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めんどくさがり屋のひとりごと⑩「不自由な自由の不自由・その5 出会いと別れの繰り返し」

退院して2ヶ月近く経つ。
まだ口をすぼめると隙間があったりと、完全には治ってはいないが、日常生活で困ることはほとんど無くなった。

記憶もすでに朧げな部分もあるが、入院中のこぼれ話として、この話の締めとしたい。

私は入院中、積ん読にしていた小説を7冊持って行った。
こんな機会じゃなければ、集中して読書に勤しむことなど出来ないと思ったからだ。
主にミステリー小説が多かったのだが、1冊だけミステリー小説じゃないものが混ざっていた。
それが、垣谷美雨さんの『女たちの避難所』(新潮社)というものである。

あらすじを説明すると、舞台は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県のとある町。そこに暮らす3人の女性がいた。椿原福子つばきはらふくこ(55)は元保育士で子供が巣立った今は、どうしようもないグズの夫と二人暮らし。漆山遠乃うるしやまとおの(28)は舅が権勢を振るう封建的な家に嫁ぎ、乳飲み子の息子を抱えて被災した。山野渚やまのなぎさ(40)は実母と飲食店を経営しながら、小学生の一人息子を育てるシングルマザー。
年齢も来歴も違う3人は、避難所である小学校で初めて出会う。そこで目にしたのは、「絆」を盾にして段ボールによる仕切りさえさせてもらえず、美しい遠乃は男たちの好奇の眼に晒されながら授乳をせざるを得ないような、男尊女卑の蔓延はびこる光景。そんな光景に我慢の限界を迎えた女たちは反旗を翻して……と言ったような内容である。

垣谷さんは映画化もされた『老後の資金がありません』の作者としても知られており、社会問題にユーモアを交えながら切り込んだ作品を数多く上梓されている。
私自身も垣谷さんの作品はまだ数冊のみながらも読んでいるが、いつも「面白いなぁ、面白いなぁ」と連呼してしまう。
その中でも、この作品は今年上半期に読んだ小説の中でもトップクラスに「面白い!」と思った作品である。

この作品は、最近話題のシスターフッド(女性同士の強い結束)をテーマにした作品であることは確かである。ただ、私にはそれだけを描いているようには見えなかった。
この作品は「取捨選択の過程」を描いていたのだ、と私は思うのだ。

震災によって今までの日常は奪われ、被災後の避難所生活という「非日常」が始まった。
その非日常を過ごすためには、それまでの日常から何を持ってきて、何を手放すべきなのか。
また、その非日常から復興という名の「日常」へと生活を戻してゆく中で、何を取り戻し、何を捨てるべきなのか。
この作品は、そんなことを登場人物たちがそれぞれに判断して過ごしてゆく記録だったのだ、と読んだ後に思った。

ただここで対照的なのは、男女での取捨選択の中身である。
非日常で女性たちは「しがらみ」を捨てようとした。
特に中心の3人は福子が定職もつかないのに威勢だけは立派な夫、遠乃が権勢を振るう舅とその腰巾着のような義兄、渚が自分の仕事のせいで息子をいじめている息子のクラスメイトたちと、それぞれ逃れたい存在を抱えていた。
どうにかして、この非日常においてこいつらと距離を置きたい、自由になりたい――そんな感情を持ちながら、彼女たちは避難所での生活を過ごしていた。
それと同時に、「個」を求めた。
段ボールの仕切りがあれば、たとえ隣に赤の他人が生活していたとしても、その空間だけは「自分たちのもの」という認識が生まれるし、作中の遠乃や女子高生のように性的な眼で視られる危険性がある人々にとっても、そこが空間がシェルターのような認識を持てる。

