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連載小説『ネアンデルタールの朝』⑧(第一部第2章‐2)

2、
民喜はかがみ込んで、雨どいの下にガイガーカウンターを近づけてみた。土壌から5センチほどのところで、しばらく測定器を固定する。
6.23マイクロシーベルト。
立ち上がって、今度は軒下を測ってみることにする。しゃがみ込み、土壌から5センチほどのところに測定器を近づける。
だいだい同じ数値、6.34マイクロシーベルト。
4年ぶりに訪れた実家――。予想はしていたが、やはり家の敷地内は高い放射線量を示していた。
ガイガーカウンターは先月ネットで購入したものだ。学生の民喜でも購入可能な、それほど高くはないものを選んだ。表面は白色で、掌に収まるサイズ。離れたところから見るとスマホと間違われるかもしれない。

民喜は立ち上がり、窓から家の中の様子をそっとうかがってみた。ガラスに映った自分と目が合う。マスクをし、青白い顔をした自分は我ながら幽霊のようだ。髪も海からの強い風を受けてボサボサに乱れてしまっている。片手で軽く髪の毛を整えてみたがまったく効果はなかった。
家の内部に焦点を合わせる。ガラス越しに薄暗い室内が浮かび上がる。4年ぶりに目にする我が家のリビングだ。
床の上に大きなごみ袋が幾つか転がっているのが見える。父と母が一時帰宅した際、まとめたものだろうか。 
白いソファーが目に留まる。夕食の後、いつも家族で並んで座っていたこのソファー。民喜はソファーの左端に座り、妹の咲喜は真ん中に座り、右端には父もしくは母が座るのが常だった。
ソファーの背後の壁に目を移す。壁際の棚の上に並べてあるフォトフレームは、一つを除いてすべて倒れてしまっていた。
民喜は窓から離れ、玄関に回った。カバンの中から家の鍵を取り出し、扉を開けようとした――が、やめた。もう少し心の準備をしてから、中に入ろうと思う。
手が少し震えていた。

民喜の足は自然と家の裏にある雑木林の方へ向かった。頼りなげな様子で風に揺れるビニールテープをまたいで、林の中に入って行く。セミの賑やかな鳴き声が民喜を包み込む。
雑木林の中は、思いの外明るい。
ジジジジジジジ……。
あちこちの梢からセミの声がシャワーのように降り注いでくる。柔らかな土を踏みしめて歩いて行くと、ケヤキの樹が見えてきた。

民喜は昔からこの樹が好きだった。樹齢は定かでないけれど、その幹の太さからかなり古くからこの場所に立っていることは間違いなかった。樹が変わらずそこに存在していることに、民喜はいく分安堵の気持ちを覚えた。
樹の前に立ち、手でそっと太い幹に触れてみる。目を瞑り、ゴツゴツとした樹皮の感触、その内奥で息づく生命力を感じ取ろうとする。
梢の方を見上げる。空を覆い尽くす葉と、葉の間から漏れ出る眩しい光。民喜は視線をゆっくりと下に移し、根元の洞を見下ろした。
木漏れ日が洞の内側を明るく照らし出している。虚空の中を小さな蛾が音もなく飛んでいる。洞の内側にはところどころ苔が生え、底面の土には短い草がまばらに生えている。
民喜は幼い頃、この洞の中に入ってみるのが好きだった。中に入って座っていると、不思議と安心した気持ちになった。民喜にとってこの洞は自分だけの秘密の場所だった。体が大きくなった現在はもう洞の中に入ることはできないだろうけれど……。今こうして眺めていると、まるでまた洞の中に入っているような感覚になってくる。
しゃがみ込み、地面に手をついて洞の中に顔を近付けてみる。不織布マスクを通しても、土の匂いが漂ってくる。久しく嗅いでいなかった土の匂い――。少しでも穴の中に顔を近づけたい、と思う。

