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小説『ネアンデルタールの朝』第二部第3章まとめ(⑪~⑮)

タイトル

第3章

1、
目覚まし時計のアラームが鳴る。急いで起き上がり、身支度を整える。カバンを持って部屋を出て、アパートの階段を駆け下りてゆく。通りに出て大学の方に向かおうとするのだが、水の中を歩いているかのように体が重くなり、うまく前に進めない。
もがいている内に、これが夢であることに気づく。急いで布団から起き上がり、アパートの階段を駆け下りてゆくが、やはり体が重苦しくなって前に進めない。じきにこれも夢であることに気づく。「授業に行かないと」との焦燥感だけが覚めない夢の中でどんどんと膨らんでゆく。
それら繰り返しが延々と続いた後、夢を無理やり引きちぎるようにして民喜は目を覚ました。
ハッとして時計を手に取る。
寝坊した!
目覚まし時計を手に取ったまま、しばし固まる。あと5分で1限目の授業が終わろうとしていた。先週に引き続き、今週も授業を無断で欠席してしまった。
いつの間に二度寝してしまっていたのだろう。8時にアラームが鳴ったことはぼんやりと覚えているのだけれど……。

昨晩はまた意味もなく夜更かしをしてしまった。缶ビールを飲みながら、ネットにアップされているお笑い動画を観続けたり、DVDを観返したり。何者かに見えない縄で椅子に縛りつけられているかのごとく、民喜はパソコンの前に座り続けた。早く寝なければならないことは重々承知しつつも「起きている」ことから「寝る」ことへと行動を切り替えることができなかった。
「このままじゃ本当にヤバい」
と見えない縄目を振りほどくようにしてようやく布団に横になることができたのが朝の6時前。カーテンの隙間から覗く空は、もう完全に明るくなっていた。
チュ、チュン……と小鳥の鳴き声が聴こえてくる中、タオルケットを頭までかぶって何とか2時間だけでも睡眠を取ろうとしたのだったが……。

目覚まし時計を手から離して、天井を見つめる。明け方に寝て昼に起きるということがすでに三日続いていた。
先週の初回の授業と今日の授業とを無断で欠席してしまったことをどう説明したらよいのだろう……?
せめて2限目からの授業には出なきゃいけない。今からすぐ支度をして大学に向かえば、少しの遅刻で済むだろう。と思うのだが、なかなか布団から起き上がることができない。「布団から起き上がる」という、ただそれだけのことができない。
悶々としている内にも時間はどんどんと過ぎてゆく。そっと横目で時計を見る。時計の針は10時10分を指していた。ああ、もう2限目の授業が始まった、と思う。
ふと山口凌空の顔が頭をよぎった。山口たちは今日も国会前へデモに行くのだろう。今週は月曜日から連日、国会前で安保法案反対デモが行われているはずだった。デモにも行かず、授業にも行かず、一体自分は何をしているのだろう?
すべてを投げ出してしまいたい、という衝動がチラッと民喜を捉えた。
頭までタオルケットをかぶり、目を閉じる。軽やかな小鳥のさえずりに耳をふさぎ、朝の光から身を隠すようにして……。

