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連載小説『ネアンデルタールの朝』第一部第1章まとめ(①~⑥)

第一部
あの青い空の波の音が聞えるあたりに

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
(谷川俊太郎『かなしみ』より)

タイトル


2015年8月 福島

第1章

1、
そう言えば、桜がこの町のシンボルだった。
路上に車を停めた民喜はそう思った。
エンジンを切り、一呼吸置いてからドアを開ける。瞬間、モワッとした熱気と賑やかなセミの声が民喜の全身を包み込んだ。
遠くまでまっすぐに続く並木道を眺める。沿道に立ち並ぶ桜並木はいまは濃い緑の葉を茂らせている。
そう言えば、桜がこの町のシンボルだった――。
梢の方を見上げ、木漏れ日の眩さに目を細めながら民喜は再び胸の内で呟いた。ずいぶんと久しぶりにそのことを思い出したような気がした。
車をその場に残し、ゆっくりと並木道を歩き始める。
この区域には2.5キロの長さに渡って約1500本ものソメイヨシノが植えられている。桜の季節になるとたくさんの人がここに集まってきていたものだった。
脳裏に桜まつりの光景が浮かんでくる。
ずっと先まで続く、真っ白な「桜のトンネル」。その下を行き交う大勢の人たち。沿道の出店で買い物をしたり、家族で写真を撮ったり、人力車に乗ったり……。そうだ、自分たち家族も毎年欠かさずここに花見をしに来ていたのだ、と思う。
民喜は一本の木に近づき、そのゴツゴツとした樹皮にそっと手を当ててみた。樹齢は幾つくらいになるのだろう。特にこの木は周囲の木と比べて幹が太く、根もどっしりとしている。もしかしたら植えられて100年近く経っているかもしれない。
しばらく歩いていると、十字路に行きあたった。右折する方向の道には鉄製のバリケードが置かれている。バリケードの横には黄色の看板が立てられており、

通行制限中
この先
帰還困難区域につき
通行止め

青と赤色のよく目立つ字でそう記されていた。

看板②

強い不安を感じ、のど元がキュッと締め付けられるような感覚になる。
バリケードの向こう側にチラッと目を遣ってから、民喜はまた前方へと歩き出した。
あの日。

生活のすべてが一変したあの3月11日、民喜は高校1年生だった。
民喜の住む町は、福島の浜通りのほぼ真ん中にあった。町の中心部から北へ5~10キロのところに福島第一原子力発電所、南へ約5キロの位置に福島第二原子力発電所があった。
地震によって発生した津波は町の海岸部を破壊した。民喜たちの住む家は海岸から少し離れた丘陵部にあり、津波の直接的な被害は受けなかった。町の人々が津波の被害の対応に追われていた夜、福島第一原子力発電所では次々と深刻な事態が発生していた。
12日の朝、第一原発から半径10キロ圏内の町村に避難指示が出され、民喜の町の全住民は町から避難することを余儀なくされた。住民のほとんどは「2、3日すれば戻って来られる」という考えで避難所に向かった。けれども帰還の目途はまったく立たないまま、避難生活は長期化していった。4月22日には町は警戒区域に指定され、厳重な立ち入り制限が実施されるようになった。
民喜たち家族は郡山での数週間の避難所生活の後、親類の紹介により、いわき市の借り上げ住宅に移り住んだ。民喜はいわき市内の高校に通学することになり、親友の駿と将人とは離れ離れになった。
2013年3月末の避難区域の再編以降、民喜たちが住んでいた区域は国から居住制限区域と帰還困難区域に指定された。
 
100メートルほど先の路上に何かが置かれているのが目に留まる。
民喜は眼鏡をずり上げ、目を凝らした。人の背の高さほどの灰色の網目模様のようなものが見える。どうやらバリケードのようだった。
「えっ」
思わず声が出る。
距離が縮むほどに、前方で待ち構えているのは鉄製のバリケードに間違いがないことが分かってきた。
バリケードの前に到着する。眼鏡を取り、額の汗をぬぐう。バリケードの横にはやはり先ほどと同じ看板が立てられていた。

