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8月9日に生まれて

1.誕生日とわたし

本日、8月9日。わたくし、20何回目かの誕生日を迎えました。


さすがにだんだんと、誕生日を素直に喜べる年齢からは遠ざかりつつありますが、それでも祝い事に変わりはございません。今年も例年通り「来年の誕生日を生きて迎える」ことを目標に、ぼちぼち頑張りたいと思います。


さて、おそらく私は、今日も一日のんびりと過ごし、夜に行われるJリーグの試合に備えていることでしょう。3週間のオリンピック中断期間を経てのリーグ戦再開の初戦が、自分の誕生日。対戦相手は思い出のクラブ、ツエーゲン金沢。なんと幸せな日程でありましょうか。


(私と金沢の思い出については、以前の記事をご覧ください)


通常であれば、金沢でたくさんの知り合いの方と会い、終わった後は試合の感想を言い合いながらお酒を飲んでいるのですが、昨今の情勢では、それも叶いそうにありません。


世の中が様々な意味で「普通」でなくなってしまったと、そう感じます。


裏を返すと、今まで当たり前だと思っていたことが、実はとても有難いことだったと、そう感じることが増えました。「もう恋なんてしない」という歌ではございませんが、感染症の影響で、「いつもより眺めがいい」スケジュール帳の空白を寂しく感じ、たくさんの出会いがあった日々を恋しく思う、そんな毎日です。


「当たり前」が失われた世界になってしまいましたが、8月9日というのはもう一つ、1945年、別の意味でいろいろな「当たり前」が失われた日でもあります。


長崎原爆の日――この日、長崎市に原子爆弾が落とされ、当時の人口約24万人のうち、約7万4千人が死亡しました。


本日の記事は、長崎県民である私がこれまで平和について学んだことや、考えてきたことを共有するための記事です。


今日という一日を、なんでもない平和で楽しい日として過ごせることが、本当は一番なのでしょう。しかし「8月9日」という日に、1945年の今日のことについて、誰かが語り継いでいかねばならないというのも、また事実なのです。


皆さんの楽しい一日に、少しだけ重たいテーマかもしれませんが、よければ10分ほど話を聞いて頂けますと嬉しいです。

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2.長崎での夏の過ごし方

突然ですが、「7月4日に生まれて」というアメリカ映画をご存じでしょうか。元アメリカ海兵隊員のロン・コーヴィックの自伝的小説を元にした映画で、第62回アカデミー賞の監督賞、編集賞も獲得した作品です。


あらすじ
米国の独立記念日である7月4日に生まれた米国人ロン・コーヴィックは高校を卒業した後、子どもの頃から憧れだった海兵隊に志願してベトナムの戦場へ。だが戦場の現実は過酷で、理想や正義とかけ離れて、自身で戦友を撃ってしまうことも。やがてロン自身、重傷を負って下半身不随になり、帰国後、祖国の威信に疑いを抱きだす。そして車椅子に乗って、反戦活動家として生きる第2の人生を送るが……。
(出典:7月4日に生まれて | 映画 | WOWOWオンライン)


この映画の主人公、ロンは、「アメリカにとって大切な日」、7月4日に生まれたことに、強い使命感を持ち、生涯の軸としました。そして私も同じように、「長崎にとって大切な日」、8月9日に生を受けました。


私のこれまでの人生は、節目節目において、この「長崎原爆の日」とともにあります。


長崎県民でない方には驚かれることなのですが、8月9日に長崎の学生は、登校日として午前中を学校で過ごします。長崎県民にとってこの日は、平和について学び、考える日なのです。


朝から登校し、原子爆弾が落とされた日の話を、被爆された方から直接聞きます。その後、ドキュメント映像や戦争についての映画などを鑑賞し、平和祈念式典の中継を傍らに、11時2分に黙とうを捧げ、午後からはそれぞれの日常に帰ります。


長崎にいるとき、この8月9日の過ごし方は当然のものであり、ある意味「当たり前」のことでした。しかし悲しいかな、大阪に出てきて以降、その「当たり前」はすっかり失われてしまいました。


無理もありません、自分以外の人には、その「当たり前」は存在しないのです。大阪には、「8月9日」が意味するところは伝わっても、「11時2分」の意味が分かる人が、ほとんどいないのです。当然、強く意識していないと、自分の中からその存在は薄れてしまいます。


悲しいことに、長崎を離れてから時が経つにつれ、私の頭の中では、「8月9日」はただの誕生日として過ごすことが多くなり、「11時2分」を待つことは、めったになくなってしまいました。



3.祈りの場にて

もはや長崎県民であることを忘れかけていた、そんな私でしたが、昨年それが一気に変わる出来事がありました。新型コロナウイルスの流行による行動制限です。


大変なことになってしまった世界の中で、私は心のどこかで、帰る場所を欲していたのでしょう。私の頭の中から消えかけていた平和祈念式典が、なぜだか不意に見たくなり、昨年は中継を最初から最後まで見通しました。そして11時2分には、一人静かに黙とうを捧げました。


