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障害は子どもにはわからない?|インクルーシブ教育と家族児にしてほしい大人からのアクション

私はハンコ作家として活動をしているので、よく小学校などで子どもたちに向けてものづくりのワークショップを開催します。
調子が良ければ杖で行くこともありますが、たいてい車椅子で行きます。
一昨年の冬、4年生のワークショップの最後に「何か質問はありますか?」と子どもたちに聞いた時、こんなことを言った子がいました。

先生は、なんで車椅子なんですか?

私は一瞬たじろぎました。
「これは、どう説明したらわかりやすいんだろう」「心の病気です、と言っても子どもたちの頭の中では病気と車椅子が結びつかないだろう」と一瞬でいろんなことを考えました。
先生は「子どもがマズいことを聞いた」という顔をしています。
私は答えました。

えーとね、先生の脳みそは、手足に命令を出せないんです。だから車椅子なんです。
膝から下に力が入らないんです。でも不思議なことに、お家では歩けます。世の中いろんな人がいるんです。

買い物に出かけた時も、バイト中も、子どもたちは曇りなき眼で車椅子の私を興味津々に見つめます。
私も小さな頃はそんな子どもの1人でした。

どうしてあの人は車椅子に乗っているんだろう
車椅子ってどういう構造なんだろう
なんかカッコイイものに乗っているな

子どもたちの想像は、こんな感じでしょうか。
大人は子どもがそれを単刀直入に「なんで?」と聞いた時、「マズい!」と思います。
私がその度に思うのは、「マズい!って思わなくていい」ということです。

車椅子を使うことがない人が周りにいないから、子どもたちは車椅子が「当たり前の存在」ではないから、興味を示します。
「なんで?」という時、私たちの中には嫌な気持ちになる人もいるし、私みたいにギョッとしてたじろぐ人もいるのは事実ですが、ひとつ言えるのは「子どもがその瞬間、福祉というものに触れている」ということは間違いないということ。
私たち障害者のためにはなっていないかもしれないし、大人は「おいおい…!」と思うけど、子どもが「車椅子を身近に感じる」大きなチャンスになっていることです。
だから大人が「すみません、変なことを…」と子どもを叱ったり、青ざめている瞬間を見る方が、むしろキツいことがあります。
大人が「触れては行けない部分」として、私たちの病気や障害を「社会において隠すべきもの」としてしまうのを、とても残念に感じます。

友人の子どもは、今3歳です。
小さな頃から私が車椅子で移動していたので、会ったときは喜んで車椅子を押してくれます。
「なんで車椅子なの?」とも聞きません(親である友人から聞いているのかもしれません)。
別の友人の子どもは今年5歳。
この子もまた、私の苦しんでいる場面や車椅子の姿を見てきました。
だから小さな頃から「バックしまーす」「ブレーキかけまーす」と言いながら車椅子で遊んだり、落としたものをさりげなく拾ったりしてくれます。

「メガネは何も言われないのに、車椅子になった途端気を遣わなきゃいけないものになる」のは子どもに対してもおんなじことが言えます
小さな頃から障害者を身近に感じて育っているか、というだけで、その子の根本的な障害への考え方というものは変わってきます。

子どもにちゃんと伝えたい、病気のこと、障害のこと

私は子どもがいないので、実際子育てをしていて車椅子だったり、精神などの障害を持っている人は、本当に大変な思いをしているはずです。
普通に育児していても全力で楽しめない!というパパやママは山ほどいます。
だから障害があったらうまくいかないことだらけ。
具合が悪くてお散歩に行けない、車椅子だから子どもの欲求を満たせない、自分が耳が聞こえないから、目が見えないから、子どもが学校でいじめられちゃうかも…。
そう考えて当たり前。さらにワンオペだったら尚更です。

でも、実際にいろんな子どもたちを仕事で見てきたり、社会の中で見てきて思うのは、我慢させている分、そのパパママが当事者であるということで、確実にその子の心の中に「本当の優しさ」の木の苗が植えられているということ。
障害が身近にあり、いい意味で「その子にしかできなかった体験」をしているということ。
大人が大人になってやっとわかることを、子どもの頃から感じることができるということは、とても貴重なことです。
ただ、それは親の病気や障害のことを、子供が小さな頃から、物事が分かり始めた頃から、知っているということが前提になるかもしれません。

