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心のなかの神棚の話。(心の時代を生きる上で意識したいこと)

すでに何度か書いてきたかもしれないのですが、この人生で、長い間わたしは無意識的に自分をゴミのように扱っていたなと感じています。

もちろん自らをゴミ扱いしているつもりなどありませんでしたが、

わたしは積極的に他人に虐げられることを選び、世界の奴隷のように生きることを無意識的に選んで生きていたように思うのです。

それはもう人に話すと驚かれる(引かれる、心配される)ほどに。自分で思い返してもうわあ…ってなります。

誰よりもいい人でいなきゃいけないと思ってたしね。

そうやって、自分を誰かに殺させている自覚もないまま、生きる力を外側に垂れ流しにし続けていたのですよね。



わたしは人間ひとりひとりの中には神棚のようなものがあると思っていて、

(というのも少し控えめすぎる言いかたなのですが)

その神棚をどのように扱うかによって、生きやすさのようなものや世界にたいする心の開かれ度合い、幸福度のようなものが決まってくるように感じています。


これは比喩ですが、わたしはその自分のなかの神棚を、長い間ゴミ捨て場のように扱っておりました。

その結果、当然ですが不幸の吹き溜まりのような人間になっていきました。


「なんで自分だけがこんなに悲劇的な人生を送らなければいけないんだ。」

そう思って生きていたのですが、今思うとそんなに不思議なことではありません。

他でもないわたし自身が自分のことをゴミのように扱っていたのですから、なるようになってしまったというだけなんですよね。

(あるかたが、「水に塩を入れたらしょっぱくなっただけのこと」というような表現をされていたことがあったのですが、まさにその言葉の示すとおりだと思います。)


自分自身とか、自分のなかの神棚にたいする暴力的な思い(「お前が我慢すれば済む話だろ」「お前本当にダメなやつだな、周りの人を見習えよ」「お前なんかいなくなってしまえ」など)の世界観が残酷なまでにどこまでも具現化されていたのですね。

自分自身にたいする罵声に敏感になった今では、自分にたいして何かひどい言葉や思いが浮かんできたら「いじわるしないでよ!あっちいけ!」とその思考を追い払うところなのですが、

当時は自分自身にたいするどんな酷い仕打ちも受け入れることしか知らなかったのですよね。


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自分の中の創造主である『内なる自分』を再発見するためのnoteの玉手箱です。 自分を認め受容するために「足すべきもの」など、本来何もない…

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