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#31.わからなくなっても

認知症

今やガンより心臓病より怖い言葉になりつつある。命こそ取られないものの、少しずつ自分を失っていく。これこそ死よりも怖いとされる所以かもしれない。


今日本では平均寿命の延長から認知症患者は右肩上がりに増えている。

同じように核家族化が進み単独世帯も増えている。この先待ち受けるのは認知症の方の一人暮らしだ。

さて、皆様は認知症の方の生活というとどのようなものを想像するだろうか?

『一人で物事を判断できないから危ない』
『家族と暮らせないなら施設が安全なんじゃ、、』
『火の後始末もできなくなったら火事が心配』

などなど、恐らくマイナスなイメージが先行するだろう。実際に認知症の方の介護は症状にもよるが、家族がいても負担は大きく施設入所を選ぶことも多い。となれば、一人暮らしなどより難しく施設入所は必然ではないか?

多くの方は、特別養護老人ホームや、療養型病院、認知症対応型有料老人ホームなどへ行くだろう。これは、介護者や支援者の都合によるところが大きい。あたかも、ここにいたほうが職員の人が見てくれるし本人も安心よね、となだめすかすも、安心を得ているのは家族や支援者である。本人が行きたがっているケースは稀だろう。

実際多くの施設が介護スタッフ不足に悩んでおり、トイレに行きたくてコールで呼んでもなかなかスタッフが来てくれない。食事はまるで雀の子の餌やりのように、数人を一人のスタッフが食事を与える。時間が決められているため、スタッフペースになることもしばしば。

残りの時間はほとんどベッドで寝ている。もしくは食堂でただTVを見させられる。
この状況ははたして本人が望んだ生活なのだろうか?

もちろんこういった施設ばかりではないだろうし、望んで入居し満足している方もいると思う。でも、何千万円という高い初期費用をかけ入った有料老人ホームを監獄と比喩し、生活している居住者もいると本で読んだことがある。

まるで認知症になると、そこで人生終了のような気さえしてきてしまい、恐怖感は拭えない。


『でも一人で暮らしていれば危ないのも事実だろ!』
『行かせたくて行かせているわけじゃない、周りに迷惑をかけてしまうから』
『本人も誤薬や異食の可能性もあるし、そうはいってもやっぱり施設しかないわよ』

そう。結局認知症の方は一人では生活できない。なので誰かの力を借りなければならない。
誤薬が怖いなら管理をヘルパーに依頼すればよい。異食が怖いなら、危ない食べ物を遠ざければ良い。部屋を汚物まみれにしてしまい、衛生的に汚いのもヘルパーにお願いすれば良い。迷惑は百も承知。でも、自分の人生選択権はあるはずだ。なにより、現代はそのようなサービスが増えてきている。仮に何かあって死んでもそれを選んだ本人の意志。大いに結構。結局、部屋が汚くて困るのも、誤薬が怖いのも、異食が怖いのも、徘徊が怖いのもすべて支援者側の都合なのだ。

認知機能がまだ保たれている段階で生前の意思を表明するリビング・ウィルなるものを書くことの重要性も高まってきている。どのように死にたいか。尊厳死を叶えるためにも大事な作業だ。
しかし、人間の心も諸行無常。移ろいやすく常に同じ思いでいられるはずもない。必ずしもこの意思表示が未来の本人の望む余生かはわからない。
私の利用者でいつも早く死にたいと言っていた方がいたが、いざ肺炎とわかったら早く病院へ入院させてくれと息巻いていたのを思い出す。
一度書いたらハイ終わりではなく、常々思いの共有を図るのが望ましいのだろう。


少し話がそれてしまったが、施設が悪いわけではない。誤解のないようにしてもらいたいが、人手不足の中でも利用者ファーストで動いている施設もある。ただ、人生の選択権がなくなることが問題なのだ。認知症といえど自宅に住み続けたいならそれを叶えるのが我々医療職の仕事。なんとかしてみせる。その方の思いを形に。



我々だけではなく、徘徊していたら近所の人が見つけてあげられる。たまに部屋を見に来て様子を見てあげる。余ったおかずをおすそわけして話を聞いてあげる。そんな横の繋がりのある世の中が戻ってきてもらいたいと切に願う。認知症の方も一人の人間なのだから。

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