解離的複数性に関する自己認識を踏まえて(そしてリテラリズムについて)
基本的に主人格で書いていこうと思います。自分のなかで確かに解離的複数性があるということは認識しているのですが、そのことでたくさん引用もしましたし、それである程度、読み手に伝わっていれば良いのですが、どうしてこうした解離的複数性の問題を私は抱えるに至ったのかはまだ分からないでいます。そのことについて以下では、「で・ある調」で書きます。
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自分は解離的複数性の問題はいつからあったのかは分からないけれど、それはいつからかあったのだろう。自分には複数の主体が内部にいる。それが相互に補う形で文章を書いてしまったのだろう。その書き方は矯正しないといけないように思うし、そのそれぞれの人格の意識領域をまずは分割することが大事ではないかと思う。それはそうしたことが大事であるということを柴山雅俊さんの本で読んだからだ。自分の意識領域が複数になっていること、それは自分の文章が単数の意識がある人では書けないような仕方で複数の視点が入った文章になっているということである。自分に「どうしたらこうした文章が書けるのか」とむしろポジティブな意味で自分に訊いている人はいたけれど、それはもしかしたら私の解離的複数性によって、何もしなくても複眼的に物事を捉えていて、ぱっと見て、穴のないような論理立てで文章が書けたことはあったのかもしれない。
そんな自分にとって、どなたかがFacebookで紹介していたのだが、元少年Aが書いた『絶歌』という本をリンクで貼っていて、自分も気になり、読んだのだが、自分ももしかしたらこの『絶歌』の筆者のように、独りよがりな視点で最終的に文章を書いてしまっていたのではないか、つまり素朴な意味で独我論的な仕方で文章を書いてしまっていたのではないかと思うような出来事になったのである。(ここで『絶歌』についてはリンクを貼らない。)
確かに自分に中村文則の『悪意の手記』について勧めてきたのも(「どうしたらこうした文章が書けるのか」とむしろポジティブな意味で自分に訊いている人と)同じ人だった。https://www.shinchosha.co.jp/book/128954/
(もしくは中村文則の存在について紹介してくれただけかもしれない。『悪意の手記』は自分でも読んだ。)自分には悪意で何かを書いていることがあったのか。自分は自分の視点、解離的に存在する複数の視点から見て穴のない文章を書くことに精一杯で、自分の心が相手に届くような仕方で文章を書けていなかったのではないか。
額面通りの文章、額面通りに意味が伝わることを意図して文章を書いていたのかもしれない。だけど、額面通りに意味を伝えるケースは現実でも限られている。だから、額面通りに拘った自分はいわゆる字義通り主義(リテラリズム https://eow.alc.co.jp/search?q=literalism)
になっていた可能性はある。そのリテラリズムのなかで、自分は気がついたら自分から距離を置いている人が現れているのにその事実に気が付かないふりをしていた。自分はリテラリズムに完全に傾倒していたのかもしれない。
そのリテラリズムのなかで、言葉が何か言葉の文字通りの内容とは別のことを意味していることを自分は言葉の堕落した使用法だと思ってできるだけ使わないようにしていたのだが、そうした例えば皮肉とか比喩とかをきっちりと使うことのできるのも大人だとは思う。ただ、自分はそうした文字通りのこととは違うことを伝えたり伝えられたりすることは苦手なのだ。
そのことで自分は少し悩んだりもした。自分はこれで良いのかと思うところはあった。自分はこれで良いのか。
今もわからない。自分の存在はこのままで良いのか。
自分は自分の文章についてこれでとりあえず一まとまりとする。
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自分の文章を手紙のように思いを載せて書いても良いのかもしれない。自分は字義通りに意味を取って論理的に破綻していないかという観点でばかり文章を書いてきたから、手紙のように自分の思いを伝える文章というのはあまり書いてこなかった。それは自分の慣れていない分野である。でも、少しずつ慣れていきたいと思う。
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