この先
帰還困難区域につき
通行止め

民喜は後ろを振り返った。まだ自分はこの並木道を数百メートルほどしか歩いていないはずだった。ということは、この先2キロ以上もの区間が立ち入り禁止になってしまっていることになる。
ジジジジジジジ……。
無音になっていた外界が、再び音を取り戻し始める。1匹のセミがすぐ近くで鳴いている。
脳裏に浮かんでいた桜のトンネルと人々の笑顔が一瞬にして消え去る。頭から血の気が引いたようになり、体から力が抜けてゆく。
自分がいま目にしているもの、これは本当に現実なのだろうか?
民喜はぼんやりと鉄格子の向こうに続く並木道を見つめた。
向こう側の世界が自分からプツリと切り離され、ゆっくりと遠ざかってゆくように感じる。そうして何もなくなった空間には薄暗い闇が広がってゆく。
のど元がまた締め付けられたようになってくる。胃の中も重苦しい。自分がどこか間違った世界に入り込んでしまったのではないか、と思う。
一瞬、既視感のような感覚が民喜を捉えた。このような感覚を自分は以前にも経験したような気がした――が、それがいつのことだったかは思い出せない。
何だかひどく気怠くなってくる。意識がぼんやりとして、明晰さがなくなってゆく。
気怠さに襲われる中で、民喜は懸命に彼女の存在を思い起こそうとしていた。
永井明日香さん――
ぱっちりとした切れ長の目。色の薄い肌とほんのり赤く染まった頬。少し伏し目がちに恥ずかしそうにして笑う、あの独特な笑い方。笑うと唇の隙間からチラッと可愛らしい八重歯が覗く。
胸の方まで伸びる、黒い髪。そして、柔らかなあの歌声。透明感のある美しいアルトの声……。
目を瞑り、彼女のことを思い出していると、わずかに心が落ち着きを取り戻し始めた。
すると民喜の脳裏に、満開の桜を背に『朝』を歌う明日香の姿が浮かんできた。民喜はハッとして目を開けた。すぐ耳元で彼女のあの歌声がよみがえってくる。

また朝が来てぼくは生きていた ……


2、
4月初めのよく晴れた日の午後、大学本館前の広場に一人で座っている明日香を見かけたことがあった。

民喜の通う大学は東京の三鷹市の郊外にある。キャンパスは広々としており、緑も豊かだ。本館前の芝生広場は学生たちの憩いの場になっており、昼休みには多くの学生が集う。広場の中の小山のように盛り上がった二つの丘は通称「ばか山」と「あほ山」を呼ばれている。授業をサボってこの丘で寝てばっかりいるとバカかアホになる、というのがこれら風変わりな名前の由来であるらしい。

そのとき、彼女は片方の丘のふもと付近に座って、一人で本を読んでいた。
民喜自身はこの2年間、自分からすすんで芝生に腰を下ろしてみたことは一度もない。大勢の学生が楽しそうに話をしたり食事をしたりしている中、谷間の通路を俯きながら通り過ぎるのが常だった。
午後の遅い時間であるせいか、芝生広場には明日香の他、ほとんど人はいなかった。丘のふもとに腰掛ける明日香は淡いピンクのカーディガンを着て細身のジーンズを履いていた。
遠くに彼女の姿を認めた瞬間、何故かは分からないが民喜の心は激しく震えた。数日前に練習で会ったばかりなのに、懐かしいような、いとおしいような感情が湧き上がってきた。彼女のそばに駆け寄ってゆきたい――その衝動が民喜を捉えた。
一呼吸置いてから、民喜は勇気を出して彼女の方へ近づいて行った。
日光で温まった芝生の匂いが足元から立ち昇ってくる。その匂いは民喜の内に微細な快活さを喚起し、彼女の方へ向かうようにと背中を押してくれるようだった。

