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小説『ネアンデルタールの朝』第二部第2章まとめ(⑥~⑩)

タイトル

第2章

1、
「じゃ、10分くらい休憩で」
パートリーダーの中田悠がにこやかな表情で言った。
民喜はペットボトルのお茶を一口飲み、床に座り込んだ。首を左右に軽く回してみるが、のどはこわばったままだ。
体が少しフラフラとする。無理に声を出しすぎて、軽く酸欠状態になっているのかもしれない。首と肩もひどく凝っているようだった。
窓の外を眺める。打ち付けるような激しい雨が降っている。
「民喜っち、大丈夫?」
中田悠が近づいて来た。
民喜は立ち上がり、
「うん。でも、ごめんね。全然ついていけなくて」
「大丈夫だよ、あと3週間ちょっとあるから」
と中田は微笑んだ。彼が大阪出身だということを聞いて以降、彼に話す度に何故かそのことを意識してしまう。
俺、秋の定演、無理かも……。
思わず口から出そうになった言葉を飲み込み、
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
民喜は教室の外に出た。さほど尿意を催しているわけでもなかったが、いったんこの場から離れたい気分だった。
隣の教室からベースパートの練習が聴こえてくる。壁を震わすようにして響く重低音に圧迫感のようなものを感じつつ、民喜はトイレへと向かった。

鏡の前に立ち、自分の顔をジッと見つめる。我ながら、覇気がない表情をしている。顎を上げ、のどぼとけの下の筋肉をそっと手でなでてみる。
夏休みが明けてから、民喜は高音をうまく出すことができなくなっていた。それまでは歌えていた小節が歌えない。無理に歌おうとすればするほど、のどに力が入ってしまって歌い続けることが難しくなった。
しばらくのどをつまんだりさすったりしている内に、民喜は胸騒ぎのようなものを感じ始めた。のど元の筋肉がキュッとこわばってくる。胸騒ぎがする中で、民喜は甲状腺検査を受けたときのことを思い起こしていた。……

ヒヤリとする、ジェルの冷たい感触。ジェルが塗られたのど元を、超音波エコーの端子がヌルヌルと這い回っている。
診察台の上に横たわった自分は死体のようにジッと動かず、ただ天井を見つめている。医者が画面上に何を認めているのかよく分からぬまま……。
のどぼとけの下にあてられた検査器の先端がヌルッと場所を変える度、民喜は背筋に寒気を感じた。のど元がキュッと締め付けられるようにこわばってゆく。
自分がいま感じているのが恐れなのか、悲しみなのか、怒りなのか、分からない。そのよく分からぬ感情をまるごと、民喜は乾いた口に沁みだしてくる唾液と一緒に飲み込むほかなかった。いま経験していることは、民喜の理解の範疇を超えていた。
一体いま、何が起こっているんだろう……?
検査が終わっても、結果について医者からは何も告げられなかった。民喜もただ無言で小さく一礼をし、白いカーテンで囲われた即席のブースを出た。……

民喜が最初に県民健康調査の甲状腺検査を受けたのは高校3年のときだった。その日のことについて、これまで、民喜はほとんど思い出すことはなかった。忘れていたはずの出来事が、しかし忘れ得ぬ記憶として、自分ののど元にしこりのように残り続けていたことに気づく。
何なんだよ、一体……。
民喜はあくびをするように口を大きく開け、首を左右に軽く振って鏡の前を離れた。


2、
朝、目を覚ますと、カーテンの隙間から青空が見えた。数日ぶりに見る青空だった。
結局、今日の国会前デモには行かないことにした。
布団から上半身だけを起こし、民喜は山口凌空(りく)にラインを送った。

