小説『ネアンデルタールの朝』㉞(第三部最終章-4)
4、
「この前、民喜が言ってたこと、ずっと考えてたんだけども……」
しばらくしてから、隣に立つ駿が言った。
「帰り際、病院のロビーで民喜が言ったこと。ネアンデルタール人について」
「うん」
ハッとして駿の顔を見つめる。駿は分厚いレンズの眼鏡をずり上げ、
「民喜、ネアンデルタール人には存在が存在そのものとして見えてたんだって言ったよな」
駿は続けて、
「俺、この二週間、そのことをずっと考えてたんだけども……。民喜の言う通りなんじゃねえかって、思った」
「そっか」
ネアンデルタール人の話になった途端、心に肯定的な感覚がよみがえってくる。
「ネアンデルタール人?」
撮影を終えた山口が駿と民喜の方に向き直って言った。将人は頷き、
「んだ。最近、俺らの間でブームなんだ」
「ネアンデルタール人って、どんなだっけ?」
山口が尋ねると、
「えーと……」
将人は欄干の上に肘をついて、
「初めに原人がいて、で、そこから枝分かれして進化していったのがホモ・サピエンスとネアンデルタール人。いわば、いとこのような関係だ。だよな、駿」
駿はニヤッと笑い、
「よく分かってるじゃねえか。お前も進化したな」
将人も笑って、
「うるせえ。で、ネアンデルタール人はもう絶滅して、俺らホモ・サピエンスだけが生き残ってる。でも確か、俺らの中にもネアンデルタール人の遺伝子が含まれてるんだよな?」
「んだ」
駿と民喜は同時に返事をした。
「へー、知らなかった。そんな関係があったんだ。で、えーと、ネアンデルタール人には何がどう見えてるんだっけ?」
山口の質問に、
「ネアンデルタール人には、目の前の存在一つひとつが、そのものとして見えてたんじゃねえかって、思ってるんだ。たとえば、木は木そのものとして、岩は岩そのものとして、俺らは俺らそのものとして……」
民喜は真顔で説明した後、
「まあ、俺が勝手にそう考えてるだけなんだけども」
ふと恥ずかしくなってそう付け加えた。
「ふーん。ごめん、ぶっちゃけよく分からないんだけど。でも駿くんは理解してて、駿君もその通りだって考えてるわけなんだよね?」
山口の質問に駿は真剣な表情で、
「んだ」
と頷き、
「実はさ、俺ら、震災の2日前にも、ここで同じような話をしてたんだ。この浜で、ネアンデルタール人にはどのように世界が見えてたかって」
「へー。震災の……?」
山口は驚いたような表情を浮かべた。
「もともとはホモ・サピエンスもネアンデルタール人も同じような頭のつくりだったらしいんだけど、何万年も前のある日、俺らホモ・サピエンスに遺伝子変異が起こって、いまのような頭のつくりに変化したんだ」
駿がそう言うと、
「俺らホモ・サピエンスとネアンデルタール人は脳の構造が違うんだよな」
と将人が続けた。
「へー、どう違うの?」
山口の問いに、
「俺らホモ・サピエンスの脳は遺伝子の変異によって、それまでバラバラに独立して働いていた部位が互いにつながりを持つようになったんだ。その結果、ものごとにつながりを見出し、それを結び合わせる力が爆発的に発達していった」
駿は早口で説明をした。
キョトンとしている山口の顔を見て、
「簡単に言うと、色々妄想さできるようになったっつうことだよな」
と将人が付け加える。
「だよな?」
駿はコクリと頷き、
「妄想力。もしくは想像力」
と呟いた。
「ほーっ、妄想できるのがホモ・サピエンスの特徴なんだ」
山口は感心した声を出した。
「んだんだ」
将人が嬉しそうに頷く。
駿は山口の目を見つめ、
「たとえば、いま俺らの目の前にリンゴがあるとするね。俺らはリンゴを見たとき、『赤い』とか『丸い』とか『ボールみたい』とか、色んなことを思いつくわけだ。脳の色んな部位が同時的に交流して、意識しないでも、瞬時に色んなことを思い浮かべる。リンゴを見た瞬間、そこに色んなイメージや過去の記憶がくっつく。いわば、何枚ものフィルターを通してリンゴを見ているような状態」
「ふんふん」
「俺らは普段、目の前にあるものをそのようにして見てる。対象に色んな記憶や情報をひっつけて見てるんだ」
「確かに」
