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「わたし」というゲル状の何かー「#親を救えば子も救える」の使い方

ハッシュタグで広げる、虐待を予防するプロジェクト、「#親を救えば子も救える」。

先日、一緒に運営している上野さんとはじめて会う機会に、音声収録を行いました。

はじめて音声収録をして気づいたこと

messengerでのやりとりや、それぞれの言葉で綴ったnoteはあったものの、口と手では引っ掛けてくる言葉が違ったりして、普段使わない筋肉を使うような楽しさがありました。

無から自己紹介する難しさ

一方、めちゃんこ難しかったこともあります。

それは自己紹介

えっと、音声聞いている人向けの自己紹介だよね?上野さんは知っているけどわたしのことは知らない人に向けた…、つまりわたしとは何の関係性もない状態の相手へ語りかけるわけだ…上野さんと一緒にハッシュタグを考えた人です…あ、それはもう紹介されてるから…もはやそれ以上に語ることがない…でも何者かわからないと…カメラマン…?…このタグを作るのに写真の仕事関係なさすぎる…どうでもいい情報じゃね…??

…と、マジ何喋っていいかわからず沈黙 笑

そして、

「えっと、写真家でもカメラマンでもフォトグラファーでもなんでもいいんですけど…」

コミュ障極まりない出だしで語り出してしまい。このテイクはソッコー終了しました 爆

移り変わる「わたし」という自意識

こういう、自分の中で固形化していないことって、ほんと口から出ない。

英語が読み書きできても話せないのと同じ。

あらためて、わたしは自分が何者かという意識がないんだな、と確認した出来事でした。

ただ、依頼をもらって、現場で名刺を渡すことは全く苦ではありません。なぜなら、その場で求められている役割としての私は、カメラマン以外の何物でもないからです。

家の風呂場で「おかあさーーん!!」と絶叫する子に駆けつけるとき、わたしはまぎれもなく母親で、そこに違和感はありません。

道路で子どもの友達とすれ違って手を振って挨拶するときは、「○○ちゃんのママ」だし、間違って知らない子に笑顔で手を振ってしまったときは、ただの「不審者」であることを認めます。

そして、子どもが食べ終わるまで全ての仕事を放棄して、しばらく布団で横になっているときは、水のお代わりを要求されても応じない、ただの「動物」です。

その場その場での「何者かという自意識」はあるのです。

「わたし」というゲル状の何か

わたしは、谷川俊太郎のこの絵本が好きです。

何が好きって、この絵本は最後まで、他者から見た「役割 ≒ 枠」を取り払っても残ると信じられている西洋的な「確固たる自分」がどこにもでてこないから。

わたしは確固たる自己なんて、幻想だと思っています。

「自己(わたし)」という意識はゲル状の何かで、型がないからといって、流れ去ってしまうことはないにしても、ドサっと置かれたら、ただの得体の知れないスライムで、ぷにぷにしてちょっと気持ちいいくらいのもの。形もそのとき次第で、何の形でもない。

型に入れて置けば、しばらくは安定するけど、同じ型でも別の角度から見ると全く別の形に見えたり、型によってはあぶれたり、満たしきれなかったり。でも、一応型に入れれば、それっぽい形にはなる。

とても便利だけど、型に入っているにすぎない自分を「確固たる自己」だと誤解してしまうと、固くなって抜け出すのが難しくなる、ちょっと怖いものだとも思っています。

「虐待親」であるという自意識

子どもを叩いてしまっても、容易に児童相談所へかけ込めないのは、「この自分は『虐待親』である」という自意識が固まることを恐れる気持ちがどこかにあるように思います。

少なくとも自分にはありました。

睡眠障害で、薬をもらいに病院に通っているとき、「この人は精神的なトラブルを抱えている人」という眼差しに囲まれ、「病人」という自意識に飲まれるのが次第に心地よくなっていくのを感じたし、

失業していたときは、職安の門をくぐって認定されるたびに、仕事をする能力がない「失業者」らしくなっていって、最終的には受付ギリギリに間に合う時間に起きるようになってしまいました。

もちろん、あれこれ言っている場合ではなかったのだから、お世話になってよかったと思います。

でも、そんな経験もあって「特別なケアが必要な存在」という自意識が育つことへの怖さが、依然としてあるのです。

親がただの親のままでいられること

自分ではもはやどうにもできない状況に追い込まれた人を助ける仕組みは絶対に必要です。

一方で、わたしのように、弱者としての自意識が育つのが怖くて、そう扱われることに臆病な人もいる。周囲からの目が厳しくなるなら尚更に。こういう人はどうにもできない状況になっても、なかなかSOSを出さない。

ハッシュタグをはじめたのは、少しでもSOSが出しやすくなる空気を作りたいという気持ちに加えて、SOSを出さなくても自主解決できるような仕組みを作りたかったから。

このことが音声収録して初めてわかりました。

音声の最後の方にありますが、そのことを話しながら急に言葉になって出てきたのには、自分でもびっくりしたくらいです。

困ったときは、Twitterで「#親を救えば子も救える」を検索してみて。

そんなことを話しました。もしよかったら、聞いてください。

(上の写真は上野さんです♪)



自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。