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偏ってていいんだよ。

日本で生きていると、どうしても同じような事をする事を求められます。
いわゆる同調圧力というものです。
そんな社会の中で、自分にとっての確固たる考えや意見を持つのは、
なかなか難しいとは思うのですが、その中で大事なのは、
「偏り」に対する「許容度」だと考えています。

まず、私は偏りというのは、平均値との「差分」であり、
どれほど差異の大きさがあるのかが、その人の個性だと捉えています。

特に、勉強でも仕事でも趣味でも恋愛でも
「特別大好き!」と言えるものがある人は強いと考えていて、
その思いの強さこそ、人柄・個性そのものだと考えています。

例えば、趣味を例に出すと、
「スヌーピー大好き」な人が仮にいるとして、
(スヌーピーで叩かれる事はなかなかないとは思いますが。笑)
スヌーピーを愛してやまない気持ちから、
スヌーピーが心の支えになって、辛く苦しいことを乗り越えられる
もしくは、スヌーピーから多くの格言から学びを得ることができる
または、スヌーピーの故郷まで思いを馳せて、
カルフォルニア州のセントポールに旅行に行って、
その人の世界が広がる可能性さえ存在すると思っています。

大好きな気持ちは、人に伝播し、輪が広がる場合もありますし、
大好きなものがある人間性が人に好印象を与える場合もあります。
本当はユニバでこと済ませられることでも、
わざわざアメリカまで行く謎の行動力こそがその人の面白みだったりします。

また、仕事を例に出すと、
「今できていないこと」と「あるべき姿」の差分を発見して、
その差分を埋める行為こそカイゼンに近い存在だと思っています。

寧ろ、今できていることの延長線上で、オペレーションの実行を行うことは
個人的には作業に近いと思っていて、ほんのちょっとでいいので、
自分なりの工夫や自分なりの考えをもって働くことで、成果までは即時
辿りつけなくても、目の前の業務が作業ではなくなるのかなと考えています。

では、その差分を生む要素は何か?と考えると、どれだけ人と違っていても
大丈夫かという自分自身に対する「許容度」だと考えています。

私は「挙動のおかしなメトロノーム」であった方が、楽しいやん!
と思っていて、このnoteに思いの丈を綴っているのですが、
メトロノームはメトロノームなりに大変で、ちょっとした言葉に
敏感な人からすると大変な生き方なのかなとは思います。

やはり、日本人は同じような事をしている人を認め易い傾向にあるのと、
「自分が許せる範囲の自分にはできないこと」を称賛する傾向にあるので、
1から10まで意味の分からない人を理解する姿勢を持つ人は少ないと思います。

でも、その「意味が分からない(理由が思い浮かばない)衝動性や情熱」
こそが、固定化された社会を打破していく力になるとも思いますし、
その人がその人らしく生きる原動力になるのかなと思います。

同様に、私は、ビジネスや仕事をしている中で、「偏り」というものを
非常に大事にしていて、偏っているからこそ価値が生むと確信しています。
成長曲線は基本的に蛇行なので、振れる方向を間違えずに
大きく舵切りをしない限り、組織は何も変わらないし、
変えることができないとさえ思っています。
なので、あなたが「やっていいのかな、誰もやらないけどメリットあるのに」
と考えていることは、多くの人が日和っていることか、
あなたが単純に「見えている」人かのどちらかだと思います。
そう考えると、あとは反対されようと行動するのみですね。

結論とすると、あなたが内包する「大好きな気持ち」は
手放してはいけないと思いますし、「特別な想い」は大切にすべきだし、
他人から見て「偏っている」ことはむしろ誇らしく思った方がいいと思うし、
既存の存在との「差分」が見える人は、その能力を世のために使った方が、
自分の為にも、世の中の為になるのかなと感じました。

つまり、少しでも今悩んでいる人に「偏ってていいんだよ」と伝えたいです。

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