「人生の答え」をネットで調べる時代
今の世の中は「わかりやすくて、役に立つもの」が求められているように思う。
こうして文章を書いていても、それは感じる。
you tubeの動画を見ても、ブログの記事を読んでも、「役に立つ情報をわかりやすく発信することが大事だ」というアドバイスに溢れかえっているからだ。
今回は、この「『わかりやすくて、役に立つこと』ってそんなに大事だろうか?」という疑問から考え始めてみたい。
私は「もっと大事なことがある」と思うので、それについて書いてみる。
◎「役に立つもの」より「意味のあるもの」のほうが価値が高い
さっき上でも書いたが、文章を書くとなったら、「とにかくわかりやすく書きましょう」「他人の役に立つことを書きましょう」と誰もが口をそろえて言う。
どこを見てもそういう意見ばかり見つかる。
「そうしないと誰にも読んでもらえない」と言うのが彼らの主張だ。
だが、それってなんだか空虚な気がしてこないだろうか?
もちろん、「わかりにくいほうがいい」とは言わない。
たとえば、世の中にはわざとわかりにくく書いて、「自分はこんな難解なことを書けるくらい賢いのだ」と自身の知性を誇示したがる人もいる。
そういう文章よりかは、わかりやすく書かれたもののほうがいいと私だって思う。
だが、読者が「わかりやすさ」を求めているからといって、どんどん話をわかりやすくしていってしまったら、奥行きのある文章は書けなくなってしまうのではないか?
要は、話を簡単にし過ぎたら、言説が陳腐化し、浅薄なものに堕してしまうように思えるのだ。
また、「役に立つことにこそ価値がある」というのなら、「役に立たない人間」には価値がないということになってしまう。
実際、現在の資本主義社会においては、働けない人間や生産性のない人間は「無価値」と判断されがちだ。
しかし、「役に立つこと」がすべてではないと私は思う。
なぜなら、人生には「意味」という側面があるからだ。
「役には立たないけれど意味のあるもの」がこの世には存在する。
たとえば、昔世話になった恩師からもらった手紙などは、たとえそこに「役に立つ情報」が一つも書かれていなかったとしても、深い「意味」を持っている。
その手紙を読むたびに勇気づけられ、前向きに生きていこうと思えるなら、そこには確かに「意味」があるのだ。
また、もしも幼い子どもの世話をすることで「頑張ろう」と思えるなら、その人にとって子どもの存在は「意味」がある。
別に子どもが代わりに稼いできてくれるわけでもないし、むしろ世話をするのに手間とお金がかかるだろうが、子どもの存在が心を支えてくれるのだ。
このように、「役に立つもの」にしか価値がないわけではなく、「意味のあるもの」にも価値がある。
というか、むしろ「意味のあるもの」のほうが価値は高いかもしれない。
なぜなら、それは他のもので代替することが不可能だからだ。
たとえば、「恩師の手紙」は唯一無二の価値を持っている。
「自分が育てている子ども」だってそうだ。
「役に立つ物・人」だったらいくらでも代わりがいるだろうが、「意味のある物・人」というのは、基本的に替えが利かないのだ。
◎「自分で考える力」を失った現代人
しかし、それにもかかわらず、世の中の多くの人々は「わかりやすくて、役に立つもの」を求める。
それはいったいなぜなのだろうか?
おそらくそれは、現代人が忙しすぎるからであり、また、私たちが何かとじっくり向き合う力を失っているからだろう。
そもそも時間のない人は、長くて論理の込み入った文章(たとえば、今あなたが読んでいるこの記事のような文章)をいちいち読んではいられない。
だからこそ、サクッと読めて、すぐにメリットを享受できる文章が好まれるのだ。
それと同時に、私たちは「内省する力」を失っている。
私たちは一つの物事を深く考えることは苦手で、何かわからないことがあると、すぐにネットで調べてインスタントに解決しようとするのだ。
もちろん、「スイスの首都はどこか?」とか、「天安門事件が起こったのは何年の何月何日か?」とかいったようなことであれば、ネットで調べたらいいと思う。
というか、そういった数値とか事実については考えてわかるものではないので、知らなかったら調べるしかない。
だが、「人生の意味とは?」とか、「人間はどう生きるべきか?」とかいったような実存的な問いに対しては、じっくり時間をかけて自分で考える必要がある。
そして、こういった実存的な問いと向き合うことが、現代人は非常に苦手なのだ。
今の時代は、「人生の悩み」に関しても「答え」がネット上に無数に転がっている。
自分で考えずに「答え」だけ見つけようと思えば、いくらでも見つけられる時代なのだ。
そして、この「容易さ」が、人々から「自分で考える機会」と「内省する力」を奪っている。
なぜなら、時間をかけてウンウンうなって考えるより、グーグル先生に「答え」を教わったほうがずっと手間が少なくて済むからだ。
そんな時代に、誰が「自前の答え」なんて考えようと思うだろうか?
