じゅもんあげるよ
イジケテいるみなさんもハジケテいる
そこのあなたもおはようございますコケと申します。人によってはゴクラクの夏休み、ひるがえってはジゴクの夏休みとなっている2024年のナツ。
いかがお過ごしでしょうか。
noteでは「コトバ」を扱います。「コトバ」「ことば」「言葉」と綴りますね。 紙でもデジタルテキストでもアナログの本でも記された「もじ」をこんこん・もくもくと追いかける儀式が「読む」という行為ですね。「もじ」が読めない大昔は「読み聞かせ」が基本でした。
文明の発達により、ミュージアムやライブラリーが生まれ、個々各々が読書をトコトンくり返すことで知らなかったこと・知りたかったこと、時には空想の世界へダイブしユートピアへもディストピアへも旅立てるようになりました。
読み手と共に書き手も大いに発現し、それこそ文明知とも呼べるレベルまで読書は身近にあるものです。空想世界にもお役立ち情報にも読者と著者の世界観が"ピッタリ"と当てはまり、町から街へと駆けめぐり、年を代表する一冊、話題とウワサが世間を圧巻し、今で言う"万バズ"が起こりえるのが「読書」でした。
「もじを追う」この行為には、人間ならではの行動であり、様式であり、ヒトが人にいたる進化のカテイの上では欠かせない行為だったのかも知れません。
ヒトは古来、抱えきれない"感情"を外側に起こしたくてカベに「絵」を描きました。いつだったか忘れてしまいましたが、最古参の「壁画」は憧れのひとへの"想い"が描かれているもの、らしい。
ということは元々「もじ」にはもじとしてのキゴウだけではなく、そこに込められた内向的アイコンも付随している。
もじを書く、もじを読む。
言い換えればひとりでは成しえない行為です。
"ぼくがいてあなたがいる"ことで成り立つ。
もじを起こした張本人がもじに願い(または呪い)をこめ、読者が想いを汲み取り読みとる行為。それを粛々と淡々と進めるのが、「コトバ」を落とし、「ことば」を拾い、「言葉」を響かせることがnoteの世界です。
noteとのお付き合いも3年目になりそうで、テンション高そうに書き込んでいるnoterさんでも「なんか苦しそう」だったり、辛そうだけど本人はそうでもなさそうな気がしたり、「あぁこの人そろそろ離脱しそうだ」なんてカンも発達しました。
リアルでもけっこう空気読みすぎるコケ。今では「エンパスさん」なんと言われたりするのでしょうか?知らんけど。
読書より動画が当たり前になっています。人はテキストより、絵を求めます。自分で読むより、他人の声を欲しがります。読書モニターのような動画もあります。要約動画もある。元々「読書は音読だ」ととらえれば、ごく自然的なことです。
どれだけ動画が主流になろうとも「もじを追う」行為そのものはなくなることはありません。動画にしたって結局は「テロップ」を追いつつ、配信者の想いや行為に気がつき、なにかが「ぴったり」と合わさったときに「共感」や「感動」が生まれたりする。「もじ」がキゴウだけではない「情報」を含んでいるからです。
とある企業のnoteで「ことば」と「情報」を分けてとらえているのが残念でなりません。情報は言葉であり、言葉は情報です。ことばのウラには隠れた「コード」が埋め込まれている。それを読み解き解読できるのは他ならぬ「あなた」です。
「想い」を持つ人だけが持ち得るツールを使い、
「情報」を取り出す。
コトバと情報はひたりでひとつ。
ふたりでぴったんこなのです。
ことばは単独で存在出来ない
非常にもろくてかよわい「情報」なのです。
夏休みのせいなのか、はたまたご時世的なアレなのか、苦しいながらもがんばろうとしているあなたがいます。がんばっている人も美しいが、がんばろうとしているあなたも美しい。
そんなあなたに送りしたい一曲がある。公式にネットに上がっている動画も歌詞もないので、あくまでコケの耳コピになってしまい、知っているひととは差異があるかと思いますが、大目に見てやってください。個人的には元気出してね系の最上最高チョモランマ特盛り応援ソング-特製勇気ソース添え-なスペシャルなテーマソングです。
それでは「読んで」くださいね!!
もじぴったん/じゅもんあげるよ
おしまい!
今日という1日が、
あなたの自己ベストこーしーん!!
になりますように!
コケでした〜。
サポートいただけるなんて奇跡が起きるのかは存じ上げていませんでしたが、その奇跡がまさかまさかに起きました!これからありがたくゲームのオトモ代(コーヒーとかお茶)いただけると大変喜びます。サポート設定ってあなどれないぜ…。