実は私は当事者でもあり、家族に障害者がいる「兄弟児」でもあります。
小さな頃から障害者が近くにいて、今大人になって「あ、なんかこういう存在がいてある意味良かったのかも」と思うこともあります。

しかし私は兄弟の障害について詳しく教えてもらえていなかった子どもなので、障害者、特に見えない障がいのある人を「なんかうざったい」としか思っていなかった節があります。
喧嘩もいまだにするし、本人のことでわからないこと、どうしたらいいか戸惑うことも山ほど。
知っていたらあの時あんなこと言わなくて、しなくて済んだのに、と思うこともあります。
だから、物事が分かり始めた頃でいい、少しくらい遅くてもいいから、子どもが家族の病気について知らない、「子供にはわからないから」なんて思わずに、大人に悩みを話すように、子どもにも共有してみてほしいなあ、と思います。

今「インクルーシブ教育」という言葉が日本中で聞かれます。
私は今は教育者ではないのでその全貌を知りませんが、逆に無知な私からすると、障害を持った子にフォーカスを当てるのではなくて、健常の子の成長にフォーカスを当ててみたらどうなんだろうか、と思うことがあります。
障害があるから優しくしましょうとか、詳しく病気や障がいのことを子どもたちに説明もせず、その子にだけ特別に〇〇をする、みたいな教育は、結局誰も成長しないんじゃないかなって。

障害児いじめはまだまだ日本にたくさんあると思います。
それで不登校になった子どもの事例もSNSなどでたくさん聞きます。

実は私は小学校低学年の頃はいじめっこで、知的障害を持った男の子をいじめていた経験がありました
なんでそんな酷いことをしたのかというと、「〇〇君だけ楽できていいな」とか「なんとなく気持ち悪い」という感情があったからです。
そして、先ほども述べたように私は兄弟の障害について知らされていなかったこともあり、見えない障害には特に偏見がありました
その子もその子にあった勉強をしますが、特別支援学級にはたくさんのおもちゃがあることも知っていたし、その子が授業中に同じ班になって涎を垂らしたりすると、「げー!!」と思ったものでした。
給食の時にクラスで1人無理に特別支援学級に派遣され、給食を一緒に食べる、というのも苦痛な時間でした。

なぜ私はそんな酷い子どもだったのだろう。
一歩間違えば自分も障害者、ということに気づいていなかったのかもしれないし、ちょうど親を障害者の兄弟に取られていて疎ましく思っていたのかもしれない。
でも1番大きかったのは、その子のことを何も知らない状態で、「なんで優しくしてあげないの!」と大人に言われていたからだと思います。
子どもの頭は柔軟だから、あの頃大人に「こういう障害があって、みんなと同じように苦手なことがある」「どうしてもこういうことが難しいから、こういう時は大人を呼んだり、こういう対処をしてね」と言われれば、それなりに対処できたのです。

何も知らない状態で、大人に「やらされる」インクルーシブ教育なんて、さほど大したものではないのです。
例え身近に障害を持った人がいて、「考えましょう」「優しくしましょう」と言われたって、無知の状態じゃどう優しくしていいのか、考え方の選択肢すらないのです
私が「なんで車椅子なの?」と子どもに言われたことだって、大人だから、先生だから、そうやって聞けただけで、たまたま私が説明できただけで、子ども同士だったらいじめになっていたかもしれません。

インクルーシブ教育に無知な、障害当事者の私からすると、先生同士で共有するのと同じように、1人の人間である子どもたちともその障害について共有してほしいと思う。
それもできればその子がいないところで、です。
(過去に場面緘黙の子の声を録音したものをその子の前でクラス全員に聞かせた教師がいました。その当事者の子は1人で泣いていました)

私は障害者の親のもとに生まれた子どもを不幸な子なんて少しも思わないけれど、それはその子が「障害について理解しているか」「親が何と闘っているかぼんやりとでもわかっているか」ということが鍵になってくると思います。

私は保育士資格と幼稚園教諭免許がありますが、車椅子のため現場にはいかれません。
こどもたちと関わりたいし、福祉に触れる機会を設けたいとは思うけど、車椅子ではなかなか子どもたちと関わる仕事ができないのが現実です。
どこかで子どもたちに、「世の中いろんな人がいて、君もそのひとり」ということを伝えられる機会があればなあ、と思ってやまない今日この頃です。



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