白いカーテンで囲まれたブースの中で、民喜は甲状腺検査を受けようとしていた。
医者が診察台の上に横たわるように無言で指示をする。民喜は不安な心持ちで横になった。するとすかさず、のど元にヒヤッとするジェルを塗られた。
診察台の下を何かが走り回る音が聴こえて来る。ネズミか何かが入り込んでいるのかもしれない。
民喜は思わず起き上がり、
「今日はやめてください」
と訴えた。嫌な予感がして仕方がなかった。
「今日はやめてください。帰ります」
民喜はそう言い張り、診察台から降りた。
すると医者はキーボードに素早く何かを打ち込み始めた。民喜は《自己責任》と打ち込んでいるのだと思った。
文字を打ち終えてしまうと、医者はもはや民喜に関心を失ったようだった。あたかもここに民喜が存在しないかのように、次の検査の準備をし始めている。民喜はのどに塗られたジェルを手でぬぐい、逃げるようにしてブースを出た。
ブースを出たと同時に、真っ青な顔をした子どもとすれ違った。駿の弟の翼だった。あの人懐っこい笑顔は消え失せ、まるで仮面をかぶったかのように表情のない顔をしている。首にはグルグルと包帯を巻いており、真ん中にポツンと赤い血が滲んでいた。
「翼!」
駆け寄ろうとした瞬間、肩をトントンと叩かれた。振り返ると、高校3年生のときに担任だった雅子先生が立っていた。
「仕方がないのよ」
雅子先生は民喜の顔を見つめて言った。目にうっすらと涙がにじんでいる。
雅子先生の隣には、高校の校長であった木村先生がいた。木村校長は顔を真っ赤にし、何かを激しく恥じるような表情で俯いていた。
いつの間にか翼はどこかに姿を消していた。民喜は先ほどのブースに近づき、カーテンの隙間からそっと診察室の様子を伺ってみた。
医者と看護師がせわしなく動いて診察の準備をしている。医者が手にする検査器の先っぽには、よく見るとカミソリの刃のようなものがついていた。皮むき器で野菜の皮をむくように、これで子どもたちの甲状腺を削り取る気なのだ、と思う。そうして甲状腺の異常を「なかったこと」にするつもりなのではないか……!?
民喜は頭から血の気が引いてゆく想いがした。そうか、その恐ろしいことがたったいま、翼に対して実行されたのだ。
民喜は背後にいる木村校長の元に駆け寄り、
「校長先生、何とかならないんですか、校長先生!」
肩をつかんで揺さぶった。校長はますます顔を真っ赤にさせたが、やはり俯いたまま返事をしない。必死に訴える民喜の背後で、雅子先生は、
「仕方がないのよ」
と繰り返していた。
「次の人、どうぞ」
目の前のブースから、白いカーテン越しに医者の声がした。
「はい」
子どもの声が聞こえる。
胸騒ぎがした民喜は再びカーテンの隙間から中を覗き込んだ。民喜のいる位置からは、診察台に横たわる子どもの小さな足の裏しか見えない。
反対側に回り込んで中を覗くと、子どもの顔は髪の毛で覆われていた。着ている服から、診察台に寝かされているのは女の子であることが分かった。もしや、と思う。嫌な予感はいまや頂点まで達しようとしていた。
看護師が女の子の顔を覆う髪の毛を真ん中から二つに割いた。すると予感していた通り、そこから咲喜の顔が現れた。
「咲喜!」
民喜の声が聞こえていないのか、咲喜はまったく反応しない。目を瞑ったまま、無防備なのど元を医者に差し出している。看護師がたっぷりとしたジェルを素早く首に塗り付ける。
「咲喜、危ねえ!」
医者が検査器を手に取った。咲喜のか細いのど元に、刃のついた検査器の先端が当てられようとしている。
「やめろ!」
民喜はブースの中に駆け込み、医者の手から検査器を奪い取ろうとした。……
 
結局、民喜はこの日、5限までのすべての授業と夕方からのコーラス部の練習を欠席した。


2、
――朝早くごめん。もし良かったら、いまから行っていい?
山口凌空(りく)からラインが届いた。
時刻はまだ朝の7時前。夜通し起き続けていた民喜はこれから寝ようとしていたところだった。
一体何だ?
山口から、しかもこんなに朝早くに、家に行きたいという連絡が来たことに激しく動揺する。
けれどもメッセージを既読にしてしまった以上、何らかの返信をしなければならない。
5分ほどどう返事をしようか迷った後、
――何かあった? 来てもらうのは大丈夫だよ。もう起きてたから。
と返信をする。正確には「もう起きてたから」ではなく「まだ起きてたから」だったが。今日は土曜日で、大学の授業はなかった。
――ありがとう!
すぐに返信が届く。
――いま武蔵境なので、あと20分くらいで着きます。
昨年一度だけ、友人たちと民喜のアパートで飲み会をしたことがあった。その会には山口も参加していたので住所は知っているはずだった。
不安な心持で、民喜はとりあえず部屋の片づけを始めた。
「なして、こんな朝っぱらから」
ブツブツ呟きつつ、敷きっぱなしの布団をたたんで部屋の隅に寄せる。窓を開け放し、扇風機を回す。机の上のビールの空き缶を集め、台所の流しに持ってゆく。数日放置していたカップラーメンの残りを三角コーナーに捨てようと取り上げると、表面にカビが生えていた。

