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他者の領域において生じること

今日ここに書くことはまだ思考の途上にあることです。
なので、もしかしたら間違っているかもしれないです。
解離性障害と統合失調症の境界線、あるいはその区別について自分のなかで考えていることを書きます。
解離性障害については、〈他〉の領域において他の自己が「分身」としてその位置を占めるということが実質的に起こっている。
そして、統合失調症については、〈他〉の領域は〈他〉の領域としてあるが、それを〈自〉を圧倒して、崩しにやってきている。
私は解離性障害と統合失調症という両方の診断をされていますが、自分は解離という現実について記述できるのではないかと思って、これまで結構書いてきましたが、それとは違うまずは統合失調症について〈自〉と〈他〉の切り分けに問題が起こっている事例として木村敏さんが述べていることを見ていきたいです。

そこで、精神分裂病の根底にある現象学的な意味での基礎的事態とは、そのつどの個別化が自己の同一性を成立せしめえないような原理に導かれて成就しているという点にある。分裂病者は、類実体的に考えられた「自我機構」に欠陥を有するのでも、「自己同一性」というような属性が自己の内部において解体しているのでもない。自己がそのつど自己自身として他者から分離するその過程そのものが、「異常」な原理に従って生じるのである。最初から分離独立したものとして想定された「自己」と「他者」との間に異常な関係が生じるのではなくて、自己と他者との分離そのものが、通常とは異なった原理に支配されているのである。したがって、そこには自己と他者との間に外部的な境界侵犯のようなことが起きるのではなくて、自己が自己自身として成立するという自己規定そのものに問題が生じることになる。
このような自他の分離は、いっさいの経験にそのつど先立っている。逆にいえば、いっさいの経験はこの自他の分離の上に形成される。したがってこの分離の様相は、なかんずく自己が自己をいかに経験するか、他者をいかに経験するかの様相を規定することになる。

木村敏 「妄想的他者のトポロジイ」 『新編 分裂病の現象学』 筑摩書房、2012、376-377頁、太字強調は原文では傍点強調であり原著者によるもの。

自己と他者との分離そのものが「異常」な原理にしたがって起こるということ。それは自己の同一性を成立せしめない仕方で、自己と他者との分離が生じているということである。自己と他者との分離は、すべての経験を基礎づけるものであるから、その分離がきちんと行われないことによる影響はとても大きいものになる。そうしたことをここで木村敏は論じているのである。そのことと関連して、内海健の次の記述も引用しよう。

しばしば、統合失調症では、自我境界が脆弱であるといわれる。だが、それは発病したあとのことである。しかもかなりアバウトな表現である。発病前の構造としていわれることもあるが、むしろ「外界や他者が侵襲してくることに対して過度に敏感である」と言い換えた方が適切である。あるいは、自己にめざめたときに他者と遭遇したことをどこかで知っており、自己の内面に、その他者が忽然と現れるのではないかとおびえている。いずれにしても、ASDのような自他未分とはまったく異なる。

内海健 『自閉症スペクトラムの精神病理:星をつぐ人たちのために』 医学書院、2015、241頁。

統合失調症に出現する他者は、経験的次元を超えたものである。経験の条件として背後にひそんでいるものであり、通常は表に現れることはない。発病ととともに、この他者は、素知らぬ顔をして、経験世界にまぎれ込むようになる。それは容易に正体を現すことはないが、こちらのことはお見通しで、自分さえ知らない自分の秘密を握っているようである。
〔…〕統合失調症においては、具体的に現れる他者もまた、こうした超越論的な次元へと突き抜ける。他者のさりげない語りかけも特別な意味があるかのようにも感じられる。日常的なフィールドの上で語られるのではなく、そのつど、その場を設定するような、超源的な語りとしての力をもつ。だが、それが何を意味しているのかはつかみがたい。

同上、245-246頁。

自己を条件づけるような超越論的な他者が、いわば壊れた形で自己に働きかける。これは自己と他者の分離が異常な仕方で行われるということと関連していると思われる。他者から自己が切り出されるその仕方に何らかの誤作動が生じているのだと思われる。そして他者は自己を圧倒しにやってくるのである

それは、統合失調症における状況である。

解離ではどうだろうか?

解離では、おそらくその〈他〉の領域に、あるいは自己の潜在意識にできた別人格がその場を埋めるようにしてやってくるのである。
その別人格が自分の〈他〉の領域に存在してしまっていることによって、日常生活において大きな影響が出てくるのである。
だから、

内在性解離とは、耐え難いほどのストレスを感じたときに、潜在意識の中に「別人格」を作って、つらい感情を引き受けさせることです(下図参照)。
4歳以下の幼少期に一度、人格が解離すると、その後も、ストレスや怒り、悲しみ、寂しさ、不安、恐怖などのつらい感情を感じるたびに次々と別人格の自分を作って、その感情を別人格に背負わせるクセがついてしまいます。
その結果、本来の自分である「基本人格」以外に、さまざまな自分ができあがっていくのです。

「【内在性解離】多重人格の原因は?別人格との統合でつらい感情を解放する「ひざタッピング」のやり方」https://tokusengai.com/_ct/17263550
 太字強調は原文における下線強調(最終アクセス日:2023/07/09)

解離によって、内在的にできた別人格がいわば自分にとってはそれは〈他〉の領域にあるのですが、自分のなかでその別人格がいわば〈自〉を主導するため(それは「分身」のようである)、〈他〉が〈自〉になってしまうことが起こるのではないかと思われる。自分の主治医も、「自分の中で聴こえる声が自分のものであれば良いが、それが他者的なものであれば、問題である」という内容のことを私に言っていました。
解離性障害で起きる幻聴は、統合失調症の幻聴とは異なるので、主治医も「〔解離の幻聴と、統合失調症の幻聴が〕混じっているのかもしれない」と言っていました。
その混じり合っている現実からどのようにして自己を設定していくかは問題だと思いますが、解離においては〈他〉の領域に別人格が生じてしまうので、自分の行動が他者的になってしまうこともあるのだと思います。

自分のなかでそうした問題が起こっているということは確かですが、文章を書く時にどうするかは問題であると思っていますし、意識がいわば混濁していることがよく起こるなかで、自分が何をしていくかは本当に考えなければいけないと思っています。

内在性解離についての文章にもあるように、基本人格と主人格は違うものだし、基本人格で本来は生きられる方が良いのではという気持ちもします。
意識の分裂はスティーヴンソンの小説のなかにもあることですので、古典的なテーマですが、この世界のなかで自分が何をしていくかということを考えていかねばならないと思います。

今日は久しぶりに学会に参加してきました。聞くだけでしたが。
学会で色々な先生と話せたことは良かったです。かつての大学院の同期とも話しました。

自分も少しずつ社会復帰できてきていると思います。
それは労働しているということとはまた違った意味で、社会的な生活が少しずつ回復してきているという意味です。

どのようにして人間は社会を形成しているかは大事な問題だと思います。
その問題についても考えたいです。


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