彼女との距離が数メートルになったとき、
「明日香さん」
思い切って声をかけてみた。明日香はパッと本から顔を上げ、
「あっ、民喜君。こんにちは」
ぱっちりとした切れ長の目で民喜を見遣った後、目を伏せ恥ずかしそうに微笑んだ。
そうして本を閉じ、芝生に置いていたカフェラテを手にもって、体を少し移動させた。
「あ、ごめんね、読書中」
「ううん、全然、大丈夫」
明日香が左にずれる素振りをしてくれたので、民喜は彼女の右隣に座ることができた。
すぐ隣に座る彼女から花のような香りが漂ってくる。民喜はいく分緊張しながら前を見つめた。
「よくここに来て、本読んでるの?」
前を向いたまま尋ねる。
「いや、普段はあまり来ないよ。今日は何となく。よく晴れて、気持ちのいい天気だし……」
「ふーん」
と頷き、チラッと彼女の横顔を見つめる。長い髪が微かに風に揺れている。ふっくらとした頬はほんのりと赤く染まっている。すべすべとして、まるでいまお風呂から上がったばかりのようだ、と思う。
明日香は民喜と同学年で、同じコーラス部に所属している。民喜はテナーパート、彼女はアルトパートを担当していた。遠くまで通る声ではなかったが、柔らかで、透明感のある歌声だった。
「何の本読んでたの?」
会話を続けなくてはと思い、質問を絞り出す。
「あっ、えーとね」
明日香は手にしていた文庫本の表紙を民喜に見せ、
「谷川俊太郎さんの詩集」
と答えた。
「民喜君は谷川俊太郎さんは知ってる?」
「うん。名前は聞いたことある。確か、小学校の教科書に載ってたような」
「そうだね、谷川さんの詩はよく教科書でも取り上げられてるよ。私、谷川さんの詩がすごく好きで……。よく詩集をカバンの中に入れてるんだ」
「そうなんだ」
彼女は民喜の方に顔を向けながら、目は伏せたまま、
「谷川さんの詩はたくさん合唱曲にもなってるよ」
と微笑んだ。
「へー」
彼女から本を受け取り、パラパラと読んでみる。
一通りページをめくった後、
「ありがとう」
本を手渡すと、彼女は頷いて、
「私にとって、『朝』っていう曲が思い出の曲なんだ。谷川さんの詩をもとにした曲なんだけど……。中学3年の時、この曲で東北合唱コンクールに出場したの」
「そうなんだ。すごいね」
明日香の口から「朝」という言葉を聞いたとき、民喜は何かを思い出しそうな気持ちになった。心の奥の方で何かがうずいた気がしたが、それ以上思い出すことはできなかった。
「民喜君、今日はまだ授業あるの?」
「あ、いや、今日はもう終わり」
今日はコーラス部の練習はなかった。
「そう、私も今日は終わり」
何人かの学生が賑やかにしゃべりながら本館の入口から出てきた。明日香は学生たちの方に視線を向けた後、カフェラテとカバンを持ち、
「良かったら、正門まで一緒に歩かない? 桜がすごくきれいだし」
そう言って、恥ずかしそうに微笑んだ。


3、
大学構内にあるバスロータリーから正門まで、およそ600メートルに及ぶ直線道路が走っている。通称、「滑走路」。「滑走路」の両側とその周辺にはたくさんの桜が植えられており、隠れた桜の名所となっている。
民喜は明日香と並んで、ゆっくりと並木道を歩いていった。ベビーカーを押す若い女性とすれ違う。桜が満開となるこの時期には構内は一般の人々にも開放されている。

「ちょうど満開で、きれいだね」
明日香が上を見上げて言った。
「うん」
彼女と一緒に桜を見上げながら、民喜の胸の内に「桜のトンネル」という言葉が浮かんだ。懐かしいような、苦しいような感覚が湧き上がってきた。
正門までまっすぐに続く桜並木を見つめる。いま自転車で通り過ぎていった学生の他、人の姿は見えない。
何か話題を探そうとしていた民喜は、ふと思いついて、
「明日香さん、さっき言ってた『朝』っていう曲、どんな曲?」
と尋ねてみた。先ほどから心のどこかで、この曲のことが引っ掛かり続けていた。
明日香はハッとしたように立ち止まり、民喜の顔を見た。民喜も立ち止まり、彼女の顔を見つめた。胸がドキッと高鳴る。今日初めて、彼女とはっきりと目が合った気がする。
明日香は並木道に立ち止まったまま、上を向いて、何かを思い起こすような表情をした。そして前を向き、大きく息を吸った後、

また朝が来てぼくは生きていた

と歌い始めた。
明日香の歌声を聴いた瞬間、民喜の心はまた激しく震えた。

ララララララララ ……

姿勢を正して、彼女の歌声に耳を傾ける。ラララ……と歌う明日香の背後で桜の花びらが雪のように舞っている。
 
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が陽だまりに寝そべっているのを 

初めは控えめだった歌声が、だんだん伸びやかなものになってゆく。普段はアルトパートを歌っている彼女が主旋律を歌うのも新鮮に感じた。
間奏のラララ……を歌っていた明日香は突如、声を詰まらせた。明日香は目に涙を浮かべていた。
「ごめんなさい」
そう呟いて顔を民喜の方に向けた。すると彼女の目から涙が零れ落ちた。
「だ、大丈夫?」
民喜はどうすればよいか分からず、オロオロと明日香に向かって手を伸ばした。明日香は鼻をすすり、微笑みながらコクンと頷いた。手で素早く涙をぬぐい、そうして再び前を向いて歌い出した。

百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前な所のようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ ……