そうして落ち着かなく片付けをしている内に、
ピーンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。寝ていない民喜の頭にチャイムの音はいやにかん高く響いた。
身構えつつ、ゆっくりとドアを開ける。ドアの向こうに、山口凌空が185センチの長身を少し前に屈めるようにして立っていた。彼の背中越しに眩い太陽の光線が差し込んでくる。
「マジごめんな、突然、こんな朝早く」
「いや、大丈夫だけど……」
申し訳なさそうな表情をして山口は頭を下げた。いつもきっちりとセットされている彼の前髪が今朝は乱れていた。台所の流しに並ぶビールの空き缶を見られないよう体で隠しつつ、山口を部屋の中に案内する。
「風邪はもう大丈夫?」
リュックを降ろしながら山口は言った。山口の言葉にドキッとしたが、何でもない風で、
「うん、もうすっかり」
と答える。
「そっか、よかった」
「ごめん、この前は……」
「いや、大丈夫」
山口にはクッションの上に座ってもらい、民喜はたたんだ敷布団の上に座った。山口は細かな英字がプリントされた黒いTシャツを着て細身のジーンズを履いていた。手には丸めたポスターのようなものを握っている。
互いの足の先が触れ合いそうな距離で山口と対峙すると、民喜はいよいよ緊張してきた。山口の体から香水と汗とが入り混じったような独特な匂いが漂ってきた。
山口は少しの間の後、
「戦争法案が強行採決されたよ」
と言った。
民喜はどう返事をしたらよいのか分からず、
「そっか」
と頷いた。
山口はふと気が付いたように握りしめていたポスターに目を遣り、床に置いた。巻かれていた紙がスルスルと開きA3くらいの大きさのプラカードになる。デモで使っていたものなのだろう、赤色の紙に黒色と白色のゴシック体で大きく「PEACE NOT WAR」と印字されていた。