きっと私は、「当たり前」がなくなった世の中で、どこか自分の原点に帰りたくなったのでしょう。そして昨年のお盆は、家族以外の誰にも伝えず、こっそりと長崎に帰りました。


長崎を訪れても、実家に帰るわけではありません。私はすっかり都会の人であり、この「当たり前」でない世界では、長崎に住む人に気軽に会うことははばかられます。基本的にはホテルとその周辺だけで、一人きりで3泊4日を過ごしました。


祖父母の墓に参り、手を合わせたその足で、私は、10年ぶりに原爆資料館へと向かいました。


高校を卒業するまでの18年間で、何度も行った場所です。展示品も見覚えのあるものばかり、新たに得る知識も、それほど多くはありません。


しかし、展示物を見て歩き、慰霊碑に手を合わせ、ある一つの思いが芽生えてきました。


「人の命を、人が奪うことはあってはならぬ」と。


輪廻転生という考え方はありますが、今私たちが生きている人生というものは、基本的に今一度きりのものです。


その人生を生きる権利というものは、本人にゆだねられるものであり、他者の手によって、その権利が奪われることはあってはならないと。ましてその最期を、凄惨たるものにする権利など、赤の他人にあろうものかと。


夏の長崎で、私は忘れかけていた長崎県民の心を取り戻しました。


しかし、このようなことを考えるようになったのも、それはひとえに私が「長崎県民であったから」なのかもしれません。

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4.サッカーという「きっかけ」

長崎を離れて分かったことは、日本には平和について考える「手段」はあるが、そこに至る「機会」が少ないということです。平和を考える番組、演劇、映画などはたくさんありますが、それらのコンテンツに触れて、知ろうと思う一種の「きっかけ」が少ない。そう感じています。


私が応援するクラブであるV・ファーレン長崎は、「サッカーを通じて平和な世界へ寄与する」ことをひとつの設立理念としています。世界中でプレーされているサッカーという競技によって、平和について考える「きっかけ」となろうとしているのです。


毎年夏にかけて、V・ファーレン長崎は様々な取り組みを行っていますが、代表的なものとして、2015年より夏に制作されている、「平和祈念ユニフォーム」が挙げられます。


2015年と2016年は、平和祈念像をモチーフにしたユニフォーム。


2017年、2018年は折り鶴をモチーフにしたユニフォーム。


2019年と今年は(2020年は制作なし)鳩をモチーフにしたユニフォームがリリースされています。


毎年様々なモチーフでデザインされていますが、そこには一貫して「平和」というコンセプトが定められています。


ただの夏季限定ユニフォームではなく、「平和祈念」ユニフォームなのです。


ユニフォームは選手が纏う、ある意味「クラブの顔」とも言えるものです。そこに込められた平和のメッセージは、日本国内のみならず、遠く海外にも伝わっています。


そしてV・ファーレンでは、選手・スタッフに向けた平和学習も実施しています。今年参加した都倉賢選手は、Twitterでこのようなことを記しています。


おそらく都倉選手は、長崎に縁がなければ、このように平和を考えるきっかけを持つことはなかったかもしれません。V・ファーレン長崎というクラブが、平和についての発信を続けることの意義が、きっとここにあるのではないかと思います。


サッカーをきっかけに平和について考え、その考えを他の人へと伝えていく。


この「平和のバトン」を繋げ、日本中、世界中で、平和について考える機会が日々生まれることが、長崎に生まれた者としての、私のひとつの願いです。



5.ひとりの「ランナー」として

私は長崎に生まれた者として、もっと多くの人々に平和について考えてほしいと、常日頃より思っています。


しかしながら、日本において「平和」を語る際、時に政治的な色が付けられることも多く、日常の話題として、中立の立場で語ることが難しくあるのも現状です。


私も学生の頃は、兵器というものは残酷なものであり、必ずなくさなければならないものだと信じて疑いませんでした。しかし大人になり、すべての人が必ずしも善人ではないと知った時に、時として「守るために強くある」ことも必要なのではないかと、そう思うようになりました。


同じ人間でも考えは変わるのです。人間それぞれで考え方が異なるのは、至極当然のことだと思います。


しかし、すべての人に共通する願いは「人生を自分の足で最後まで生きること」、これに疑いはないと思うのです。そして、個々人が自由に生きていく道を不条理に閉ざす「戦争」というものは、やはりあってはならないものだと思います。


思いを実現するための方法論が異なるだけで、根底にある願いはきっと、すべての人々に共通しているのだ。そう私は考えます。


以前、母が私を産んだ時の育児ノートを見せてもらった際、「生まれた時の一言」という欄がありました。そこには丸く、優しい字で、こう書かれてありました。


「この日に生まれた子は、きっと平和の使者なのであろう」と。


「8月9日に生まれて」。私はこれからも、平和について学び、考え、伝えていく使命とともに生きていきます。

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あとがき:ピースマッチとわたし

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