目を赤くして『朝』を懸命に歌う彼女の様子をジッと見守る。困惑と共に、胸の内にいとおしさが湧き上がってくる。
なぜ明日香さんが泣いているのか、分からない。けれども、いまここで彼女がこの歌を歌うことには、大切な意味があるのだと思う。
周りの世界がシンと静まり、ただ彼女の歌声だけが響いている。民喜は自分がいま、何か厳粛な時間に立ち会っているような気がした。
歌っている内に、明日香の歌声はまたどんどん伸びやかなものになっていった。体は自然な感じで揺れ、口元には微笑みも浮かんでいる。不思議なことに、並木道を歩く人は誰もいない。

最後まで歌い切った明日香は目を閉じ、ホッとしたように息を吐いて、
「こういう曲……。私、大好きなの」
と呟いた。
静まり返っていた世界が再び音を取り戻し始める。民喜はハッと我に返ったようにパチパチと小さく拍手をし、
「ありがとう」
と礼を言った。明日香は目の端をぬぐい、
「こちらこそ、ありがとう、民喜君。聴いてくれて」
民喜の顔を見つめ、ニコッと笑った。可愛らしい八重歯がはっきりと見えた。
「すごくいい曲だね」
頬と耳を赤く染めた明日香は嬉しそうに頷いた。こんなに子どものような無邪気な笑顔を浮かべる彼女を見たのは初めてのことかもしれない。
今日、この桜並木で、この歌を聴くために、自分は彼女に話しかけたのだ――ということを民喜は理解していた。何故かは分からないが心の深いところでいま、そのことを納得していた。

しばらくの沈黙の後、明日香は桜並木の方に視線を移し、
「悲しい時は、いつもこの曲を思い出して、歌ってた。すると勇気が出て来るというか、それでも、やっぱり生きて行こう、って気持ちになる」
 そうして彼女は民喜の目を見つめた。逸らすことなく、まっすぐに――。民喜を見つめる明日香の目には悲しみが宿っていた。と同時に、その悲しみの向こうには小さな、しかし確かな光が宿っていた。


*引用:谷川俊太郎『朝』(『谷川俊太郎詩選集1』所収、集英社文庫、2005年、220頁)


4、
並木道を後にし、民喜は海岸の方へ向かった。
フロントガラスから見える空は快晴だ。青空の中に雲はほとんど見当たらない。道路の左右に続く雑木林も明るい緑を輝かせている。何の変わりもない、民喜がよく知っている故郷の風景である。
あちこちで「除染作業中」という幟が風にはためている。これらの風景の中に放射能が潜んでいることを民喜はいまだに実感できなかった。ペットボトルに手を伸ばし、お茶を一口、口に含む。
交差点を右折すると、看板が立っていた。

《走行注意 町内全域で陥没段差箇所があります。また、野生化した動物が出没する恐れがあります。道路状況をよく確認して注意して走行してください》

車を停めて、書かれた文章を何度か読み返す。が、内容をうまく理解することができない。
「陥没段差箇所」
「野生化した動物」
聞き慣れない言葉を、民喜は胸の内で何度か呟いた。

ゆるやかな坂道を下って海岸の近くまで行くと、景色が一変した。思わず息を飲む。そこに広がっていたのは、まるで震災直後で時が止まっているかのような光景だった。
駅前の商店街の建物の1階部は破壊されたまま、道路は所々陥没し、電柱も倒れたり折れ曲がったりしている。それらは何の修復もなされてはおらず、ただロープが張られ、赤い三角コーンが並べられているだけ。放射能の影響でいまだほとんど工事をすることができていないのだろうか。
一台の車が仰向けにひっくり返っている。民喜は反射的に車の中に人がいないか確認しようとした。もちろん、車の中は無人だった。
それらの光景を眺めながら、異様な緊張状態に襲われ始める。背中と首筋の筋肉が木の板のように硬くなってゆくのが分かった。

駅前の広場に到着する。が、あまりに風景が変わってしまっているので、ここが本当にそこであるのかどうか、確信が持てない。見慣れた赤い屋根の駅舎は見当たらず、目の前にあるのはホームの跡だけだ。
けれども目を凝らしている内に、すぐ向こうの草地の下にレールが埋もれていることに気づいた。やはりここは、あの駅舎前のようだった。
車を停め、フロントガラス越しにかつて駅があったはずの場所を見つめる。
ガラガラ……。
どこかから、建物解体の工事の音が聴こえてくる。目の前の光景は、まるでパソコンの画面を通して見ているかのように現実味がなかった。
線路の向こう側にあった漁港もすべて更地になり、フレコンバックの仮置き場になっていた。汚染土が入った黒い袋が整然と積み上げられており、その塊は海岸線に沿って遠くまで延々と続いている。そしてそれら黒い山の向こうに、青い海が寂し気に佇んでいる。
民喜は窓を開け、向こうの海から聴こえてくるはずの波の音に耳を澄まそうとした。……