山口の話によると、安保法案が参議院で採決されたのは午前2時過ぎ。国会を取り囲む人々は当然、強引な採決に抗議の声を上げ続けた。山口も朝の6時頃まで国会前にいたということだった。
今朝までのことを一気に語り終えた彼は、ひどく疲れた表情で黙り込んだ。目の下には小さなクマができている。
民喜も疲れて頭がぼんやりしていたが、それは単に意味もなく起き続けていたことによる疲労だった。夜通しデモに参加していた山口と比べて、自分は一体何をしているのだろう……?
とまた激しい自己嫌悪が民喜を襲った。
ゆっくりと首を振る扇風機の音を聴きながら、
「ごめん」
謝罪の言葉が口をついて出て来た。
「何で?」
「いや……。何となく、いろいろ」
山口は怪訝そうな表情で民喜を眺めた後、
「でも……これで終わりじゃない。終わりにしちゃいけない」
床の上のプラカードを見つめ、自分に言い聞かせるように呟いた。
まったく会話が噛み合っていないな、と思いつつ山口の顔を見つめる。驚くべきことに、彼の赤く充血した目に微かに涙が浮かんでいた。
民喜は何か言葉をかけねばと思い、
「朝ごはんまだ? 何か食べる?」
と尋ねた。
「いや……」
山口は小さく首を振り、
「それより……ビールある?」
と言った。
「あ、あるよ」
民喜は急いで立ち上がり、冷蔵庫から500ミリリットルの缶ビールを取り出して渡した。
「サンキュー」
山口はプシュッと音を立てて缶の蓋を開け、
「あ、民喜は?」
「じゃあ、ちょっとだけ……」
「今日は、予定はない?」
「うん、大丈夫」
湯飲み茶碗を取り出してきて、ビールを注いでもらう。
「お疲れ」
「お疲れ」
なぜか二人で乾杯をする。朝にビールを飲むなんて、はじめての経験だった。一口飲むと一瞬頭がクラッとした。山口はゴクゴクと勢いよくビールを飲み、
「あーっ、うまい!」
ホッとしたような表情になって笑った。今まで見たことのない、人懐っこい表情だった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が山口の右半身を包み込んでいる。山口は窓の方を向いて眩しそうな顔をした後、
「ごめんな、いつも民喜には甘えちゃって」
民喜の方に向き直って言った。
彼の言葉の意味がよく分からず、
「え? 何が?」
と尋ねると、
「今日も甘えて無理言っちゃって、ごめんな」
少し照れくさそうな表情で山口はビールを飲んだ。
甘えている? 山口が、俺に……?
「民喜と話していると、安心する」
「え?」
「ほら、最近さ、人の言ったことをすぐ否定したり批判しようとする風潮があるじゃん。でも民喜は否定するんじゃなくて、一度ちゃんと受け止めてくれるから」
山口の言うことがよく飲み込めないまま、
「うーん、あまり自覚はないんだけど……」
民喜は無理に笑顔を作って湯飲み茶碗のビールを口に含んだ。
山口が俺に甘えているなんて、考えたこともなかった。てっきり山口は俺のことを軽蔑してるものだと思っていたのだけれど……。


3、
ビールを飲みながら30分ほど雑談をした後、
「じゃ、そろそろ帰るわ」
山口は片手を上げた。
「ビールごちそうさま」
「帰る」という言葉を聞いてホッとしつつ、民喜も腰を上げた。
「これ、何の絵?」
立ち上がった山口は長身の体を折り曲げ、机の上に立てかけてあった絵を覗き込んでいた。

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民喜はドキッとして、
「えーと……。ネアンデルタール人」
と答えた。「ネアンデルタールの朝」の絵を立てかけたままにしておいて失敗した、と思う。
「ネアンデルタール人?」
「うん」
「誰が描いたの?」
「俺」
「えっ、民喜が描いたの? 民喜、絵描くの? 知らなかった。うまいじゃん」
「そうかな?」
民喜は無理に笑顔を作って見せた。山口に「ネアンデルタールの朝」の絵を見られて民喜は再び緊張してきた。
山口はスマホを取り出して何か操作をし始めた。
「ネアンデルタール人……。《約40万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したヒト属の一種》ね、へー」
ネットで検索していたらしい。画面を人差し指でスクロールさせながら、
「どうしてネアンデルタール人なの?」
不思議そうな表情で聞いてきた。民喜はどう答えてよいのか分からず、
「うーん、ちょっと興味があって」
とだけ答えた。
「ふーん」
山口はスマホをジーンズの後ろのポケットにしまい、改めて絵を覗き込んだ。
彼がそれ以上ネアンデルタール人について尋ねてこないので幾分ホッとしつつ、
「もうだいぶ前、高1の時に描いた絵なんだけど……」
と説明をする。
「へー、高1のときの絵なんだ」
4年前、あの震災が起きる前日に、自分はこの絵を描いたのだった。
山口の背後から、ネアンデルタール人の絵を眺める。朝の光の中、ネアンデルタール人の家族が微笑みを浮かべてこちらを見つめている……。
「民喜の新しい一面を見た。民喜、絵のセンスあるよ」
山口は民喜の方に向き直って言った。
「そうかな」
と言いつつ玄関の向かって歩き出すと、
「あ、これ何?」
山口の声に後ろを振り向く。
「民喜と同じ名前じゃん」
山口は机の上に置いていた原民喜の文庫本を手に取っていた。
(色々と気づいちゃうヤツだな)と思いながら、
「原民喜っていう人で……。俺もまだ全部読んでないんだけど、広島の原爆について書いてる人みたい」
と説明する。
「そうなんだ。知らなかった」
山口はパラパラとページをめくり、
「広島の原爆、か」
と呟いた。
「あっ、この詩、知ってるかも」
山口は開いたページを民喜に見せながら、
「《水ヲ下サイ》ってやつ。確か授業で習った。へー、この詩の作者が原民喜なんだ」
彼から本を受け取り、その詩を読んでみる。『永遠のみどり』という短編に挿入された詩のようだった。

