わたしを拾ってくれたひとへ⑤(ある夢の分析)
夢をみた。
わたしは誰かの車に乗っていた。誰かに連れられて向かった先は、カウンセラーの自宅だった(i以下、counselorの頭文字を取ってCさんと呼ぶことにする)。おそらく、正確に言えば自宅と思しき場所、だ。そこはアメリカのドラマに出てくるような、緑が多く広い庭を持つ家の並ぶ住宅街だった。オレンジの陽が淡い黄色の壁を反射していてまぶしい。行ったことはないけれど、西海岸ってこんな感じなのかしら。空は青くどこまでも高くて、気持ちのよい晴れた午後、という感じだった。
わたしはひとりで車を降りる。玄関の前まで行くが、Cさんは不在のようだった。あれ、お昼ごはんを呼ばれたのにな、とわたしは思う。そうだ、夢のなかでわたしは、Cさんにお昼ごはんの招待を受けていたのだった。およそ数分のあいだ、わたしは玄関の扉の前でCさんが現れるのを待っていた。
ほどなくして、Cさんは歩いて帰宅してきた。いつもと服装が違う。ふだんわりとカラフルな服を着ている印象なのだが、どうしたことか全身が黒っぽい。ああ、誰かの葬儀に参列したのだ、と思う。といっても、いわゆる「喪服」を着ているのではなかった。ゆったりした黒色の上着に、黒色のハーフパンツ。そして黒色のパンプスを履いていた。流行りの、きれいな素材であるのにカジュアル要素が強いセットアップみたいな。
わたしはCさんを追いかけるようにして家に入る。入ると、大勢の人がいた。Cさんについて二階に上がる。そこは、どこか既視感を覚える食堂のようだった。社食とか学食とか、あるいはそこまで高級でないホテルビュッフェとかのような、めいめいがトレーを持って食べ物を取っていく形式の。どこかで見た顔、という人が並んでいた。はっきり思い出せないけれど、中学が高校の同級生だったと思う。
Cさんとわたしもトレーを持ち並ぼうとすると、わたしたちはその同級生数人に抜かされてしまう。わたしは仕方なく、あらためて最後尾に並ぶ。Cさんはどこかに消えている。食堂は全体にひかりが射していて、部屋の空気がしろっぽい。そこで夢は終わる。
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この夢をみて、わたしは起き上がり、そのあと、でももう起き上がらなくてもよいのかもしれない、と思った。
低血圧がひどくて、立ち上がるのがしんどい朝だった。わたしは時折、かなり血圧が低くなる。そういうときは立ち上がっても意識が遠のき、そしてなかなかもとに戻れないので無理に立ち上がらない。目を閉じてあらゆる刺激を遮断するように努める。全身をめぐる川の流れが悪い。停滞している流れは、少しでも刺激が加わると荒波を立てそうに思えた。
目を閉じたまま、先ほどまでみていた夢の詳細を思い出そうとする。いつもならば気になる夢はすぐにメモをするところだけれど、生憎その日、それはできそうにない。記憶の泡沫が消えないように、と映像を言葉に置き換える作業を脳内で進める。じっと目を閉じて。川は静かに音もなく流れ続けて。
車。助手席。知らない街。海外みたいな住宅街。オレンジ。Cさん。不在。黒い服。喪服。お葬式。食堂。見知った顔。列に並ぶ。抜かされる。ひとりになる。ひかりに覆われた部屋。しろい世界。
喪服、というのがどうしてもキーワードに思えて、そこから象徴的意味を見出そうとしてみる。喪服。死。悼む気持ち。生まれ変わり。去ってゆくこと。亡くなる(無くなる)こと。かしこまった服。不吉。卒業。見送る。離れる。あの世。次のステージ。いつもと違うところ。お葬式。誰の? わたしの? わたしの? わたしの。
わたしのお葬式か、と連想は行き着いた。わたしの、と浮かんだ瞬間つめたい筋のようなものが流れる。わたしのお葬式。そこからCさんは帰ってきて、取り残されていたわたしを家に迎え入れる。二階の食堂へ向かう。二階というのは、上、つまり空、この世界ではないところ、という意味を持っているのか。なんとなく知った顔が並んでいるのはなぜ? この人たちも参列者?
そんなのただの夢の深読みかもしれない。歪曲した読み方かもしれない。いま思い返せばばかばかしいとすら思う。でも、その日のわたしにはどうしてもそこから離れることができなかった。みた夢から連想されるイメージに、できるだけ忠実に従おうとすればするほどそこから離れられなくなり、わたしはその深い穴に入っていくように目を閉じ続けた。もうすぐ、わたしのお葬式が執り行われるのだ。未来からの逆引き辞典がそう物語っているとしか思えなかった。
その結果、わたしは二日半ほどそこにいた。抗わず、遮断したまま過ごした。もう、血圧は正常範囲に戻っていたかもしれなかった。それすらもわからないようにした。川は変わりなく、とくとく流れ続けていた。この流れに乗ったとすれば、わたしはどこに向かうんだろう。小舟に乗ったわたしは、体内を巡回するのか、どこか知らないところへ流れてゆくのか。
いま思い返せばばかばかしいと思う。イメージをそのまま受け取り、実行に移そうとするだなんて。夢は象徴だ。そこに隠されている意味を類推するべきだ、という考え方もある。あの日のわたしは、自分に都合のよいように歪曲した表層の意味に、走って逃げていったようなものだ。
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