#09【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮
■前回のあらすじ■
蒲公英(ほくよう)は息抜きでやって来た謡谷(うただに)で、見た目は青年の、齢(よわい)七千歳の精霊と鉢合う。
その精霊蘿蔔曰く、ある時から封印されていた自分を安寧が今、蘇らせてくれたのだと言う。
彼の話の何もかもがきな臭く感じた蒲公英は警戒をしていたが、彼は落ち着いた様子でこの地の御伽草子「如月の祝典(きさらぎのしゅくてん)」を聞いたことがあるか?と聞いてきた。
彼は、それが実は本当に起こった事であり、自分も当時その中に居た。
その時のような熾烈な争いが、また起きようとしており、千蘇我(ちそが)がまた混乱に陥るだろうと預言した。
もうこの話しを聞きたくない蒲公英は切り上げようとするが、彼の一言で腰をまた落ちつけた。
「この物語にはいなくてはいけない人物が居た。けれど、その存在は御伽草子から消された」
そして、蘿蔔が
「犬御神」
と、蒲公英に向かって言うと、蒲公英の目の色と髪の色、そして雰囲気が全て変わり、犬御神と呼ばれる存在となった。蒲公英の内にあり、彼女でなくて、同一の魂であるその神は、蘿蔔が呼び出した理由も、何が言いたいかも理解して、蘿蔔を茶化す。
最後に蘿蔔に釘を刺し、犬御神が蒲公英にまた戻った。
疲弊した蒲公英の体を支えながら、決意を新たにする蘿蔔であったが、そんな彼の前に刀を振りかざし、蒲公英との間に割り入る者が現れ…。
続きまして天の章、第九話。
お楽しみください。
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#09 【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮
蘿蔔は蒲公英を抱え直し、その胸に抱くと、震える手を伸ばし、蒲公英の前髪を払おうとした。
その瞬間、蘿蔔は蒲公英をその一枚岩の上に置き去りにして、カモシカのように後ろに跳んだ。
上から、黒い者が落ちるようにして、刀を振り下ろしてきたのだ。
一瞬の出来事であった。
その全身黒い装束の男は、蒲公英の前に陣取り、しゃがんだまま刀を構え直した。
切れ長の目、口布をしており、顔は良く分からないが、直ぐに蘿蔔は自身と同種の者だと分かった。
黒装束の男は橙色の光を纏っているからだ。
装束の隙間から藤色の前髪が少し見え、その髪の間から見える眼は剃刀のようにするどく蘿蔔を見ていた。
「朝顔(ちょうがん)って…やや!?まさか…犬御神を…?」
「尾花(びか)!犬御神を抱えろ!」
後から来て、悠長な事を言っている男はススキ頭をした男で、印象的な真っ直ぐな強い瞳を持っていた。
額には白い鉢巻をしていて、最初に降りてきた朝顔よりも軽装をしている。
朝顔はこもった声だが、ハッキリと蘿蔔に言う。
「ここは、お引き取り願いたい。彼女の身を案じているとあるお方の命により、犬御神様を保護させて頂きます」
蘿蔔は、目を少し細めた。
朝顔の後ろでは蒲公英が少しずつ意識が戻ってきているのか、身じろぎしている姿が見えた。
蘿蔔は、慣れた手つきで刀を音も無く抜き、ゆったりとした姿勢を取る。
「秋草よ…。我を誰と知っての口ぶり。その通り、春が草の蘿蔔とは我が名。安くはないぞ」
蒲公英は、覚めきらぬ頭で考えていた。
目の前の光景を吞み込むのに時間を有した。
さきほどまで穏やかに微笑みを浮かべていた男が、まるで神のような厳格な気を発し、冷たい視線で三人を捕えていた。
無表情な蘿蔔の顔は、まるで月明かりの下に能面のようだ。
先ほどの親しみやすい雰囲気は最早無く、近づけば爆ぜられそうな緊張感を持っていた。
朝顔はそんな中でも、刀を立ち上がって構え直した。
と、次の瞬間、目の前に蘿蔔の顔が目の前にあった。
「っ!?」
声を出す間もなく、朝顔は瞬時に受け身を取り、衝撃を和らげた。
が、元の位置から何尺も吹き飛ばされた事に気が付き、背中に冷たい汗がいくつか伝う。
「犬御神様は今や、仲間がとある場所へお連れした。追いかけるなら私を倒してからにして頂こう!」
朝顔は未だゆるりと岩の上に立っている蘿蔔にそう言い、刃先を向けるが、それが震えている事に気が付いた。
そして、何かが構える腕にサッと落ちた。
口布だった。
それにびくりとすると、口布はさらに腕から滑り落ち、地面に落ちた。それを見ながら、朝顔は頬が熱く、ひりつく感覚と、水っぽい感覚を覚えた。
頬が少し切れているようだった。
朝顔は知っていた。
絶対に自分は、この目の前の精霊には勝てない事に。
目の前の男は、精霊とは名ばかりで、その実は神なのだ。
あの、大地の女神や龍とほぼ同等の力を持つと言われている者相手に、今の自分が到底敵うわけがない。
それは、戦う前から分かっていたが、今ここで引くわけにはいかない。
命を賭してでも…、いや、命と引き換えにしても、今この場で数分でも長く、蘿蔔をここに足止めする必要がある。朝顔はその覚悟が出来ていた。しかし、体は勝手に神気にあてられたか、細かく震えていた。
「帰るが良い。秋の草よ」
朝顔は弾かれるようにして顔を上げた。
その顔は、怒りと困惑に満ち溢れていた。
「何故だ!?私には斬る価値も無いと言うのか!?」
すると、自身も帰ろうとしていた蘿蔔は、岩の上で返した踵を戻し、朝顔に振り返った。
束ねた白い髪が、弧を描き、後れ毛が月の光に煌めく。
「…我々には力と時間があり、お前らには無いという事だけ。いつでも犬御神は連れて帰れる。安易な戦は身を亡ぼすし、何も成らぬぞ。我に生かされたこと、しかと胸に刻み込むがいい」
蘿蔔はそう言うと、今度こそ姿を消した。
蘿蔔の緑の燐が、水面に落ちていくのを見ながら、朝顔は呆然とそのまま立ち尽くした。
どのくらい経ったか?蘿蔔が戻る気配も無く、謡谷の時間が流れ始めたのを見て、朝顔は動くという事を思い出したかのように、我に返り刀を鞘に納め、口布の事も忘れて、仲間の後を追った。
社のあるこの池に再び静寂が戻り、何事も無かったかのように、上からまた桜の花弁が降って来た。
金の粉と共に、精霊の燐が風に流され、消えて行った。
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…#10へ続く▶▶▶
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ご興味頂きましてありがとうございます。書き始めたきっかけは、自分のように海の底、深海のような場所で一筋の光も見えない方のために何かしたいと、一房の藁になりたいと書き始めたのがきっかけでした。これからもそんな一筋の光、一房の藁であり続けたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。