小説『ネアンデルタールの朝』⑬(第二部第3章-3)
3、
ビールを飲みながら30分ほど雑談をした後、
「じゃ、そろそろ帰るわ」
山口は片手を上げた。
「ビールごちそうさま」
「帰る」という言葉を聞いてホッとしつつ、民喜も腰を上げた。
「これ、何の絵?」
立ち上がった山口は長身の体を折り曲げ、机の上に立てかけてあった絵を覗き込んでいた。
民喜はドキッとして、
「えーと……。ネアンデルタール人」
と答えた。「ネアンデルタールの朝」の絵を立てかけたままにしておいて失敗した、と思う。
「ネアンデルタール人?」
「うん」
「誰が描いたの?」
「俺」
「えっ、民喜が描いたの? 民喜、絵描くの? 知らなかった。うまいじゃん」
「そうかな?」
民喜は無理に笑顔を作って見せた。山口に「ネアンデルタールの朝」の絵を見られて民喜は再び緊張してきた。
山口はスマホを取り出して何か操作をし始めた。
「ネアンデルタール人……。《約40万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したヒト属の一種》ね、へー」
ネットで検索していたらしい。画面を人差し指でスクロールさせながら、
「どうしてネアンデルタール人なの?」
不思議そうな表情で聞いてきた。民喜はどう答えてよいのか分からず、
「うーん、ちょっと興味があって」
とだけ答えた。
「ふーん」
山口はスマホをジーンズの後ろのポケットにしまい、改めて絵を覗き込んだ。
彼がそれ以上ネアンデルタール人について尋ねてこないので幾分ホッとしつつ、
「もうだいぶ前、高1の時に描いた絵なんだけど……」
と説明をする。
「へー、高1のときの絵なんだ」
4年前、あの震災が起きる前日に、自分はこの絵を描いたのだった。
山口の背後から、ネアンデルタール人の絵を眺める。朝の光の中、ネアンデルタール人の家族が微笑みを浮かべてこちらを見つめている……。
「民喜の新しい一面を見た。民喜、絵のセンスあるよ」
山口は民喜の方に向き直って言った。
「そうかな」
と言いつつ玄関の向かって歩き出すと、
「あ、これ何?」
山口の声に後ろを振り向く。
「民喜と同じ名前じゃん」
山口は机の上に置いていた原民喜の文庫本を手に取っていた。
(色々と気づいちゃうヤツだな)と思いながら、
「原民喜っていう人で……。俺もまだ全部読んでないんだけど、広島の原爆について書いてる人みたい」
と説明する。
「そうなんだ。知らなかった」
山口はパラパラとページをめくり、
「広島の原爆、か」
と呟いた。
「あっ、この詩、知ってるかも」
山口は開いたページを民喜に見せながら、
「《水ヲ下サイ》ってやつ。確か授業で習った。へー、この詩の作者が原民喜なんだ」
彼から本を受け取り、その詩を読んでみる。『永遠のみどり』という短編に挿入された詩のようだった。
《水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ …》
本を眺める民喜の横で、山口はまたスマホに何かを入力している。今度は原民喜についてwikipediaで調べているのだろう。
「原民喜……。《日本の詩人、小説家。広島で被爆した体験を、詩『原爆小景』や小説『夏の花』等の作品に残した》。へーっ、ホントだ。広島の原爆を作品にしてる人なんだ」
だから、そう言ってるべ、と心の中で突っ込む。
「ちょっと民喜に似てない?」
山口がスマホの画面を見せてきた。この前明日香と一緒に見た、原民喜が低い塀にもたれかかりながらポーズを決めている写真だった。
「それ、別の人にも言われた」
「誰に?」
と聞かれて、一瞬口ごもる。余計なことを言わなければよかった。
「えーと、永井明日香さん」
サラッと自然に答えるつもりが、意識をし過ぎて逆に強い口調になってしまった。
「永井明日香? あー、知ってる。何度か授業で一緒だった。あの地味な……大人しい感じの子ね」
山口はあまり関心のないような口調で言った。「地味」という言葉に民喜は少しムカッとした。
「民喜、あの子と話すことあんの?」
「コーラス部で一緒だから」
「あー、そっか」
数秒の、変な間が空く。
「あれっ、もしかして民喜、永井さんとつきあってる?」
山口は目を見開いて言った。彼の目がキラッと輝いた気がした。
「いやいや、つきあってない」
手を振って慌てて否定をする。
「ふーん」
山口はジッと民喜の顔を見つめて、
「つきあってなくてもさ……もしかして民喜、永井さんのこと好きなの?」
「いやっ、そんな、別に……」
そう言って思わず目を伏せる。
山口は俯く民喜を眺めながらクククッと笑い、
「民喜って、ホント正直だなー」
と言った。頭にカーッと血が上り、ビールで赤くなった顔がますます紅潮してゆくのが自分でも分かる。
「いや、ごめん、さっきの訂正、訂正! 永井さん、地味な感じだけど、よく思い出してみると、結構美人なような気がしてきた!」
民喜の肩をバシバシと叩いた。
「痛い痛い」
「あ、ごめんごめん!」
山口は愉快そうに笑った。
もういいから、早く玄関に行ってくれ、と心の中で懇願する。
「民喜って、いろいろ興味深いな。またゆっくり飲もうぜ」
民喜は胸の内でため息をついて、
「うん、また」
と頷いた。酔いと疲れとで、頭が朦朧とし始めていた。
山口は大きく伸びをして、
「さあ、家に帰って、寝よ! サンキュー、民喜。助かった。だいぶ落ち着いた!」
リュックを背負い、ようやく玄関に向かった。手を使わないで器用に靴を履いた山口は、
「今日はマジで、サンキュー」
明るい表情で左手を上げた。右手にはしっかりと「PEACE NOT WAR」のプラカードを握りしめている。
朝の光の中、アパートの階段を駆け下りてゆく彼の後姿を見送った後、民喜は何が何だかよく分からない心地のまま、ゆっくりとドアを閉めた。
*引用:原民喜 詩 『夏の花・心願の国』(新潮文庫、1973年、274‐275頁)
ネアンデルタール人と原民喜の説明文 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「ネアンデルタール人」「原民喜」の項より
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