別れ際、明日香は谷川俊太郎の詩集を貸してくれた。
「いいの?」
彼女は頷いて、
「うん、大丈夫。もう何度も読んでるし。さっき歌った『朝』も収録されてるから……。よかったら、また時間あるときに読んでみて」
「うん、ありがとう。読んでみる」
しばらくの沈黙の後、
「じゃ、また」
民喜は遠慮がちに手を上げた。
「うん、また」
明日香も遠慮がちに手を上げ、バス停の方角に歩き始めた。
彼女の後姿を見つめる。ピンクのカーディガンの下から伸びる、スラリとしたか細い脚。柔らかな長い髪が風に揺れている。
数メートルほど行ったところで、明日香はチラッと民喜の方を振り返った。手を振ると、彼女も恥ずかしそうに手を振った。

アパートに戻ると民喜は早速、カバンから明日香から借りた本を取り出した。ページを開いて、そっと匂いを嗅いでみる。紙の匂いに交じって、微かに彼女の香りがしたような気がした。
目を瞑る。胸の震えとともに、桜並木を背景に『朝』を歌う明日香の姿が浮かんでくる。民喜は胸の上で本をギュッと抱きしめた。
しばらくそのままの姿勢で立ち続けた後、民喜は床に腰を下ろした。転がっていたクッションを膝の上にのせ、詩集を始めから読み始めてみる。詩集を読むということ自体、民喜にとって初めての経験だった。するとすぐに『かなしみ』というタイトルが目に留まった。

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい ……

詩の前半部を読んだ民喜はハッとしたような気持になった。
まるで親しい誰かに、後ろから声をかけられたような――。思わず顔を上げて後ろを振り向く。もちろん、誰もいない。
窓を見つめながら、民喜はいつしか自分の住んでいた町を思い出していた。
事故が起こって以来、一度も帰ることができていないあの町――。町の様子はどうなっているんだろう?
ロウソク岩があるあの浜の様子が脳裏に浮かぶ。高校の頃は、毎日のように行っていた、あの海。
すぐ耳もとに波の音がよみがえってくる。海岸に押し寄せ、引いてゆく波の音……。
家は、どうなってるんだろう……?
瞼の裏に、家のリビングの光景が浮かぶ。
両親は時々家に必要な物を取りに行っているようだったが、この4年間、民喜と咲喜が一緒に行くことは決して容認してくれなかった。
民喜は前を向いて再び『かなしみ』を見つめた。
心の奥の方でまた何かが動いた。何ものかが心の深いところから立ち上がろうとしているのを感じる。
目を瞑ると、すぐ耳元で明日香の歌声がよみがえってきた。

また朝が来てぼくは生きていた ……

そのとき、民喜の頭に、
ネアンデルタールの朝
という言葉が浮かんだ。
瞬間、地中に埋まった巨大な芋が引き抜かれたように、埋もれていた記憶が一斉に意識の上へと引き出された。記憶の束がズルズルと芋づる式につながって、民喜の眼前に勢いよく引き出されていった。……


*引用:谷川俊太郎『かなしみ』(『谷川俊太郎詩選集1』所収、集英社文庫、2005年、15頁)


5、
「ニュースで見たんだけどさ、ネアンデルタール人って、ホモ・サピエンスと交配してた可能性があるらしい」
眼鏡の奥の一重の目を大きく見開きながら、駿が言った。
民喜はコーラを一口飲んで、
「ネアンデルタール人って、どんなだっけ?」
と尋ねた。
「俺らの先祖だっぺ」
将人がポテトチップスをせわしなくつまみながら言った。日焼けした将人の顔は薄暗闇の中でますます色濃く見える。
「俺らの先祖じゃねえ。別の人類だ」
駿は訂正して、
「原人という共通の祖先から枝分かれして、それぞれホモ・サピエンスとネアンデルタール人になったのさ」
焚火缶の明かりが、ほっそりとした駿の顔に穏やかな陰影を作りだしている。

その夜、民喜はいつものように駿と将人と三人でロウソク岩の見える海岸に来ていた。
「ロウソク岩」とはその名が示す通り、ロウソクのような形をした石塔のことである。波に浸食された岬の一部が残って棒状になったもので、町民からはこの辺り一帯の浜のシンボルとして親しまれている。巨人が鑿(のみ)を打ちつけて荒々しく角柱に削り取ったようなその石塔は確かにロウソクのようでもあり、または角ばったろう石のようでもあった。岩の頂上には松の木が生えており、少し間の抜けたようなその先端部が岩に親しみやすさを加えていた。
このロウソク岩のある海岸を民喜たちは特に気に入っていた。「いつもの場所」と言うと、それは三人にとってこの浜のことを意味した。

