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駄馬裕司 『天皇と右翼・左翼 日本現代史の隠された対立構造』 : 評価における〈評価者の自己評価〉の問題

書評:駄馬裕司『天皇と右翼・左翼 日本現代史の隠された対立構造』(ちくま新書)

私の前に8つのレビューが投稿されているが、評価が大きく二つ分かれている。こうした場合、レビュアーの政治思想的立場からの対立であることが多いのだが、本書の場合はこれとは違う。

本書の場合、極めて「個性的」な歴史研究家である著者の、長所を評価するか、短所を強調するかの違いによる対立であって、著者自身をどう見ているかについては、それほど大きな違いはないのだ。
つまり、肯定派は「ちょっとクセのある人だけれど、その博捜博識から得られた面白い着眼点と問題意識は、高く評価すべきである」というものであり、否定派は「細かい内容以前の問題として、著者は根本的に思い込みの人だから、とても評価できない」というものだ。

それで私の評価はと言うと、肯定派である。それでも、やはり「星3つ」になってしまうところが、著者と本書の、諸手を上げて褒められない難点の所以である。

なぜ、私が肯定派なのか。それは、本書の著者ほど近現代史資料を公汎かつ詳細に読み込んでいるレビュアーは、私を含めて一人もいないだろうからである。
つまり、著者の「筋読み」が正しいかどうかの判断を、責任を持ってできるだけの資料的裏づけを持っているレビュアーはいないのだから、「印象論」で著者を「思い込みの人」と決めつけてしまうのは、批評的に無責任だと考えるからである。

たしかに、私も著者を「思い込みが強く、やや被害者意識の強い人」「一人で学会の政治性と戦っていると思い込んでいる人」との「印象」は強いし、言葉の端々にそれを窺わせるものがある。
しかし、どんなに「性格的に問題のある人」であろうと、資料を示し「仮説」を示しているのである以上、その「仮説」にやや無理筋的なところがあったとしても、それを批判するのなら、具体的な資料や根拠を示して対抗するのが筋であろう。

無論、著者は現近代史の専門家であり、レビュアーはたぶんアマチュアだろうから、そのようなかたちでの真正面からの反論は不可能に近いが、しかし、そのアマチュアの立場に胡座をかいて、資料的な根拠もなく著者を「変な人」だと決めつけて、著者の著作を全否定するかのような評価を公にするのは、評価者として倫理を欠いており、根本的に間違っていると思う。また、そのような礼節を欠いた、素人による無責任かつ身の程知らずな「上から目線の評価」などが少なからずあるからこそ、著者も意固地になってしまうといった側面もあるのではないだろうか。

たしかに著者の「仮説」には、やや極端なところ、「深読みしすぎ=過剰解釈」のきらいはあるけれども、まずはその博捜博識の努力には、応分の敬意を評した上で、批判すべき点は批判し、疑問を呈するところは疑問を呈する、というかたちでの、節度あるレビューが必要なのではないだろうか。

このAmazonレビューのような場所では「勘違いしたアマチュア(お客様)が、上から目線で、プロを無造作に裁断する」といったことになりがちだが、プロであれアマチュアであれ「己を知る」ということがなければ、批評対象への適切なアプローチは不可能であろう。

逃げも隠れもしない著者と対面し、正々堂々の論争をしてでも「勝てる」というだけの根拠と自信がない人は、著者を馬鹿にしたようなことを書くべきではない。それは人間として、端的に不遜かつ卑怯な、身の程知らずに他ならないだからである。

初出:2020年5月15日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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