「ものとものを結び合わせる力が爆発的に増大したことにより、俺らホモ・サピエンスは実際に目の前にリンゴがなくても、リンゴについて考えることができるようにもなった。つまり、妄想ができるようになったんだ。イメージがどんどん連鎖して……リンゴについて詩をつくることも、哲学的な思索をすることも、物語を書くこともできるようになった。きっとこういうことは、ネアンデルタール人や初期人類はしなかった、いや、できなかったはずなんだ」
「なるほど」
山口は頷いて、
「そうやってだんだんと文明が発達していったんだね」
「でも、それが人類にとって良かったのか、悪かったのか……」
将人はそう言って、向こうの海岸線を指差した。
「その力が暴走したせいで、遂には『あれ』も出来てしまったわけだからな」
「原発?」
山口が尋ねると、
「んだ」
将人は頷いた。四人で第二原発が横たわる海岸線を眺める。
「俺たちホモ・サピエンスは禁断の果実を食べちゃったわけだな、アダムとエバのように」
山口がボソッと呟いた。
「いや、聖書にそんな話が出てくるからさ。食べちゃいけないって神から言われていた知恵の実をアダムとエバが食べちゃって、楽園から追放される話」
そう言えば、大学のキリスト教概論の授業でそんな場面を読んだことを民喜は思い出した。「原罪」の教理についての説明を受ける中で、確かその場面が紹介されていた気がする。
「かもしれねえ。禁断の果実を食べちまったのかも……」
将人は頷いた。
しばらくの沈黙の後、
「で、それでだ、妄想のない世界を生きてるネアンデルタール人には、世界はどのように見えてたんだ、って話を4年前にここでしてたんだ」
駿は言った。
「なるほど、そうつながってくるんだ」
山口はウンウンと頷いた。
「で……その答えが、遂に俺らに見えてきた、っつうことか?」
将人が丸い目をさらに丸く見開いて言った。
「んだ。ものとものを結び合わせる力が乏しいってことは……見方を変えると、ものをものそのものとして認識することができるってことなんだ」
駿は続けて、
「発想の転換だな。結び合わせる力が乏しいことを否定的に捉えるんじゃなくて、むしろ肯定的に捉えてみる……。そうすると、これまで見えなかったことが、見えてくるんだ。な、民喜!」
駿は興奮した口調になって民喜の肩を叩いた。民喜は頷いて、
「んだ。ネアンデルタール人には、存在が存在そのものとして見えてたんだと思う。たとえば、リンゴはリンゴそのものとして……。他の何ものでもない、リンゴそのものとして見えてたんだ」
あの日、朝の光の中で輝いていたリンゴを思い起こす。あの瞬間、自分の目にリンゴはただリンゴそのものだった。他の何ものでもなく、リンゴそのものだった――。
「なるほど、なるほど、そっか!」
将人はカンカンカンカン……と太鼓を叩くように欄干を小刻みに叩いた。駿は民喜の顔を見つめ、
「そのような視点で書かれた論文は俺もまだ読んだことねえけども……。でも多分、きっとそうなんじゃねえかなって思ってる」
将人は顔を輝かせて、
「そっか、そういうことか。いま、分かった!」
海に向かって大声で叫んだ。駿も大声で、
「人類の歴史には、大きく二つの世界認識があったんだ! 一つは、ネアンデルタール人や初期人類のように、ものをものそのものとして認識する仕方。もう一つはホモ・サピエンスのように、ものとものを結び合わせて認識する仕方。そんなんだべ!」
欄干を勢いよく叩き、
「痛!」
と手を擦った。顔をしかめる駿を見て、三人で笑う。駿も笑って、
「で、俺、勝手に名前をつけてみた。ものをものそのものとして認識するのは『ネアンデルタール人型世界認識』。ものとものを結び合わせて認識するのは『ホモ・サピエンス型世界認識』。どうだべ?」
「うん、分かりやすい!」
民喜は力強く頷いた。胸の内に熱いものが込み上がってくる。
山口は額をゴシゴシと勢いよくさすりながら、
「えーと、俺もだんだんと民喜たちが言わんとしてることが分かってきたんだけど……。一つ聞いていい? えーと、どうなんだろ、『ネアンデルタール人型世界認識』は、もう俺たちには失われちゃってるのかな?」
民喜は山口をジッと見つめ、
「いや、そうじゃないと思う」
と答えた。
ネアンデルタール人の男性の姿がよみがえってくる。彼はイノシシ人間を石の刃で切り分け、それぞれを本来の姿に戻してくれた。イノシシはイノシシに、人間は人間に……。そうして石の刃であの陰惨な世界を切り裂いて、「ネアンデルタールの朝」へと自分を連れ戻してくれた。