佐久間駿(さくま・しゅん)と星将人(ほし・まさと)とは幼稚園からずっと一緒の幼馴染だ。高校生になってからクラスは別になったが、夜になるとこうして集まり、スナック菓子を食べながら延々と話をしている。
駿は高校入学後、民喜と同じ美術部に入ったが、数か月で来なくなってしまった。本人曰く、めちゃくちゃ面白いゲームが発売されたのでもはや部活をしている暇はない、とのことだった。
駿はかなりのゲームマニアだが、同時に読書家でもある。会う度に、大抵新しい本の話をしている。そんなにたくさんの本をいつ読んでいるのかと尋ねると、「夜寝る前」、そして「授業中」と答えた。つまらない授業の時は教科書で隠しながら読書をしているらしい。

駿は落ちていた枝を拾って、砂浜に簡単な図を描いてみせた。
「初めに原人がいて、で、こうして枝分かれして、それぞれが進化して、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人になった。いわば、いとこのような関係だな。ネアンデルタール人はその後いなくなっちゃったけど、ホモ・サピエンスだけは生き残って、で、いまの俺らにまで至ってる。これ、前にも説明したぜ」
「そうだっけ。忘れた」
将人は言った。
「で、何の話だっけ?」
と民喜。ちなみに、将人も民喜も普段まったく読書はしない。
駿は分厚いレンズの眼鏡を人差し指でずり上げ、
「んだから、ニュースで見たんだけどさ、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが、交配してた可能性があるらしい」
「交配って、セックス?」
将人が素早く尋ねる。
「んだ」
駿が答えると、将人は
「おー」
と言って嬉しそうな表情を浮かべた。将人のどんぐり眼ががぜん輝き始める。
将人は中学の時と同様、陸上部に入っている。専門種目は400メートル。聞けば、400メートルは短距離の中で一番苦しい種目であるとのことだった。なぜそんな辛い種目をわざわざ選ぶのか、民喜と駿には理解できない。まあ、本人が好きで走っているのだから、いいのかもしれない。
将人は中学の頃から身長は高い方だったが、この1年でさらにグンと背が伸びた。筋肉もついてきて、全体的に一回りほど大きくなったような気がする。小柄な駿と並ぶとその身長差は10センチ以上もある。
「っつうことは……。ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは一緒に暮らしてたってこと?」
民喜は駿に尋ねた。
「詳しいことは分がんねえけど、お互い近くに住んでて、で、何らかの交流はあった可能性がある」
「っつうことは……」
民喜は頭を働かせて、
「俺らの遺伝子の中にネアンデルタール人の遺伝子が含まれてる可能性があるってこと?」
「んだんだ」
駿が頷く。焚火缶の中で燃える枝がパチッと弾ける音を立てた。
「でも、そのように共存してた時期があったけど、いつしかネアンデルタール人は滅んで、俺らホモ・サピエンスだけ生き残ったんだろ。なしてそういうことになったんだ?」
民喜はさらに尋ねてみた。
「それもはっきりしたこと分がんねえけど、もしかしたら、俺らホモ・サピエンスがネアンデルタール人を滅ぼしてしまったのかもしれん。そういう説もあるらしい」
駿はそう答えて、ペットボトルのコーラを一気に飲み干した。
「ネアンデルタール人とホモ・サピエンスって、仲良かったの、悪かったの、どっちだ?」
将人が尋ねると、
「よく分がんね」
駿は頭を振った。
「よく分がんねえことだらけだな」
そう言って将人は新しいポテトチップスの袋を開けた。焚火缶の中で燃える枝がまた勢いよく音を立てた。ポテトチップスをほおばる駿と将人を見つめながら、民喜はネアンデルタール人という存在について関心を抱き始めていた。

