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ウルトラマン・考

ウルトラマンや仮面ライダーは、1番初めの制作がそれぞれ1966年、1971年だそうだ。

私も子供の頃、テレビでよく見ていたのを思い出す。
当時は、一般家庭には、なかなか録画の手段もなかったから、テレビに食い入るように観ていた。
本放送後、数年で再放送していたのを観ていたのだと思うが、毎日、夕方の決まった時間に放映していた。
習い事などで観られないと、悔しかったものだ。

それにしても、どうしてあんなに夢中になっていたんだろうか?
思い当たる理由をいくつか挙げてみたい。

まず、音楽。
ウルトラセブンのオープニングなど、
「ドコドコドコドン…ジャーン、ジャー、ジャジャー、ジャー、ジャー、ジャー、デッテレー……
セブン、セブン、セブン、セブン、セブンセブンセブン!」
と、今でも歌い出してしまいそうだ。いまもあやうく、歌詞全部をここに書きだしてしまいそうだった。
子供相手でからと手を抜いた音楽ではないのだ。
いまだに、合唱コンサートなども催されていると聞く。

変身する、というのも、子供には胸躍る設定だ。
変身ごっこは、遊びの定番であった。
(いまでもしているのだろうか?)

そして、不届きな敵を退治する、という爽快感。
敵には怪獣や異星人などいろんなパターンがあって、バラエティに富んでいて、ウルトラマンが敵を倒した時の爽快感は、回を重ねても減衰していかないのだ。

つまり、制作した大人たちは、どうせ見るのは子供だから、といい加減な、浅い脚本にしなかった。
その、大人の真剣さを感じ取っていたから、子供達も夢中になったと思う。

しかし、
一抹の物足りなさを、子供ながらに感じたのもまた事実だ。
怪獣や異星人は基本的にやっつけられてしまう。それについて、時には「地球人のわがままではないのか」というふうな葛藤を示しているが、取ってつけたような後付けの理由が多い。

そして、私の密かな疑問は、
「どうしてウルトラマンは地球人の味方なのか?」
ということだ。
作中では、ウルトラマンがパトロール中に、ハヤタ隊員とついうっかりぶつかって命をなくしてしまったので、そのお詫びということが語られているが、それでは、地球人が敵に対して正しいという理由にはならないではないか?
絶対的と言ってよい力を行使するのには、正義について根拠薄弱ではないか?
でも、よく分からないうちに、ウルトラマンはわれらの味方になってくれたようだ。
おかげで、地球人の道徳観や正義観は保たれる。
秩序と正義はいつのまにか与えられるものだ、という楽観。
思考停止。

しかし、これは子供番組に限ったことではない。
絶対的な正義が悪を懲らしめるのは、時代劇など、大人が観るものにも多かった。
水戸黄門とか。

昭和の時代。
東西対立があり、そのころに生まれていなかった世代にはたぶん説明しても分かってもらえないと思うが、世界中の人々は不安でいっぱいだった。
不測のことから全面的核戦争が始めるのではないか、と。
私も子供心に恐れていた。
だから、ノストラダムスの大予言は、全面核戦争のことじゃないか、
とまことしやかにささやかれていたのだった。
その不安を打ち消してくれるのは、アメリカだった。

そう、いまにして思うのだ。
ウルトラマンと地球人の関係は、
アメリカと日本の関係そのものだな、などと。
秩序と正義は与えられるもの、という日本人的楽観。
同じころ、アメリカでは「逃亡者」などというドラマが流行っていたそうだ。
つまり、孤高のヒーロー。
国民のマインドがテレビの流行によく表れていたのだ。

今のテレビはどうだろうか?

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