――ごめん、また風邪がぶり返したみたいで、今日の金曜デモ、行けなくなった。ごめん

追加で、涙を流している顔文字を添えてみる。山口はまだ寝ているのか、しばらく待ってみても既読にはならなかった。
体調不良と嘘をついてしまったからには、今日の授業も休む必要がある。大学で山口と顔を合わせてしまったらやっかいだ。今日は金曜日の第1回目の授業で、休むと困ることになるのは分かっているのだけれど……。
スマホの画面を見つめている内に、だんだんと不安が沸き上がってきた。
1回目の授業を休んでしまったら、もうその授業についてゆくことができなくなるんじゃないか。そうすると単位を落としてしまうんじゃないか。単位を落としたら卒業できなくなってしまうんじゃないか……。
スマホを布団の上に置き、カーテンから覗く青空に目を遣る。
それに、秋の定演も近いのに。
目を覚ましたばかりであるのに、何だか眠い。頭がボーっとして、どうもスッキリとしない。山口からの返信は確認しないまま布団に横になり、民喜は二度寝をする体勢へと入っていった。

再び目を覚ますと、昼の12時を過ぎていた。山口からはただ一言、
――りょ
と返信が来ていた。
上半身を起こしたまま、ぼんやりと前を見つめる。小鳥のさえずりの合間から、か細くツクツクボウシの鳴き声が聴こえてくる。頭がスッキリしない感覚は消えていたが、代わりに異様な心細さが民喜を捉えていた。
立ち上がり、台所に行って電気ケトルに水を入れる。まだ何も食べていなかったので、とりあえず何か腹に入れておこうと思う。食器棚から非常時のために買っておいたカップラーメンを取り出す。
麺がお湯でふやけるのを待っている間にパソコンを立ち上げる。Yahoo!のトップページを開くと、「**川の堤防が決壊」というタイトルが目に留まった。この2日間の記録的な豪雨により**市の川の堤防が決壊し、住宅地が浸水したことが報じられている。被害の全容はいまだつかめていない状況であるらしい。東京でもここ数日激しい雨が降っていたが、他県でこれほどの被害が出ていたなんて……。
記事には氾濫した川の水に流される住宅の写真も添えられていた。写真を見た瞬間、民喜はあの震災を想い起こした。
微かに動悸がしてきたので急いで別の記事をクリックする。心臓がドクドクと高鳴り、口の中に苦い液体を飲み込んだような不快さを感じた。
カップラーメンと箸を手に取ってきて、再びパソコンの前に座る。たわいもない芸能ニュースを読むともなしに眺めながら麺をすする。胸の内の不安をかき消すように汁も勢いよく飲み干した。
食べ終わるとお湯を再び沸かし、インスタントコーヒーを入れて飲んだ。
カップラーメンを食べ、熱いコーヒーを飲むと、民喜はようやくわずかに落ち着きを取り戻した心地になった。


3、
週が明けてから、山口凌空からデモの誘いは来なくなった。山口はもう自分のことを見限ったのかもしれない、と思う。こんなやつを相手にしていても仕方がない、ということが分かったのかもしれない。
学内を移動する際は絶えず山口や「もっちゃん」と顔を合わさないかと気になった。鉢合わせするとやっかいだから、学生食堂も利用しなくなった。普段ほとんど自炊はしない民喜にとって、学食を利用できないのは痛手であったけれど……。昼休みにはいったんアパートに戻り、コンビニで買ってきた弁当やサンドイッチを食べた。
山口は自分を軽蔑しているのだろうな、と思う。
大学に行くこと自体が苦痛になり始めていたが、気力を振り絞って授業とコーラス部の練習には顔を出していた。ただ一つの楽しみは明日香と会えることだった。ただしここ数日はパート練習がメインだったので、練習の合間に彼女と言葉を交わす機会はほとんどなかった。
秋の定演が近づいてきていることもあって、練習にも緊張感が漂い始めている。昨日、部長の妙中真美が声を荒げる場面があった。
「みんな、もっと集中しよ! 本番まであと25日しかないんやで!」
ピリピリとした空気は、いよいよ民喜ののどをこわばらせた。


アパートに戻ると、郵便ボックスにアマゾンのメール便が入っていた。注文していた本が届いたようだ。
部屋に戻り、早速開封してみる。
原民喜『夏の花・心願の国』(新潮文庫)。
表紙を開き、そでに掲載されているプロフィールを見てみる。著者の肖像を見た瞬間、民喜はハッと息を呑んだ。