一方の男性たちはというと――何も捨てなかった。
福子の夫は「人生何が起こるかわからない」と義捐金で高級外車を買い、遠乃の舅は「嫁が生意気な口を利くな」と義捐金を一切渡そうとしなかった。唯一、離婚していて世帯主だった渚は義捐金を手に出来たが、それでも子供を育てていく上では働かねばならない。ガレキ作業などの力仕事は全て男のみで女たちが出来ることと言えば、無報酬で避難所の食事を作ることぐらい。男性だけは、悠々と今までの日常と同じような振る舞いをし続けられた。

一度身に着いた習慣や関係は、簡単には変えることは出来ない。
現に、福子は周囲の薦めでリーダーシップを発揮しようとするが、男尊女卑の激しい時代を生きてきたが故に「こんなおばさんの言うことなど、みんなが従ってくれるわけがない」と尻込みするし、遠乃も舅や義兄の言うことに逆らえずにいる。
おまけに福子よりも年上の年配者は「女は男の言うことに従うべき」という封建的な環境で育っているので、そこでの女性の発言権が著しく低いのである。
そんな中で彼女たちはどんな決断をするのか、それは読んでもらった方が早いので、一度読んでみてほしい。

話を戻すと、その避難所での生活とそれを読んでいた私の生活に少し似通ったものを感じたのだった。
急な発病により2週間の入院を余儀なくされ、生活はコントロールされて外を自由に動き回ることさえ出来ない。
今まで出来たことが出来ず、何かを捨てて非日常を過ごさねばならない。
そんな気持ちがこれを読んだ後に生まれたのだった。

些末なことで言えば、歯磨きの中身を変えた。
いつもは洗口液で口をゆすいでから歯ブラシをする。入院した時もその一式をジップロックに詰めていた。
ただ、家のように歯磨きセットを常時置いておけるスペースが病院にあるわけではないし、戸棚にむき出しのまま置いておくと棚にあるものが水で濡れてしまう。だから袋の中に入れておいたが、中で蒸れて生乾きになって自分の唾液の匂いにえずくことになった。

何しろ、唾液にまみれたその一式を持ってゆくのが嫌になったし、面倒になった。
誰が洗口液のボトルをそのまま入院先まで持ち込んでいるのか、と疑問に思ったのだった。
だからその後の入院生活では洗口液は使用せず、それまでの歯ブラシを捨てて一緒に持参していた使い捨ての歯ブラシでのブラッシングだけで済ませた。
おかげで歯肉炎を起こしてしまい、売店で歯磨きのトラベルセットを購入して普通の歯ブラシを使うことになるのは、また別の話である。

それと仕事に関しても、入院中に色々と考えを巡らせることになった。
元々強くなかった今の仕事への執着が、さほど無くなったのである。

入院中の引継ぎはされていたので心置きなく入院は出来たが、社用携帯を念のため持参していたので、取引先や同僚から送られているメールはその度に確認していた。
別に自分が仕事の中心人物であるなんて自負は無かったが、いないとまあまあ大変な部分もあるとは思っていた。
ただ、自分がいなくても何事も無かったかのように時間が流れているのを眼にして、世の中は誰か欠けてもどうにかなるように出来ていることを感じた。
所詮は、自分は替えの利く歯車の一つに過ぎないのだ、と。

復帰してから、仕事を代行してくれていた同僚の方からは、「高山さんが戻ってきてくれて良かったですよ~いることのありがたみを感じました」との言葉をいただいた。
それは本心ではあろう。されど、私はただの契約社員なので正社員よりは軽く扱われる存在なのだ。
言ってしまえば、契約更新の生殺与奪は会社が握っているので、私がいずとも世界は回るように出来ているのである。

そう考えると、果たして今の会社にずっと居続けることは得策なのかと思う。
派遣社員の頃からお世話になって、今年で5年目。
年齢も来年の3月で30歳となる。
主にやっているのは出版関係の営業と庶務。
固定給だし、大手だからボーナスだってちゃんと出る。

