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【解説】身体と心を感じる方法

前回、「『人生の意味』というのは頭で考えるだけではなくて、心と身体を通して感じることが重要だ」と書いた。

だが、「そうは言われても、感じ方がわからない」という人も多いと思う。
特に今の時代は、頭で考えたり計算したりすることが重視されているので、「感じる力」が育っていない人もたくさんいることだろう。

ということで、今回は「感じる力」を養うためのトレーニング方法や、日常の中で「感じる力」を培うヒントなどを紹介してみたい。
「どうも自分は感じるのが苦手だ」という人は、今回の記事をを参考にして「感じる力」を取り戻してほしいと思う。


◎「身体の感覚」を育てる方法

ということで、さっそく具体的なやり方に入っていこう。

まずリラックスして呼吸してみよう。
そして、呼吸に伴って生じる「身体の感覚」に意識を向けるのだ。

坐ってしてもいいし、立ってしてもいい。
「こういうやり方をしなければいけない」とかいった堅苦しくは考えず、とにかく自分の呼吸を感じようとしてみるだけでいいのだ。

試しに、一度読むのを中断して深呼吸してみてほしい。

何か感じただろうか?

人によってはスッキリする感じがしたかもしれない。
だとしたら、あなたは無意識に息を詰めて生活していたのかもしれない。

ストレスで息を詰めて生活している人は、無意識に呼吸が浅くなってしまう。
そういう人は、深呼吸するとその状態が一時的に解消されるので、スッキリすることはよくあるのだ。

また、呼吸をしている間には何か感じなかっただろうか?
もしわからなければ、もう一度深呼吸してみよう。

意識的に呼吸を感じようとするならば、息が入ったり出たりするのに伴って、身体に様々な感覚が生じていることがわかるだろう。
たとえば、口や鼻の穴に空気が当たる感触、肺やお腹が膨らんだりしぼんだりする感覚などだ。
中には、「空気の波」のようなものが自分の内側を通り抜けるように感じた人もいるかもしれない。

そうしたら、今度はその「自分の感覚」をゆったりと味わうように何度か呼吸をしてみよう。
今度は深呼吸でなくていいので、いつも通りの呼吸しながら「内側の感覚」に意識を向けてみる。

どうだっただろうか?

人によってはこれだけでも深いリラックスを感じたかもしれない。

実際、「自分の内なる感覚」に意識を向けると、心身共にリラックスする。
それは、私たちが意識的に「内なる感覚」に耳を澄ますことで、心と身体が「いま自分の声をちゃんと聴いてもらっている」とわかり、安心するからだ。

誰だって「ありのままの自分自身であること」を許されたらリラックスするだろう。
そして、「内なる感覚」に耳を澄ますということは、心と身体に「ありのままの声を聴かせてほしい」と語りかけることに他ならない。
だからこそ、「呼吸の感覚」を意識的に感じようとすることによって、深いリラックスを感じることができるのだ。

◎味わうほどに、感覚は育つ

このトレーニング方法はちょっとした時間があればいつでもおこなえる。
家事の合間や仕事の休憩時間などに、ただ「自分の内側」に目を向ければいいだけだ。
そうした練習を積み重ねることで、「感覚の根」は育っていく。

そもそも、私たちの感覚というのは意識的に「感じよう」とすることによって育つ。
反対に、「感じよう」という意志がなければ、感覚は感じられなくなっていってしまうという特性がある。

たとえば、あなたはこれまでの人生で何回呼吸をしてきただろうか?