 《水ヲ下サイ
 アア 水ヲ下サイ
 ノマシテ下サイ
 死ンダハウガ マシデ
 死ンダハウガ
 アア
 タスケテ タスケテ
 水ヲ
 水ヲ
 ドウカ
 ドナタカ …》

本を眺める民喜の横で、山口はまたスマホに何かを入力している。今度は原民喜についてwikipediaで調べているのだろう。
「原民喜……。《日本の詩人、小説家。広島で被爆した体験を、詩『原爆小景』や小説『夏の花』等の作品に残した》。へーっ、ホントだ。広島の原爆を作品にしてる人なんだ」
だから、そう言ってるべ、と心の中で突っ込む。
「ちょっと民喜に似てない?」
山口がスマホの画面を見せてきた。この前明日香と一緒に見た、原民喜が低い塀にもたれかかりながらポーズを決めている写真だった。

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「それ、別の人にも言われた」
「誰に?」
と聞かれて、一瞬口ごもる。余計なことを言わなければよかった。
「えーと、永井明日香さん」
サラッと自然に答えるつもりが、意識をし過ぎて逆に強い口調になってしまった。
「永井明日香? あー、知ってる。何度か授業で一緒だった。あの地味な……大人しい感じの子ね」
山口はあまり関心のないような口調で言った。「地味」という言葉に民喜は少しムカッとした。
「民喜、あの子と話すことあんの?」
「コーラス部で一緒だから」
「あー、そっか」
数秒の、変な間が空く。
「あれっ、もしかして民喜、永井さんとつきあってる?」
山口は目を見開いて言った。彼の目がキラッと輝いた気がした。
「いやいや、つきあってない」
手を振って慌てて否定をする。
「ふーん」
山口はジッと民喜の顔を見つめて、
「つきあってなくてもさ……もしかして民喜、永井さんのこと好きなの?」
「いやっ、そんな、別に……」
そう言って思わず目を伏せる。
山口は俯く民喜を眺めながらクククッと笑い、
「民喜って、ホント正直だなー」
と言った。頭にカーッと血が上り、ビールで赤くなった顔がますます紅潮してゆくのが自分でも分かる。
「いや、ごめん、さっきの訂正、訂正! 永井さん、地味な感じだけど、よく思い出してみると、結構美人なような気がしてきた!」
民喜の肩をバシバシと叩いた。
「痛い痛い」
「あ、ごめんごめん!」
山口は愉快そうに笑った。
もういいから、早く玄関に行ってくれ、と心の中で懇願する。
「民喜って、いろいろ興味深いな。またゆっくり飲もうぜ」
民喜は胸の内でため息をついて、
「うん、また」
と頷いた。酔いと疲れとで、頭が朦朧とし始めていた。
山口は大きく伸びをして、
「さあ、家に帰って、寝よ! サンキュー、民喜。助かった。だいぶ落ち着いた!」
リュックを背負い、ようやく玄関に向かった。手を使わないで器用に靴を履いた山口は、
「今日はマジで、サンキュー」
明るい表情で左手を上げた。右手にはしっかりと「PEACE NOT WAR」のプラカードを握りしめている。
朝の光の中、アパートの階段を駆け下りてゆく彼の後姿を見送った後、民喜は何が何だかよく分からない心地のまま、ゆっくりとドアを閉めた。


