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橘玲『上級国民/下級国民』 :最後は〈美意識〉

書評:橘玲『上級国民/下級国民』(小学館新書)

本書は、先ごろ話題になった「上級国民」という言葉についての考察をマクラに、現代社会を「知識社会化・リベラル化・グローバル化」という特性において捉え、その行くつく先を論じた作品だと言えるだろう。

「上級国民/下級国民」というキャッチーなタイトルのわりに、この話題にはそれほど紙数を割いていないので、やや期待はずれだと感じる向きもあるだろうが、「知識社会化・リベラル化・グローバル化を原理とする現代社会」論の部分は、十分に刺激的な論考であり、考えさせられる部分が少なくない。
もちろん、著者一流の、かなり決めつけめいた結論には「そう予想どおりに進むものかね?」という留保は付くものの、ひとまず「嫌なこと」を言ってくれるのは、知的刺激の提供として悪くはないと思う。

さて、本書を読んで、私が個人的に気づいたことは、私の立場が「境界的」だということだ。

というのも、大雑把に言えば、本書は、現代社会における上下への分断が、前記の3要素に由来するものであり、「高学歴で自由を重視し、出生地などに縛られない」エリートと「低学歴で平等性ルールを重視し、場所に固執する」非エリート、という、相反する存在特性によって自ずと分断されている、と診断しているのだか、私の場合は、その中間的であり、たぶん、かつての「中流」に近い立場だと考えられるからだ。

具体的に言えば、私は、高卒であり学歴はないが、読書が趣味で、知性というものを当然のこととして重視するし、その点について、いささかの自負も隠さない。
そして、個人としての力に自負があるからこそ反権威主義で、属性を問わない自由を求め、実力を重視するし、実力で得たものでもない「与件としても出生国や出生地」に、特別な意味を見出そうとは思わない。
もちろん、郷土に対する自然な(本能的な)愛着というものならあるが、それに特別な価値など見出さないし、見出す必要などない、と考える人間だ。

また、学歴は無いものの、比較的安定した職業に就いており、独身であるため、金に困ったことはなく、趣味に淫した、けっこう恵まれた生活をしていると思っている。
だから、社会に対するルサンチマンはなく、自身の不遇を嘆くような態度は、貧乏くさく見苦しいものだと感じる。
嘆くのではなく、怒れ、そして堂々と戦え、とそう言いたいタイプである。
したがって、被害者意識が強く、権威主義で、徒党を組んで匿名の暴力を常とする「ネトウヨ」が大嫌いである。

私には、比較的恵まれているという意識があるので、エリートと同様、恵まれない人たちには、同情的である。
上から目線だと言われようが、事実その通り「上」なのだから仕方がないと考える。恵まれている者が、恵まれていない人に同情し、力になりたいと考えるのは、決して恥ずべきことでもなんでもないので、それを「上から目線」だなどと言って非難するのは、恵まれない者の卑しい妬み嫉み僻みでしかないと考える。
もちろん、そんな風になってしまわざるを得なかった恵まれなさには、同情し哀れみを感じるが、とうてい共感などはできない。そこに安住してしまっては、単なる「負け犬」でしかない、と考えるからだ。

私は、庶民層に生まれ、そして今も庶民であるから、恵まれない人には同情的ではあるが、同じ庶民であるからこそ、負け犬に安住しているような庶民が嫌いである。
恵まれた者を妬み嫉み僻むのではなく、実力で下剋上してみせる気概は無いのか、とそう思う。
もちろん、先天的な障害や疾患などによって、努力してすら報われる能力がそもそも無いというのなら仕方がないが、恵まれなかった立場を言い訳にして、そこに安住する態度は大嫌いなのだ。

そして、こんな私だからこそ「庶民の味方を標榜し、庶民の敵に対して牙を剥くけれども、数に安住し、与えられたものに安住する大衆の大衆性・俗物性は大嫌いだ」という二面性を持つことになる。
大した能力もないくせに威張り散らしている奴らも嫌いなら、投げ与えられた餌に満足して向上心を捨てたような大衆も嫌いなのだ。
上が上なら下も下だ、というのが、私が今の日本に持つ印象なのである。

したがって、橘玲の言うことは、大筋でもっともな話であり、直視しなければならない現実を知らせてくれている点で、本当にありがたいと思うのだが、しかし、「王様は裸だ!」と叫んで満足している風な点に物足りなさを感じもする。

もちろん、この危機的な現状と、度し難い人々に対して絶望し、そのため、希望を語ったり無駄な抵抗を足掻いて見せたりする「偽善」を引き受ける気にはなれないというのも、心情的にはわからない話ではないのだが、しかし、そこまで絶望的な現実が見えているのなら、いっそ開き直って「美意識」に生きても良いのではないかと思う。

悲観的な状況に嘆いたり、拗ね者ぶって見せたりするのではなく、そして、誰か他人のためなどではなく、自分のために、あえて希望を掲げ、無駄な抵抗にその身を捧げるヒーローを演じてみても、いまさら損はないのではないかと思うのだ。

わかってるだけで、何もできない。だからと言って「少なくとも、俺はわかっているよ」と世間に向けて、意味のないアリバイをアピールばかりをするくらいなら、開き直って無駄な抵抗をした方が、まだしも美しいのではないだろうか。

そうした点で、私はいつも橘玲のあり方に、不徹底な「物足りなさ」を感じるのである。

初出:2019年8月8日「Amazonレビュー」

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