人の一日の呼吸回数はおよそ2万~2万5千回と言われている。
それだけたくさんの呼吸をしているのに、私たちの多くはそれを感じようとしたことがない。
実際には呼吸する度にその感覚は生じているはずなのに、意識して感じようとしないから、そもそも気づくことさえないのだ。

これはある鍼灸師から聞いた話だ。

鍼灸師という職業は、指の感覚が命だ。
というのも、鍼灸師は患者の身体に触れることで「ここ」という小さな一点を見つけ、そこにピンポイントで鍼を刺したり灸をすえたりしなければならないからだ。

それゆえ、鍼灸師は指の感覚の錬磨に余念がない。
私が知っているその鍼灸師は、「暇さえあれば自分の服の袖を指で触って味わっている」と言っていた。

その人は知っていたのだ。
「感覚というものは、意識的に味わうことによって育っていくものだということ」を。

このことを理解したならば、日常の全てが「練習」になることがわかるだろう。
たとえば、歩く時には足裏の感覚の変化を味わってみる。
何かを食べる時には、空いた手でスマホをいじったりせず味に意識を向け、シャワーを浴びる時には、水が身体に当たる感覚に意識を向けるのだ。

このように、「感覚を育てる機会」は日常の中に無数に見つかる。
暇な時間を見つけては、感覚を味わい、感覚と遊んでみることをオススメする。
それによって、あなたの感覚はどこまでも育っていくことだろう。

そうして練習を続けていくならば、ほんの一つの呼吸だけとっても、そこには深い味わいがあることがわかるはずだ。
日常は「豊かな感覚」で満ち溢れていく。
それはあなたの財産になり、あなた自身の人生を彩ってくれるに違いない。

ただし、仕事や家事が忙しい時には、感覚に意識を割いているとミスをしてしまう可能性があるので、慣れないうちはしないほうがいい。
無理してたくさんやろうとするのではなく、あくまでも楽しみながら取り組むようにしてほしいと思う。

◎感情は思考によって曇らされる

次に、身体の感覚が育ってきたら、心に生じる感情にも目を向けてみる。
まず最初に感覚を育てて、それから感情に意識を向けるのが大事だ。

なぜいきなり感情から入らないかというと、感覚に意識を向けることができないと、感情そのものを見ようとしたときに、頭の思考によって邪魔されてしまうからだ。

たとえば、激しい怒りを感じたとする。
そういう時、身体には怒りの感覚があるはずだ。

「頭に来る」という場合には、実際に頭に「何か」が上がって来ているように感じるだろう。
「腹が立つ」という場合には、お腹の前面の筋肉(腹直筋)が硬直するのを感じるかもしれない。
または「はらわたが煮えくり返る」といったように、内臓で深い怒りを感じる人も少なからずいる。

いずれにせよ、感情には何らかの「身体の感覚」が伴っている。
それらの感覚は感情とともに現れて、感情が消えれば一緒に消える。

だが、感情というのは様々な思考を呼び寄せる「磁力」も持っている。
感情には感覚が伴っているのだが、思考も一緒にくっついてやってくるのだ。

たとえば、激しい怒りのさなかにある時、あなたは「あいつが悪いんだ!」と言って、犯人探しを始めるかもしれない。
または、「あの選択がこんな結果になるなんて、自分はなんてバカなんだ!」と後悔や自責の念に苛まれる可能性もある。

いずれにせよ、感情が激しければ激しいほど、思考も激しく燃え上がる。
そうして、思考という雲によって感情は曇らされてしまい、自分が何を感じているのかもわからないほど混乱していってしまうのだ。

◎頭は「過去」と「未来」に生き、心は「今ここ」に反応する

頭の思考というのは、「過去の記憶」を参照したり「未来の予測」についてシミュレーションしたりするのが得意だが、「今ここ」について扱うのは大の苦手だ。
逆に言えば、思考に取り込まれれば取り込まれるほど、その人は「過去」や「未来」に生きるようになり、「今ここ」を感じ取ることができなくなっていくということでもある。

感情を感じる際にも、同じ問題が生じる。
さっきも説明したように、激しい感情というのは無数の思考を引き寄せる「磁場」として働く。
だから、感情が激しければ激しいほど、ついつい思考に取り込まれてしまって、「今ここの感情」が見えなくなりがちなのだ。

結果として、「過去の記憶」に対して怒ったり、「未来の予測」に関して悲観したりすることになる。
最初は「今ここ」で起こっていることに対して怒りや悲しみを感じていたとしても、次第にその焦点が「過去」や「未来」にずらされてしまうのだ。