「確かに俺らはもはや、ネアンデルタール人とは違う風に世界を見てるわけだけども……。でも、ネアンデルタール人型世界認識は失われてしまったわけじゃないと思う」
「んだ!」
将人が相槌を打った。
「俺らの中には、いまもネアンデルタール人のDNAが受け継がれてるわけだしな」
駿もそう言って頷いた。
ネアンデルタール人の女性と少女の微笑みが胸の内によみがえってくる。自分は確かに彼らと出会い、渓谷の中のあの洞窟へ帰ることができたのだ。
そして病室で目覚めたあの朝、確かに彼らと同じまなざしで世界を見ていた。一つひとつの存在がそのものとして、キラキラと光を放っている姿を――。
「それは別に、何か特別な感覚じゃねえと思う。ふと時間の感覚が変わったようになって、目の前の存在が輝いて、いとおしく見えることって、あるじゃない? そういう感覚に近いものだと思う」
民喜は海を見つめて言った。
「だから俺らはいつでも、ふとした瞬間、ネアンデルタール人のまなざしに立ち帰ることができるんだって、思ってる」
「ふーん、なるほど」
山口は頷いた後、
「ふとした瞬間って……いつ?」
と続けた。山口の問いに、民喜は一瞬言葉に詰まった。
太陽の光が群青の海を輝かせている。ロウソク岩の土台が光の中、くっきりとした陰影を浮き立たせている。まばゆい光の中、目に映る一つ一つの存在がいま、民喜に何かを語りかけている――。
胸の中が熱いもので満たされ、目に涙が滲んでくる。
「いま……」
民喜は三人の顔を見つめながら言った。
「いま、だよ!」
民喜の目から涙が零れ落ちた。
「いつでも……いまこの瞬間に、俺らはそのまなざしに立ち帰ることができると思う」
民喜は後ろへ向き直り、眼前いっぱいに広がる町の景色を眺めた。
河口へと流れ込む川が日の光を反射させている。
川沿いに密集する草がその緑を輝かせている。
雑木林はところどころ紅葉し、赤や黄に鮮やかに染まっている。
丘陵地と、自分たちが住んでいた住宅地が見える。
そしてその背後に、穏やかな山並みが続いている。
そう、これが、俺らの故郷だ。
「…………善い」
あの声が、胸の内から聴こえてきた。
「善い」
民喜はそう呟き、道路を渡って反対側の欄干まで歩いて行った。
「民喜……?」
背後から将人の声がする。
「やっぱ、綺麗だな……」
近づいてきた将人に声をかける。
「うん?」
「やっぱ、最高だ、俺らの町は」
将人と駿は民喜の両隣に並び、
「ああ、もちろん」
と返事をした。
「海があって、山があって、川もあって……。自然がたくさんあって、気候も温暖で」
「人間もいい」
そう言って将人は笑った。
「んだ。放射能で汚されちまったけど」
と口にすると、また目から涙が溢れてきた。
「それでも……最高だよな」
流れ出る涙を手で拭う。
「んだ。最高だ」
駿と将人も目に涙を浮かべ、力強く同意してくれた。
美しい――
と思う。
それでも、この町は美しい。
脳裏にカメラを手にした父の姿が浮かんだ。
「民喜」――
満開の桜を背にして、父は穏やかな表情で自分に微笑みかけている。
民喜は目を閉じ、頷いた。
(この町は、綺麗だよ。これまでも、いまも、ずっと……)
父に向って呟く。
(ずっと……)
すると父も嬉しそうな表情で頷き返した。
「…………善い」
目を開けると、駿と将人も泣いていた。
「すまねえ」
民喜が恥ずかしそうに涙を拭くと、駿と将人も照れ笑いを浮かべてゴシゴシと頬をふいた。見ると、山口凌空も目に光るものを湛えている。
そのまま橋の上に四人で並んで、目の前の風景を眺める。
この町の存在そのものを、何ものも、なかったことにすることはできない。
海から吹いてくる風が民喜たちの後ろ髪を揺らす。穏やかな波音が四人の全身を包み込む。
放射能も、どんなものも、このそのものの美しさを汚すことはできないんだ。
波の音を聞きながら、民喜はいま、そのことを確信していた。
*参照:スティーヴン・ミズン『心の先史時代』(松浦俊輔・牧野美佐緒訳、青土社、1998年)/スヴァンテ・ペーボ『ネアンデルタール人は私たちと交配した』(野中香方子訳、文芸春秋、2015年)
*お読みいただきありがとうございます。本作品は明日が最終回となります。
これまでの連載はこちら(↓)をご覧ください。
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