*引用:原民喜 詩 『夏の花・心願の国』(新潮文庫、1973年、274‐275頁)
ネアンデルタール人と原民喜の説明文 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「ネアンデルタール人」「原民喜」の項より


4、
薄暗い店内のところどころを裸電球の暖かみのある明かりが照らし出している。
いま店内にいる客は40代前半くらいの男性一人と、若い男女のペアだけ。日曜日の午前中であるからか、いつもよりも人が少ない。
すぐそばのカウンターでグレーのエプロンをつけた女性がコーヒーを淹れている。歳は20代後半くらいだろうか、ショートヘアのどこかミステリアスな雰囲気の女性で、この店に来るとよく見かける人だ。湯気と共に沸き立つコーヒーの香りは、民喜の内に何だかホッとするような、懐かしいような感覚を喚起した。少し離れたスピーカーから、ジャズピアノの控えめな音色が聴こえてくる。

民喜は吉祥寺の駅前商店街の中にあるこの独特な雰囲気の喫茶店が好きで、時折立ち寄っていた。店の入り口は携帯ショップと隣り合わせになっており、早足で歩いていたら見過ごしてしまいそうだ。
地下へ続く急こう配の階段を下りていくと、賑やかな商店街とはまったく別の空間が目の前に広がる。アーチ型の天井とゴツゴツとした壁。まるで地下洞穴のような不思議な空間。初めてこの店を訪れたとき、自分が大昔の人類に戻ったかのような感覚になったのを覚えている。

生活のリズムを何とか立て直したいと思い、昨晩は民喜は日付が変わる前に就寝した。眠ることができるか不安だったが、意外とすぐに眠りにつくことができた。心身共に、疲れが溜まっていたのかもしれない。目が覚めて、混沌としていた頭の中が少し整理されたような、すっきりとした感覚が民喜を捉えていた。小鳥のさえずりが聞こえる中、今日なら原民喜の本を読むことができるかもしれない、と思った。
「お待たせしました、ブレンドのストロングです」
ショートヘアの女性がコーヒーを運んできた。
「どうも」
目を伏せて頭を下げる。
カップを手に取り、鼻を近づけて香りを確認した後、ミルクも何も入れないで口に含む。やっぱりお店で飲むコーヒーはおいしい。ストロングなので味が濃厚だ。
アーチ型の天井を見上げながら、民喜は実家のすぐ裏手の雑木林にあるケヤキの樹のことを思い起こした。
あの樹の根元の洞の中にもぐるのが好きだった幼い頃の自分。薄暗い洞の中でボーっとしていると、不思議と安心した気持ちになったものだった。この洞窟のような喫茶店が好きなのはその頃の記憶が関係しているのかもしれない、と思う。
だけれども――いまやあの樹の洞は放射能に汚染され、ホットスポットになってしまっているのだ。
民喜の心にチクリと痛みが走った。 
コーヒーを一口すすり、民喜はカバンから原民喜の『夏の花・心願の国』を取り出した。
本が届いてからこの10日間ほど、民喜はなかなか本を手に取ることができないでいた。この本を読み進めるには、相当のエネルギーが必要だと直感していたから……。読むことを重荷に感じると同時に、それが何か自分の責務のようにも感じていた。
唯一すでに読んでいたのは、最後に収録されている短編の『心願の国』。数日前、駿と放射能問題について電話をした後、ふと本を手に取って読んでみたのだ。10頁ちょっとのごく短いもので、すぐに読み終えることができた。
文庫本のそでに掲載されているプロフィールによると、『心願の国』は原民喜の最後の作品であるらしい。確かに、亡くなる直前の彼の心境がそのままに書き留められているような内容だった。小説というより、散文詩に近い印象。締めくくりには親しい友人への遺書と、U……という人物に捧げた悲歌が添えられていた。
読んでいて、一つひとつの文章が、スーッと心に染み入って来た。これほど自分にしっくりとくる文体に出会ったのは初めてのことだった。舞台が吉祥寺近辺であることにも親しみを覚えた。原民喜という人は、何か自分と近しい感受性をもっている人であるのかもしれない。
特に心に残っている一文がある。