しばらく洞の内側を見つめていた民喜の頭にふと、この中の線量は幾つなのだろうという考えが浮かんだ。民喜は半ば無意識にカバンから測定器を取り出し、洞の中に近づけていた。
自分がしていることに気付いた瞬間、
やめてくれ――という声が心の内から聴こえた。民喜はハッとしてガイガーカウンターを引っ込めた。
木漏れ日に照らし出された洞の中をぼんやりと見つめる。見つめている内に、洞の中の放射線の数値を確かめてみたいという強い気持ちも生じてきた。
迷いながらも民喜はもう一度、測定器を洞の中に近づけた。どうすべきか葛藤をしている間に、自分の手はさらに奥へと引き込まれていった。ガイガーが洞の中の土に触れるか触れないかまで近づく。思い切って、測定器の画面を確認してみる。
30.14マイクロシーベルト。
もうこれ以上数値が上がらないのを確認してから、民喜は測定器をもった手を引っ込めた。
「ホットスポット」
という言葉が太字のゴシック体で頭に浮かぶ。
ジジジジジジジ……。
再び聞こえてきたセミの鳴き声は、直接頭蓋骨の中に響いて来るようでやかましかった。測定器をしまい、首にかけていたタオルで額から垂れる汗をぬぐう。マスクも一度取り外し、顔の汗を拭きとる。不織布マスクの内側は汗でじっとり滲んでしまっている。
のど元がキュッと締め付けられるような感覚が再び民喜を捉えた。
「ごめんなさい」
民喜は洞から目を逸らし、かすれた声で呟いた。

家の前まで戻り、玄関の鍵穴に鍵を差し込もうとした時、民喜はふと誰かに見られているような気がした。後ろを振り返ったが、誰もいなかった。
不吉な予感のようなものが胸の中を駆け巡る。動悸が激しくなり、頭から血の気が失せてゆくように感じる。
帰ろうか、と思う。
もう帰ろうか。いや、でも――。
民喜は頭を振り、自分に憑りつこうとしている否定的な想いを払おうとした。カバンの中に手を入れ、谷川俊太郎の詩集を触る。この度の帰郷に際し、民喜は「お守り」として明日香に借りた本を持って来ていた。
俺は何のためにここに来たんだ。「ネアンデルタールの朝」を取り戻しに来たんじゃないのか。ここで帰ってしまったら、何のために来たのか分からなくなる。
そう自分に言い聞かせながら、鍵穴に鍵を差し込み右に回す。カチッという金属音が響く。が、なかなかドアを開けることができない。
玄関の前で逡巡している内にさらに意識がぼんやりとし、明晰さがなくっていった。
まるで誰かから後ろにひっぱられているようだ、と思う。後ろから強引に髪を掴まれ、グイグイと、どこか暗い場所へと――。

また朝が来てぼくは生きていた ……

そのとき、どこかから明日香の歌声が聴こえた気がした。民喜はハッとして扉を見つめた。
満開の桜の下、『朝』を歌う彼女の姿がよみがえってくる。
明日香さん――
ぼんやりとした意識が微かに明晰さを取り戻し始める。民喜は一呼吸置いて、勢いよく扉を開けた。

ムワッとした熱気が体を覆う。と同時に、マスク越しに何かが腐ったような臭いがした。
何の臭いだろう?
反射的に靴を脱ごうとしたが、思い直して靴のまま入る。正体不明の異臭がする中で、不安が急速に高まってゆく。薄暗い廊下を渡り、まずはリビングの様子を伺う。
床に転がっているごみ袋。一番手前に置かれている袋の中には、新聞や衣服やらが詰め込まれている。隣の袋の中には小型の電子機器の他、新聞紙で包まれた何かが入れられている。地震で割れた食器か何かだろうか。離れたところに転がっているごみ袋の中には、プラスチックゴミが目いっぱい詰め込まれていた。三つの袋ともあちこちに穴が空き、中の物がはみ出してしまっている。
食堂のテーブルの上には茶色のコーヒーカップが置かれたまま。カップとお皿の表面にはうっすらと埃が積もっている。
壁際の棚の上にあるフォトフレームに目を遣る。外から確認したように、一つを残してすべて倒れてしまっている。かろうじて立っていたのは咲喜が3歳の七五三の時に撮った家族写真であった。写真を見た瞬間、民喜は心を針で突かれたような痛みを覚えた。

