橘玲『「読まなくてもいい本」の読書案内 知の最前線を5日間で探検する』 : 大見得を切りたがる合理性
書評:橘玲『「読まなくてもいい本」の読書案内 知の最前線を5日間で探検する』(ちくま文庫)
素晴らしい本である。物事を事実に即して考えるために必要とされる「いま最も切れ味の良い知の道具立て」を紹介しているのだから、これが面白くないわけがない。
しかし「古い道具は、役に立たない。それにかかずらわるのは、限られた人生の貴重な時間を、浪費することでしかない」とか「文系諸学の擁護など、既得権益受益者の自己防衛でしかなく、学ばされる側にはデメリットしかない」といった断じ方には、この著者独特のケレン的過剰さが感じられ、「なにかトラウマでもあるんじゃない?」などと揶揄したくもなってしまう。
そもそも、橘玲の言う「知」とは、物理的事実についての事実に即した認識といったことのようだが、人間が作り出した観念世界というものは、そんなに合理的なものでも単純なものでもないし「だから面白い」ということだって多々あるのだ。
例えば、文学作品における「人の心理」というのは、非常に難解複雑であって、進化心理学的な説明の網では、その網の目が荒すぎて、ほとんどをすべてを取り逃がしてしまうしかないだろう。
たしかに、私たちのリアルな人間心理というものは、そこまで複雑なものではなく、進化心理学的な説明の枠内に大半が収まってしまうのであろうが、その比較的単純な人間の意識が、自己を複雑なものだと思い違いしながら、その幻想を拡張強化する形で創作したものが、例えば文学や哲学だとしたならば、それは単純なパターンの自己言及的累積によって、極めて複雑な構造を持つにいたった、一種の「複雑系」だとも言えるのではないか。そして、人間はたしかに、そういう「世界」に生きている。
だから、そんな「複雑系として人間心理」を、単純に「古い」とか「役に立たない」などと断じてしまえるものなのかと、私は疑問に思うのである。
そもそも、複雑なものを、単純な基本パターンに還元して理解することに喜びを覚えるのも「知」なのであれば、複雑なものをその複雑さ(難解さ)の故に美しいと感じるのも「知」なのであって、前者の故に後者が「古い」とか「役に立たない」とかいった評価を下すことは、趣味に偏した、根本的に筋違いの評価なのではないだろうか。
私は、自身が、もともと矛盾を抱えた人間であることを自覚している。それは、「神」のような超越的な存在にどこかで惹かれながら、しかし、それが「完璧な存在であるべき」だと期待するが故に、安易に信じることも出来ないから、それに徹底的な批判を加える、無神論者的な立場に立ってしまう。
謎が「真の謎」であるためには、それを解かないのではなく、徹底的に解いても、最終的に「解けないもの」であることが証明されなければ、それは謎の名に値しないから、安易にそれを謎と呼んだりはしない、といった具合なのだ。
だから私は、端から「神」などいないと思って相手にしない人よりも、徹底した「神」批判者だし、安易に「神」を信じられる人よりも、よほど真摯に「神」と向き合う人間なのである。
そして、ことは橘玲がいう「新しい科学的思考」というものについても、同じだ。私は、それがそこまで「万能」めいたものだとは、にわかに信じられない。
それもまた、一種の「信仰」なのではないか、これまで人間が何度も繰り返してきた「過信」の新しいパターンなのではないか、と疑わざるを得ないのだ。
それほど、人間は当てにならない、と思っている。
したがって、橘玲の説にも「そんなに単純な話なのか」と疑ってしまう。
橘自身「人間の意識は(なかなか)進歩しないようだ」という趣旨のことを本書でも書いているが、それならば「知のパラダイムシフトの前と後」で、人間的な知のあり方がガラリと変わって、それ以前のものはガラクタになり、それ以後のものは素晴らしい、なんていうような感じ方は、かつてマルクスの思想が世界を席巻した時に多くの人が感じた「これですべてが説明できる。すごい!」と似たようなところが、本当に無いと断じることができるのか、と疑ってしまう。
そもそも、橘玲には「文学的なセンスが欠落」しているのではないだろうのか。
脳科学的な現象として、よく知られる「サヴァン症候群」のように、脳内ストッパーの故障によって、一部の能力が過剰に発揮されることがあるように、橘玲の示す「合理的で有効性の高い知のあり方」というのは、サヴァン症候群的なカタワの世界観なのではないだろうか。
文系の示す知のあり方とは、しばしば、非合理で迂遠で混乱しており、かつ自虐的であったり自己破壊的であったりするところもあるわけで、それはたしかに非合理的で不経済な部分を多くふくむものではあるものの、しかし、そうした「試行錯誤的な慎重さ」や「複線的思考」も、人間が生きることにおいて必要な、つまり世界の複雑性に対応するために必要な「進化によって付与された要素」なのではあるまいか。
古い知は「役に立たない」という発想は、役に立たない文学的な知を愛する者には、合理的ではあれ、貧困なもののように感じられるし、単純すぎて面白みに欠ける。
もっと、何かつかみどころのない要素を、いろいろまといつかせて生きているのが、人間というものなのではないか。
橘玲が愛する「科学的な知」とは、不合理な(と見える、複雑系としての)世界や人間という前提があってこそ、初めて面白いし、役にも立つのだろうが、そのセンスだけで、世界や人間を「プロクルステスの寝台」のごとく切り詰めるのは、いかにも危険でもあろうし、なにより安易かつ、つまらない合理性だと、私にはそう思えてならない。
そんなにまでして「ぜんぶお見通しだ」と早々に断じたい欲望とは、真の「知」なのであろうか。
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