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「人生の意味」は考えるものではなく感じるもの

前回、「『生きる意味』を求めるなら、ネットでインスタントに『答え』を得ようとするのではなく、自分自身で考える必要がある」と書いた。

しかし、記事を書いてから、「人生の意味」というのは頭だけ使って考えるものではなく、心や身体を通して感じるものなのではないかと思った。
というのも、「人生の意味」というのは議論するものではないからだ。
それは議論によって決めるものではなく、各自が内側で感じて決めるものなのだ。

というわけで、今回は前回書いた記事の補足だ。
「生きる意味」は考えるだけではなく、感じることが大事だと思うので、そのことについて改めで書いてみたい。


◎「生きる意味」は論理的に導き出せず、心で感じるしかないもの

今の世の中には「生きる意味って何ですか?」ということを他人にたずねる人が非常に多い。
それは、「生きる意味」というものがどこかに確固とした形としてあると思っているからだろう。
万人にとって正しい「生きる意味」がどこかにあって、それは何かを知れば自分も安心できると思うわけだ。

だが、誰にでも当てはまるような「生きる意味」は存在しない。
人生は「学校のテスト」ではないからだ。
「答え」は人の数だけあり、それは自分で出すしか道がないのだ。

「生きる意味」というのは、「論理的に推論していけば導き出せる」といった類のものではない。
もしそうであるならば、哲学者がとっくに「答え」を出してくれているだろう。
「生きる意味」を議論することが無意味なのは、そもそも人によって何に「意味」を感じるかが異なるからなのだ。

たとえば、ある人は車で遠くまでドライブすることに「意味」を感じるかもしれず、別のある人は手間暇かけて好きな料理を作ることに「意味」を感じるかもしれない。
そこには互換性がない。
ドライブが好きな人に料理をさせても「幸せ」は感じられないだろうし、料理が好きな人はドライブなんてしたくないかもしれないのだ。

私たちが何かを好きになる時、頭で考えたりはしない。
「好き」という感情は、頭で考えるものではなく、心で直に感じるものだ。
そこには結論だけがあり、推論も根拠もありはしない。

もちろん、後になって振り返ってみれば、それらしい根拠は見つかるかもしれない。
頭で考えて根拠がはっきりすることで、ますます好きになることもあるだろう。
でも、「好き」という結論は、いつも考えることに先立って現れるのだ。

「好き」とは反対に、「生理的に無理」という感覚が私たちにはある。
これもまた、頭で考えるものではなく、直感的に感じるものだ。

ちなみに、この感覚は心だけではなく身体で感じるものでもある。
心が求めていないのはもちろん、そもそも身体が受け付けていないのだ。
「生理的に無理」なものは、たとえ頭で考えて「あり」だと思おうとしたとしても、受け入れることはできないだろう。

◎深く考えるためには「感じること」が不可欠

このように、心も身体も「好き」と「嫌い」を瞬間的に感じて表現する。
そこに矛盾はなく、常に私たちの本心を表している。
つまり、心と身体が感じたものこそが、私たち自身の表現なのだ。

それに対して、心や身体を通さず頭だけで考えられたものは、いくらでも替えが利く。
それは、どこかで誰かから借りてきたものかもしれず、「他人の思考」が木霊(こだま)しているだけかもしれないのだ。

私たちが本当に深く考える時、そこには「自分自身で感じること」が必ず伴っている。
「自分」という個別性など介在させず、純粋に論理的に考えたほうが深い思考ができると思うかもしれないが、実際には、「感じること」が伴っていない思考は、論理だけが上滑りしていく。
「考えていることに対して、他でもない自分はどう感じているか?」ということが、思考を深める上で決定的に重要なのだ。

今の世の中には、「生きる意味がわからない」「自分が何をしたいのかわからない」という人が大勢いる。
それは、頭で考えることばかり重視して、心と身体で感じることを軽んじてきた結果だと思う。

「生きる意味」も「自分のやりたいこと」も、論理的に導き出すことはできない。
それらは感じるしかないものであり、頭をひねって考えだすものではないのだ。

それゆえ、「意味」というのは固定的なものではなく、創造的なものだと言える。
なぜなら、「意味」はどこかに最初から用意されているものではなく、自分自身で感じようとすることによって初めて存在し始めるからだ。