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髪をオールバックにし、丸い黒縁の眼鏡をかけて写真に写る原民喜氏。数日前に明日香と一緒に見た写真とこの写真とでは、ずいぶんと印象が違った。数日前に見た彼は穏やかな表情をしていたが、この写真では何か切なるもの内に秘めた表情でこちらに顔を向けている。
特に印象的なのは目だった。頬がこけ、どこか弱々しい印象である中で、黒い目が異様な存在感を放っている。

《原民喜(1905‐1951)
広島市生れ。慶應義塾大学英文科卒。中学の頃より詩作を、大学予科の頃より短編小説の創作をはじめ、1935年(昭和10年)、作品集『焔』を自費出版する。疎開先の広島で原爆被災。以後、被爆後の広島の凄惨な状況に向き合いつつ数々の佳品を発表。’47年に刊行した『夏の花』は多くの読者に深い感銘を与え、水上滝太郎賞に輝いた。’51年、『心願の国』を遺し、自殺した》

略歴の末文を読み、原民喜という人は1951年に自ら命を絶って生涯を終えたことを知った。巻末の年譜を確認してみると、
《昭和二十六年(一九五一年)四十六歳 三月十三日午後十一時三十分、中央線吉祥寺・西荻窪間の鉄路に身を横たえ自殺を遂げる》とあった。
中央線の吉祥寺‐西荻窪間と言えば、いつも自分も利用している路線だ。そこで、彼は鉄道自殺をしたのか……。
自分が冷たいレールに身を横たえるところを想像してみて、ゾッとする。色々な自殺の方法がある中で、なぜ彼は鉄道自殺を選んだのだろう。自分だったら絶対嫌だ、と思う。
ページを閉じる。小さな文庫本であるはずなのに、自分の手に何かどっしりとした重みを持つものとして感じられる。この本を読み進めるには相当なエネルギーが必要であることを民喜は直感した。
本を置いて、敷きっぱなしの布団に横になる。しばらくの間、脳裏に原民喜の目の残像が残り続けていた。

*原民喜氏 略歴・年譜:原民喜『夏の花・心願の国』(新潮文庫、1973年)より引用


4、
練習の帰り道、民喜は大学の近くにあるコンビニに立ち寄った。
弁当コーナーの前に行き、夕食用のから揚げ弁当をカゴに入れる。何か飲み物をと思い、一番奥の冷蔵コーナーに行く。アルコール類が並ぶ冷蔵庫の前で立ち止まり、しばし考えた後、民喜は500ミリリットルの缶ビールを手に取った。
レジにはいつも見かける女性の店員が立っていた。
「お弁当温めますか?」
「お願いします」
年齢は50代前半くらいだろうか。平日の練習の終わりにコンビニに立ち寄ると、大抵この女性が働いている。伏し目がちな、物静かな雰囲気の女性だ。
隣のレジに立っているのは見慣れない青年だった。20代半ば、自分より少し年上というくらいか。おそらくこの9月から新しくバイトを始めたのだろう。
コンビニを出たとき、同じ大学とおぼしき数人の女の子が前から歩いてくるのが見えた。すれちがう瞬間、何となく気になって、民喜は弁当とビールが入ったビニール袋をカバンで隠した。

アパートに戻り、youtubeにアップされているお笑い動画を観ながら弁当を食べる。弁当の中のから揚げはパサパサとしていて、味気なかった。
特に美味しくもない弁当をあっと言う間に完食した民喜は冷蔵庫から500ミリリットルの缶ビールを取り出した。
一口飲む。一瞬頭がクラッとする。酒を買ってきて部屋で一人で飲むということを民喜はこれまでしたことがなかった。しかし今日は酒類が並ぶ冷蔵庫の前でふと足が止まり、500ミリリットルの缶ビールを手に取ってしまった。
半分ほど飲むと、早くも酔いが回って来た。お笑い動画を観ながら鼻先で笑い声を立てる。笑ってはいるが、実際はあまり楽しんではいない自分がいる。
ビールを飲み干した民喜は、酔いの勢いに任せて駿にラインを送ってみることにした。すでに一週間前から駿に連絡を取ろうと思ってはいたが、なかなか送ることができないでいた。