このような「過去」や「未来」に属する感情は、心ではなく頭が作り出しているものだ。
反対に、心はあくまでも「今ここ」に反応して感情を表出する。
そして、それこそが自分が心から感じている「本当の気持ち」なのだ。

頭が作り出した感情は「浅い感情」だ。
それは、私たちを掻き乱しはするが、本当の意味で私たちを変えてはくれない。

それに対して、心から生まれてくる感情は「深い感情」であり、それは言い方を換えると「自分の本心」ということになる。
だから、もしも「自分自身の本当の気持ち」を知りたいと思うならば、頭が作り出す「浅い感情」ではなく、心から生まれてくる「深い感情」に照準を合わせる必要があるのだ。

そのためには、激しい感情のさなかにある時にも、身体の感覚に意識を向けることだ。
その感情に伴って生じている感覚を味わうようにして、頭の思考には引っ張られないようにする。
それによって、「今ここにある感情」をダイレクトに感じることができるだろう。

たとえば、もし腹が立っているならば、お腹が苛立ちで硬くなるのを感じ、悲しみで胸が潰れそうならば、胸の痛みに意識を向け続ける。
思考に意識を取られないように、あくまでも身体の感覚に意識を向け続けるのがコツだ。

思考に翻弄されて感情をうまく感じられない人は、ぜひ試してみてほしい。

◎感情を味わうことによって育てていく

このように考えてくると、身体の感覚というのは、頭が生み出す「偽の感情」に引っ張られないための錨(いかり)のようなものだ。
海に錨を下ろして船を海面に固定するように、身体の感覚に根差すことで、頭の思考に翻弄されないようにするわけだ。

もちろん、怒りや悲しみといった感情を味わうのは、気持ちの良い体験ではないだろう。
だが、一度思考に身を任せてしまうと、怒りや悲しみはどんどん強くなり、余計に苦しくなるものだ。
苦しみを終わらせるためには、思考に翻弄されることなく、怒りや悲しみを味わい尽くすしかないのだ。

それに、もしも怒りや悲しみが真に味わい尽くされたなら、それらは育ち、もっと大きな対象に向かうようになる。
たとえば、「特定の誰かへの怒り」だったものが「社会全体の在り方に対する憤り」になったり、「自分が何かを失ったことに対する悲しみ」だったものが「他者の苦しみに対する深い慈悲」へと昇華していくのだ。

そして、そのように怒りや悲しみと十分に向き合うことによって初めて、喜びや楽しさなども感じられるようになっていく。

表面だけ取り繕ってポジティブシンキングをしてみたところで、喜びも楽しさも感じることはできない。
それら一般に「ポジティブ」と呼ばれている感情は、自分の怒りや悲しみと向き合うことによってしか、本当には感じることができないものなのだ。

◎「幸せ」はいつも内側に在る

このように、身体の感覚を育てようとするならば、日常的に感覚に意識を向けることが大事で、心から生まれてくる感情を味わおうと思ったら、身体の感覚を錨として使って、思考に感情をくらまされないようにすることが重要だ。

身体の感覚は、意識的に感じようとすればするほど育つ。
そして、「過去」や「未来」に脱線することなく、「今ここ」の感情を味わうことで、個々の感情も深まっていくのだ。

「自分が何をしたいかわからない」とか「自分の本当の気持ちが見えてこない」とかいった人が、今の世の中には多い。
もし「自分が何を感じているのかわからない」というのであれば、身体の感覚を育て、心由来の感情を味わうことが必要だ。

そして、「自分の生きる意味」もまた、そうやって自分の身体や心と対話することでしか生まれてこないものなのだ。

なにが君の しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!

『アンパンマンのマーチ』

やなせたかしもこう言っている。

「自分の幸せ」は自分自身にしかわからない。
何のために生まれて、何をして生きるのか、何が自分の喜びなのか、それは自分自身で感じ取るしかないものなのだ。

今回の記事が、人生で道に迷っている人の助けに少しでもなれば幸いだ。