果たしてこれに何の不満があろうか、と思うかもしれない。
ちゃんと福利厚生があるだけいいじゃないか、と。
もちろん、それは一理あることである。
ただ、私の中ではこの会社に一生骨を埋めるなんて考えは生涯の選択肢に無いのだ。

私にとっての恐怖を拭えないものに「定年」がある。
ただ会社に忠誠を誓って40年近く働き続け、お金を稼ぎ続け、そしてある時を境にいきなり解き放たれる。それがどれほど恐怖なことか。

私は定年の無い、一生続けられる仕事をしたいと思っている。
小説家を志しているのも、それが理由の一つである。
黙々と自分と向き合って、それを作品にしてゆきたい。
ただ、私は自分がそれほど器用な人間ではないことは知っている。
仕事と趣味を両立させて充実させることがどれほど大変であるかを、この7年近くの働き人生活の中で身をもって知っている。

それを考えると、私はお金を稼ぐことに精一杯でプライベートを疎かにしたまま、この先生きてゆくことが大いに考えられる。
それだけは絶対に嫌である。しかし、プライベートを充実させるためにはお金が必要、お金を稼ぐには働かねばならない……非常に現実的な事実である。

別に働きたくないと言っているわけではない。単に「自分がサラリーマンとして働くことへの疲弊」を感じているのだ。
決まった時間に起きて、家を出て、満員電車に揉まれて、会社に着いて、仕事して、帰途に就いて、夕食を食べて、入浴を済ませて、そして寝る。この繰り返し。
「企業戦士」とはよく言ったものだ。とても単調で、自分が兵隊になった気分である。

私は生来怠け者なので、こうして単調な生活を続けていることは生活リズムを整えることには役に立つ。
ただ、平日の疲れの煽りを休日がまともに受けるので、ろくに起きていられない。起きた時間でその日の予定が色々決まってしまうので、やりたいことを不完全燃焼で終わらせてしまうこともしょっちゅうだ。

そう考えると、決まった時間から決まった時間まで果て無く拘束されるこの日々は、手放すことを視野に入れた方が良いのではないか、と思ったのだ。
自分の好きな時間に仕事を始めて、好きな時間に中断して、好きな時間に終わらせる。
そんな仕事の方が自分の性には合っているのではなかろうか、そう思った。

いやまぁ、これは家にいたいのと作家になりたいけどその意欲だけ空回りしている自分の言い訳に過ぎないのだが。
ただ、私はサラリーマンで一生を終えたくない、その気持ちだけは本当である。

仕事を捨てることはとても勇気がいる。
だけれども、時には大きいものを捨てないとならないことがある。
それを考え始めるのが今なのだと思う。

まだ契約社員になって2年目、満3年である再来年にならなければ退職金も出ない。
だから、すぐに実行は出来ないが、3年過ぎた辺りに自分のやりたいことが出来るような環境へと身を移せるように準備をしてゆきたい。

人生100年時代、私はまだ1/3も生きていない。
けれど、自分の身体が言うことを聞くうちに自分の野心の限りは果たしておきたいのだ。
人はいずれ死ぬ。時には誰かに、何かに殺されることさえあり得る。
そんな中で何もせずに死ぬのはもったいない。
死ぬなら、9割くらい目標を達成してから死にたいものだ。

人生の大半は取捨選択である。
きっとこの先、何かを手放し、何かと出会い、また何かを手放し……とその繰り返しで生きてゆく。
その度に正解か間違いか分からぬまま、その選択をし続ける。
きっと最後に出会うであろう死神から逃げ続けながら、その選択を一生続けるのだ。

安定を手放し、時間を取り戻す。
それが30歳に向けた私の目標である。
それが正解かなんて誰も知らない。
けれど、私はこれを正解にしたいので、その為に生きてゆきたい。
そしてその先にある出会いを、手ぐすね引いて待っていたい。

待ってろよ、書斎付きの一軒家。
いつかそこに住んでやる。

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