――うっす。ちょこっと聞きたいことがあるんだけど、時間あるときに電話ちょーだい

あえて軽めの文体でメッセージを送る。
駿に聞いてみたかったのは、放射能の健康への影響についてだった。

東京に戻ってから、民喜は放射能の影響についてネットで調べ始めていた。この度の原発事故が自分たちの体にどのような影響を与えているのか、本当のところが知りたいと思っていた。
民喜はこれまで放射能について自分で調べることをしてこなかった。この問題について考えようとすると、途端に胸が苦しくなって、思考が停止状態に陥ってしまった。
しかし、あの日の母との対話以降、民喜の内で何かが変わり始めていた。
「あなたたちの体が心配で、いてもたってもいられなくなる」――
「あなたたちの体が、心配なの」――
涙を流す母の顔が忘れられなかった。

ラインの電話の着信音が鳴る。早速駿から電話がかかってきたようだ。
「もしもし」
「あ、民喜?」
「駿、サンキュー。いまどこ?」
「家」
「あ、そう」
駿が明るい口調であったので民喜は少しホッとした。
「何かあった? 聞きたいことがあるってことだけど」
すぐ近くからテレビの音が聴こえてくる。
「ああ、んだんだ」
民喜はいったん呼吸を整え、
「えーと、あの、最近改めてネットで放射能について調べてるんだ」
「あー」
「いや、俺らの体に対してどんな影響があるんだって、ちょっと気になってさ。放射能について色々ネットで調べてはいるんだけども、どの情報が正しいのかよく分がんなくなって……。実際のところ、どうなんだべって、ちょっと駿に聞いてみたくなって、連絡した」
「そっか」
この数日、ネットで調べれば調べるほどどの情報が正しいのかよく分からなくなって、民喜は混乱していた。あるサイトはおどろおどろしい文体で、これから福島で深刻な健康被害が発生するであろうことを述べていた。別のサイトでは現在もこれからも、福島で健康被害が発生することはないことを述べていた。同じ放射能を巡って、どうしてこうも意見が異なっているのだろう?
互いに分かり合うことができなくなった父と母のことが頭をよぎり、また胸が苦しくなる。
「あなたがそんな人だと思わなかった」――
ふすま越しに聞こえてくる、母の低い声。
「うるせえなあ。だから言ってるだろ。そうじゃねえって。おめえの頭がおかしくなってんだ」――
父の苛立った声と、玄関のドアを開けて父が外に出てゆく音。そして無音の中、母がすすり泣く声が聞こえてくる。……
数秒の沈黙の後、
「民喜は体の調子はどうだ。元気にしてるか」
変わらず明るい口調で駿は言った。
「ああ、今のところ」
「そっか、良かった」
「駿は?」
「俺も今のところ元気だ」
夏に会ったとき、駿が疲れているように見えたことが気になっていた。無理をして元気な様子を装っているのか、それとも本当に元気になったのか、よく分からない。電話口から聴こえてくる駿の声は元気そうな声ではあるが……。
「あ、民喜、ちょっと待ってて」
パタパタとどこかに移動してゆく足音が聞こえる。思えば、駿と放射能について話をするのは今回が初めてだ。親友の駿と将人とも、放射能の影響についてこれまで話題にしたことはなかった。
「ああ、すまねえ。えーと、放射線の健康に対する影響だけれども……」
先ほどと変わって、内密の話をするかのような口調で駿は話し始めた。駿の声の他、何も物音は聴こえない。