家に戻ってから、民喜はパソコンを開いてネアンデルタール人についてネットで検索をしてみた。画像検索してみると、思いの外たくさんの画像が出てきた。
その中に、ネアンデルタール人の復元模型の写真があった。
写真のネアンデルタール人の男性は金色の髭を生やし、澄んだ青い瞳、薄い肌の色をしていた。ある記事によると、ネアンデルタール人は長期間寒冷地に住んでいたので肌の色が薄かった可能性があるとのことだった。
男性の眼窩の上はアーチ状に隆起し、見るからに頑丈そうな体つきである。肩と腰には薄茶色の毛皮を羽織っている。そのようなネアンデルタール人固有の特徴はあるとしても、いま生きている自分たちとさほど相違はない外見だった。
民喜は意外に思った。ネアンデルタール人について、頭の中では毛むくじゃらでゴリラに近いような外見を勝手に想像していたのだが……。その復元模型はイメージとはまるで異なっていた。
ネアンデルタール人の女性の復元模型の画像も見てみる。眼窩の上が隆起しているという特徴はあるけれど、現代人の女性とさほど外見は変わらない。この女性が現代の服を着て街を歩いたとしたら、誰もネアンデルタール人だと気が付かないかもしれない。
画像の一覧の中には、ネアンデルタール人の少女の復元模型もあった。6歳くらいだろうか、女の子も金色の髪、青い瞳をしていた。やはりその外見は自分たち現代人とほぼ相違はない。
復元された女の子は少し微笑んでいるような表情を浮かべていた。彼らの姿を見ていると、民喜は不思議と安心するような気持ちになった。


*参照:スヴァンテ・ペーボ『ネアンデルタール人は私たちと交配した』(野中香方子訳、文芸春秋、2015年)


6、
翌朝、目覚める直前に民喜は夢を見た。
初め、民喜は暗い森のような場所を歩いていた。足元には暗い雲のようなモヤモヤとしたものが立ち込めていた。民喜は不安な気持ちで先を急いでいた。
突然、明るい光が生じた。暗雲はすさまじい勢いでどこか後ろの方に退いてゆく。すると光の先に、あのネアンデルタール人の男性と女性と少女が現れた。
眩い光に包まれる中、三人は民喜を見つめて静かに微笑んでいた。彼らの微笑みを前にして、民喜の胸の内の不安は瞬く間に消え去っていた。
三人の黄金色の髪の毛が微かに揺れている。彼らの微笑みを見つめながら、
(ああ、あの三人は家族だったんだ)
と民喜は納得していた。
三人のいるところまで、ゆっくりと歩いてゆく。彼らの微笑みを前に、民喜の口元にも自然と笑みが浮かんでくる。
瞬間、ネアンデルタール人の女性の口元が微かに動いた。
・・・・・・善い
そう聴こえた気がした。
心の深みから、熱いものが込み上がってくる。民喜は思わず胸の上に手を置いた。
ネアンデルタール人の女性は、やはり微笑みながら民喜を見つめている。民喜の目から、ポロポロと涙が溢れてきた。……

微笑みと涙が混ぜ合わさる中、民喜は夢から覚めた。
目を開けると、カーテンの隙間から差し込む朝の光が夢の続きのように眩しく瞬いていた。
民喜は頬を伝う涙をぬぐい、上半身をベッドから起こした。そして夢の中でそうしていたように、自分の胸の上に手を置いた。
・・・・・・善い
夢の中で聴いた声は、なお心の内で鳴り響き続けている。
民喜はベッドから降りて、カーテンを全開にした。朝の光が一斉に差し込む。民喜は部屋の中をゆっくりと見回した。
机の上の筆箱も、マグカップも、漫画も教科書も、普段とは何か違っているように感じる。
目に映る物の一つひとつの輪郭線がくっきりとしている。そしてその輪郭線が何かキラキラとした光のようなものを放っているように感じた。
幸せな気持ちが胸いっぱいに湧き上がってくる。その幸福感の中で、民喜は自分という存在がいまここに、確かに存在していることを意識した。
自分はいま、ここにいる――
当たり前であるはずのその事実が、まるで大きな発見のように民喜の心を揺さぶった。
民喜は喜びのあまり部屋を飛び出て、階段を軽快に駆け下りて行った。リビングの方から、両親の話し声と咲喜の笑い声が聴こえてきた。母の煎れるコーヒーの香りが民喜の鼻をくすぐる。
「あら、民喜、今日は早起きね」
民喜に気づいた母が微笑みながら言った。
「朝ごはん食べる?」……

感動はその日、一日中民喜の心を揺さぶり続けた。
学校から戻った民喜はふと、今朝の夢を絵にしてみようと思い立った。
そうだ、絵にしてみよう!
そう思ったら、いてもたってもいられなくなり、すぐに家のパソコンを開いた。昨晩検索したネアンデルタール人の画像をプリントアウトするのだ。そしてこれらの画像を参考にして、今朝見た夢を描いてゆくのだ、と思う。

