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津村一史 『法王フランシスコの 「核なき世界」 記者の心に刺さったメッセージ』 : 〈法王〉という呼称と 信仰的謙遜

書評:津村一史『法王フランシスコの「核なき世界」 記者の心に刺さったメッセージ』(dZERO)

本書は、昨年(2020年)の「教皇フランシスコの来日」に同行取材した、共同通信のバチカン担当記者である著者による、「フランシスコの言葉」の読み解きだと言えるだろう。そのため、内容的には、宗教性は薄く、政治的な問題が中心となっている。

要は、本書タイトルにもあるとおり、フランシスコが念願の来日にあたって、どれだけ突っ込んだ「核利用批判」の言葉を口にするかという点に、著者の関心は集中していたと言える。
そして、その観点からすれば、フランシスコが「核兵器」の「使用」だけではなく「保有」までも批判している点を高く評価しながらも、そもそもの「核の平和利用」という問題について、「世界唯一の原爆被害国」であり「原発事故被害国」でもある日本の地において、明確に「核の平和利用=原子力発電」まで否定することをしなかった点に、著者は期待はずれの感を表明してもいるのである。

フランシスコは、帰路の機内における記者会見では、技術的に未完成で多大な危険性を伴う原子力発電行政への批判の意志を明確にしているが、来日時におけるメッセージや、安倍晋三総理との会談では、その意志を明確に語ることはなかった。
もちろん、フランシスコが「二枚舌」だというわけではなく、避け難いさまざまな配慮の働いた結果なのだろうが、それでも本書著者には、それが「期待はずれ」だと感じられたのであろうし、そう感じたのは、私をはじめフランシスコを知る多くの日本人に共通する思いだっただろう。

しかしそれは、ある意味では「フランシスコへの甘え」を含んだ、過大な期待だったとは言えないだろうか。

たとえば、本書ではフランシスコの肩書きを、一貫して「法王」としているが、私はこの表記に引っかかりを覚える。
というのも、フランシスコ以前の「ローマ教皇」は、この「法王」という呼称を喜んで受け入れていたけれども、フランシスコはあえて自身を、「法王」ではなく、「ローマ教皇」と呼んだのである。
そして、その意図は、自身を「(正教会その他を含む)すべてのキリスト教会の統治者」などではなく、「ローマ教会の最高責任者」にすぎないと「謙遜」するものであったことは明白だ。そうした意識があったからこそ、フランシスコは「教派」や「宗派」を越えての対話を推し進め、正教会との歴史的和解などを実現することもできたのである。
まただからこそ、私自身は、フランシスコのそうした意向を尊重して、「教皇フランシスコ」と呼んでいるのだ。

ではなぜ、本書著者は、今になってまでも、フランシスコをわざわざ「法王」と呼ぶのだろうか?
それはたぶん、その方が「権威」的であり「影響力」がありそうだから、ではないだろうか。

じっさい、キリスト教に詳しくない多くの日本人にとっては、「法王来日」と「教皇来日」では、印象がかなり違う。端的に言って、前者は「キリスト教のトップが来た」という感じがするが、後者だと「キリスト教の偉い人が来た」という印象しか受けないからだ。「(ローマ)教皇=法王」だということを、多くの日本人は知らないし、字面からしても、別物であると誤解する蓋然性がきわめて高いのである。

つまり、本書著者にすれば、「誤解しちゃいけない。フランシスコは、キリスト教カトリック教会のトップなんだよ。すごい人が日本に来たんだ。そして、こんなことを言ったんだ」と訴えたかったからこそ、普通の日本人にもわかりやすい「法王」という「旧称」を、わざわざ使ったのであろう。
しかし、これは、フランシスコ自身が嫌う「悪しき権威主義」ではないだろうか。

こうした本書著者の気持ちも、けっして理解できないものではないけれど、しかし、私にはこれは「フランシスコへの甘え」であり「偉い人の権威を嵩に着て、自分の思いを訴えようとする態度」にしか見えない。

結局のところ、フランシスコが訴えているとおり、すべての人が、弱者のために、自身の言葉で語り、弱者と連帯していくしかないのではないだろうか。
フランシスコだって、最初から「法王」だったわけではないし、そうではなかった頃の彼を、日本人の誰一人も言挙げしなかっただろう。彼が「法王」になって、孤独な戦いに邁進しはじめたのを見て、それに励まされて、彼を応援するようになっただけの、要は、よくいる「有名人好き」なのではないだろうか。

しかし、フランシスコだって、永遠に生きるわけではない。彼もまた、その道程の半ばで死ぬしかないし、彼の後任者の「法王」は、またもや反動の道を進んで、フランシスコの功績を台無しにするかもしれない。
それでも、私たちは、フランシスコの目指したものと同じものを、目指し続けなければならないはずだ。

ならば、私たちは、フランシスコに甘え、その権威に依存して、自身の影響力を大きくしようなどとするのではなく、自分自身の言葉を鍛えることで、自身の影響力を強めるべきではないだろうか。

フランシスコがそうしたように、私たちもまた、最後は「一人で逆風に向って立つ」覚悟が必要なのではないだろうか。

初出:2020年7月14日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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