リビングを出ようとしたとき、民喜はソファーの上に何か黒い粒が点々と散らばっているのに気付いた。近づいて、覗き込む。小動物の糞のようだった。
なぜこんなのところに、動物の糞があるんだ?
理解が出来ないまま、不快感と恐怖とがさらに膨らんでゆく。胃の中が重苦しい。もしかしてこの家は野生動物たちに乗っ取られてしまっているのだろうか。民喜は思わず周りを見回した。何十匹という小動物に物陰からジッと注視されているような気持になった。
何者かに追い立てられるように足早にリビングを出る。2階の自分の部屋へ向おうとした民喜はビクッとして足を止めた。
何かいる?
階段の中ほどに、小さな黒いものがうずくまっている。
ネズミか?
民喜は立ち止まって、しばらくその小さな何ものかを注視していた。が、動き出す気配はない。恐る恐る近づいていってみると、ネズミの死骸だった。仰向けになったネズミの腹は裂け、赤黒い内臓が飛び出してしまっている。
寒気が走る。吐き気が込み上げてきて、民喜は思わずタオルでマスクの上を覆った。死骸を見ないようにしながら、一段一段慎重に階段を上る。

ようやく2階の自分の部屋の前まで来る。ドアノブにそっと手をかける。が、なかなかドアを開くことができない。この扉を開けると、次は何に遭遇するのだろう?
小動物の大群?
内臓が飛び出したネズミ?
ホットスポット?
それとも、何かまた別のもの?
真っ暗な部屋の中で、正体不明のものが自分を待ち構えているかのように感じ、民喜は恐怖で身がすくんだ。
もう嫌だ。もうここから離れよう――心の中で声がする。すべてを投げ出してここから出て行きたいと思う。
一方で、なお扉を開けようとする自分もいた。
あきらめるな。ドアを開けろ――
しばらく逡巡している間に、民喜はいま自分がどこにいるのか、よく分からない気持ちになって来た。よく知っているはずの部屋のドアがまったく見知らぬドアに見えてくる。
一刻も早くここから離れたい。そもそも、自分はここに来るべきではなかったのではないか。
いや、ここで帰ってしまったら、何のために来たのか、分からなくなってしまう。俺は何のためにここに来たのか。「ネアンデルタールの朝」を取り戻しに来たのではないのか――懸命に自分に言い聞かせる。
そうだ、俺は「ネアンデルタールの朝」を取り戻しに来たんだ!

深呼吸をしてから、民喜は震える手でゆっくりと部屋の扉を開けた。ドアの隙間から何かが飛び出してくるかもしれない……と思って身構えたが、何も飛び出しては来なかった。
カーテンを閉め切った部屋の中は、まるで夕暮れ時のように薄暗かった。その暗闇の中で何かよく分からぬものたちが、自分をジッと凝視しているかもしれない。民喜は一瞬、闇の中に無数の赤い目が点滅しているような感覚に捉われた。
なるべく周りを見ないようにして、急いで机の引き出しを開ける。すると薄暗闇の中、見覚えのある絵が浮かび上がった。
ネアンデルタールの朝」――

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絵はまるで昨日しまったばかりのように、一番上に置かれてあった。
民喜は何かに促されるように、閉め切っていたカーテンをサッと開けた。明るい光が部屋全体に差し込んだ。
恐る恐る部屋の中を見回す。本棚から本や物が落ちてしまっているのを別にすれば、そこにあるのはいつもの自分の部屋だった。見慣れた自分のベッド、枕元に置かれた漫画、クローゼット……。よく知っている自分の部屋だ。そこには自分をジッと凝視する目は存在していない。
光の中で、民喜は改めて絵を見つめた。ネアンデルタール人の家族が自分に向かって微笑んでいる。彼らの微笑みを前にして、胸の内の恐れは幾分薄れていった。
ネアンデルタール人の女性の口元が微かに動く。
・・・・・・善い
またあの声が聴こえた気がした。
瞬間、まるで家の屋根が抜けたかのように、部屋全体が明るくなった。
思わず、部屋の中を見回す。それまで灰色であった部屋の中の事物の一つひとつが、鮮やかな色彩を帯び始める。あたかも世界が白黒から総天然色に変わってゆくように――。
明るい。どうしてこんなに明るいのだろう。この明るさは何なのだろう。
「ネアンデルタールの朝」を手に持ちつつ、民喜はその不思議な明るさの中に立ち尽くしていた。
血の気の引いた頭に再び血が巡って来るように感じる。意識が明晰さと確かさを取り戻してゆく。肯定的な何かが、胸の内に灯り始める。
民喜は、何ものかによって自分が祝福されていることを感じ取った。
祝福?
いったい何に? こんな状況の中で? ……

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