◎「自分なりの考え方」が「意味」を持たない時代
村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の中に、こんなやり取りがある。
この小説は1980年代を舞台にしたものだが、今の時代においても「自分なりに考えて、答えを出すこと」は「意味のないこと」だと捉えられている。
そんなものにこだわっていると時代に取り残されるし、「理屈っぽい」と言われて煙たがられるかもしれない。
だが、「答えっぽいもの」ならネット上を探せばそこら中に転がっている。
あとは、適当に拾ってきて繋げればいいのだ。
その日からもう使える。
そして、いまやそのためにお金さえ必要ではなくなった。
時間も労力もかからない。
そんな時代に、今さらわざわざ自分で考える必要がどこにあるだろう?
かく言う私自身、「人生の答え」を知りたくてネットで調べたことがある。
特に、八木仁平さんという人の「やりたいこと探し」の動画はかなりじっくり見た。
ちなみに、この動画はひたすら自分と向き合うことを促すものであり、インスタントに「答え」だけを外から与えるものではなかった。
だからこそ、自分について理解する助けとなったのだが、こういった「内省を促すタイプの情報発信」は非常に少ないように感じている。
世の中に溢れているのは、安易に「答え」だけを提示する情報だ。
それというのも、私たちがみんな「考える過程」を省略して「結論」だけを知りたがっているからだ。
◎「豊かさ」の中で生は「意味」を失い、空虚化する
誰もが「考える手間」を省きたがり、「結論」だけを手に入れようとする。
「なぜその結論になるのか」ということを、十分に理解も納得もできないまま、私たちは提示された「答え」に飛びつくのだ。
そうしてどこかから取ってきた「Aさんの答え」と「Bさんの答え」を繋ぎ合わせては、それをあたかも自分の考えのように「着用」する。
だが、いくら「他人の答え」を立派に着こなしても、それによって自分本体が変わるわけではない。
変わるのはあくまで表面的な見た目だけだ。
確かに、そうやって「他人の答え」を身にまとうことで、生活が部分的には変わることもあるかもしれない。
だが、そうやって「他人の答え」を借りてきては身にまとう安楽さに一度慣れてしまったら、「自分の答え」を創り出す力は失われる。
それは、オーディオ・ショップで新品のトランジスタ・アンプを買うことに慣れ切ってしまった結果、真空管アンプを手作りすることができなくなるようなものだ。
もちろん、世の中は便利になった。
いちいち真空管アンプを手作りしなければならなかった時代より、どこでも新品のトランジスタ・アンプを買える時代のほうが豊かなのは確かだ。
しかし、そうして豊かさを手に入れた今の時代において、人々はむしろ飢えている。
お腹は満ちているかもしれないが、それにもかかわらず、自分の内側が空虚に感じられて仕方がないのだ。
それも当然のことかもしれない。
私たちにはもう「自分自身の答え」を手作りする力はない。
「生きる意味」を自分自身の手で創り出す力は失われ、無味乾燥な労働に従事しては、マスプロダクトの消耗品をただ消費するだけの日々が人生だ。
それで生きることが虚しくならないほうがどうかしている。
「自分はなぜ生きるのか?」
「自分にとって大事なものは何なのか?」
そういったことは、他人に聞いてもわからない。
「答えのようなもの」を教えてくれる人も世の中には居るかもしれないが(というか、そういう人はごまんといるだろうが)、「自分の内側を通った答え」でないならば、当人はそれに納得することができないだろう。
人生で道に迷った時、安易にネットで「答え」を見つけようとするのではなく、あえて一人になって自分と向き合うことが大事なのではないか?
私自身も、他人の受け売りをすることはあるし、そもそも人の意見に影響を受けやすい人間だ。
だが、「自分の人生」については他人に代わりに考えてもらうわけにはいかない。
なぜなら、私の人生を生きているのは、他でもない私自身なのだから。
本来は自分自身と向き合うことであるはずの瞑想さえもが、「生産性の向上=役に立つこと」のために利用されている昨今、ただ愚直に自分と向き合うことの大切さを強く感じている今日この頃だ。
【追記】
今回の記事を書いた後、補足説明したいことを思いついたので、改めて記事を書いた。
今回の記事の続編みたいなもので、「『人生の意味』というものは、ただ頭を使って考えるだけではなく、心と身体を使って感じることが重要なのだ」ということを述べた。
興味のある人は、こちらもぜひ読んでみてほしい。