《……だが、人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによっても粉砕されない時が、そんな調和がいつかは地上に訪れてくるのを、僕は随分昔から夢みていたような気がする》

原民喜が眠れない寝床の中で、地球の内側の核心部を想像しながら記した文章であるとのことだった。初めて読んだ言葉であるはずなのに、書かれていることを自分も知っているように感じた。ここに書かれていることは自分自身、長い間、ずっと願い続けて来たことであるような気がした。

*引用:『夏の花・心願の国』(新潮文庫、1973年、281頁)


5、
「すみません」
カウンターで洗い物をしている店員さんに声をかける。
洗い物をしていたのは今日初めて見かける子だった。最近新しくアルバイトをし始めたのかもしれない。高校生と言っても十分通用しそうな、表情にまだ幼い雰囲気を残した子だった。
「はい」
女の子がはにかんだような笑顔でこちらまでやってくると、
「コーヒー、もう一杯お願いします」
民喜はおかわりのコーヒーを注文した。
「かしこまりました」
女の子はお辞儀をし、
「失礼します」
机の上の伝票を手に取ってカウンターの方へ戻って行った。その様子を見届けてから、民喜はトイレに行くために立ち上がった。

店に入ってから2時間以上が経過していた。いつの間にか店内はほぼ満席になっている。人々が賑やかに会話をする中を、民喜はまるで透明な存在のようにフラフラと通り過ぎて行った。
人々が談笑する姿も、カウンターで店員が食器を洗う音も、コーヒーとカレーの匂いも、いまの自分にとっては異質なもののように思えた。いや、むしろこの人々の活気が満ちる場に自分が異質な存在なのだろうか……。
用を足し、洗面台で手を洗う。鏡に映る自分の表情の向こうに、原民喜の切羽詰まった表情が見えた気がして、ハッとした。彼の黒い目が自分を見つめたような気がした。

席に戻ると間もなく、先ほどの女の子がおかわりのコーヒーを運んできてくれた。
「お待たせしました。ブレンドのストロングです」
小鳥のような軽やかな声で言った。
頭を下げて「どうも」と呟こうとしたが、かすれて声にならなかった。反射的にコホンと咳ばらいをする。
女の子はテーブルの端に伝票を置き、
「ごゆっくりどうぞ」
レジの方に戻っていった。
民喜は胸の上にそっと手を置き、ゆっくりと息を吸って、吐いた。
水を下さい――
先ほど読み終えた『夏の花』に記されたこの言葉が自分の胸を一杯にさせていた。

《河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊し、走り廻っている。「水を、水を、水を下さい、……ああ、……お母さん、……姉さん、……光ちゃん」と声は全身全霊を引裂くように迸り、「ウウ、ウウ」と苦痛に追いまくられる喘ぎが弱々しくそれに絡んでいる》

水ヲ下サイ》――
この言葉は、原子爆弾の熱線にさらされた人々が、その想像を絶する苦痛の中で、発した言葉だ。想像しようとしても想像が及ばない苦しみの中で発されたこれら叫び声が、しかし、民喜の胸の内で反響し、四方八方にグルグルと走り廻っていた。
グラスを手に取り、残りの水を口の中に注ぎ込んだとき、
「お水ください」
すぐそばでの声がした。ドキッとして声がした方向に顔を向ける。カウンターに座る中年の男性が空のグラスを持ち上げていた。
店員の女の子が男性のグラスに水を注ぎに行く様子を見つめながら、民喜は一瞬、自分がいまどこにいるのか分からなくなった。


*引用:『夏の花・心願の国』(新潮文庫、1973年、153頁)


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