「事故からまだ4年半しか経ってねえ現時点では、くやしいことに、まだはっきりとしたことは分がんね。こっちでいま具体的にどのような健康被害が起きているのか、今後どのような被害が起こるのか、まだ全然把握することができてねえ状態だ」
低く呟くような声で駿は続けた。
「そっか……」
駿から何かはっきりとしたことが聞けるのではないかと思っていた民喜は少々がっかりした。民喜の声から軽い落胆の調子を感じ取ったのか、
「低線量被ばくの影響は不確実で、はっきりとしたことが分がんね、っつうところが、俺も非常に歯がゆいところなんだけれども……」
フォローするような口調で駿は言った。
父の民夫も放射能の影響について「因果関係が分からない」ことを繰り返し強調していた。科学的に「因果関係が認められない」ことに対して気にしすぎること、それこそがストレスとなって健康に悪影響を与えるというのが父の意見だった。
子どもの甲状腺がんが多発していることについて駿がどう考えているのか聞いてみたいとも思ったが、甲状腺検査でB判定になった駿の弟の翼のことを思うと、ためらいを覚えた。このためらいもあって、この一週間、駿に電話をすることができていなかったのだった。
「でもそれは、現時点では放射線の健康への影響をはっきりと『識別できない』ということなのであって、健康への影響が『ない』ということにはならねえんだ」
「ん? もう一回言って」
駿はこれまで民喜があまり聞いたことがないことを言った。
「それは、現時点では健康への影響を『識別できない』ということなのであって、影響が『ない』ということにはならねえんだ」
民喜は酔っ払った頭で、駿の言うことを懸命に理解しようとした。
「現時点では識別できないけれども、影響がある可能性もあるってこと?」
「んだ」
そういう捉え方もできるのか、と民喜は思った。
「思えば、あんだけの事故が起きて、あんだけのすさまじい量の放射能がばら撒かれたんだから……。影響がまったくないほうがむしろ不自然なんでねえか?」
「うーん、確かに」
「現時点では健康への影響がはっきりと識別できないからこそ、そのリスクに対してできる限り注意を払うことが大事だ、っつうのが俺の考えだ。だからこそ長期的に、きめ細やかに、影響について調べ続けてゆく必要がある」
駿は咳払いをし、
「民喜、そもそもの話、安全か危険か分がんねえものって、怖くねえか?」
「確かに考えてみると、怖い」
「なのに国は、放射線による健康被害そのものが『ない』という風に結論をすり替えようとしてる。『識別できない』ことと影響が『ない』ことをイコールにして、もうこの問題についての議論を終わらせようとしているわけだ」
「なるほど、そういうことか」
民喜は混乱していた頭の中が少し整理されたような気がした。原発事故による健康被害がないと言い切る記事に対して何となく感じていた違和感の要因はここにあったのかもしれない、と思う。
「低線量被ばくによって健康被害が生じる可能性が『ある』ことは、チェルノブイリのデータからある程度分かってる部分もあるんだ。そういう重要な先例も踏まえず、科学的に『識別できない』部分が多いからと言って健康被害の危険性そのものを『ない』ことにするのは、とんでもねえことだと思う」
駿は続けて、
「放射線の影響が『ない』ということを浸透させるために、こっちでは日々、大々的な安全・安心キャンペーンが繰り広げられてる。放射能なんて怖くない、放射能に負けない体を作ろうって、ハハッ」
駿は乾いた笑い声を立てた。
話を聞きながらふと、駿にとっての《こっち》に自分はいまは住んではいないのだ、と思う。
「キャンペーンはこっちでは大成功で。放射能の健康被害は『ない』ということがすっかり定着しつつある。原発安全神話の次は放射能安全神話の登場だ。まあ、ただこっちでは放射能の影響は『ない』って思わねえとやってらんねえ、ってところもあるから……。その気持ちも、よく分かるけども」
国と電力会社の言うことをそのままに受け入れ、放射能の影響はないと信じようとしていた父――。父の気持ちもよく分かる。あの町が少しずつ復興してゆくこと、そして故郷にいつか戻れる日が来ることが、事故後の父の心の支えとなっているのではないか。
仏壇の前に供えられていた復興計画のファイルを思い出し、民喜は切ない気持ちになった。

