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自意識過剰であって良い

目が覚め、布団の中でスマホアプリからメールボックスを開く。あ、来てる。しかもこんな早朝に。いや、このメールの書き手の睡眠時間や生活リズムはわたしとは違うので、「早朝」ということに意味は持たないかもしれない。わたしは朝が弱いから、特別に「早朝」と感じただけかもしれない。

こわごわ、その受信メールを開く。安堵してよいのか、何かを含んでいるのか、寝起きの頭で考える。そう、寝起きいちばんに確認したいくらいに、メール受信の有無についてわたしは気になっていたのだった。文面通り受け取ってよいのか、あるいはこちらが汲み取るべき事柄が散りばめられているのか、布団の中でどれだけ画面を見つめてもわたしには答えが出ないのだった。

いったん起きよう。
カーテンを開ける。変わりばえしない窓からの風景。くもり。窓を開ける。近くの弁当屋からの油の匂い。
洗面や歯磨きを済ませ、湯を沸かしながらもう一度メールボックスを開く。いくらコンタクトレンズをはめたからといって、何か新しい発見があるわけではなかった。そんなにお手軽に不安や心配は消えたりしない。むしろ、時間の経過とともに不安や心配はより強固に、まるで形あるもののように作り上げられていくのだった。

どうしよう。(どうしよう、ではなく、どうするか、だっけ)
迷いながらもわたしはメールの返信を書いた。反応するような内容のメールはやめよう、不安や心配を丸出しにするようなメールはやめよう、そんなことをすればむしろ相手に罪悪感を抱かせるかもしれない。いや、それが罪悪感という感情ならばまだありがたいが(ありがたい?)、怒りや呆れとなって外向きの感情になるかもしれない。いやいや、でもそれは相手の問題だ。わたしが、いま自分の感情を自分でどうにかするしかないのと同じで、相手がどのように感じてもそれは相手がどうにかすることなのだ。ゆだねるしかない。

「ごめんなさい、あなたは悪くないのです。これはわたしの問題なのです。」それだけは伝えておかねば。結果、自分の不安をかき消すための文章を連ね、わたしはメールを送信した。これでよい、いまわたしにできることはこれしかない。遅番の日にしては早起きをしたわたしは、それ以上考えないように仕事の前に雑用を詰め込んで、早めに家を出た。

帰宅して、再度メールボックスを開いた。「安心して」という趣旨のメールと、その後、「もしそんな気持ちにさせてしまったのなら謝るけれど、でも、不確かなものに責任を感じなくてよいのに」という趣旨のメールが続いていた。
安心すると同時に、わたしの不安がいかに自分で作り上げたものだったかということを自覚した。そして、それはわたしにとってはごく自然な反応かと思っていたけれど、傍からみると異様ささえ感じるかもしれないということも。

わたしの反応は、思っている以上にいろいろなものに囚われているんだな。そう思うと、こつこつと積み上げている自分の努力みたいなものは、しょせん浜辺に作った砂のお城みたいに脆く危ういものなのかもしれないと感じた。図らずも強固にしてしまった思考パターンや行動パターンを変えていくべく努力も、ふと過去の風景が重なると一気に「あの頃」に戻されてしまう。ひと波にさらわれた砂の山を、またかき集めてスコップでとんとんしながら城にする。わたしの大切な城。波が来る、波が来る。見えていながら、わたしはその城を守れない。目の前で崩れていく城を見ながら、わたしはこころのうちで泣くのだった。本当はわんわんと声をあげて泣きたいのに、それはできない。「ただの砂のお城でしょ?」そう思われるに違いないから、わたしは過剰な自意識を隠して平気なふりをする。そんな、大切なものじゃないから、なんていうふりをして。べつに、どうってことない。


どうして? だってその波は大きいんでしょ? そのお城は大切なんでしょ? そのお城が崩されたことを、「どうってことない」なんて軽いものとして扱うのはよくないと思う。大切なものは「大切だ」って言っていいんだよ、そう言わなきゃ。自意識過剰であっていい。きみが大切にしているのなら、誰がどう思うかなんて何の意味も持たない。そこから始めてもよくない?


何度も、その言葉を眺めた。言葉に翻弄されながらも、結局、わたしの拠り所は言葉なのだ。
大丈夫だよ、と言ってほしい。その言葉を巡らせながら、わたしはもう一度お城を作る。頼りたい。揺れている。砂浜に足跡がのこる。

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