては離れた。
水の中でタマヨリはいっさい瞬きをしない。目指すは術をかけた乙姫だった。その方角から見開いたままの眼を動かさない。
腕に生えた鱗が広がってその肩を覆った。進んでいく娘の脚が尾鰭になり、両腕が消えてひれになり、体は輝くような紅の鱗に端の方から覆われていった。
その体は見る間に膨らみ、鯨よりも大きくなった。
大きくなればなるほど速度をあげ、やがて途方もなく巨大な紅い早潮はやせとなって沖へと向かった。
 
 岩礁にさしかかった魚はその巨体を一度だけ宙に踊らせた。
出ていったきり戻らないタマヨリを心配した島人達が、洞窟の外へ出て海に目を移した時だった。
海の縁から迫り来る海嘯と途方もなく大きな赤い魚を見た。
その跳ね上がった姿は島よりもはるかに大きかった。一度きりその姿を見せた魚は沖へ沖へと海嘯目指して進んでいった。
 

 そのタマヨリの心内にあったのは何だったのか。
島での海賊とその子らとの暮らしだったのか、長い旅の中で出会った人たちの姿だったのか、母親や凪女なぎめのことだったのか、兄との思い出か、あるいはワダツミが見せた『竜宮』の情景だったのか。
魚の目になったタマヨリからはいずれもうかがい知れないが、娘は歌っていた。失われていく美しい声の今際に、歌って、兄を呼んでいた。

 冥府の怪魚の姿が顕然すれば荒ぶる波などものともしなかった。魚になったタマヨリは瞬く間に海嘯を飲み込んだ。
そのまま海の底深く潜っていった。水底は碧く暗く、しかしタマヨリの目には乙姫の姿がはっきりと分かった。
怯えた乙姫は『波濤』を手にしたまま、海溝深く潜っていく。海の割れ目のその奥の奥なら、あれほど巨大な体では追いつけまいと思ってだ。
しかし恐るべき速さでタマヨリは乙姫に先回りした。その体は大小を自在にできた。
 
 「来るな! この化け物が! 」

乙姫は岩の隙間へと体を押し込んだ。驚いた湯花蟹ユノハナガ二達が一斉に岩をかけ落ちていった。

「化け物になどなりたくはなかった」

とタマヨリは云った。娘の声ではなく錆びついて軋むような声音だった。

「あなたが化け物だと云うから化け物になった………化け物になっても守りたいものがあった」

「来るでない! こっちへ来るでない! 」

乙姫は『波濤』を振り回したが、魚はその牙の生え揃った口で鉾の先を咥えると飲み込んでしまった。

「あ……! 」

いよいよ分が悪くなった乙姫は命乞いをはじめた。

「おまえを産んでやったのは誰じゃ? 妾じゃ。海に漂う肉片だったのを妾が顔体まで与えてやったであろう。恩こそあれ恨まれる筋合いはない。……そうか!凪女なぎめか。凪女のことを怒っておるのじゃな。あれはしょうのない女だったのさ。狡くて卑しくて。そうじゃあの女に妾はそそのかされておったのじゃ。おまえが不幸の元凶だと。
分かってくれ、璦憑姫タマヨリヒメや。
我が子が憎い母親などどこにおろう。さあ、さあ、妾ほど不仕合せな母親はいない。我が子に殺されるのだからなあ!
ずっとあの予言に怯えてきた。璦憑姫、どうか嘘じゃと、あのような怖しい予言は嘘じゃと示してくれ。
竜宮の王などになってもおまえにはにつかわしくない。そうであろう?
おまえはあの島で、あの人間どもと暮らすのを望んでいるのだろう。さあ、戻るが良い」

「あの島にはかけがえのないものがある………」

「そうであろう! そうであろう璦憑! ではー」

「『私』は璦憑ではない」

と魚は云った。乙姫はこれまでとは別の背筋が凍るような感覚に見舞われた。
目の前の怪魚から感じられたタマヨリの気配が酷薄になりつつあった。代わりに威圧的な冷たさが滲み出している。ワダツミのそれのようでいてもっと他を寄せ付けない気配のようなもの。『真海』の至高の光と『下海』の陰惨な泥濘を同時に見せつけられているようでもあった。
乙姫の心内で予言が反芻された。
“母なるものを殺し、父なるものと交わり、その者『真海しんかい』の最期の王とならん”。

「ははっ、はっ」

乙姫は引き攣ったように笑った。

「父と交わるとは情交ではなかったのか。『波濤』をつまり父のしるしを食らったということか」

『波濤』を身の内に収めたタマヨリはタマヨリでもワダツミでもある者、そしてどちらでもない者へと戻りつつあった。

「妾を殺して………い、いったいおま、おまえは何者になろうと………のじゃ」

怯えて呂律の回らない乙姫を魚は見下ろしていた。

「予言は成就するであろう……」

と魚は低い音で思慮深げに云った。

「あなたはずっと母だった…………。母を『母』でないものにするには、己が『己』でないものになるしかないのだから」

「では………、おまえは誰じゃ? 」

それが乙姫が発した最期の言葉だった。魚はその口で乙姫を躊躇うことなく飲み込んだ。
深海に沈黙が訪れた。
朽ちた鯨の骨に群がる蟲と目の見えぬ魚だけがその一部始終に立ち会った。
深い海の底、無辺の暗闇の中に再び産まれた神は、人の似姿へと変わっていく。
乙姫の消えた声に向けて神は応えた。
『竜宮』の王に相応しい静かで神々しく、しかし何一つ情感のない声で、

「我が名は『海神わだつみ』」

と。

 




続く



 



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