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小説『ネアンデルタールの朝』⑩(第二部第2章-5)

5、
しばらくの沈黙の後、
「去年(※)、『美味しんぼ』が問題になっただろ」
駿が再び口を開いた。民喜が母のことを考えている間、駿も何ごとかを考え込んでいたようだった。
「鼻血騒動?」
「んだ」
『美味しんぼ』という漫画において、福島を訪問した主人公が鼻血を出す描写が大きな問題となっていたことは民喜もネットのニュースで知っていた。
「デマを流して風評被害を助長した、っつうことで作者も出版社も異常に叩かれてたけれども」
「でも、鼻血は……」
「んだ。鼻血は出てたのさ。事故直後は、毎日のように。俺らはみんなよく知ってるとおり」
「咲喜も鼻血出してた」
当時7歳だった妹は事故直後、よく鼻血を出していた。朝起きると枕とシーツが鼻血でぐちゃぐちゃになっていた。寝ている間に鼻を擦って出たのだとは思えないような、多量の出血だった。朝起きてそれを見たときの、頭から血の気が引くような、ゾッとする感覚がよみがえってくる。
鼻血を見る度、母は「放射能の影響なのでは」と取り乱し、父は「それはいまは分からん、落ち着け」という言葉を繰り返した。
「翼もそうだった。事故直後、よく鼻血を出してた。それまではそんなに鼻血を出すこともなかったのに……。俺も実際、何度か鼻血が止まらなくなったことがある。あれは怖かったな。ティッシュをどれだけ鼻に詰めてもすぐに真っ赤に染まって、なかなか止まらねえんだから。俺らにとって、鼻血はデマなんかじゃなく、現実だった」
駿は続けて、
「民喜、俺がくやしかったのは、全国から鼻血自体がデマだって認識されちまったことだ。百歩譲って放射線との因果関係は現時点では『識別できない』と留保しておくとしても、鼻血を出していたという事実そのものが『なかったこと』にされるのは納得いかねえ」
低くかすれるような声で言った。
そう言えば、民喜自身も事故直後に一度だけ、鼻血が出たことがあった。外から家に帰って来た直後、鼻から生暖かいものが垂れて来たので鼻水かと思って手で拭うと、血だった。ただし量はそれほどでもなく、しばらくティッシュを鼻の穴に突っ込んでいる内に出血は止まった。鼻血が出たことは父にも母にも言わなかった。
「まあ、将人はすっかり放射能安全神話に身を委ねてしまってるんだけども、鼻血がデマだと言われてることに関しては怒ってたな」
「そっか、将人も……」
将人の運転で6号線を走ったときのことを想い起こす。車の窓を開け放す中、将人は口元だけがひきつったような笑みを浮かべていた。
「放射線の影響を『ない』ことにしたい力が、いかに凄まじいものであるか、俺はあの件で思い知ったな。影響が『ある』ということを口にするだけで、社会からどれほど袋叩きにされるのかがよく分かって、ホント恐ろしくなった。放射線の影響が『ない』ことにするために、鼻血という事実そのものも一緒くたに『なかったこと』にされちまった」

(※)本作品の時代設定が2015年なので、2014年。


しばらくの沈黙の後、駿は大きく息を吸って吐き出し、
「民喜もすでにおばちゃんから聞いてるかもしんねえけど……甲状腺検査で、翼がB判定になった」
駿が翼のことを口にしたので民喜はビクンと緊張し、
「うん……聞いてた」
とだけ答えた。ビールの酔いもいつしか醒め始めていた。翼の人懐っこい笑顔が頭に浮かぶ。
「そっか」
駿の弟の翼は甲状腺検査でB判定になっていた。B判定は甲状腺に5.1ミリ以上の結節または20.1ミリ以上ののう胞が認められた場合を言うとのことだった。
駿は一息置いて、
「これから尿検査や血液検査とかの精密検査をしてゆく予定だ。もちろん、B判定になったからと言って、二次検査でがんと診断されるとは限らないけれども……。ただ、翼がB判定にされちまったことで俺んちはもう、いま大変な状態だ。母さんは毎日泣いてて、夜も眠れないみたいで、もう半分うつみたいになってる」
駿の母親はよく民喜たちに夕食をご馳走してくれた。いつもニコニコと笑っているイメージのある駿の母親が涙を流している様子を想像し、心が痛んだ。
「翼のことも、やっぱり現時点では、科学的に『因果関係が分からない』ということにされちまうんだ」
駿はさらに続けて、
「翼のことだけじゃねえ。福島やその近辺で子どもの甲状腺がんがこんだけ多発していても、国や専門家の答えは、『因果関係が分からない』『放射線の影響とは考えにくい』、そればっかりだ」
「えっと、何だっけ。スクリーンなんたら……」
「スクリーニング効果な。甲状腺がんが多発しているのは、前例のない大規模な検査をしたから多発しているように見えるだけだ、っつう説明だ。あと、甲状腺超音波エコーの精度が向上したことなどによる過剰診断という説明もされる。でも、おかしいべ。もしそうだとしたら、なして二巡目の検査でさらにがんが多発してるんだ? 説明がつかねえ。翼も2年前の一巡目のときはA1で問題なかったんだ。それが今回の二巡目の検査では、Bになってた。なしてだ?」
話している内に、駿の声はだんだん大きくなってきた。駿がこのように憤りを露わにして話すのは珍しいことだった。
「結局この先、翼のことも、まるで何事もなかったかのように淡々と処理されていっちまうんだろうか。俺らの苦しみも、ないこととして消されちまうんだろうか……」
駿は声を落とし、独り言のように呟いて、
「民喜、俺、くやしい」
突然、ウウッ……と小さく呻き声を上げ、泣き始めた。駿の無念さを思い、胸がキリキリと痛んだ。
民喜は思わず、
「駿、翼のこと、絶対になかったことにさせねえ!」
と叫んだ。
「誰が何と言おうと、絶対、なかったことにはさせねえ」
そう繰り返す民喜の目にも涙がにじんできた。
一瞬、涙でにじむ視界の向こうにロウソク岩が見えた。ロウソク岩は炎のようなものを燃え立たせながら、夜明け前の海岸に立っていた。

ロウソク岩

どこかから、あの「法典」の言葉が聴こえてくる――。

存在したものが、
あたかも存在しなかったかのようにされてしまうことが、
ないように。……

駿は鼻水をすすりながら、
「ああ、俺もそう思っている。ありがとな、民喜」
と言った。


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