「まあ、だもんでとにかく、こっちではいま放射能について不安を口にすることもできないような状態になってる。もし口にしたら、風評被害さ助長すんなって批判されるからな。そんなに気にするなら福島から出てけって、攻撃される。そんな空気なもんだから、俺も最近は放射能について大学でも話題にすることはねえ。というか、できねえ」
「そっか」
「でも民喜、安全か危険かはっきりしねえものに不安を感じるのは、当たり前の感覚だと思わねえか? 何か影響が『ある』かもしれないそのリスクを出来る限り避けようとするのって、人として当たり前のことだと思わねえか?」
駿に問いかけられて、民喜は数秒の間、考え込んだ。
人として当たり前のこと――。駿の言う通り、確かにそれは当たり前のことだと思った。
「ああ、そう思う」
民喜は答えた。
と同時に、母のことを思い出し、胸が苦しくなった。
母の晶子は次第に放射能に対する不安を口にすることをしなくなった。不安がなくなった、というわけではなくて、不安を口にしても周りに受け止めてもらえない状況に失望した結果であったのかもしれない。
原発事故以後、民喜自身は放射能についての一切の判断を停止し、対立する父と母との間に自分の身を置こうとしていた。どちらの考えが正しいのか自分には分からなかったし、どちらか一方の味方をすることもしたくなかった。
けれどもそのように放射能について思考を停止させていることで、結果的に自分は母の苦しみに心を閉ざすことをしてしまっていたのかもしれない。
「あなたたちの体が心配で、いてもたってもいられなくなる」――
母の声がよみがえってくる。
母は頭がおかしくなっていたのではなかった。母の言動は極めてまっとうなものであったことに、今更ながら気づく。父が母を理解できなかったように、自分も母のことを理解することができていなかった。
胸の内に、母に対する申し訳なさが込み上げて来る。
涙で濡れた手で母は民喜の手を強く握った。
「あなたたちの体が、心配なの」――
その切なる手の感触がはっきりとよみがえる。その感触は忘れ得ぬ記憶として、いまも民喜の手に残り続けていた。

参照:伊藤浩志『復興ストレス 失われゆく被災の言葉』(彩流社、2017年)


5、
しばらくの沈黙の後、
「去年(※)、『美味しんぼ』が問題になっただろ」
駿が再び口を開いた。民喜が母のことを考えている間、駿も何ごとかを考え込んでいたようだった。
「鼻血騒動?」
「んだ」
『美味しんぼ』という漫画において、福島を訪問した主人公が鼻血を出す描写が大きな問題となっていたことは民喜もネットのニュースで知っていた。
「デマを流して風評被害を助長した、っつうことで作者も出版社も異常に叩かれてたけれども」
「でも、鼻血は……」
「んだ。鼻血は出てたのさ。事故直後は、毎日のように。俺らはみんなよく知ってるとおり」
「咲喜も鼻血出してた」
当時7歳だった妹は事故直後、よく鼻血を出していた。朝起きると枕とシーツが鼻血でぐちゃぐちゃになっていた。寝ている間に鼻を擦って出たのだとは思えないような、多量の出血だった。朝起きてそれを見たときの、頭から血の気が引くような、ゾッとする感覚がよみがえってくる。
鼻血を見る度、母は「放射能の影響なのでは」と取り乱し、父は「それはいまは分からん、落ち着け」という言葉を繰り返した。
「翼もそうだった。事故直後、よく鼻血を出してた。それまではそんなに鼻血を出すこともなかったのに……。俺も実際、何度か鼻血が止まらなくなったことがある。あれは怖かったな。ティッシュをどれだけ鼻に詰めてもすぐに真っ赤に染まって、なかなか止まらねえんだから。俺らにとって、鼻血はデマなんかじゃなく、現実だった」
駿は続けて、
「民喜、俺がくやしかったのは、全国から鼻血自体がデマだって認識されちまったことだ。百歩譲って放射線との因果関係は現時点では『識別できない』と留保しておくとしても、鼻血を出していたという事実そのものが『なかったこと』にされるのは納得いかねえ」
低くかすれるような声で言った。
そう言えば、民喜自身も事故直後に一度だけ、鼻血が出たことがあった。外から家に帰って来た直後、鼻から生暖かいものが垂れて来たので鼻水かと思って手で拭うと、血だった。ただし量はそれほどでもなく、しばらくティッシュを鼻の穴に突っ込んでいる内に出血は止まった。鼻血が出たことは父にも母にも言わなかった。
「まあ、将人はすっかり放射能安全神話に身を委ねてしまってるんだけども、鼻血がデマだと言われてることに関しては怒ってたな」
「そっか、将人も……」
将人の運転で6号線を走ったときのことを想い起こす。車の窓を開け放す中、将人は口元だけがひきつったような笑みを浮かべていた。
「放射線の影響を『ない』ことにしたい力が、いかに凄まじいものであるか、俺はあの件で思い知ったな。影響が『ある』ということを口にするだけで、社会からどれほど袋叩きにされるのかがよく分かって、ホント恐ろしくなった。放射線の影響が『ない』ことにするために、鼻血という事実そのものも一緒くたに『なかったこと』にされちまった」