「自分は何に幸せを感じるのか?」
「何をしている時、充実感を味わえるか?」

そういったことを改めて自身に問いかけるために頭というのは使うものであって、「幸せ」も「充実感」も心と身体で感じるしかないものだ。
そこがごっちゃになってしまうので、自分で感じることをしないまま、「他人の答え」に影響されたり、頭だけ使って「答え」を考えたりしてしまうことにもなるわけだ。

◎「感じること」の中で「個性」は表現される

また、もしも「感じること」がもっと大事にされていくなら、私たちそれぞれの「個性」というものも、もっと大事にされるようになっていくだろう。

たとえば、私たちは自分と意見が違う人や異なる価値観を持っている人を、論破しようとする傾向がある。

「あなたの考え方は間違っている」
「私の言うことのほうが正しいのだ」

そんな風に、どちらが正しいかを議論することで決めようとするのだ。

だが、私たちの考えというものは、論理というよりも感情と感覚によって裏打ちされている。
誰が何と言おうと好きなものは好きなのだし、嫌いなものは嫌いなのだ。
そもそも元になっている感情や感覚が人によって異なるので、結論が違ってくるのは自然なことと言えるだろう。

私たちの「個性」がなかなか尊重されないのは、今の世の中において、人それぞれの「自分の感覚」が軽視されているからだ。

たとえば、「まわりのみんなは『こうだ』と言うけれど、自分自身はそうは感じない」と思う人がいるならば、それは尊重されるべきだと私は思うが、実際にはそういう「異分子」は圧殺され、「まわりに適応しろ」と命令される。
しかし、それは不当なことだ。
なぜなら、他人がたとえどう言おうとも、その人自身が「まわりと違うこと」を感じているのは紛れもない事実なのだから。

みんなが同じように感じる必要はないし、そもそもそんなことはあり得ない。
誰もが「自分の世界」を持っているし、それについては「正しい」とか「間違っている」とかいう仕方で分別することができないのだ。

だから、もし自分と意見が違う人がいたとしても、「あなたはそう思うんですね」と言えばいいだけだ。
相手には相手の価値観があり、世界観がある。
それを尊重して、自分は自分の価値観と世界観を保持したらいい。

優劣を決める必要はないし、そもそもそれは不毛だ。
優劣を決めるために議論したところで、きっとどこまで行っても平行線に終わるだろう。
なぜなら、誰にも「個性」を剥ぎ取ることはできないし、誰も自分から進んで「個性」を手放そうとはしないからだ。

◎「社会が押し付けてくる意味」に順応しないこと

ところが、今の世の中では「社会に適応すること」が「意味のあること」であるかのように思われている。
「自分の感じていること」を無視してでも、我慢して働き続けるのが「成熟した大人」だと思われているのだ。

だが、「意味」とはそもそも他人から与えられるものではなく、自分自身で創造するものだ。
他人から「社会適応するのが意味のある人生だ」といくら言われても、そこに「幸せ」や「充実感」を感じないなら、当人にとってそれは「無意味」なのだ。

「意味のある人生」とは、当人が「幸せ」や「充実感」を得られる人生のことだ。
そして、それは人の数だけあってしかるべきだ。
誰もが同じ人生を歩む必要はないし、「正解」というものは存在しない。

だからこそ、人は迷う。
「どう生きたらいいのだろう?」と。

その時には、自分の感情や感覚と向き合うことだ。
自分がこれまでの人生で、いったい何に「幸せ」と「充実感」を感じてきたかを思い出すのだ。

人生に対して、「他人が与えてくれる意味」に満足することなく、「自分自身の意味」を見出すこと。
それは、真に人が成熟する上で、欠かすことのできないプロセスなのではないかと私は思う。

【追記】
今回の記事で、感じることの重要性を述べたが、読者の中には「どう感じたらいいかわからない」という人もいるかもしれない。
そういう人に向けて、感じ方を解説する記事を書いた。

「自分の身体や心が何を感じているかわからない」という人は、ぜひ参考にしてみてほしい。