階段を駆け上がって2階の自分の部屋に戻る。戸棚の中からA4サイズの画用紙と24色の色鉛筆を取り出す。白い画用紙も色鉛筆も、いつもと違った存在感をもって机の上に佇んでいる。
まずは鉛筆で薄く、人物の下書きをする。真ん中にはネアンデルタール人の女の子、向かって右隣にネアンデルタール人の男性、左隣に女性を配置することにする。
民喜は普段クラブ活動では静物画や風景画を描くことが多く、人物を描くことには苦手意識があった。が、今日は思いの外スイスイと筆が進んでゆく。
夢で見た通り、男性はレスラーのようにがっしりとした体格にしよう。髭をたくわえ、精悍な顔つきをしているけれども目は優しい。上半身は裸、腰に毛皮を巻いている。
女性の上半身には柔らかな毛皮の衣を羽織らせる。まっすぐな髪は肩の辺りまで伸び、口は微かに開き、何かをしゃべり出しそうな具合にしよう。
真ん中に立つ女の子は胸の上で両手を重ねる姿で描いてみることにした。まるで何かを大切に携えているかのように……。
プリントアウトした画像を参照しつつ、どんどんネアンデルタール人の家族を描いてゆく。こんなに集中して絵を描くのは初めてのことかもしれない。
鉛筆の下書きが完成する。自分に向かって微笑むネアンデルタール人の家族の姿が画用紙の上に浮かび上がった。
民喜は頷いて、色鉛筆のセットを手元に置いた。いよいよ彩色だ。
まずは黄色とオレンジの色鉛筆を取り出す。これらの色を使って、髪の毛に色を塗ってゆくことにする。微かに揺れる黄金色の髪……。
塗りながら、民喜は胸の内が明るい予感のようなもので満たされてゆくのを感じた。
次に、茶色系の色鉛筆で、毛皮の色を塗ってゆく。薄茶色の、見るからに暖かそうな毛皮。陽だまりの芝生の匂いが漂ってきそうな、フワフワとした毛並みにしよう。
その次は、体。寒冷地に住んでいた影響で、色が薄かったと言われる肌。男性の肌の色は少しだけ濃い目に塗る。狩りに行っていて日焼けしているだろうから。女の子の小さな頬には、ポツンと朱色を滲ませておいた。
描きながら、あの(・・・・・・善い)という声が改めて胸の内に沁みわたってゆく。
最後に、青と群青の色鉛筆で目の色を入れる。今朝自分を見つめていた、青い瞳。湖のように青く澄んだ瞳……。
人物に色を塗り終えると、民喜は黄色やオレンジを使って、彼らの周りに柔らかな光の輪を描いていった。ネアンデルタール人の家族が眩い朝の光に包まれている様子を表現したかった。

2時間ほどで絵は描き終わった。棚に立てかけて、全体を眺めてみる。瞬間、絵の中に佇む彼らと目が合ったような気がした。
朝の光の中、三人は静かに微笑みながら、民喜の方を見つめている。女性の口元は、何かを自分に語りかけようとしている……。
ふと民喜の頭に、
ネアンデルタールの朝
という言葉が浮かんだ。
民喜はペンを手に取り、その言葉を絵のタイトルとして画用紙の右下に書き付けた。

画像2


………………………………

明日香から借りた谷川俊太郎の詩集を手に、民喜はしばらく放心したようになっていた。
次々とよみがえってくる記憶は驚くほど鮮明だった。つい昨日のことのように鮮やかに思い出される記憶。それは4年前、あの事故が起こる直前の2日間の記憶だった。
なぜ忘れてたんだろう。こんなに大切な記憶を……。
詩集をそっと床の上に置き、民喜は絵の中の女の子のように胸の上に両手を重ねた。
「あっ」
思わず声が出る。
そう言えば、あの絵を机の引き出しの中に入れっぱなしだった!
目を見開き、虚空を見つめる。
駿と将人に見せるのを楽しみにしつつ、引き出しの中にしまっていたのだった。でも次の日にあの震災と原発事故が起こって……。それどころではなくなってしまった。そうして自分自身、いつしか絵のことも、あの夢のことも、忘れてしまっていた。
なぜ思い出さなかったんだろう。こんなに大切な記憶を……。
「あの絵、取りにいかねえと」
民喜は独り呟いていた。
詩集を開いて、『かなしみ』を見つめる。

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい ……

俺はあの町に、《おとし物》をしてきてしまっているのかもしれない。もしかしたら、《何かとんでもないおとし物》を――。
そう思うと、民喜はいてもたってもいられない気持ちになった。
夏休みになったら、あの町を訪ねるんだ。そうして、引き出しにしまったままの「ネアンデルタールの朝」を取り戻しに行くんだ。
民喜は胸の内で呟いた。その促しは民喜自身を戸惑わせるほど、強烈なものだった。
たとえ――。
たとえその途上で、辛い光景を目にしなくてはならないのだとしても……。

そして今日。民喜は4年ぶりに故郷の町を訪れている。



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