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真面目症候群を棄てるまで

 長らく私が悩んでいた悩みに、「真面目症候群」というものがありました。ネーミングは、それを自覚した中学2年当時の私によります。

 真面目症候群とは、一言でいえば次のような「病気」です。

 言われたこと、学校で学んだことを自分から進んで行ったり、探求したりすることは真面目で馬鹿らしいと思い、それらをしなくなってしまうこと。

 例を挙げると、次のような具合です。

・爪を切り清潔にしなさいという生徒指導を受けたが、その通りにするのは嫌なので爪を伸ばした。

・大学の勉強で正方行列の対角化について学び、いくつかの疑問を抱いたが、それを自分で突き詰めるのは気が乗らないので、疑問をそのままにしてしまった。

・予習復習を言われたとおりに行うのは、ただの真面目に思えてしまい、嫌なのでやっていない。

 真面目症候群に罹ったことによる害は計り知れません。本来は深い意味があり、道徳的、人間的にも重要なことを、「指導を受けたから」という理由で嫌ってしまったり、せっかく芽生えた貴重な好奇心を、「学校で学んだことだから」という理由で探求しなくなってしまったりし、反抗的で好奇心のない、冷めた人間になってしまいます。実際、私がこの真面目症候群にこだわっていたころは、道徳や学問に心を閉ざしてしまっており、今よりもかなり狭い視野でしか物事を見られていなかったように思います。

 本記事では、私がこの「真面目症候群」を克服するまでの過程を、書き記していきたいと思います。


好奇心旺盛な小学生時代

 かつての私は、自分でいうのもなんですが、好奇心旺盛で何でも考えたがる子どもでした。例えば、学校で円の面積の公式を習った際、「円を細かい扇に分割して面積を求める」という方法が球の体積を求めるのにも使えないかと考え、球の体積を求めようと数週間思考に耽ったことがありました(それは未完に終わってしまいましたが)。また、与えられた教科書もどんどん先を読み、ある日「大きい桁の割り算」がどうしても理解できず、悔しかったので泣きじゃくったこともありました。別の例には、社会科で歴史(日本史)を習った際、授業で扱った合戦などを、実際に戦国武将の立体人形を厚紙や段ボールで作り、それを再現した劇などをやって遊んでいました。私は、疑問に思ったり刺激を受けたりしたことを、すぐに深く考えたり、それで遊んだりしていた少年でした。

中1不安定と真面目症候群

 私はその意味で、知ったことはすぐに取り入れて自分のものにしたいと思う子どもであったとも言えます。そのため、小学校の5年間を特別支援学級で過ごしながら、6年生の時の1年間で勉強の足りなかった部分を補ってしまい、地元の中高一貫校の受験に合格してしまったのだと思います。私はこうして、中学、高校をその中高一貫校で過ごしたのでした。

 ところが、そこで思わぬことに遭遇します。その学校は、いわゆる自称進学校で、生徒指導の大変厳しい学校でした。その対象はつい1か月前までランドセルを背負っていた中学入学時の私たちも例外ではありませんでした。来る日も来る日も、「校風」「指導」と称して先生方に暴言を吐かれました。

 「おいテメエ何やってるだ!」「糞野郎!」「ったくどうしようもねえ奴だなあ!」というようなことを、何度も言われ、私は懸命に謝り、言われたとおりに挨拶をし、毎日早起きして遅刻せずに登校し、当たり前のことをきっちりと守って生活しました。しかし、それらはほとんど空回りし、先生方はどうにも私のことを悪意のある解釈でとらえてしまうらしく、うっかり名札を制服につけていなかった時は「しょうもねえ奴だなあ!」と言われるなどしました。私はそれらの言葉を額面通りに受け取ってしまっていたため、「自分はしょうもないんだ、もっとしっかりせねば・・・」と思ったのでした。

 そのような中でも、しばらく私は好奇心をもって生活していました。「窒素は大気の78%で、酸素は21%で~♪」というような歌を作ってうたうなどしていました。しかし、休日返上の量の宿題、および画びょうを刺す体罰も起こる中で、次第に自分が探求心をもって学んでいることを馬鹿らしく思うようになりました。そうです。これが真面目症候群の始まりでした。この頃の精神不安定を、私は「中1不安定」と呼んでいます。