(※)本作品の時代設定が2015年なので、2014年。


しばらくの沈黙の後、駿は大きく息を吸って吐き出し、
「民喜もすでにおばちゃんから聞いてるかもしんねえけど……甲状腺検査で、翼がB判定になった」
駿が翼のことを口にしたので民喜はビクンと緊張し、
「うん……聞いてた」
とだけ答えた。ビールの酔いもいつしか醒め始めていた。翼の人懐っこい笑顔が頭に浮かぶ。
「そっか」
駿の弟の翼は甲状腺検査でB判定になっていた。B判定は甲状腺に5.1ミリ以上の結節または20.1ミリ以上ののう胞が認められた場合を言うとのことだった。
駿は一息置いて、
「これから尿検査や血液検査とかの精密検査をしてゆく予定だ。もちろん、B判定になったからと言って、二次検査でがんと診断されるとは限らないけれども……。ただ、翼がB判定にされちまったことで俺んちはもう、いま大変な状態だ。母さんは毎日泣いてて、夜も眠れないみたいで、もう半分うつみたいになってる」
駿の母親はよく民喜たちに夕食をご馳走してくれた。いつもニコニコと笑っているイメージのある駿の母親が涙を流している様子を想像し、心が痛んだ。
「翼のことも、やっぱり現時点では、科学的に『因果関係が分からない』ということにされちまうんだ」
駿はさらに続けて、
「翼のことだけじゃねえ。福島やその近辺で子どもの甲状腺がんがこんだけ多発していても、国や専門家の答えは、『因果関係が分からない』『放射線の影響とは考えにくい』、そればっかりだ」
「えっと、何だっけ。スクリーンなんたら……」
「スクリーニング効果な。甲状腺がんが多発しているのは、前例のない大規模な検査をしたから多発しているように見えるだけだ、っつう説明だ。あと、甲状腺超音波エコーの精度が向上したことなどによる過剰診断という説明もされる。でも、おかしいべ。もしそうだとしたら、なして二巡目の検査でさらにがんが多発してるんだ? 説明がつかねえ。翼も2年前の一巡目のときはA1で問題なかったんだ。それが今回の二巡目の検査では、Bになってた。なしてだ?」
話している内に、駿の声はだんだん大きくなってきた。駿がこのように憤りを露わにして話すのは珍しいことだった。
「結局この先、翼のことも、まるで何事もなかったかのように淡々と処理されていっちまうんだろうか。俺らの苦しみも、ないこととして消されちまうんだろうか……」
駿は声を落とし、独り言のように呟いて、
「民喜、俺、くやしい」
突然、ウウッ……と小さく呻き声を上げ、泣き始めた。駿の無念さを思い、胸がキリキリと痛んだ。
民喜は思わず、
「駿、翼のこと、絶対になかったことにさせねえ!」
と叫んだ。
「誰が何と言おうと、絶対、なかったことにはさせねえ」
そう繰り返す民喜の目にも涙がにじんできた。
一瞬、涙でにじむ視界の向こうにロウソク岩が見えた。ロウソク岩は炎のようなものを燃え立たせながら、夜明け前の海岸に立っていた。

ロウソク岩

どこかから、あの「法典」の言葉が聴こえてくる――。

存在したものが、
あたかも存在しなかったかのようにされてしまうことが、
ないように。……

駿は鼻水をすすりながら、
「ああ、俺もそう思っている。ありがとな、民喜」
と言った。


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第二部のこれまでの連載はこちら(↓)をご覧ください。

第一部(全27回)はこちら(↓)。


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