 やがて、私は学校で自殺未遂を起こし、あの厳しかった先生方も青ざめて私を気遣うようになったため、中1不安定は終わりました。しかし、私の持っていた純粋な探求心は、このころ一度失せてしまいました。中学2年時に数学に目覚めたのですが、学校で習う数学をやるのではなく、同級生に分からない高度な内容(高校数学や大学数学)をもっぱらやり、それを自分のアイデンティティにしていました。そして、学校で学ぶ内容は引き続き、「こんなもの真面目にやってられるか」と思いながらないがしろにしていました。かくして、中学生にしてTeXで論文(のようなもの。数学的な気付きをまとめた文書)を書きまくり、一方で通常の学業は並みにしかできない、一風変わった中学生の自分が出来上がりました。そのような調子で、中学時代、やがては高校生時代が終わりました。

東工大に入るも・・・

 その後1年浪人し、東工大に入りました。東工大に入ると、そこは安全な環境でした。もう怒鳴る先生も、画びょうを刺してくる先生もいませんでした。そこには、私が学びたかった本物の学問の地平が凛と広がっていました。

 しかし、私は中学時代に負った真面目症候群を克服できずにいました。学校で学ぶ内容に対して、様々に疑問は出てくるのですが、それを探求しようとすると、かつての苦しさがよみがえり、探求をできずにいました。結局私は自分のアイデンティティになる高度な内容ばかりやっていましたが、それも基礎がおろそかだったのでほとんど身につきませんでした。自分の好きだったはずの物理で真面目症候群を発症するくらいならば、いっそのこと文転し、関係のない学問を学びながら物理を続けていこうかとも思いました。そうして、精神不安定も重なり、私は休学を繰り返していました。

真面目症候群を克服した時

 ところが、休学を繰り返したその長い学部時代は、私にはよい方向に働きました。私は多くの温かい先生方に出会い、友達が一人もいない中でも、全てのレポートや試験をこなし、また先生にも多くの質問をし、議論する中で、ゆっくりながらも自分を高めることができました。そして、今年の10月、安定と不安定の精神構造に気づく中で、「こだわりが不安定を作っている」ということに気づくことができ、ついに私の中でそれまでこだわっていたことが音を立てて崩れていきました。

 

 その中の一つに、あの真面目症候群がありました。もう怖い先生もおらず、今は存分に学んで良いのだ。そう思えた時に、自分の中に真面目症候群が消えかけているのを感じました。そう思い、私は早速2年間読めていなかった専門書を読破し、いくつかの物理学的疑問に自分なりの答えを得ました。

 こうして充実したのが、今年の10月と11月(の今まで)でした。

最後に・心強い先生の存在

 消えかけていた真面目症候群を消すことができたのには、実はある東工大の先生の存在がありました。その先生は、私が学問の点で困ったときにいつもアドバイスをくださり、私の学問上の困難を乗り越える手助けをしてくださいました。ある日私が生きることに絶望し、その先生を含む数人の先生に「もう死にたいです」というメールを書いた時に、「死んじゃあだめだよ。また話をしようよ。」と返信してくださったのもただ一人この先生でした。

 実は私は、物理学を学ぶ上で、様々なことに逐一疑問を抱いてしまい、一向に前進できないことが多くありす(今もそうです)。例えば、量子力学を学び始めた際も、「なぜ演算子が大事なのか?」ということが気になって寝られなくなってしまい、そのせいで学校の学びについていけなくなったこともありました。私は、一つの事項をあいまいに納得できず、いつまでもそこに固執してしまう癖があるようです。ほかの学生はさらっと済ませてしまうことに、とらわれてしまうのです(というより、さらっと済ませる済ませ方が分からず、その方法に結果としてなってしまっているようです。これは、私の発達障害の絡む話かもしれませんが、詳しいことはまだ分かりません)。

 実は、今日はこの後、このことについてその先生とこれから面談ができることになりました。その先生が、私のために時間をとって下さり、私の「深堀りで理解しようとしてしまう癖」についてご指導くださるのです。先生には、感謝してもしきれないほど、うれしいです。

 この先生のような、東工大の温かい先生方、および母をはじめとするサポーターの方々のことを思ったとき、真面目症候群は自然と、その姿を消したのでした。

 最後に一言、先生という存在は、子どもや学生の好奇心を消すこともできれば、増強させることもできるのだと思います。それほど、先生という存在は大事なのです。これを、本記事での私の最後の意見として、この記事を閉じさせていただくことにします。

 最後までお読みくださり、ありがとうございました。面談に行ってきます。

  ねこっち

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